これからの工学教育に求められるもの

投稿者: | 2010年10月13日

 この文章は、東京大学グローバルCOE「世界を先導する原子力教育研究イニシアチブ」主催の第1回・原子力社会論・専門家ワークショップ「原子力工学者にとっての社会リテラシーとは?~問題解決から問題設定の工学へ:次世代工学教育プログラムの構築に向けて~」(2010年3月5日(金)、東京大学本郷キャンパス)において、後半の全体での討議の前に、参加者各人が行った発表(一人20分ほど)のうち、市民科学研究室の上田昌文が話した内容(タイトルは「次世代工学教育と社会」)を後に加筆・修正したものです。『市民研通信』への掲載をご快諾くださった、当ワークショップの主催者の皆様に感謝いたします。
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はじめに
 私は、普段一般市民から発せられる、いろいろな科学にかかわる社会的な問題で、例えば紛争に巻き込まれているとか、ひょっとしたら自分が何らかの被害を受けるのではないか、あるいはこういうことを耳にしたのだけれども分からない……そういういろいろな質問なりリクエストなりを受けて、それを調べたり、あるいは必要であれば専門家とやりとりしたりということで、言ってみれば媒介役として仕事をしている者です。
 そういう立場からみて、工学に携わる人が今後どういう社会的な要件を満たしていったらいいか、私なりに思っていることをお話ししたいと思います。まずは、技術と社会をめぐる焦点的問題であるリスク、倫理、合意形成について考えてみます。
リスク、倫理、合意形成をめぐって
 リスクについてはいろいろな議論があって、リスク論ということで学問ができて10年ぐらいたっていると思います。現時点で私が必要だなと思うことの一つは、政策に直結するようなレギュラトリーサイエンス(規制科学)をきちんと推進していく体制があること、その成果がきちんと政策に反映される回路を作るということが日本では重要だろうと思います。
 一方で科学研究があり、一方で政策があり、もちろん必要なところは政策の側で必要な科学知を吸い上げるわけですが、じつはそれが割と場当たり的で、資金的・人的にも十分ではない面が結構あると思います。省庁間のいろいろな壁があって、共通する横断的なものを組織しにくいなど、いろいろな事情も絡んでいます。そういうものを改善していくというのが日本の大きな課題だろうと思います。
 もう一つは、不確定なリスクに対処する方法論です。例えば原子力のリスクにとっても、原子力を推進する人にとっては、それは交通事故といろいろなものと比べた場合、そんなに大きいはずがないと言うのですけれども、受け取る側にとってはそう受け取れないという事情がよく問題にされますし、実際そのギャップをどう埋めるかははっきりしない。方法論として欠かせない要素の一つは、漸進的、つまりじっくり学びながら対応することでしょう。リスクに関して発生させる側とそれを受ける側に分けた場合、対話を行いながら対処していく。そういう方法を、今はまだ模索状態ですけれども、確立していく必要があるでしょう。
 あるいは別の例で言いますと、ヨーロッパの化学物質の包括的な管理の体系であるREACHに見るような、国際的な大局的な動きを見据えて基本原則的な政策が決まった場合に、それに見合ったリスク評価・管理の枠組みということを各所で具体的に設定していくことになるわけです。当然、日本もそういう大きな動きに向けての対応を考えなければいけないということがあります。
 それから倫理については、これは技術者倫理教育ということで、具体的にはテキストもあり、先生たちの授業内容もいろいろできているようです。これは言ってしまえばある意味単純なことで、研究者・技術者の社会的役割というものをもっと自覚して、それを開かれた議論に持っていくということだと私は思っています。すなわち、研究あるいは開発というのは必ずその成果が出てきます。それが何からの社会的影響を生み、それに伴う責任というのが発生します。そういうものを自分の仕事に即して把握し対処できるようになっているか、ということです。
 研究開発する人は必ずどこかの組織に属しています。その組織自体が社会の中で持つ意義や役割に照らして、どうふるまうべきか。具体的には、例えば利益相反のような問題がありますから、そういうことに関してどこまで明確な説明ができるだろうか。それらについて、対処療法的にやるのではなくて、常に議論や対応のプロセスを開かれたものにしていく何らかのやり方があるのではないか。そうすることで、おのずと信頼が担保できるというようなことがあると思うのです。
 合意形成については、これは私たち市民科学研究室が扱うような問題の大半は、合意形成とかかわっていて、合意形成のやり方がうまくないから問題がこじれてしまい、対立が容易に解消されないということがよく起こります。したがいまして、意思決定のプロセスを可能な限り明確にするということ、そして、研究開発のできるだけ「上流」の段階で、社会的影響評価を行って、それに基づいて合意を形成していくというように設計していくべきで、問題が起こってから何かしようとしてもなかなか大変だということがあります。  
 以上のようなことが私の目から見て、現時点で求められている事柄ではないかと思いますが、もちろんこれらは大まかな話です。
科学者・技術者に求められる社会性とは
 私は科学者や技術者に関して、社会的に何を満たしたらいいのだろうかということは、そんなに難しい問題ではないと思うのです。ただ具体的にどうするかというあたりで相当やっかいな難しい問題が生じてくるということだと思います。
 大きく分けて、社会を、言ってみれば集団としてとらえる見方と、個人としてとらえる見方があると思います。
集団としてみると、科学者コミュニティーや研究者が企業や大学に属している場合などいろいろあります。そういう場合、研究開発の目的と、それをどう展開していくかということと、成果の生かされ方がどうなのかが問われます。そのとき、その集団の営みは、社会がいい形で存続していくための基本的な理念を損なわないということが最低の要件だと思います。これは後で具体的にどういうことかを言います。
 そして、もう一つは個人としてみた場合です。いわば、科学者・技術者、個人としてみた場合に、果たしてその人に生活者としての自覚があるのか。それから、政治的主体として、ちゃんと何か役割を担って動いているのか、そのあたりが問題になってきそうな気がします。すなわち、研究者として、技術者としてみたとき、研究や技術それ自身に即してみたときには、立派な仕事をしているようにみえるのですけれども、それが生活者あるいは政治的な主権者としてみたときに、何か満たしていないものがあるのではないか、と考えられる場合があるのです。
基本要件として満たされるべきこと
 研究開発の目的と展開の方法と生かされ方と言いましたが、基本的な理念とは何かというのは本当に単純なことで、誰でも言うことなのです。持続可能性、健康と暮らしやすさ、社会的公正の3点です。これらは大きな命題なのですが、じつは例えば原子力に引き付けてこれらの問題を考えると、容易に解決できない問題が幾つも見えてくるということになります。
 
 これらを、例えば原子力学会は倫理規定を作って、文章としては非常に立派なものを公表されています。もちろん今言ったような基本的理念も考慮されて作られているわけです。それを、いざ、では社会との具体的な接点において、どう実現していくかとか、問題が起こったらどう解決していくかというところでは、単純な解はなかなかない、ということになります。
 先ほど言った「生活者としての自覚と政治的主体性の発揮」というのはどういうことを意味するかというと、一つは、市民や自分の技術のユーザー、消費者、そういう人たちが何か欲求を持ったり、懸念を持ったりしたときに、それに耳を傾けて、必要だったら対話して、何か具体的に対応できるような回路を組織自体が持っていないと成り立たない、ということなのです。
 これは、国がなんらかの制度で担保する場合もありますが、組織自身が、例えば最近ならCSRの観点、環境の観点から環境報告書を出す、そういう社会的行動は当たり前になってきつつありますけれども、それは言ってみれば分野によって、かなり特異性のある問題、原子力だったら原子力に固有の問題を抱えたりしているわけです。ですから、そういう原子力を推進する組織として、今言ったような生活者のニーズや懸念に対するアプローチを何か持っているかということが問われるわけです。
 それからもう一つは、批判です。批判に対してどうするかということです。これは、個人と組織との関係で見ると非常に難しい問題を含んでいると思います。原子力を推進するあるいは研究する大きな組織だからといって、その中に属する個人が全部それに賛成していると、普通は見えるわけですが、必ずしもそうではない、意見も違っているということがあります。しかしそれは普通表に出てこないし、出そうとする時は非常に強い覚悟がいったりする。
 でもやはりその中の個人としては、場合によっては、組織と独立した形で自分の意見を表明できたり、研究の意義を自分なりに説明できたりするということが必要なのではないかと私は思っています。易しい言葉で言うならば「顔の見える研究者」としてどこまで社会に見えているかということが問題になってくるのです。
 それからもう一つは、研究の意義です。例えば地層処分の意義。それをどれぐらいの規模で、どれぐらいのお金を掛けて、どういう結果を目指してやるかということになると、なかなか分かってもらうということそのものが難しい問題になります。
「自分の言葉」を持つこと
 でもそのときに大事なことは何かというと、要するに国がこう決めたからとか、こういう方針で推進していきますということをいわば役人のようにしゃべることではなくて、実際にかかわっている人が自分の言葉で語ることができるかということなのです。
 この「自分の言葉」というのは結構ポイントで、いろいろな対話を促進して、いろいろな情報を公開して、いろいろな説明責任を自分が引き受けるときに、自分の言葉で語られるかどうかによって、市民の受け取り方・印象が変わってくることがあります。ですから、これを例えば教育という観点からもとらえていかなければいけないと思います。
 それからもう一つは、政策、例えば原子力にかかわっている人たちに、ではあなたのやっている原子力は、日本のエネルギー政策の中でどのような位置付けになっているかを話してくださいと言ったときに、それはなかなか全員が明確にきちんと系統立てて話すということは難しいでしょう。すなわち、やはり大きな事業になればなるほど、全体像をとらえてそれを語るということは、個々人にとっては大変難しいことになってきます。ですから、そういうことを要求するのは変だと言われかねないわけですが、そうではなくて、大局的な政策、研究行政の在り方に対して、自分とかかわる範囲において、何かここがおかしい、何かここを変えていくべきだということがあれば、それを表明できる力を持っているということだと思うのです。
 その延長線上に何らかの意思決定という形で、自分のかかわっている事業に関して、政治的な主体として動ける、そういうものを持っていないといけないのではないか。組織の中に埋もれてしまうのではなくて、組織の中で、自分なりの主体性をどうやって発揮するか。その発揮の仕方に社会との接点があるということだと私は思います。
信頼回復の模擬演習
 今日の議論のために具体的に提案したいなと思っていろいろ考えたのですが、三つほどまとめてみました。実際にここからは工学教育ということで、やってほしいなというものを少し具体的に、といってもあくまで概念的な話ですが、していきたいと思います。
 一つは、原子力などは特にそうなのですが、社会の信頼ということに非常に敏感になっています。一般的市民も原発でちょっとした事故が起きたり、あるいは放射線がちょっと漏れたりすると、何かすごく大変なことが起こったという受け止め方をすることが多いのです。それはもちろんいろいろな今までの経緯が絡んでいるのですが、いずれにしてもちょっとしたことで信頼にひびが入る、もろい状態が続いているわけです。
 そういう信頼関係がある種崩れてしまっている中で、何がそれを引き起こしたのかということをやはり見ていかなければいけない。そうすると、ポイントになるのは、過去の重大な事故の事例、不祥事の事例なのです。それらはもちろん報告書でまとめられているなど、いろいろと分析されてはいます。けれども、教育のプロセスにおいて、これをどう生かしていくかということが本当にきちんとやられているのかなと私は思っています。
 例えば事故というのは、当然のことながら、技術自体のエラー、ヒューマンエラー、そして社会的構造が関係したものなど、それらがかなり複雑に絡まって起こるのが普通です。ですからその解析を通して技術と社会の関係性が見えてきます。その中に位置する技術者・研究者の役割も見えてきます。言うまでもなくこれは恰好の”社会性”の教材になるわけです。
 ですから、教育の中で、「過去こういう失敗事例がありました。その失敗事例はなぜ起こったのか、皆さんでこれから分析してみましょう」ということで、シミュレーションできるようなセッティングがなされていて、例えば学生さんが事故の発生の現場、処理の仕方、被害に遭った方、対策に携わった方、そういう関係者と直接対話するということを埋め込んでいったら、非常にビビッドに自分の役割、工学のあるべき姿を思い描くことにつながるのではないかと思えるのです。
 ですから、いわば失敗学的な解析の演習、それを単に文献的に行うのではなく、模擬体験的にシュミレートできるようにやる。そういうのがあってもいいのではないかと私は思います。ひょっとしたらもう具体的になされている例があるかもしれません。
社会性の検証の道具としての資金分析
 もう一つはお金です。これはなかなか問題にしにくい面があるというのは重々分かるのですけれども、私たちも科学技術などの社会的な問題を調べていて、結局なぜこの人がこういう立場をずっと取り続けるのだろうかということの背景には、言ってみればお金によって規定されている部分があるからだと見えてくることが多いのです。そういうことを本気で探ろうとすると、じつは情報公開という手段を取ったり、いろいろなことをしなければ全体が見えないということがよくあります。
 果たして原子力の中にいて学んでいる人は、お金の構造、お金の流れと、今ここに書いているような資金の調達の仕方、そしてその使途、それがどのように公開されているか、いわば税金の流れですが、それをどれぐらい把握しているのだろうかということが一つ気になるところです。
 というのは、こういうお金の流れというものは、じつはその組織とその中に属する個人の社会性を非常に端的に表している面があるわけです。ですから、それを自分自身で把握して、全体の中で自分がどういう流れの中でお金を使っているかを自覚するということは、社会性を自覚するための必須のステップだと言えるでしょう。
 大きな組織にいればいるほど、その中では当たり前の事柄が、外部から見たらそうではないということがよくあるわけです。そういうことを自覚するというときに、お金というのは一種流れですから、見える、見えないの関係が把握しやすくなるという面があると思います。
 これは何も経済学に踏み込めということではなくて、自分の組織がどういう経済的存立基盤を持っているかということをきちんと見ていくということです。そういうことが、教育の大事な一つの内容になるのではないかと思っております。
 これは、お金に関してで、ちょっとまずいデータかもしれません。じつは私たちは幾つかのプロジェクトで、いろいろな科学技術のリスクにかかわるようなことを扱っています。それに関連する政府の委員会や公聴会を傍聴することがあります。そのときに、しばしば同じような名前の委員の方が入っていらっしゃって、その方がやっている研究などももちろんフォローできるのですが、私たちの目から見て、リスクのことを中立公正に研究しているはずの研究者が、いわばリスクにかかわる事業主体の推進側の人たちからどうもたくさんの寄付金をもらっているらしいという感触があったので、私たちの仲間が情報公開で調べてみました。今、赤く丸を付けている教授がその対象なのですが、この人がある特定のメーカーからいろいろな寄付金という形でもらっているということがあるわけです。相当調べないとこういう情報は分かりません。
 これは総務省関係ですが、こういう方が、総務省が作った、あるリスクに関わる重要な規制を検討しようとする委員会のメンバーになっておられる。中立公正をもちろん前提にして検討していく委員会であるはずですので、どうなのかなと思う面があるわけです。単純に言ってしまうと、利益相反の問題です。
 こういうことが、例えば学生さんの目から見たらどのように見えるのだろうか。このような状況をやはり自分できちんと把握して、何をどうわきまえていくべきかを、中で議論できるようにならないといけない。そこが本当の透明性の出発点だろうと私は思っています。
 これももう一つの事例です。これは、もう具体的に分かってしまうかもしれませんけれども、昨年できた某科学コミュニケーション、リスクコミュニケーションを推進していくために作られた某機関の予算の使われ方が公表されているのです。
 私はそこの機関の方を知っているのですが、その機関が論文データベースを作っていまして、私たちもいろいろな論文情報を知りたいものだからそこにアクセスするのですが、このサイトのページが開けないということが続きました。おかしいなと、問い合わせをしようと思っていろいろ調べているうちに、このデータに行き当たったのです。
 幾らぐらいお金を使ってあのデータベースを作っているのだろうと思ったら、1年間で3000万円だったのです。ちょっと驚いてしまったのです。私の目から見たらあのデータベースを3000万円もかける必要は全くないだろうと思えたので、質問状を出したのです。そうしたらメールでは回答が来なくて電話で来ました。慌てふためかれた感じで、いろいろ理由を言われたのです。セキュリティーを高めるためにどうのこうのというような話をされたのです。
 要するに何を言いたいかというと、こうやって公開することはいいことなのです。ただ中身は実際は分かりません。それで、もちろん一般市民が全部分かる必要は全くないのですけれども、何か問題があったときに、それをきちんと説明できるようにしておくことがこういうものを公開することの意味だと思うのです。
 ですから、金の使い方を、私たちは市民の立場から必要があったらチェックしますけれども、そういうことが内部の人たちにどう受け止められているかということが私は気になるのです。やはり、これからいろいろな研究開発に携わっていき、大きな事業の中で自分がその一翼を担うという人は、こういうお金の意味を自分なりにちゃんと把握しておく必要があるのではないか。そこを通していろいろなものが見えてくるということを強調したいのです。
研究開発の意義の再確認と社会的対話の入り口としての異分野間交流
 そして、もう一つあります。これは既にやられていると思いますけれども、じつは専門家の方が自分の業績を学会ではなくて、一般市民の方に講演会などで説明するということがあります。講演は講演で、ある決まったスタイルなのですけれども、じつは往々にして、素人に自分の研究の意味をストレートに通じるように話すということはなかなか難しいことなのです。
 それはどうしてなのだろうと考えてみたら、いろいろな興味深い理由があると私は思っています。一つは、通じる説明をするというときは、必ず何か社会性をひきかぶって、その社会性の部分で相手にぴーんと感覚的に分かってもらえるようなことを、言葉にしていかねばなければいけない。そうすると、自分の専門性だけで語れるものから当然範囲が広がってしまいます。易しい言葉を使おうとすることによって、そういう磁場に自分が入っていってしまうということだと私は思うのです。
 そうした磁場においては、研究の内容と研究の意義のつながりをきちんと示さなければいけない。素人が「先生はどういうことをやっていらっしゃるのですか」と聞いたときに、「私はこういうことをやっています」と返事されて、聞いた方は「はあ」と思うときがあるのです。その「はあ」ということの意味は、それは社会にとってどういう意味があるのですかと素人は聞きたいのです。けれども、先生はそういうふうになかなか言ってくれないということで、いわば理解の齟齬が生じたりするわけです。そこのつなぎを本人がどう意識しているかということが、やはり表明されなければいけません。
 当然のことながら、私も経験していますが、研究仲間と話すときには、研究用語が日常語になりますから、非常に話が通じやすい環境でずっと長い時間過ごすわけです。ですから、一歩外に出たらそれが使えないという世界の違和感といいますか、不安感のようなものがあると思うのです。
 でも、その違和感はできるだけ早い段階から体験しておいた方がいいと思っていまして、そのための一つのいい方法は、違う分野の大学院生レベルの方と議論するということです。つまり、お互いの業績を説明し合い、それにどんな社会的意義があるのかという議論を通して、一般性のある易しい語り方というか、そういう言説を組み立てる能力を養う訓練になるのではないかと思います。
 以前私は九州大学で、1週間泊まりがけで個別に先生方にインタビューする仕事をする中で、生物学科の院生にだけ集まってもらって話し合ったことがあります。そのときに、いろいろな研究室があって、それぞれの研究室のことをもちろん語り合う場はあるわけなのですが、院生同士が全部そろって、お互いの研究や研究のあり方、将来について語り合ったことが全然なかったということが分かりました。そういう場があれば、院生は普段思ってはいてもなかなかしゃべれなかったというようなことをたくさん語り合えるのではないかな、と思ったのです。
 このような場は比較的簡単に作れるし、学生にとっても自分の将来を描き出すのに有効な手がかりを得られると思った次第です。
 以上、簡単ですが、いくつか提案させていただきました。■

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