【書評】 山田慶児 『技術からみた人類の歴史』

投稿者: | 2010年11月20日

書評:山田慶児『技術からみた人類の歴史』(編集グループSURE、2010年10月2日)
評者:猪野修治
著者の山田慶児さんは著名な科学技術史家です。1932年福岡生まれで京都大学理学部宇宙物理学科を卒業後、同大学大学院文学研究科(西洋史学専攻)に学ばれました。同志社大学、京都大学、国際文化研究センターなどで教鞭をとられ、現在は龍谷大学の客員教授をされています。上記の経歴からも知れるように、学生時代より今日まで長いこと京都を拠点に学問・教育活動をされてきましたが、科学史の世界では、京都学派の流れをくむ京都の三羽烏(中岡哲郎、広重徹、山田慶児の各氏)のひとりとして知られています。当初は天文学を専攻されましたが、後に人文系の学問、特に東西の科学技術史を研究対象にされ、多くの重厚な書物を刊行されています。評者もかつて何冊かひもとき勉強しました。
今回紹介する本書は、京都左京区にある「編集グループSURE」で、2010年5月10日に行った講演「技術からみた人類の歴史」(全153頁)を再現したものと、今から40年以上も前の1969年6月(著者37歳)のときに雑誌「デザイン批評」に発表された「土法の思想―操作としての技術から思想としての技術へ」(全27頁)を再録したもの、この二つの原稿から成り立っています。
前者の講演録は質問者として5名の方々(塩澤由典、黒川創、那須耕介、瀧口夕美、北沢街子の各氏)が登場しております。後者は著者が「技術」を論じた初めての論文だと明記されておられます(5頁)から、さぞかし懐かしい論文であろうと推察しました。こうして、ここで大きな課題である「技術からみた人類の歴史」という講演録に、40年以上も前の技術の論文を同時掲載されておられるということは、著者の技術に関する認識がすでにこのときに出来上がり、それが今日まで変更することなく一貫して保持されているからだと推察されます。
そういう次第で、はじめに、本書の後半の論文「土法の思想」を解読し、その後に前半の講演録に論評を加えたいと思います。短い論文ながら、端的にいってきわめて抽象的・哲学的で密度の高い文章になっています。評者のような無学なものは一読しただけでは良く理解できないから、多読するはめになりました。この論文が書かれた時代背景を考えると、世界的な反戦運動や、学問特に近代科学技術の負の遺産にたいする異議申し立てがなされた時代でした。その論点は、副題「操作される技術から思想としての技術へ」が示すように、技術自体が豊かな思想を内包し、技術は、科学や芸術をもあわせもつ価値体系であり、技術は科学のたんなる派生物でなく操作される奴隷でもないこと、それどころか、技術こそは科学技術文明の礎となったのだと力説されています。これが著者の講演の思想的核心です。
例えば著者の技術概念の認識を縮約した言語表現を手短に挙げると、「技術の巨大化はその概念の貧困になる」「技術は心的過程を含む人間のつくる行動の形態である」「技術の発展に普遍妥当性や客観的必然性などはない」「ある種の技術を停止させる必要がある」「技術は科学よりも深く、自然を総体性においてすくいとる」「技術から直接的経験の要素を消し去ることはできない」「製作品の対象的世界への実現は、蓄積された経験のうえに成立する」「技術における直接的経験は想像の源泉である」等々と述べられています。熟読玩味すべき文章だと思います。
さて、次は前半の講演録「技術からみた人類の歴史」の考察・論評に移ります。この講演は誤解を恐れず端的に言いますと、後半のいわば哲学的な論文の内容を、人類の歴史的考察を通じて具体的に実証しようとするものです。考察対象は古代ギリシャ、中世をへて現代までの技術をめぐる壮大なお話です。
祖父の仕事が多数の大工道具を使う家庭環境に育った子供時代の著者は、玩具などの「ものづくり」が得意で、手職の技術への思い入れがたいそう強い。人間はたんに道具を作る動物ではなく、道具を作るための道具を作る動物になることで、動物としての人間から人間としての人間になったのだ、と何度も主張され、人類の技術史ではなく、人間のもっとも基本的な行為の技術からみた人類の歴史を述べられています。
著者は人類史の時代区分を大雑把に三つの段階に区分しています。第一段階は「旧石器時代」、第二段階は「新石器時代」、第三段階は「ルネサンスから近代」。その時代区分で発明された種々の道具と道具を作る道具の発見がもたらした人類の営みの歴史を詳細に述べておられます。ここでは詳論は禁欲しますが、例えば、「火の使用」「石器の製作」「弓の使用」「ろくろと石器」「航海用の帆船の発明」「糸紡ぎと機織りの発明」「文字と写字用具」「神殿とピラミッド」「灌漑農業」「日時計」・・・といったさまざまな技術です。時代をすすめて「望遠鏡の発見」「火砲の発明」等々の科学革命期の時代をへて産業革命期の種々の発明を取り上げ、技術と科学の融合の時代まで述べられています。これらの長い時代を踏まえても、そのときどきの当時の人々の生活現場の求めに応じて発明されてきた技術こそが、人類の歴上、決定的な役割を果たしたのであり、その後に、それらの種々の技術の間に流れる共通する理念の科学が登場したのだという論点です。
さらに現代科学技術の「脳死・臓器移植」「原発」「資源の渇望」の諸問題まで拡張され、これらの壮大な各時代区分における道具と道具を作る道具を作り続けてきた人類は、現代における巨大化した科学技術文明に生きていますが、技術と科学をめぐるさまざまな「研究の価値判断」の方向転換を図るべきときにきていると、著者は結論しております。したがって現代の科学技術問題に取り組む際、本書は冷静な価値判断を要求しています。技術からみた人類の歴史を学ぶ意味はそこにあるような気がします。われわれは後世からみればどのような振る舞いをしているのでしょうか、と自問してしまいます。
最後に、先に紹介した5人の質問者は、それぞれの専門分野をお持ちの方々ばかりで、講演にたいして鋭く的確な質問を投げかけられ、講演と議論を実り多いものにしていると思いました。また、長年にわたり、科学技術史の研究に関わってこられ、教養豊かで博識博学な方を引っ張り出され、本書のようなコンパクトな本を刊行された「編集グループSURE」(北澤街子代表)に敬意を表します。これも古都京都の文化事業のなせる業なのでしょう。なんと至福なことだろうか、と思いました。■

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