『エンデの遺言』は壮大な地球救出作戦か!
古田ゆかり
●利子のどこがいけないっていうの?
「宝くじが当たったら、利息で食べていけるよ」
低金利時代になってからずいぶん時間がたっているので、さすがにこんなことを言う人には出会わなくなった。だいたい3億円あっても、これを元金にして利子だけで暮らそうと思ったら、これはけっこう貧しい暮らしだ。
1等・前後賞あわせて3億円の宝くじが出たときには「1億使ってもまだ2億」という文句が心をつかんだ。多額の消費といったら家か車くらいしか思いつかない庶民の感覚では、どうせ3億円なんて使い切れないんだから、とりあえず1億円はパーッと使って当選気分を味わい、残りの2億円をきりくずしながら、つましくふつうに、あんまり苦労せずに、たまには旅行なんか行きながら暮らせるね、という夢が手に入るかもしれないと気持ちを踊らせたのだった。「いまどき利息なんてあてにできない」というみんなの心を代弁したのが、「1億使ってもまだ2億」だった。
そうはいってもこんなことになったのはつい最近のことで、長い間、宝くじ当選の本当のプレゼントは、やぱり「夢の利息暮らし」が当たる、というものだったように思う。大量の元金があれば、働かなくても生きていける。元金はなくならず利息だけを消費していく暮らし。「お金がたくさんある」と言ったら、つぎには「利子で食べていける」と定型句のように大人たちが言うのを、子どものころから何度となく耳にしたし、つまり、お金があるっていうのはそういうことなんだ、と漠然と思っていた。もちろん、利子の存在そのものを疑うなんていう発想はどこにもなかった。
単純に、お金を貸したら、お礼しなくちゃという感覚。それでまあ、「貸したら利子が当然だろう」と。銀行には預けるという名前で私たちはお金を貸し、銀行に集まった大量のお金を借りたい人が銀行にお礼をつけて返済し、銀行はお礼を分配して私たちに返してくれる。これが単純な利子のしくみで、低金利・ゼロ金利なんてふざけるんじゃない、借りたのに利子もつけんと、何考えてんだ銀行は! というの正直なところだと思う。それは、たとえば、人から服を借りたら、返すときにはちょっとした品物を添えて返すといったようなこととかわらない、というのが私の利子にたいする意識で、経済をちゃんと勉強したことはないけれど、足りない知識ながらもあながちまちがってはいないんじゃないの? といった感じだ。
ただ、利子が世界中をめぐりめぐってどんなことをおこしているか、なんて真剣に考えたこともなかったが。
●利子の雪だるまが転がってくる
『エンデの遺言 根源からお金を問う』(河邑厚徳ほか著、NHK出版2000)では、「お金を借りた人は当然のように利子を払います。だれもこれを疑いません。しかしほんとうにそれが当たり前なのでしょうか」と問いかけてくる。この文脈だと、「当然でしょう」とは簡単に答えられないような圧力があって、ちょっと息苦しい。
私たちはふつう、借金をしていなければ利子を払う必要はない、と思っている。だって利子とはそういうものでしょう。借りた私と、貸した相手との関係でおさまっていればそれもまちがってはいない。ところが、ドイツの建築家、マルグリット・ケネディは、「私たちは借金があろうとなかろうと、この経済システムの中で生活している限り、つねに利子を支払わざるをえないようなしくみになっている」のだという。
「えっ、そんなあ」とは思うが、思い当たるフシがないわけでもない。旧国鉄の債務支払い。運賃にも入っているだろうが当然それでは支払いきれない金額をだれが負担するかというあきれるような議論。毎年大量に発行される国債。地域振興券だって、結局は子どもたちがそれを払っていくんだから、2万円なんてもらっても結局は迷惑な政策……。思い当たるのはこんなあたりだろうか。いや、それではまだまだ足りない。ケネディは、「たいていの人は借金しなければ、利子を支払う必要はないと思っているが、私たちの支払うすべての物価に利子分が含まれている。商品やサービスの提供者は、機械や建物を調達するために銀行に支払いをしなければならないわけで、銀行への支払い部分が物価にふくまれている」という。なるほど、当然である。さらに、こんなこともいう。「今のドイツでは、一戸あたり1万8000~2万5000マルクの利子を支払っていて、年収が5万6000マルクあるとすると、その30%もの金額を利子の負担にあてていることになる」。30%! マルクだと自分の生活感覚に直接落とし込めないけれど、30%はすごい。
「うちはどのくらい利子を払っているんだろう」と思わないではいられない。30%という数字がそのまま使えるかどうかはわからないけど、もしそうなら、確実に何百万円かは手元に残るわけで、にわかに信じがたいが、もしかしたら本当かもしれない。そして、ケネディは、「もし利子をやめて別の有効な流通メカニズムを採用することができたら、その流通促進のために新たな負担が生じたとしても、たいていの人たちは、所得が2倍になります。あるいは、現在の生活水準を維持するのにもっと少なく働けばよくなります」とまで言いきるのである。
利子を当然とする今の経済のシステムは、「持っている人はお金をガンガン集め」持っていない人は「利子を払うためにどんどん貧しくなる」かっこうだ。先進国は第3世界から毎日2億ドルの利子をもらっている計算になるという。その経済システムが、第3世界のよってたつ財産ともいえる自然と環境を破壊し、貧富の差を押し広げているのだとも。
この言葉は強烈だった。これで、「利子当たり前」という気持ちをとつぜん翻らせて「利子は悪者だ!」と叫ばせるほどの力強さがある。第3世界から2億ドル! しかも毎日。これはたまらない。利子がなくなれば、30%が自分の手元に残るどころか収入が2倍。夢の利子暮らしならぬ、「夢の無利子暮らし」ではないか! そう、そんなにお金があったら銀行に預けて利子を稼ごう! ああ、私っていったい……。
●「貸して」「返してくれるの?」
こんな利子のシステムがめぐりめぐって、時間がたっていったら、どういうことになってしまうのかということにも、思いをめぐらせる必要がありそうだ。ケネディの言葉にも「今の金融システムは、これまでのあらゆる戦争よりも、あらゆる環境の困窮よりも、あらゆる自然の災害よりも、多くの死と貧困を生みだしています。(中略)私の希望は、若い人たちがいかにこのシステムが自分たちの将来を壊しているかを大人以上に理解することです」。ミヒャエル・エンデもまさしく、このことを言いたかったのだ。
この『エンデの遺言』の中で、エンデは、「お金には異なる2つの役割があり、それが問題を引き起こしている」という。
子どものころのこんな会話を思い出す。「色えんぴつ貸して」「返してくれるの?」「じゃあちょっともらう」。
色えんぴつの大部分は返すけど、使った分は返せない。消費した部分は「もらう」のである。つまり借りるとは、そういうことなのだ。ちょっと貸してもらって、消費し、消費しきれなかった分を戻す。これが「借りる」の本質であるとすると、お金を借りるというのは、借りたお金とその同じ金額を返すか、それよりも少ない金額を返す、というのが借りるということになる。借りたお金よりもたくさんのお金を戻すということは、「元金」という商品を「利子」という金額で買っている、と言うことができる。
エンデがお金に2つの機能があるといったのは、「ものやサービスの対価としてのお金」と「お金それ自体が商品となっているお金」である。パンを買ったらお金を払う、これが一つ目のお金。そして株式投資や先物取引、利子などお金がお金を生むのがつぎのお金。 エンデは、お金の機能は、「実際になされた仕事やものと対応する価値として位置づけるべき」だと語る。それが、そのためには現在の貨幣システムの何が問題で、何を変えなければならないかを皆が真剣に考えるべきであり、これこそが、「人類がこの惑星で今後も生存できるかどうかの決める決定的な問だ」とも。
「生存」。
「お金貸して」「利子10円ね」。子どものころ、小銭のやりとりでこんな他愛のない会話をした。実際に10円なんてもらわなかったけど、そんなふうにして当たり前と思っていた利子が、商品としてのお金を意味して、その商品としてのお金が、自然や環境を破壊し、生存まで危うくするシステムだとは。ぜんぜん「他愛なくない」。
「生存」。そこまで言うか。しかし、ケネディの理論を広げて考えると、それは乱暴に「考えすぎ」とかたづけられないほど、リアルに迫ってくる。
●こども銀行のお金
そんな「お金の暴力」から生命や財産や、地域コミュニティを守るこころみがある。地域通貨、交換リング、エコマネーなどと呼ばれるお金である。
地域の中だけなど限定した枠の中で、流通するお金だ。話だけ聞くと笑っちゃうような話で、わかりやすいたとえとして、よく使われるのが「こども銀行のお金」。おおむね労働やサービスの対価としてのみ機能し、本物じゃないけど、ほんものっぽく「支払い」のできる、「通貨」である。
1994年の春だったと思う。私事だが、私がはじめて「土曜講座というところ」に行った日だった。その日は講座ではなく、運営の全体会議をするというので、もし興味があるならその日に来てみたら、と主宰者の上田氏から誘われたのだった。あまり事情も飲み込めないまま出席し、
議案が消化されて行くのを傍観していたわたしは、一瞬、「え、なにここ、気持ち悪いぞ」と感じたのだった。
それは、「エコマネー」の提案だった。土曜講座の中での労働の対価として現金ではなく、土曜講座が発行する「エコマネー」で支払いをしようと思う、という上田氏からの提案で、ここでもやはり「こども銀行みたいなもの」と説明された。
はじめて参加した集団の会議でこのような提案を目の当たりにすると、「いったいどんな人たちなんだ」「このままどんどん集団にからめ取られていくのではなかろうか」という恐怖感さえ感じた。「エコもマネーも気持ち悪い」と言うと、私を土曜講座に紹介してくれたIさんがこう発言した。「エコもマネーも共同体を形成しようとすることでしょう。限られた人たちの人間関係を作りがちですよね」。言葉ははっきり覚えていないが、こんなないようだったと思う。
そのころ、地域の共同体とも会社という組織とも離れよう離れようとしていた私は、興味のあるテーマと共同体に身をおくことは別、とはっきり一線を画しておきたかったのだ。その会議では、その「お金」の単位が「円」ではなく「どよう」と決まった。いったい何に使うんだ、と思いつつ、昨年末のどよう市ではY2Kをみこしてガスボンベを売って儲けたりもした。
このような、地域通貨、交換リング、エコマネーなどと呼ばれる通貨が、今世界には2000近くもあるという。これが地域経済の安定をうながすことも助けているというのである。
私たちが当たり前のように使っている「お金」と「エコマネー」。生命や人類や地球の未来を脅かすのが「お金の常識」なのだとしたら、新たな「お金」の可能性は、どんなものになるのか。共同体・エコ・地域・お金・労働・対価・利子・地球・人類・環境・生命。アメリカの「イサカアワー」という通貨などの事例などもふまえながら、連続講座第2回(4/22)の「エコマネーの可能性について」(金岡良太郎さん)をぜひ聞きいてみたいと思う。
いま、私の財布の中には、50どよう入っている。さて、まずはこれをどんなふうに使おうか。思案中である。