「ふれあうまち 向島・オッテンゼン物語」 上映会に参加して

投稿者: | 1998年3月27日

「ふれあうまち 向島・オッテンゼン物語」 上映会に参加して

若尾幾久子・橋本富士子

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第87回(2月21日)土曜講座では、上記映画を上映し、監督の熊谷博子さんにもお話をうかがいました。

昔の人ならば「山の手の暮らし」と「下町の暮らし」はよくわかっている筈ですが、「すべて人間は平等である」という感覚で育った人には、「下町の暮らし」が新鮮で感動を覚えるのでしょう。昔は中流の「山の手の暮らし」といえば、お手伝いさんがいて家事や子守をしたし、「下町の暮らし」では、お弁当を持って行かれない子供もいたのです。昔は給食がなかったので貧富の差があり、貧しい家の子はおかずを人に見られないようにお弁当のふたをたてて隠して食べていたのです。
「下町の暮らし」は皆が助け合っていいと思われますが、反面嫌な所もあります。プライバシーのなさ、例えば朝から夜中まで隣のラジオが鳴っていてうるさいとか、近所の子が勝手に家へ入って来る等……。皆で子供を育て老人をみるという事は心温まる事だけれど、人をあてにして、人に甘えて生活するのはどうかと思います。「皆貧しく平等だ」という社会は日本的で安心できるけれど、個性を育てるのには向いてないと思います。「下町の暮らし」で心配なのは、地震など災害が起きた時です。古い家屋はつぶれ、沢山の死者が出るでしょう。
この映画の録音のよさには驚きました。言葉がかすれないで全部聞き取れる事です。生の言葉も聞けて面白かったです。例えば「手がかりにして」というところ「足がかりにして」とある人が言っていました。「足がかりにして」進みましょう。自然な言葉です。 【若尾 幾久子】

今回の土曜講座は、映画も観れて監督のお話も聞けるという貴重なものでした。
作者の熊谷博子さんがアジアの麻薬地帯や戦渦のアフガニスタンを駆け回った豪腕のジャーナリストときいて意外でした。何故カメラをかついで下町を? その答えに、35歳で結婚、40歳で出産という女性としての姿があったというお話も興味深いことでした。

心に残ったのは、映画に登場した向島の人々の生き生きとした姿です。古くからの路地裏は、子供や高齢者が安心して過ごせる空間となっています。慣れ親しんだ向島の暮らしをさらによくしたいと願う人々が、行政と組んで新しいアイディアでまちづくりを起こしています。
この向島の取り組みは、住みやすい街であるためには人々の交流の深まりが大切であることを教えてくれます。
下町的雰囲気のある場所など年々少なくなる東京です。私も都市生活に慣れ、他人との距離をとった生活が普通で、どうせ長く住む土地じゃないからと「わが町」意識など持ったこともありません。私にとって東京の暮らしは旅人気分でしかないのかもしれません(実際、引越しが多い)。でも、私自身はとりあえずこれでよいけれど、ずっとここに住んでいる近隣の人々にとって、私のようなヨソ者はどのように思われているのだろうか、と気になりました(農村社会だったら、地域に根差そうとしない目障りな存在のはずです)。
育児ノイローゼを経験した熊谷さん自身は、向島の人々のふれあいのある暮らしに出会い「ほっとした」気持ちになられたそうです。そして、「街は自分たちの手で変えられる」と教えられ、自らも自宅のある杉並区で公園作りに取り組んでおられるとか。近所付き合いを含め、小さなことから始めてみることで、周囲から孤立しがちな生活も変えていけるような気がしました。
改めて近隣の様子をみてみると、近所付き合いも町内会の活動もそこそこに行われているようで、その中に積極的に入っていこうとは思いませんが、挨拶をかわしたり資源回収に協力したりという程度のことはやろうと思います。都市生活だから隣近所の出来事に目を向けなくてよいと考えるのは、身勝手なことで地元住民に対して失礼な態度ではないかと思い始めたからです。(それに散歩をよくするようになって、街に愛着が湧いてきました。なかなか静かで美しい街なのです。)

話は違いますが、記録映画の製作って、根気とお金のかかる作業なのだということに、少なからず驚きました。撮影までのアプローチ、資金集め、撮る側撮られる側のコミュニケーション、最終的に1本のフィルムになるまでの労苦……。観る側の自分も真剣でありたいという気持ちにさせられたお話でした。 【橋本冨士子】

 

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