第2回講座 森をつくる住まいづくり
2005年5月20日(土) 環境パートナーシップオフィス(EPO)会議室
講師:甲斐徹郎さん
pdf版はhouse_004.pdf
住まいを孤立したものではなく、まわりの環境と一体のものと考え、環境と共生するという発想で住まいづくりの取り組みをされている(株)チームネットの甲斐徹郎さんに、「緑豊かな住環境」の価値を見直し、それを快適な「天然の空調装置」として住まいに活かすことで、個人の住まいづくりと街の環境づくりをつなぐ……これからの住まいづくりのための科学の活かし方やビジョンを、実践例をとおして話していただきました。
講師紹介
甲斐徹郎さん
(株)チームネット代表取締役。「環境共生住宅」を専門分野としたマーケティング・コンサルタント業務に従事している。2001年4月より都留文科大学講師(地域社会論)などを務める。著書に『まちに森をつくって住む』(農文協2004)など。
※なお本記事は、当日の録音記録と配布資料をもとに再構成しておりますので、当日の発言が忠実に再現されているわけではありません。ご了承ください。
はじめに
エコロジー、環境共生といったものは、自分たちにとって快適であるための方法です。今日は快適さとは何であるかということを伝えたいと思います。そして皆さんの今の家で実践できるようなことを紹介したいと思います。今日の講座はあまり頭で考えずに、いくつかの実験をしますので体で感じてください。
まず初めに、クーラーなしで涼しく快適に過ごす工夫を考えます。クーラーより快適なものがあることをお伝えしたいのです。
たとえば、環境共生住宅として工夫している2階建ての住宅があります。冬場温かくするため南に大きな窓を作り、日射しが入って家の中を温かくします。夏場は日射しが入ると暑くなるので、ひさしを出して太陽の光をさえぎり、家の中が暑くならず、クーラーをつけなくても北側の窓を開けると風通しがよくなり、涼しくなる、という目論見で作られました。しかし実際は、日中34℃まで上がった日、外気温が27℃くらいに下がっても、家の中は30℃以下にはなりませんでした。なぜ暑いのか、体験を通して考えましょう。
体感温度実験
まず、机の脚、机の上の紙や、人が座っていない椅子の背を触ってみてください。温度差があるとしたら体感的にその温度差は何度くらいかを考えてみましょう。
非接触温度計で実際の温度を測ってみます。紙の温度が24℃、机の脚も、椅子の背も24℃、同じ条件下にあるものは同じ温度であることがわかります。驚いたかと思いますが、そこからスタートします。
感じる温度と実際の温度は同じではなく、同じ温度でも温かく感じたり、冷たく感じることがあります。温度にこだわっていると本当の快適さや涼しさを見失ってしまうのです。たとえば今室温は24℃ですが、服を着て、2時間話を聞いていられます。しかし24℃の水風呂では体は冷えきってしまいます。体感温度とは自分の体温がいかに早く移動したか、または、ゆっくり移動したかということなのです。金属は熱伝導率が高いため移動が早く、断熱性能の高い素材では温度の移動がゆっくりなため、その差が体感温度として感じられます。水は温度の移動がすごく早く、入った瞬間に熱が一気に逃げていきます。体感的に涼しいということは体から熱が出て行くことなので、体温の移動をコントロールすればいいということです。例えば、扇ぐと涼しく感じるのは風で体温を移動させるためです。次の実験では手に水を振り掛け、そこをあおぐとより涼しく感じるというものです。これは汗の役割を表します。汗は乾いた瞬間に気化熱によって体温の放出スピードを上げることで、体温をコントロールしています。今の話は、同じ温度でも湿度の高い部屋と低い部屋では、低い部屋の方が涼しく感じるということにつながります。
次の実験では手をこすりあわせましょう。こすり合わせたら耳につけないようにかざす、すると少し熱さを感じます。この熱さは隙間の空気があたたまったのではなく、手のひらの表面が放射している、いわば放射熱です。放射熱により体感温度は上がりました。たとえば短い距離のトンネルだったら、少し風が吹くとトンネルの外も中も空気の温度はそんなに変わらないはずですが、涼しく感じるのはトンネルの表面温度が低いからといえます。天井や壁が40℃、空気の温度が20℃の場合、放射熱によって温度は足して2で割り30℃になってしまうので、その影響が大きいことがわかります。
放射熱の影響
家のまわりに放射熱の発生源があると、その熱が窓ガラスに当たり、天井や壁を温かくし、部屋を暑くさせる原因となってしまいます。空気だけなら温度のコントロールがしやすいですが、物に吸収された熱はとても抜けにくく、夜まで部屋が暑くなってコントロールしにくくなってしまうので、できるだけ物に熱をためないことが重要です。そのためには、熱をためるものに直射日光や放射熱があたらないように遮ることが重要です。
ここでまた実験をします。500wの電球の前にすだれを置きしばらくすると、すだれはどんどん暑くなり、35~40℃にまで上がります。すだれに手をかざすと電球の熱で暑くなった様子を感じられます。ところが、40℃まで上がっているすだれに霧吹きで水をかけると24℃まで即座に温度が下がり、放射熱がなくなります。蒸散活動が活発にあるとなかなか表面温度は上がらず、水分が乾くと表面温度は上がっていきますから、常にすだれが濡れている状況を作ると効果が得られます。植物は地下水をくみ上げ、常にすだれをぬらしているのと同じ状態を保ってくれます。家の外にある黒い車のボンネットや前の家の黒い屋根の表面温度は非常に高く、その熱が家の中に放射熱として入ってきているので、それを食い止めるためには植物を使うことが有効だといえます。
外部環境を活用する
外の環境をうまく活用し、家の中を快適にする、環境共生型コーポラティブ住宅「経堂の杜」を紹介しましょう(写真等は(株)チームネットのホームページでご覧になれます)。樹木など外部環境の違いによって温度が違うので、このことをよく理解していると意図的に涼しさを作って快適に過ごすことが可能になります。一番涼しいのは北側にある樹齢100年以上の欅の木の下で、この涼しさの意味を知ることが面白いのです。日向より日陰のほうが涼しく、特に大きな木の下にいると涼しい空気がたまっているように感じる、そのメカニズムはこうです。樹木の葉が太陽の日を浴びると太陽の方向に葉っぱを広げていき、太陽の光で光合成を行い、エネルギー変換を行いグルコースを産生し、水をくみ上げ、葉から蒸散させます。日をたくさん浴びると葉の表面温度を上げないよう蒸散活動を行うので、その辺りの空気はたくさん水を含んでいます。湿った空気は乾いた空気より軽いので上昇します。上昇気流が作られるとそこの気圧が下がります。その気圧差が風を作り、その風が下降気流を作り出します。木陰のところの温度が低く、下降気流ができると、大きな木の場合は地表付近より上空付近のほうが温度が低いので、上の方の涼しい空気が押し下げられ空気が涼しくなります。建物の北側に建物より高い木があると冷気がたまり、それをうまく建物に流動させると涼しさを作ることができます。
なお、北側の樹木は冷気を作りますが、南側の樹木は直射日光や放射熱に対して水の壁をつくり、抑制する役割があります。外部の熱をさえぎる工夫をしていない部屋では窓ガラスの温度が高くなり、クーラーを使っても暑く感じます。一方、樹木で暑さを遮っている部屋はクーラーを使ったとしても最小限で涼しく快適に感じることができます。冬は植物が落葉し、光が家に入り床にあたるため、熱が床にたまり、夜間もその放射で急激に温度は下がりません。住まいも夏と冬とで衣換えすることで、室内の温度をコントロールすることができるのです。
足し算型住宅と掛け算型住宅
外にある暑さの原因に対して、クーラーを付け、断熱性を高くし、太陽光発電を付けるといったような便利なものの集積によって、スイッチ一つで家の中を快適にする住まいづくりを「足し算型住宅」とします。
一方、外に日射を遮るものを置き、植物を置き、さらに庭の樹木と外を連携させ、冷気をつなげ、放射熱の影響を緩和させ、さらに街路樹や北側の樹木・南側の樹木ともつながり、街の中の公園や川からまた涼しさが広がるような住まいづくりを「掛け算型住宅」と呼びましょう。外との関係性をどんどん掛け合わせてつなげていき、関係が涼しさを作ることです。
ここでの涼しさの質は、足し算型を「便利さ」、掛け算型を「豊かさ」と分けることができ、便利な涼しさと豊かな涼しさの質は違うのです。豊かな涼しさは気候の連続により家の中の涼しさを作り出し、気候の連続は視覚的な植物・樹木の連続を作り出すため景観が豊かになります。外の環境が快適になると、家の中に閉じこもる生活ではなく外の空間が使えるようになるので、生活領域が広がることにもつながります。このことは単に涼しさを作り出すことだけではなく、生活のいろいろな意味での豊かさにつながり、外の世界とつながっていると感じることが自分にとっての快適さになります。
「豊かさ」と「便利さ」はキーワードです。最近の住宅には便利さはあるけど、豊かさはどうでしょうか。豊かさを感じるのは、自分がありとあらゆるものとつながっていると感じ、すべての自然がつながり、自分がその中心の一点にいるように感じたときであり、豊かさとは「つながっていること」だと思います。便利さはほとんど物に由来しているので、要素を分別し、それを組み合わせること、寄せ集めることで便利なものを作っています。分けることで便利な家は手に入れてきたけど、豊かな快適性はどんどん失ってきていると思います。これからの課題は、足し算型の価値をどうやって掛け算型の価値に変えていくか、ということだと思います。
街に豊かさが生まれる原理と生まれない原理
沖縄・本部半島の備瀬という集落の写真(写真1)を見てください。
誰もが「これは森だ」と思うでしょうが、実はこれは森ではなく、1軒1軒の家の単なる生け垣です(写真2)。
敷地の四方を福木(フクギ)という木で囲んだおよそ300軒の家々が碁盤の目のように並び、その緑が延々と連なって森のように見えたのです。この森のような環境、つまり連なった生け垣は見事な防風林の役目を果たし、台風の猛威から家を守っています。
この集落では大量の樹木が空調装置として機能し、快適な気候を作り出すとともに、サトウキビ畑を塩害から守る役割まで果たしています。樹木の家が300軒並ぶとどんな街並みになるのか、航空写真を見てみます(写真3)。
備瀬での家をつくる行為は、単に建物をつくることではなく、環境をつくることであり、街並みをつくることであり、さらに家族を守ることであり、耕作地面積を増やすことであるというように、すべてがつながっていることがわかります。本来の環境共生というものは、単一機能としての環境をつくることではなく、すべてのものが連続していくものをいかにつくるかということがポイントだと、伝統的な集落を見るとよく分かります。
写真3・備瀬の写真
北国の集落でも、南国と全く同じ状況を確認することができます。次の写真(写真4)は、水沢江刺(岩手県)の伝統的民家です。
写真4・水沢江刺の民家の外構
晴れていて風が強く、すごく寒いときに、集落の庭先に入ると暖かく感じられます。それは、体感実験をしたように、自分の庭の防風林が風を止めているため空気が止まり、陽だまりが暖かくなっているためです。断熱性能の悪かった時代は、住居を寒さから守るために外の環境を使いました。小屋の裏に薪を積んで風除けとし、植えられた樹が大きくなって防風林が仕上がると、その薪積みの当初の意味は
なくなりますが、景観として残っています。
一方で現代の沖縄の町並みはまったく変わってしまい、外に環境がない状態になってしまっています。
(写真5)写真5・現代の住宅地の航空写真
沖縄の街並みは、1962年を境に大きく変貌し始めました。その根本的な理由は、住宅を成り立たせる技術の違いにあると、私は考えています。
備瀬の集落に残る住宅は、どれも木造です。木造住宅はコンクリートに比べると構造的に弱いものなので、台風の猛威から家族を守るためには建物単体では不十分で、建物全体を樹木で包み、さらに隣の住人とも強調し合いながら、防風林を形成する必要がありました。弱い木造建築を補うための必然性から生まれたものなのです。一方で、コンクリート住宅の場合は、構造的に強固なものなので、全く周囲の環境に依存することなく建物単体で台風に対処することができるため外の環境が必要なくなりました。こうした技術の進歩が、住まいづくりを、周囲との関係にとらわれることのない自由で自分本位なものへと変えることになったのです。昔の住宅は不便であったために、外の環境を使うことで豊かな住宅ができていました。住宅が便利になると不便な状況を補う必要がなくなるので、豊かさがどんどんなくなってしまいます。このことは沖縄だけでなく、全国どの地域でも同じようなことが言えます。豊かさを求めて家を建てたつもりなのに豊かさをどんどん失ってしまう、というジレンマに入ってしまいます。
おそらく、1960年頃までは、備瀬の集落のような「街の環境」と「個人の暮らし」との理想的な関係を続け、外へ外へと視点を移すことで、豊かさを増やしてきたのでしょう。そして、こうした外環境づくりへと向かう住まいづくりの形式が街全体に波及することで、豊かな街並みが形成されてきたのだろうと思います。
「依存型共生」から「自立型孤立」へ
パラダイムとは、時代時代の価値を決めている価値の枠組みのことをいいますが、昔と今とで連続性がなく、不連続に時代時代の価値構造が変わってしまうことを、パラダイムが変わったといいます。ここで、伝統的集落の世界と現代都市の世界との違いを整理してみます。
私は、備瀬のような伝統的な世界を「依存型共生」、現代都市のような世界を「自立型孤立」と呼んでいます。伝統的集落では、依存型の弱い技術力をベースにしているので必然的に共生関係が生まれ、自立型の強い技術の世界では、共生することの必然性が失われ孤立化が進む、という考えです。このことが良いか悪いかではなく、そういう状況にあるということです。
昔はみんなが寄り添わなければ生きていけない環境で、プライバシーもありませんでした。今は、自分のライフスタイルに合わせて、自分の住みたい家を作ることができる、けれども孤立していることが様々な社会問題が起こしているとも考えられます。例えば、孤立した住宅が脈絡もなく建てられたことによって、ヒートアイランド現象や、人とのつながりがなくなったことによる子どもへの問題にも影響していると考えられます。「自立型孤立」の状況では限られた人間関係しか築くことができません。孤立した老人をいかに介護するかということに、孤立した状況のまま対処しようとすることが間違いで、そもそも限界があるのです。ただし技術の進歩を批判して、それ以前の「依存型共生」の世界を追及すべきだと主張しても意味はありません。「便利さ」を追求した技術の進歩が、「依存」から「自立」へと私たちのライフスタイルを進化させましたので、一度進化したものを元に戻すことはできないのです。
しかし、パラダイムは不連続にまったく変わることがありえます。それは、新たな価値観である「自立型共生」です。この「自立型共生」をめざすという個人個人にとっての戦略が、これからの都市環境再生を図るために有効だと私は考えており、この戦略のシナリオを構築できたとき、個人の住まいづくりという私的なうごめきが街の環境を変えていくことも可能になると思っています。「自立型共生」というのは、「自立型孤立」という閉塞した世界の次に来る新しいパラダイムであると思っています。
「自立型共生」へのパラダイムシフト
「便利さ」というのは自立するための技術であり、「豊かさ」というのは共生するための技術なのです。ここで、「便利さ」と「豊かさ」を併せもつ「欅ハウス」のプロジェクトの紹介をします。これは「共生」することに価値を持たせるために作りました。自立型の価値は捨てず、今まで使いこなしていなかった関係性の価値を組み合わせる「掛け算型」の住まいづくりということです。つまり環境との関係性とコミュニティとの関係性を価値のあるものにすることです。
その発想のいわば横軸は目的軸、縦軸が手段軸です。目的軸は個人の利得で、家を買う人たちがいかに得をするかということです。今の家では、どんなに豊かな環境があっても、木が切られてしまい、外の環境が不快になり、家の性能だけが良くなっています。かつてのように手段として環境との関係性を使いこなすことによって、よりレベルの高い快適性が得られるのなら、事業として成立させることができます。今は、環境運動をしている人も実は環境と共生していない部屋に帰っているのが現状です。快適な生活を目指している人はたくさんいるので掛け算型の家がどれだけ価値があるのかを伝えることが重要なのです。コミュニティは手段なので活用し、コミュニティの単位で豊かな環境を確保した上で自立型の家をつなげていくような、コミュニティ・ベネフィットの事業は成り立ちます。
コミュニティを「目的」ではなく、あくまで「手段」として利用することで個人のベネフィットを上げ、そうすれば、個人の投資で環境を守ることができます。関係性をうまく使いこなし、個人の利得を大きくすることが環境共生なのだと思います。掛け算型の住まいづくりは個人が得をするためだけれども、最終的には街づくりにつながっています。
複雑な系を成す「街づくり」へ
図1を見てください。2軒の家が道路をはさんで並んでいますが、この状況では、左の家の豊かな屋敷林で生成された冷気がにじみ出してきても、その空気は道路面の熱による上昇気流によってあおられ、決して右側の住宅へは入ってこない状況となっています。
次のように考えると、右側の住人の暮らしが具体的に改善されることになります。それは、図2のイラストのように、右側の家の北側に、左側の屋敷の樹木と同じレベルの木を植えるというものです。そのことにより、屋敷で生成された冷気は右側の敷地へつながり、窓を開けたときには涼しい空気が入ってくるようになります。都市部において、特別な人間関係がなくても、プランの中にきっちりと環境ポテンシャルのキャッチボールができるような関係をつくり込むと、お互いの相互作用が始まるのです。
また、例えば図3のような緑豊かな公園に接した住戸でも、何もしていなければ、A住戸は公園で生成される冷気の恩恵を受けることができません。この場合の改善策は、例えば図4のように、A住戸全体が公園の一部に取り込まれてしまうようにプランすることです。
そうした場合、A住戸は公園の中に家を建てたのと同じような環境ポテンシャルを享受することができます。A住戸がここまでやると、Aに隣接するB住戸も自分の敷地内でAと同じ対応をすることで、公園のポテンシャルを自分の敷地まで導入することができるわけです。このように、街の環境再生を考えるときは、街全体を変えるのではなくて、個々の住宅の中にそういった環境ポテンシャルの「拡張子」を入れていくということが重要です。
例えば図5のように、街の真ん中に公園があったとします。周りに家があって、その周りの家がすべて閉鎖的な自己完結的な生活をしている限りにおいては、その家の存在自身が阻害要因となって、公園のポテンシャルを街に広げることを阻むことになります。
しかし、図6のように、先ほどのA住戸のような家をつくることで公園のポテンシャルを自分の敷地まで拡張するというスタイルの家をつくり、さらにBという住戸がそれに倣ったとします。そういう住戸がA、B、C、Dといくつか増えていくと、その家づくりが公園のポテンシャルを街へどんどん拡張することになるのです。そういう考え方があれば、個々の住宅づくりという振る舞いを通して街全体のポテンシャルを上げていくことが可能となるはずです。結果として街全体が一つの大きな環境の装置に変わっていき、個人の豊かさが高まっていくと、その個人個人の利益がインセンティブとなり、その街の環境は自動的に再生していくこととなります。このように、「街の環境」と「個人の暮らし」との関係性を再構築し、現代の都市の環境を再生するストーリーは、複雑系の考え方を街づくりに応用することで可能ではないかと思っています。
複雑系の定義とは、「無数の構成要素から成るひとまとまりの集団で、各要素が他の集団と絶えず相互作用を行っている結果、全体として見れば部分の動きの総和以上の何らかの独自のふるまいを示すもの」を言います。街というのも実は複雑な系を成すはずです。複雑な系を成したときに豊かな街並みが生まれる、という事例が先ほどの備瀬です。備瀬のあの集落は生物の細胞のような美しい形をしていますが、必然的にそういう形になっていくのは、個々の家づくりが勝手な振る舞いをしていても、それがある相互作用を及ぼしてあって、それが絶えず繰り返されることで自動的に全体が生まれてきたからだと考えられます。
複雑系というのは次の五つのプロセスを踏むと言われています。 「1.各要素があくまでも各自のルールで振る舞う」。要するに自立しているということです。ただし、「2.各要素は自立しているけれども必ず相互作用を持つ」。「3.各要素から成る系は相互作用が生まれてくると、それが全体としてある振る舞いをするようになる」。「4.全体としての振る舞いが今度は各要素の相互作用の仕方に影響を及ぼす」。そうすると結果として、「5.一つずつの要素からは決して想像することができないような全体としての新しい性質が生まれてくる」というのが、複雑系による創発のプロセスです。都市というのは実は複雑な系であるべきであり、しかし、その系を成さないようにしているものは何かというと、それが「自立型孤立」なのです。各住宅がすべて閉ざされている「自立型孤立」という状況は、個々の住宅が隣の住宅に対してまったく相互作用を及ぼさない状況です。相互作用がなければ、複雑な系は生まれません。
これからの街づくりを考える場合、街づくりが複雑系の系を成すように働きかけをすべきであり、そのためには、あくまでも個人を自由に振る舞わせることが重要なのです。その上で、個々の振る舞いの相互作用がお互いに得だという状況を明確にし、そのことによって、Aという住宅が生まれ、Bという住宅が生まれ、それぞれがあたかもキャッチボールのように豊かさを増幅させます。最初のうちはとてもゆっくりなスピードかもしれないし、意図的にプロデューサーが関与しなければならないかもしれませんが、A、B、C…とそういった家が徐々に増え、その状況が臨界点に達したときに、その後は自動的に誰もがそれに従うようになるという場面が生まれてくる。それが複雑系という観点からの街づくりの考え方です。
※写真・図版の転載を禁じます。
(市民科学第3号 2005年7月)