「日本の戦後民主主義とアメリカ」に参加して アジアの人々と信頼関係を築くために

投稿者: | 2002年4月18日

第19回 湘南科学史懇話会&第137回土曜講座
「日本の戦後民主主義とアメリカ」に参加して
アジアの人々と信頼関係を築くために
西野全哉
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第二次世界大戦が終了するまでは,日本人のほぼ全てが戦って死ぬことを覚悟し,敗戦が知らされると涙を流し,天皇陛下に対し申し訳無いと思った.そして,「一億総懺悔」をした.あまりにも無知だと思われるかもしれないが,これが、私がなんとなく抱く戦中と戦後のイメージである。日本人全員がこのように考えていたのは異常なことだと思っていた.しかし,極度の思想統制によって日本がカルト的な宗教団体のようになっていたのだから仕方がなかったのだと勝手に理解していた.日本の歴史教育が悪いのか,まじめに聞いていなかった自分が悪いのかは分からないが,実際に私が持っていた知識はその程度であった.ちなみに,私の大学の友達にはこの程度しか知識を持っていない人が多いのではないかと思う.
そのような状態だったから,当然,2月の土曜講座「日本の戦後民主主義とアメリカ」に気軽な気持ちで参加した時には,知識もなく本も読んでいない自分が場違いなところに来てしまったことを感じた.正直なところ,最初は少し後悔した.それでも,分からないなりに話しを聞かせていただいていると,「現実は今までの自分の認識とかなり違うらしい」という印象を受けた.言われてみれば当たり前なことではあったが,敗戦の受け止め方は人それぞれであったらしいということだった.そして,この本はぜひ読んでみなければと感じた.
読んでみてまず驚いたのは,歴史関連の本を読むと長続きしない自分が引き込まれるように読み進められたことである.上下巻合わせて800ページほどあるのに読みやすいため「気合を入れて読む」必要はなかった.読み進めていくうちに,自分の頭の中で,自衛隊と憲法の整合性・官僚機構など現在の日本が抱える問題と戦後の政策がつながっていくのは非常に興味深かった.そして,中学生くらいのころに疑問であった「なんで,天皇は戦争の責任を取らなかったの?」ということに対しては,その決定が日米の周到な協同作業の結果であったことに驚いた.
憲法については改憲の必要性を口にする人がいるが,そういう人達が持ち出す理由に「押し付けられた憲法だから」がある.「押し付けられた」という点では,決して間違っていないと思う.しかし,それだからといって直ちに改憲すればよいというものではないと思う.国際状況が当時とは変わっていることは分
かるが,改憲を議論する前に日本は今後どのように安全保障を実現していきアジアの人々と信頼関係を築いていくのかを考えなければいけないだろう.
そんなことを考えた時に,アジアの国々との外交の場面でよく聞かれる「未来志向の両国関係を築く」という言葉に対しては胡散臭さを感じずにはいられない.終戦から半世紀以上が経過したにも関わらず,アジアの国々において年配の方だけではなく若者にも反日本感情を持っている人がいる.私の親友である韓国人も「日本人である」私のことは好きであるが,「日本」という国は好きではないということだった.しっかりと過去を反省しないために被害者の間では憎しみが受け継がれているようだ.このようなことが起こってしまうのは,敗戦とともに日本人はアジアとそこでしてきたことを忘れてしまったからではないかと思う.これまで,日本が戦争中の加害について反省を示せていないのには様々な理由があると思う.戦争の当事者となった世代同士では感情的になったり,補償問題などもあったりして問題が複雑になってしまうことも影響しているのかもしれない.しかし,戦争を体験してこなかった世代なら,お互いの立場を越えて理解し合うことが少しは容易になると思う.もちろん,そのためには歴史を理解する必要があると思うが,自分を含め若い世代は歴史を知らなすぎると反省させられた.
今後,アジアや世界の国々の人と信頼を築くには,まず過去についてしっかりと知ることが必要だと感じた.そんな時に,侵略の歴史を学ぶことが「自虐的」という批判は的外れだ.また,侵略の歴史を教科書で教えることによって「自分の国に誇りを持てなくなる」などという意見を聞いたことがあるが,これも見当違いだろう.過去をしっかり認識し,その上で,本当の意味で未来志向の関係をつくっていくことができれば,私達も自分の国を誇りに思えるのではないだろうかと考えている.最後に,W杯をきっかけにして盛り上がっている日韓の若い世代同士の交流が一時的な浅いものではなく,歴史を認識した上で両国の絆をつくっていけるようなものになればと思う.■
女性に焦点をあててみると
山中幸枝
2月の討論会出席のため大至急ざっとダワーの「敗北を抱きしめて」を読んだ。幼い頃終戦を迎えた私としては戦後の生活・文化の話等なつかしく思い出すと同時に、これまで知らなかった細部にわたる戦後の政治・社会についての膨大な歴史的事実に圧倒された。非常に読みやすく優れた翻訳に感心しながら、面白くて夢中になって読んだ。それ以来戦後の話をよく読むようになった。毎日のように新聞などに戦後からの憲法などの問題、戦争の経験談などが載っているが、この本を読んでいるのといないのでは大違いだなと思う。この本では、特に女性に関する内容に注目して読んだ。
「日本の新憲法作成にあたり、一般の人々の教育のため占領当局は「以前と今」なる絵入りポスターを作った」とある(下巻P141の絵)。以前は、「夫は財産を所有、妻を支配、自分だけが公の事柄に携わる」。今は、「結構しても女も男も何事も相談して決め、同等に公の事柄に携わる」などとある。これは、草案作成チームに外国の有能な若い女性がいたので男性の被支配者である日本の女性の人権改善につくしてくれたのである。日本で育ったことがあり、「日本人女性が法律上も結婚生活においても抑圧されていることを知っていたので、日本女性に対し並々ならぬ共感を持っていた」とある。
また「サザエさん」は「独創的で面白い漫画ー戦後のコマ割り漫画の中でもっとも優れている。元気一杯の魅力的で機知に富んだ女性の視点から描かれた」と書かれている。なつかしい昔の生活が描かれているので時々読んでいたが、戦後の話が沢山出てくるのでよく読み返してみた。確かワカメが「将来お嫁さんになりたい」と答えたら「そんな考えだから女の地位が低くなるんだ!」と怒る所があったはず。サザエさんは男女同権討論大会等を描いたり、進んだ考えを持っていたようだ。多分その頃の「進駐軍」アメリカの影響で。またサザエさんの勤め始めた会社の「給仕」は若い男の子だ(お茶くみ、使い走りなどする欧米のmessenger boyのよう)。欧米では女性はその能力を生かし日本のようにお茶くみ、雑用などをさせず経理などの専門の仕事をさせると聞いたことがある。今の職場はこれまた50年前より進歩しているだろうか。もっとこのような憲法の精神も大きく取り上げてほしいものだ。■
苦いケーキ
月本房子
5月15日で、沖縄が本土に復帰されてから30年も経ちました。沖縄を訪れた誰もが思うことは、ここも同じ日本なのかと。沖縄には、日本全体の約75%もの米軍施設区域があり、これは沖縄県の面積の約11%ということなのに、私には50%位に思えました。この30年でどのくらい基地が減ったのでしょうか。戦争の犠牲になった人々の子ども、孫、曾孫の代になっても何も変わらないのでしょうか。
私は敗戦の数年後に生まれました。幼い頃、我が家のアルバムの一番はじめに二重橋と天皇一家の写真が貼ってありました。平成天皇が学生服を着ていて、昭和天皇の兄弟がずらりと並んでいる写真で、マスコミ関係からいただいたものと思われます。父はその写真をとても自慢にしていました。それが生まれてはじめて私が見た天皇陛下の写真でした。
私の学生時代は、都心の多くの大学が地方に移転し始めた頃でした。私は埼玉県の入間市にある学校に通っている時、先生の引率で航空祭で有名な入間基地を訪れたことがありました。親睦会のようなものでしたが、色々な年齢層の基地の方々と慣れない英語で話し合いました。私は若かったせいもあり「この狭い日本に、こんなに広い場所を占拠して住んでいることについてどう思いますか」と尋ねました。アメリカ人の中年の方は、「アメリカのおかげで戦争を終わらせることができたのですよ」「アメリカのおかげで安心して暮らしていられるのですよ」と言った言葉に二の句が告げなかった。もちろん、原爆の加害者としての罪の意識など、まるでありませんでした。悲しいことに私には、反論する英語力などとてもありませんでした。心の中の憤りは30年以上経った今でも忘れることができません。それと、私にとってケーキがまだ特別なご馳走だったあの頃、「普段、私達はこのようなケーキはいただきませんが、今日は特別に皆様のために作りました」といってご馳走してくださいました。それは、スポンジケーキに、バタークリームのかかったケーキでした。私は、「わあ、ケーキ」と心の中で小躍りして、先ほどの悔しさも忘れていただきました。ものすごくおいしくありませんでした。今でも、どうしたら、どういう材料を使ったら、あのようにまずく作れるのかといぶかしく思うほどの味でした。あの味があの当時基地に住んでいる方が日本人にいだいている感情の味なのかと自分で納得した苦いケーキでした。あの頃ちょうど封切りした「卒業」という映画についてのお話の時だけ、唯一盛り上がりました。
最後になりましたが、別の角度から日本の戦後について書いたこの本で、私なりの疑問が解けて歴史の隙間がふさがった思いがしました。一番驚いたのは、「どよう便り」46号にもありましたが、日本人がマッカーサー元師に送った膨大な手紙や贈り物があったということでした。■

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