家庭裁判所における「科学」の問題

投稿者: | 2022年5月13日

市民科学入門講座第38回 2022年2月14日(月)実施

家庭裁判所における「科学」の問題

講師:横山勝さん(元家庭裁判所調査官)


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【プロフィール】
大学では、社会思想や協働組合思想を学ぶ一方、大学の学生相談室で、家庭裁判所調査官なる仕事があることを知り、家庭裁判所調査官となって、1990年から2019年、全国各地で勤務していた。現在は、公立図書館館長の傍ら、少年友の会や非行克服支援センターの活動を通じ、家庭裁判所の近接領域での活動もしている。

【講座の趣旨】
家庭裁判所は、夫婦・親子の諸問題(離婚、養子、相続、成年後見など)と未成年者が起こした法律違反に特化して対応している、ほかの裁判所とは大きく異なる裁判所となっている。そして、法律だけではなく、科学的な対応をすることを念頭においている。そのため、最終決定をするのは、ほかの裁判所と同じく法律専門職である裁判官であるが、家庭裁判所は、家庭裁判所調査官や医務室技官を配置して、法律以外の発想も重視することとなっている。家庭裁判所設立時の理念、その後の変遷、現状等について、講師から語った上、参加者との質疑、議論を行いたい。

【講義篇】

ご紹介いただきました横山です。ご案内に書いていただいた通り、私は大学の学部の時に協同(働)組合のことをやっていました。案内文で協同が協働となっているのがご愛嬌で、最近は実は協同組合のことからは少し離れていますが、いちおうその後、労働組合などもやっていたので、協同というとどうも働く方が変換で出てきてしまうようです。
労働組合をやっていたのは、29年間、家庭裁判所で勤めていた間のことです。家庭裁判所にも労働組合があって、そちらでも役員をやったりしていました。家庭裁判所って名前は皆さんご存じだし、時々、利用された方もおられると思うのですが、一方で意外にあまり知られていないというところもあります。ですので、前半はそこをお話しして、杉野さんから紹介してくださったことと重なる心理学のことを後半でお話ししようと思います。上田さんからは1時間といただいていますが、もう少し私の話は短くして皆さんと議論をしたり、私の話で分からなかったところ、補足説明が足りなかったところを補いながら続けようと思っています。

家庭裁判所は地方裁判所と同じ数だけ日本にあります。本庁と呼ばれているものが都道府県に一つあって、北海道だけは釧路、旭川、函館とプラス3つあるので、全国で50個あります。それに加えて支部というのがありまして、東京だと立川に支部があります。隣の神奈川だと、川崎、相模原、小田原、横須賀に支部があります。千葉だと佐倉、佐原、木更津、館山、松戸などにも支部があります。さらにもう少しランクが小さい、出張所というのが、例えば東京だと伊豆大島と八丈島、千葉だったら市川にあります。

家庭裁判所は大きく分けて二つのことをやっています。離婚、相続などの戸籍の問題でトラブルになったことについて法的な解決をするというのが一つの大きな役割です。このうち離婚や相続は裁判所と名乗っていますが、基本は調停です。調停というのを皆さんも聞いたことがあると思うのですが、調停という話し合いの場に裁判所を使って、決定したら判決と同じことにするという理念でできています。それからもう一つは、未成年者が法律違反をしたことについては全部が家庭裁判所に送られてくるので、その対応です。これが今、報道では悪名高い少年法ということになるんですが、この大きな二つのことがあります。

これでお分かりになったと思いますが、法律の世界なんだけど、非常に生活に近い家庭とか家族とか親子に関係することをやっていることになります。諸外国にもこういう家庭法院とかファミリーコートってあるんですが、日本に今あるものは第二次世界大戦後にアメリカでもいちばん先進的だったものが、ガーっと導入されたものなのです。実はアメリカでももっと古い制度のもあるし、日本でも少年法ができたのが1920年、大正9年ですのでその後、少年審判所というのがあったんですが、司法省の一角で裁判ではなくてむしろ善導するというのをいいことに、少年を満州に送ったりするところでもあったんです。あとは家事審判所というのもすでに戦前にあったんですが、第二次世界大戦後、アメリカの最新鋭の理念を突然日本にぼーんと入れたのが家庭裁判所です。実は少年法も、日本国憲法、児童福祉法、少年法という流れで非常に先進的な部分があるんです。


少年保護事件新受件数(全国家庭裁判所)と少年人口
(1965~1999年・1965年を100とした場合の割合変化)


少年保護事件新受件数(全国家庭裁判所)と少年人口
(2000~2018年・2000年を100とした場合の割合変化)

今では甘いと言われていますけれど、人を責めるな、責めるのは自分の中の嫌なところを責めるようものだ、それよりは何とか助けてやろう、そういう発想がすごくあります。今は悪いことをやった奴に甘いとすぐに批判されますが、現実には少年非行だけの話をしますと、少年非行がいちばん多かったのは1964、65年です。その時に比べると1/18ぐらいの人数になっています。次に多かったのが1984、85年です。その時と比べても1/10ぐらいになっています。当時と比べて未成年の人口が減ったというのを考慮しても大きく減っています。それから殺人とか強盗といった凶悪な事件は激減しています。報道を聞いていると、そんなことないだろう、ひどい事件がどんどん起きているじゃないかと思うかもしれませんが、教育勅語のもとで修身を習っていた第二次世界大戦前の方が、先生が生徒を殺すわ、生徒が先生を殺すわ、家族はお互いに殺し合うわ、ひどい話だったんです。唯一なかったのは20年ぐらい前にあった佐賀のバスジャック事件です。ああしたバスは昔はなかったので、バスジャックはありません。車を盗むぐらいしかなかったわけですが、それ以外の人の首を切るとか、神戸の酒鬼薔薇くんという少年がいましたけれど、ああいう事件は戦前にはよくありました。私の高校の先輩は、弟が兄の首を切って学校に置いたなんてことをやってるんですね。私の学校はまあまあ有名だったんで、当時の新聞記事にはそれが出てるんですけども、酒鬼薔薇事件の時にそれを思い出した人はほとんどいない。だから少年事件に関してはマスメディアによる扇動によって、非常に事実と異なることが多くの人に思われているということがまずあります。

そういう少年審判ですから、アメリカの最新鋭のものを取り入れるという時に何を考えたかというと、科学的な裁判をしようと考えたんです。その点について皆さんからの批判は甘んじて受けますけれども、ともかくも家庭裁判所の理念としては科学性ということは残っていますし、少年法を研究している法律の専門家の方たちは少年法の科学主義といった論文を書かれている先生方も結構たくさんいらっしゃいます。裁判は基本的に法律に則ってやればいいので法律以外の考えはあまり入れなくていいというのが実は裁判のメインルートなんですね。そこに第二次世界大戦後、突然、家庭裁判所というものを作っちゃいました。そこで科学を入れようとしました。

私は29年間、家庭裁判所調査官という仕事をしていました。調査官というのは、アメリカで言うプロベーションオフィサーというのを日本に導入したんですが、元々のアメリカでは(ヨーロッパでもそうですが)、プロベーションオフィサーというのは、むしろ社会に戻った時にその人が非行を起こさないようにするためにお手伝いするというものです。日本でいう保護観察官という保護司の親玉みたいな人たちがいるんですが、日本ではその名前をそのまま取り入れました。心理学でやってることなどから、未決の子どもたち、まだ裁判が終わっていない子どもたちについて、なんでそんなことになったのか、科学的にちゃんと調べようというのがもともとの発想です。少年法の条文にはっきり出てくるんですが、心理学、社会学、社会福祉学、教育学、医学といったものをもとに科学的に考えようと取り入れたのです。

後で心理のお話をすると言ったので、家庭裁判所のことから話し始まったのは不思議だなと思った方もいると思いますが、調査官は当時の心理学をやっている人にとっては非常にありがたい職場でした。当時は心理学の大学とか大学院を出てもせいぜい病院臨床しかなかった時代で、病院とは全然違うフィールドで、しかも家族のことをじっくりやれる。しかも国家公務員なので給与保障もまあまあある。その代わりある時期から全国転勤させられるというのが加わるんですが、それは置いておくとしても、心理の専門家の方たちにとっては非常に良い職場であり、良いフィールドだったと思います。社会学を出た人にとっても同じです。現場をやれるとか、社会福祉も当時はそんなにいい職場ってなかったと思うんですね。教育学の方は先生になるのがメインだったと思いますが、先生に飽き足らないでそういうのをやりたいという人が集まったので、草創期の調査官というのはすごい人たちがけっこういたようです。

もう一つ言うと、草創期の調査官の中には満州国からの帰還者という方もいました。日本は1945年まで満州国という傀儡国家を作って、この列島に住んでいた人たちをたくさん送り込み、それでは飽き足らず、東南アジアとかもっと南の方などにさんざん人を送ったわけです。そうした人たちを送って、多くの人が見捨てられて死んでいく中で兵隊だけが逃げたというのがあります。それをひとまず置くとしても、そこから逃げ帰ってきた役人たちが仕事を探さなきゃならない。でも例えば満州国から帰ってきた人たちが仕事を探すと言っても、日本の国家も徐々に固まってきている中で仕事なんてないわけです。日本は不思議なことに、ドイツなどと違って基本的に官僚組織は第二次世界大戦前のメンバーがそのまま戦後も官僚になっています。裁判官なんてまさにそんな感じです。戦前、国が天皇中心だった時の司法官が、戦後、そのまま裁判官になってます。そこで空いていたのが家庭裁判所調査官という新しくできたポストだったんです。だから最初、あの心理学の人たちの上司には元満州国の◯◯市長とかそういう人たちも多かったようです。そういう人たちが何をしたかというと、「俺は家庭裁判所の理念も心理学も何も分からん。でも俺の経験であんたはここで人を殺したからと言って落ち込んじゃいかん」みたいな説教をして善導したというのが最初の頃にはあったようです。だから家庭裁判所というのは、私が入ったのが30年ぐらい前ですけれども、その頃はまだそういう雰囲気が残っていて、何でもありのところでした。

やはりそれではまずいとなってきたのが一つと、今の話で分かる通り、戦前の司法官、裁判官からすると、これもアメリカの押し付けなんですね。なんてひどい組織を裁判所内に作られたんだということになって、裁判所の中で家庭裁判所の地位を下げようという動きはずっとありました。現実にこれがさっさと行われてしまったのが児童福祉法です。同じように戦後すぐにできた児童福祉法では、児童福祉司というのはすごく高い地位を持って子どものことを考える立場として意味づけられたのに、5年もしないうちに児童福祉司は児童相談所の組織に属する一つの立場に成り下がりました。こんなことを言ったら児童福祉司とか児童相談所の人からお叱りを受けますが、今の人たちはそんな苦しい中で、毎日、何千件という事件を扱っているのに、何か起こるとマスメディアに叩かれる人たちです。そういうことで逆コースがここで始まりました。家庭裁判所もそうでした。いちばんの敵は検察庁でした。戦前は司法省の中に検事局と裁判局があって、検事と判事ですね、正直、検事は判事なんていう結論を決めるだけの人たちのことをバカにしていました。検事こそ日本国家であり、悪を誅する存在だったのに、戦後、三権分立というアメリカの押し付けで裁判官、判事の権威が上がってしまった。くそー!さらに家庭裁判所というわけの分からない組織まで作りよって、ということで、何とか家庭裁判所を潰そうということで検事は躍起になって何度も何度も少年法を改正しようとしてきました。65年頃に少年法を改正しようというときは、20歳までというのは戦後の混乱でなっただけで、18歳に戻せ、家庭裁判所の権限を縮小しろということをずっとやってきました。でもその頃は最高裁判所も弁護士さんたちも多くの国民にも、その点について反対意見が多くありました。

私は先ほど少年非行がいちばん多かったのは64、65年と言いましたが、何があったでしょう? 64年の東京オリンピックです。1度目の東京オリンピックですね。1940年につぶれた後、実際に実行できたオリンピックで、そのとき地方の中卒の子どもたちを訳も分からないまま東京に連れてきて、首都高つくるとか川を埋めたりとか、オリンピック関係の施設を作るということで無理やりこき使われました。そういう中で当時のことですから、徹底的にいびられこき使われて、つい近くにあった刃物で上司をガッと刺しちゃったとか、そういった事件がたくさんあったんです。当時の人たちはそういうことも分かっていたんだと思います。だからそういう人たちに何とかもう一度、チャンスをあげればちゃんと働いて、まさに金の卵になるし、現実にそういう形ですごい犯罪を犯したけれども、それ以降、犯罪なんか起こさないで頑張って働いていろんなことのために尽くしたという方はたくさんおられたと思います。それが失われたのがむしろここ30年ではないでしょうか。多くの人たちが豊かになったことで犯罪を犯す奴は我々とは違うんだということを言い続けるようになってきました。マスメディアがその先頭に立って、ああいうおかしくなった連中は排除しなければならない、治そうなんて無理なんだと言っているのが現状ではないでしょうか。

さて、家庭裁判所調査官は何をするかと言うと、やってしまった(罪を犯してしまった)人たちと裁判官よりも先に会います。まず大体は親御さんと一緒に来てもらいます。現状でも大学生なんかで地方から出てきた人には地元の親御さんに一緒に来てもらったりします。裁判所から呼びつけられたというので、最初はもう不承不承もいいところで、むしろ反発的な人もたくさんいます。「警察に全部話したのですけど、また何か話さないといけないんですか。処分だったら早く決めてください。」みたいなところから始まるのですが、そこをさっきの心理学、社会学の立場と面接技術などで、「いきりたつのも分かるけれど、まずはちょっと話をしましょう。」と言うと、最初のころは警察がおいこら警察だったりするので、「初めて大人がゆっくり話を聞いてくれた。」という感想を持って帰るような人も多かったです。ゆっくり聞いてもらうとやはり自分の中で突っ張っていた部分がだんだんとれて、いろいろ真面目に考えてくれるのです。なので、私に力があったなんて、とても言うつもりもないし、それが科学だと言うと皆さんからお叱り、批判を受けると思いますが、ちょっと違う立場で話を聞くということがやはり意味があったんだと思います。それで現実には非行が減ったという点でも効果があったと思います。今日はあまり触れられませんが、少年院などの組織も予算も人もない中でとても頑張ってやってきた矯正施設の中のことがありますし、あとは民間の篤志家の人の力を借りて何とかしようとしてきた側面もあります。

その話を聞く中で我々がやらなければならなかったのは、一度、起こってしまったそのこと、やってしまった法律違反のこと、その人を取り巻く家庭、学校、職場、地域といった環境のことをもう一度、よく見直して再構成して報告書にまとめて裁判官に見てもらう。そして裁判官は法律の知識や理屈だけではなく、調査官の報告書も参考にして考えてもらうという手続きでした。
あともう一つ置かれていたのが医務室技官というもので、今でこそ家裁が発達障害だ、体のことも理解しないと言っていますが、70年前に家庭裁判所ができた時に全国50ヶ所ある家庭裁判所には常勤が難しくても非常勤でも精神科の先生を置くということもしていました。だから困った時は医務室の先生に聞くということをやっていました。家事の調停に関しては本来は調査官や医務室技官が出る場面はあまりありません。調停委員という民間の篤志家の人にお願いしているので、これもかつては校長先生を退職した人であるとか、企業でそれなりの地位についた人などがなることが多かったと思います。ですので、それこそ高い目線で、しかも男女1人づつという構成がジェンダーの問題どうなんだ、と今なら言われそうな中で説教されるような感じにはなるのですが、それでもやはり調停委員の前で話すことで自分の中でいろいろと変化が起きます。大人になるとなかなかちゃんと話を聞いてもらえないことが多くて、特に夫や妻への不満なんてまともに聞いてもらえないけれど、そういうところで話すと違ってくる。そこへ時々、夫婦とか相続の問題なんかで調査官が現れて少し調べましょうということでお互いの話を聞いたりすることもありましたし、後でお話しする心理検査をすることでお互いの弱いところを見て、この点気をつけたらまたやり直せませんか、などとお話しすることもありました。

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家庭裁判所における「科学」の問題」への1件のフィードバック

  1. 沼上 潔

    東京家庭裁判所医務室技官の沼上です。
    ご無沙汰しております。
    お元気そうで何よりです。
    ご存知の通り,家裁の運営理念としての「科学的」視点は今や風前の灯です。
    その灯を絶やさぬべく,日々孤軍奮闘している中で,横山さんの記事を偶然
    見つけた時には,これこそユングの言う「共時性」だと強く確信致しました。

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