「体育」について

投稿者: | 2009年2月3日

上田昌文
 あたなは子どもの頃にどんな遊びに熱中したでしょうか? それは家の中での遊びだったでしょうか、それとも外だったでしょうか? 仲間と一緒に遊んだでしょうか? それは、親の目の届かないところでの、怪我もしかねないような危ないいたずらだったりしたでしょうか?
 
夢中になって遊んだそのことが、今のあなたの身体と精神を形作る上でどんな役割をはたしたかを、正確に述べることは難しいでしょう。しかし、それがなければ今の自分とはずいぶん違った自分になっていたという気が、あなたはしませんか?
 子どもたちの体力が低下している、骨折しやすくなった、姿勢が悪くなった、外反母趾と指上げ足(浮き指、足指が地面に着かないで浮いた状態になっていること)が増えている、しょっちゅう「疲れた」とこぼす子が増えた……文部科学省の統計でも、様々な学術調査でも、生きる力のおおもとになる身体の基礎的な力(それをここでは<体力>と言っておきます)に、何か異変が起きているらしいことを示すデータが次々に出てきています。
 <体力>の低下は、病気にかかりやすくなるといったことを意味するだけではありません。身体と心は、思いの外、深く様々な面でのつながりを持っていることが、科学的にも明らかになってきていますが(心身医学や精神神経免疫学)、「病は気から」と昔の人が言い習わしてきたのが理由のないことではなかった、そのわけが、ますますはっきりしてきているのです。例えば、姿勢の悪化や足裏の異常が、自律神経失調症(下痢・便秘・ひきこもり・鬱などとも関連)や生活習慣病(肥満や糖尿病など)を引き起こしかねないとの指摘があります。成長期の身体の異変や<体力>の低下は、将来の疾病、行動異変、心の病、社会的な不適応の出現を警告する兆候である、と理解すべきなのかもしれません。
 この<体力>の低下という深刻な事態をどう改善できるでしょうか? この事態をみすえた「体育」とは何でしょうか?
 
 私はそれは子どもが自由気ままに遊べるスペースを街の中のいたるところに確保することだと信じています。
 大人にとっての「便利な生活」(=金とモノの豊富さを何よりも大切にする社会)が、大人自身にとっても必ずしも「よい生活」を意味するわけではないことは、今では誰もがわかっていることですが、それが子どもにとってむしろ決定的な「悪い生活」になりかねないことは、1970年代以降、子どもの遊び場が急速に失われた、という一事をとってみても明らかです。私たちは「便利な生活」と引き替えに、子どもたちから戸外で伸び伸びと自由に遊ぶこと(すなわち、遊ぶ時間、遊ぶ空間、遊ぶ仲間)を、奪ってしまったのですが、このことの代償が、社会にどう跳ね返ってきているかに気づき初めて、恐れをなしている、といったところではないでしょうか。
 
 大人たちからすれば一見無駄に見える「遊び」が、どれほど子どもの成長にとって不可欠であるかは、社会学、発達心理学などでも繰り返し強調されています。子どもたちは遊びを通して考え、決断し、行動し、責任をもつことを学びます。走ったり、跳ねたり、追いかけたり、ころんだり、時には敵と味方が入り乱れて激しくやりあう中で、ルールを守ること、仲間をいたわること、より楽しくするために工夫をこらすこと……などを自然に身につけるのです。体力の向上や巧みな体の動かし方、危険を避ける力、コミュニケーション能力、人間関係の処し方は、みな幼少期に仲間と夢中で遊ぶことで体得できるものであり、それらが欠落していては、教室や家庭で机に向かってなす勉強もまったく意味を持ちません。
 「体育」は、、自由な「遊び」を奪われた子どもたちの、目には見えない、言葉としても発せられない、悲痛な叫びを受け止めるものでなくてはなりません。それは、持続可能な社会を築く営みと表裏一体をなすものであり、街で、学校で、家庭で、すべての大人が気づかっていかねばならない最優先事項であると私には思えます。
(キャリアマムの連載より)

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