書評 『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』

投稿者: | 2007年9月6日

写図表あり
csij-journal008-009 wada.pdf
書評
レイ・カーツワイル著
『ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき』
THE SINGULARITY IS NEAR;WHEN HUMANS TRANSCEND BIOLOGY
(翻訳:井上 健, 小野木 明恵, 野中香方子, 福田 実、 日本放送出版協会 2007年1月)
評者:和田雄志
(財団法人 未来工学研究所 主席研究員)
発明家の壮大な夢想?
「五歳のとき、発明家になると心に決めた。」
邦訳で全文660ページの大著「ポスト・ヒューマン誕生」(NHK出版)の冒頭の文章である。著者のレイ・カーツワイルは、1947年、ニューヨーク生まれの発明家、思想家、未来学者である。両親は、ヨーロッパのホロコーストから逃れてきた芸術家。
「現代のエジソン」と称賛される著者は、OCR(光学式文字読み取り)ソフト、CCDスキャナー、世界初の文章音声読み上げマシン、K250というシンセサイザーなどの開発やAI研究など、豊富な発明・開発の実績をもっている。
著者の主張は「特異点」(singularity)という言葉に要約されている。宇宙のビッグバンから始まる生物およびテクノロジーの進化の歴史において、今から数十年後、21世紀の中葉において「特異点」が始まる。すなわち、「人間の脳に蓄積された大量の知識と、人間が作り出したテクノロジーがもついっそう優れた能力と、その進化速度、知識を共有する力とが融合して、そこに到達する」。すなわち「人間のテクノロジーと人間の知性が融合する」というビジョンである。これを可能にする技術が、彼がGNRと呼ぶ「遺伝学(G)」「ナノテクノロジー(N)」「ロボット工学(R)」の3つの技術革命である。3番目のロボット工学は、AI(人工知能)としての要素が強い。
人体改造
カーツワイルは、「特異点」到達後の人間と機械の世界について以下のように述べている。
「バージョン1.0虚弱な人体は、はるかに丈夫で有能なバージョン2.0へと変化するだろう。何十億ものナノボットが血流にのって体内や脳内をかけめぐるようになる。体内で、それらは病原体を破壊し、DNAエラーを修復し、毒素を排除し、他にも健康増進につながる多くの仕事をやってのける。(中略)脳内では、広範囲に分散したナノボットが生体ニューロンと互いに作用し合うだろう。」さらに、バージョン3.0では、人体組織そのものを自由に変容できるという、ほとんど魔法の世界での「変身」にまで言及している。
 このような話が、内外の最先端の研究成果を紹介しながら展開されていく。ここで興味深いのは、彼が自分自身の身体改造プログラムについて語っているくだりである(256-257ページ)。かつて、Ⅱ型糖尿病と診断された著書は、独自のプログラムで糖尿病を克服したという。56歳の生物学的年齢は40歳と測定された。毎日サプリメントを250粒摂取し、毎週6回、栄養補給剤の静脈内投与を受けているという。
 彼のこのような生き方に対しては、典型的なアメリカ人としての印象を受ける。たしかにサプリメントで長生きはできるかもしれないが、毎日錠剤を大量に服用する生活において、一体、何が楽しみなのか。あるいは人間の生きがい、といった根本的なところで、なにか不自然な部分を感じてしまうのは、私だけだろうか?
「神」はいずこに?
人体とテクノロジーの未来を描いた類書に、ラメズ・ナムの『超人類へ!』がある(これは市民科学第6号の書評で取り上げられた)。バイオとサイボーグ技術が切り開く人類の未来、といった点で、両著には相似点も多い。技術革新に対する基本的なスタンスもほぼ同じといってよい。
 ナムの描いた世界は比較的近未来に属する記述が主体であるが、カーツワイルの時間的スケールは、ビッグバンにはじまる宇宙誕生から、はるか遠い未来、人間の脳とテクノロジーが宇宙的スケールに拡大したときに、宇宙意識が生まれる、といったところにまで話が飛躍する。第2章「テクノロジー進化の理論」において、彼は、これまでのITやエレクトロニクスの飛躍的な発展過程を様々のデータやグラフで示しながら、絶えまない技術の進化を予測している。その究極において、宇宙が覚醒するというのである。
カーツワイルは、ユニテリアン派教会という三位一体を否定(神は唯一絶対であり、キリストは神ではない)する信仰グループに所属する。彼は、「(人間の)進化は神のような極致に達することはできないとしても、神の概念に向かって厳然と進んでいるのだ」と明言する。これを可能にするのが人間の脳とテクノロジーが生み出す知能であるという。
ここで、フランス人のカトリック思想家・古生物学者であるテイヤール・ド・シャルダン(1881-1955)が想起される。彼は、独自の進化論において、人間の進化は、叡智の究極点としての「オメガ点」に向かい、そこで至高の存在である神と出会うとした。 
 一方向にむかって直線的に進化するという意味では、両者とも、きわめて一神教的な世界観に根ざしている。もちろん、人体を改造することは神の摂理に反するといった見方も、キリスト教のもう一方の極にあることも確かである。
歯止めは可能か?
本書は、手放しの技術礼讃に終始しているわけではない。たとえば、第8章「GNRの密接にもつれあった期待と危険」では、フォアサイト研究所によるナノテクノロジーの倫理ガイドラインが紹介されている。すなわち、①人工的な複製機械は、自然の無制御の環境下で複製能力を持ってはならない、②自己複製型製造システムを前提とした進化は阻止する、③自然環境には存在しない原材料・部品がなければ複製できないものに限定すべきである、等々である。
これらのガイドラインは、悪意ある開発者には無効であることは著者も認めている。しかし、いろんな問題はあるがどんな技術も「両刃の剣」である、といった言葉で簡単にかたづけてほしくない。
 
 日本で心臓ペースメーカを埋め込んでいる人は30万人。白内障治療のため人工的な眼内レンズは年間100万枚以上が出荷されている。脳深部を刺激してのアルツハイマーの治療(DBS)も国内で多くの臨床例を残している。義足のランナーが、普通の陸上選手と競って好記録を残す時代である。やがては、ハンディを負った人がテクノロジーを駆使することにより、「普通の人」を凌駕して一気に「スーパーマン」に変身する可能性も否定できない。そんなとき、普通の人は、「逆格差」に悩むのかもしれない。
人間と機械の作り出す新しい世界は、もはや未来の夢物語ではない。未来は一方的に「やってくる」ものとは限らない。ひとえに我々自身の選択にかかっている。■

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA