上田昌文
相互に関連する3つの論点を示す。
(1)市民が直面する科学技術がらみの様々な問題の解決に、今の理科教育は役立たない。
技術の進展によって生活が変化しているという現実が、理科教育では考慮の外に置かれている。生活と技術と科学の関連をみすえ、「生活をよりよく変える」ために「生活の中の技術をとらえなおし適正化する」、そのためにこそ「科学的事実や原理を学ぶ」、という転換が必要だ。いわゆる”理科離れ”解消の鍵は、「予め用意された正解を導くための問」と「その正解にいたり着く過程を覚えさせることによる理解」という様式に固執することを止め、「この技術は私に何をもたらしているか」という問を思考の基点に置く(自らの価値観と科学的事実の認識を分離しない)アプローチを取り込むことだ。
(2)科学リテラシーとは、科学と技術に対してまっとうな文句・注文をつけることのできる能力のことである。
当然のことだが、科学技術のために生活者がいるのではなく、生活者のために科学技術がある。市民が科学技術との関わりにおいて指向する価値は、持続可能性や健康、安心と安全、人とのつながり、経済的負担の軽減……といったオールラウンドなものだ。だが、技術は利便性という面だけを押し出して導入されることが多い。それを適正化するには、市民がその技術を生活圏に引き入れて必要性を問い直し、生活実感とのずれを意識化して表明し、「何がよい技術と言えるのか」を開発側とともに考えることが必要だ。これは、広い意味での生活者からの「技術評価」や生活者と開発者の「ビジョン(あるべき社会像)の共有」を意味するだろう。そのための場や方法が求められている。
(3)「エセ科学」を叩くだけではコトは終わらない。
「怪しげな健康食品を買い求める人が少なくないのはなぜか」を考えてほしい。例えば近年の子どものアレルギー疾患の著しい増加は、環境の悪化が主因となった現象と思われるが、現在の医学では予防できないし、治療も限定されている。こうした状況で「病気はいい薬さえあれば克服できる」という、いわば近代医学への盲信が社会に浸透しているなら、怪しげな薬は市場に出回るだろう。診断も治療も薬剤も高度化してブラックボックス化すればするほど、患者が自身で的確なリテラシーを持つことは困難になる。患者の権利を保障する制度、医師・看護師などとの対話、患者支援の仕組み、コミュニティの価値なども含めた病の総体的なとらえ直しなどが求められるのはこのためだ。
(科学技術振興機構主催のシンポジウム「21世紀、科学技術とどう向き合うか」のパネリスト予稿、2008年1月16日)