ナノテク未来地図の作成作業から(後編)

投稿者: | 2007年12月5日

写図表あり
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ナノテク未来地図の作成作業から(後編)
吉澤 剛
(ナノテクリスク勉強会メンバー)
ナノテクノロジーという言葉を耳にするようになって久しいが、やっぱりよく分からないものだというのが正直な感想ではないだろうか。化粧品や携帯音楽プレーヤーにその名前が使われていて、非常に小さいサイズの粒子のことを意味していたり、微細加工技術のことを意味しているらしい、という理解で満足してしまうかもしれない。そもそも専門家自身も「ナノテク」というものをきちんと定義したり、幅広く理解できているわけではなく、ナノテクとナノテクでない従来技術との境界は限りなく曖昧である。その一方で、ナノテクには社会を変革するような未知の可能性あるいは脅威を秘めており、一般市民もその発展を注意深く見守る必要がある。見守るばかりでなく、ナノテクについてある程度の意識と理解を持ち、今後ナノテクはどのようにあるべきかについて考え、議論することも重要になってくる。
 前回(「市民科学」第8・9合併号)はナノテク専門家の横顔を紹介することで、ナノテクに携わる人はどのような人がいてどのような意識を持っているのかを見た。今回の後編では、そのような専門家を分類し、専門家それぞれの異なる意見を反映するようにナノテクの未来をどう描いていくか、そこに一般市民がどのように関わっていけるか、を探る。
●未来を描くこと
ナノテクの関わる未来を描く試みは、これまで技術予測、ビジョン、シナリオと呼ばれるようなさまざまな形でおこなわれてきた。日本では政府機関や民間のシンクタンクなどがそれを先導している。しかし、こうして描かれた未来は、まず単一的な予測が多い。未来は不確実であり、あらゆる要素が複雑に絡み合って技術や社会が発展していく。それらを考慮していくつか考えられる複数形の未来を想定することは少ない。また、政府や産業界が描くシナリオはどうしても楽観的な予測に偏りがちである。「未来はこうなる」という予測をしているはずが、予測している専門家の規範的意識や期待・願望を反映して「未来はこうあるべき」であるとか「未来はこうあってほしい」という予測にすり替わってしまう。未来を描くといっても、技術の将来が主であり、社会や経済、文化の変化を十分に考慮したものであるとはいいがたい。たとえばナノテクの未来予測をするのであれば、当然のように描かれる未来社会にはナノテクが応用された技術や製品が随所に現れており、ナノテクが期待よりも発展しなかった場合や、社会に受容されなかった場合を考えることはしていない。一般市民の感覚からすると「体内お掃除ロボット」や「情報端末メガネ」といった技術が普及するような未来は、必要性や倫理面、思わぬ負の影響への懸念から実現が疑わしいものもかなり含まれている。というのもこうした未来予測は専門家中心による分析になっており、その未来で生活を営む市民の意見が十分に反映されていないからである。
●市民が参加すること
とはいえ、ナノテクと社会に関する議論に市民がまったく関わっていないわけではない。産業技術総合研究所ではナノテクに関する意識調査や市民に対するグループインタビューをおこなっており、まだ技術が十分に発展していない早い段階から市民を参加させようとする試みはすでに始まっている。遺伝子組換え食品が一般市民に受け入れられなかった反省をふまえ、ナノテクに関しては政府も事前警戒的になり、早めの対応を意識している。しかし日本で今でも広く使われている「社会受容」という言葉には、技術を社会すなわち一般市民にどのように受容させるかという問題意識しかない。すなわち一般市民が主体となって技術のあり方を議論したり、技術の方向性を変えていくことは前提とされていないのである。さまざまな形で政府が市民参加を促していたとしても、それは「技術に対する社会受容が十分でないのは、市民参加が不足しているからである」という論理にもとづくものかもしれない。
 政策形成者がこうした論理に陥らないようにするためには、私たち市民が注意するばかりでなく、技術を発信する側の科学者や技術者などの専門家の意識も大事である。ここで市民にとっては分かりやすい専門的知識が、専門家にとっては社会の中における自分たちの知識の位置づけが必要であり、お互いの対話を通してそれらを獲得していくことが望ましい。市民や専門家の側にそうした場をきちんと設けられる経験や知識、時間も限られているので、両者の橋渡し役が欠かせない。残念ながら、現在の日本ではその役割を果たす人材があまりにも少ない。市民科学研究室も尽力しているものの、大学や産業界、消費者団体、地方自治体、マスメディアなどを見回してもあらゆる組織において体制が十分とは言えない。今の段階では、専門家自身が社会に対する高い意識と理解を持ち、自らの技術を一般市民に分かりやすく伝えることにも相当の役割と責任を持つべきである。
●ナノテクの専門家って誰?
ここで問題は、ナノテクの専門家というのは誰かということである。物理学者や化学者かもしれないし、工学者あるいは医学者かもしれない。これはナノテクという言葉の性質にある。ナノテクは学際的な分野であり、ナノテクの応用範囲も非常に広いため、専門家の間でも定義が分かれている。加えて、ナノテクは文字通り非常に小さいスケールの技術であるため、長持ちする電池や割れにくいガラスなど、ナノテクの応用が見えにくいということもある。また、従来からある技術でもナノサイズの粒子を扱っている(たとえば化粧品成分を乳化する)場合や、あるいは従来からある微細技術が発展していった結果としてナノサイズになる(たとえば半導体の加工技術によりコンピュータが小型化・高性能化する)場合に、それをはたしてナノテクと呼んでいいのかという議論もある。
 ナノテクがいろいろな学問の知識を動員し、いろいろな形で応用されているため、いろいろなナノテクの専門家が存在する。科学と社会の橋渡し役が不足しているためナノテクの専門家が見えにくいばかりでなく、ナノテクの応用範囲が広いためナノテクそのものが見えにくくなっている。それが、ナノテクを「よく分からないもの」にしている理由である。
●未来地図で目指す道
したがって、ナノテク未来地図を作成する目的は二つある。第一に、いろいろな分野の専門家との対話を重ね、その意見をなるべく反映する形で、私たち生活者の視点から見た未来像を分かりやすく描くこと。第二に、これは第一の目的と同じぐらい重要視していることであるが、複数形の未来を描くため、専門家のナノテクや社会に対するいろいろな見方を引き出すこと。未来地図を作成するにあたり専門家に対するインタビューをおこなうときに、さまざまな議題による対話を通じてこれをおこなう。
●専門家には3つのタイプがある
ここで前回の続きに戻り、第二の目的をまず達成したいと思う。前回の最後にも予告しておいたが、10名への専門家へのインタビューにより専門家の見方・考え方には大まかに3つのタイプがあることがわかった。それをここでは《道具的》、《実質的》、《革新的》見解と呼ぶことにする。次の表はそれぞれの見解と、その見解を持つ専門家の主な専門分野を示している。
専門 見解
《道具的》 化学系 ナノテクには本質的な新しさはないが、社会とのコミュニケーションとして有用
《実質的》 物性系・医療系 ナノ粒子は機能面でもリスク面でも新しい特性を持つ可能性があるため、ナノテクは本質的に新しい
《革新的》 社会科学系 ナノテクは科学や社会の次のパラダイムの原動力になる
まず、《道具的》見解を見てみよう。この見解に近い専門家の意見を総合すれば、次のようにまとめられる。
・ ナノテクとは何か
ナノテクの定義は曖昧であり、特に意識することはない。ただし、社会とのコミュニケーションのためにこの用語でくくることは大事である。
・ リスク評価や研究開発の体制
業績面や意欲面から研究者がリスク研究を進んで引き受けることはあまりないので、公的機関や第三者機関がリスク評価体制を整えることが望ましい。ただし、リスク情報の開示によって周囲の人々の不安をかき立てたり、研究者自身が不利になったりしないようにマスメディアを含めた社会構造やコンセプトをきちんと作るべきである。
・ 社会とのコミュニケーション
専門家は科学に対する正しい情報をネガティブイメージを増幅させないようなあり方で伝える一方で、市民はボトムアップ的に専門家との、あるいは市民同士のコミュニケーションをおこない意思決定に参加することが望ましい。
《実質的》見解は次のようにまとめられる。
・ ナノテクとは何か
ナノテクは共通基盤技術として幅広い応用がなされている。とりわけカーボンナノチューブやフラーレンはポリマーやベンゼンに代わるような新しい基本分子として位置づけられるであろう。また、ナノ粒子は、生体への影響を考えると毒性評価という点で従来の化学物質と異なる面がある。
・ リスク評価や研究開発の体制
リスク評価は幅広い知見を持った専門家が責任を持っておこない、社会的なインパクトについては政策研究者や社会工学者などがリスクマネジメントをおこなうべきである。また、政府はそうした活動に十分助成するような制度を確立すべきである。
・ 社会とのコミュニケーション
専門家が科学技術について社会に説明するためのリテラシーを身につけるとともに、市民にも一定の意識と知識が求められる。お互いの情報を上手くやり取りできるような媒介者や媒体の存在が必要である。
《革新的》見解は次のようにまとめられる。
・ ナノテクとは何か
ナノテクは省エネルギー・省資源を実現する技術であり、生命科学と結びついて新しいパラダイムを創出する可能性があるところにその本質がある。
・ リスク評価や研究開発の体制
ナノ粒子のリスクにおいては、評価手法も評価対象も確立していないのにリスクの議論だけが一人歩きしている。ナノ粒子の定義もリスクの概念も時間とともに変化する可能性がある。リスクがあるかどうかも分からない不確実性を不確実性として社会にきちんと伝え、起こりうる正負の社会的影響を示して広く議論をすべきである。
・ 社会とのコミュニケーション
ナノテクは社会を変えるポテンシャルを持った技術であるという認識を持った大きなフレームを社会に対して示すべきである。また、短期的な流行や実利を追求する日本的な風潮から脱し、長期的なコンセプトやビジョンを尊重する社会に転換していかなければならない。論争を避ける文化や利益相反へのおそれのために科学者が社会問題に対して発言しない姿勢は再考すべきであり、科学教育や研究開発制度の見直しが必要である。
第一の《道具的》見解は「ナノテク」は今までの科学と本質的に変わるところがないが、社会とのコミュニケーションや研究開発助成獲得のための道具として使えるという考え方である。これはナノサイズである分子の働きを従来から研究している化学系の研究者によく見られる見解であり、学際的志向が強く、ナノテクの幅広い技術・応用について一定の知見を持っている。また、市民関与など参加型制度の充実に積極的である。第二の《実質的》見解は、「ナノテク」よりも「ナノ粒子」の働きに注目し、ナノテクは実質的な新しさを持つとしている。この考え方はナノ粒子の量子効果に関心の高い物性系の研究者や、ナノ粒子である無機分子を体内に取り込む際のリスクを評価しようとしている医療系の研究者に多い。社会とのコミュニケーションについては、専門家から市民へどう情報を伝えるか、という情報伝達のあり方という側面に注目している。第三の《革新的》見解は、自己組織化する有機分子のマイクロマシンを代表例に挙げ、生命科学とナノテクが結びつく領域が新たなパラダイムを生むだろうという考えである。これは他の科学との融合や社会への長期的影響を見据えた社会科学系の研究者に多い。そうした技術革新に社会が早めに対応できるよう、専門家と市民双方の価値規範の変化と幅広い社会制度の改善を求めている。
 もちろん、ここでまとめた内容ばかりでなく、回答者には現在ナノテクに関して取り組んでいることやナノテクの将来像についても尋ねており、それらは未来地図の作成に役立てられている。
●地図を描いてみる
それではいよいよ第一の目的であるナノテク未来地図の作成に取りかかろう。未来地図は普通の地図とかなり違うが、似たところもある。初めに次のような三枚の地図をイメージしてもらいたい。一つは日本地図。一つは日本の主要都市が記されている地図。一つは詳細な道路地図。たとえば東京に住んでいるとして、ドライブで国内旅行をするプランを立てるとしよう。まず日本地図を見て、北海道、四国、九州方面など行きたい地方を大まかに考える。次に、主要都市地図を見てその方面にはどんな都市があるか見つける。そして、その都市の道路地図で詳しく行き先を調べる。同じようにナノテク未来地図にも三枚の地図がある。一つは私たちがどんな社会を目指すのかという地図。一つは私たち個人はどんな価値を重視し、どんな技術がその価値にそぐうのかという地図。一つはどのように技術と社会が関わり、それが変化していくのかを線で結んだ地図。普通の地図が東西南北を持っているように、ナノテク未来地図も三枚とも同じ軸を持っている。東に向かう軸は「経済的豊かさ」であり、北に向かう軸は「個の重視」である。これを生活者個人にとって最も基本となる軸とする。
●一番目・二番目の地図:広域地図
まず一番大きな地図から描いてみよう。中長期的な社会や技術に関するビジョンがすでに国土交通省や経済産業省、環境省によって検討され、示されている。これをまとめて整理し、次の5つの社会を想定する。(1)豊かな社会、(2)多様性社会(年齢や性別、国籍などに関わらずさまざまな人々が等しく活躍できる社会)、(3)地域が活性化した社会、(4)環境に調和した社会、(5)伝統を重視した社会。これを「経済的豊かさ」「個の重視」という観点から見て平面上に配置する。もちろんこれは将来の社会がこの5通りしかないというのではなく、一つの典型として示しているに過ぎない。北海道、北陸、中国、四国、九州方面に行くことをとりあえず検討するようなものである。
 続いて二番目の地図を描く。最初に個人的価値、つまり「私は何を望むのか」を考える。ナノテクリスク勉強会のメンバーと議論した結果、次の10個を選定した。(1)経済的負担の軽減、(2)利便性の向上、(3)暮らしの安全・安心、(4)人とのつながり、(5)エコロジー志向、(6)健康、(7)身体の質・能力の向上、(8)プライバシーの保護、(9)モビリティの向上(移動手段の発達で自由に移動できるようになること)、(10)限界への挑戦(夢や好奇心に向かっていくこと、あるいは自分が制限された状況を打破しようとすること)。続いて生活者の視点から見た(つまり私たちにとって理解や分類がしやすいような)ナノテクの応用分野を特定する。ここでも各種文献を参考に議論し、(1)エレクトロニクス、(2)医療・福祉、(3)食品、(4)生活・娯楽、(5)エネルギー、(6)環境、(7)交通・建築、(8)フロンティア(航空宇宙・軍事)の8分野を選んだ。
 ひとまず、この二つの地図を重ね合わせてみよう。この重ね合わせは日本地図に主要都市を書き込むようなもので、それほどごちゃごちゃしたものにならない。ここではこれを広域地図と呼ぶことにする。この広域地図ではそれぞれの社会像が緑色の楕円で示されている。たとえば、右側に「豊かな社会」という社会像がある。その周りに水色の四角で囲った「利便性の向上」「経済的負担の軽減」「モビリティの向上」などがあるが、これは個人的価値である。そして、その近くにただの黒字で書かれた「エネルギー」「交通・建築」などナノテクの応用分野が示されている。豊かな社会が望ましいとすると、これには私たち個人が利便性や交通の便、経済性といった価値観を最も重視しているだろうということである。そしてこうした個人的価値や社会を実現するためにエネルギーや交通・建築といった分野が最も貢献できそうだということである。この図では、それぞれの要素の距離が近いほどお互いの関係性が強い。「環境に調和した社会」を目指すのであれば、当然個人は「エコロジー志向」であろうし、環境やエネルギーのナノテク分野が影響を強く及ぼすだろう。同様に「地域が活性化した社会」であれば、「人とのつながり」や「暮らしの安全・安心」が大切にされ、医療・福祉や環境の分野で技術的に貢献できるだろう。エレクトロニクスは、どの社会にとっても、どの個人的価値にとってもそれなりに重要性を持っていると考え、図の中央に置いた。
●三番目の地図:シナリオマップ
三番目の地図は細かいので同じように上の広域地図に重ね合わせてみることは難しい。それどころか、三番目の地図全体をここで紹介することもちょっと難しいのである。日本全国の道路地図を一枚紙で見ることができるか、と考えると分かりやすいだろう。上に挙げたさまざまな応用分野それぞれについて多くの技術が考えられる。たとえば、大まかに言ってもエレクトロニクス分野では携帯情報端末や光通信、ディスプレイなどがあり、エネルギーでは太陽電池や燃料電池、光触媒などのナノテク関連技術がある。それぞれの技術の発達にともない社会や経済の変化が起こり、逆に社会や経済の変化によって特定の技術が発達することもある。また、それぞれの技術は独自に発達することもあるが、それぞれ関係して発達していくことが多い。こうした技術・社会・経済・文化についての出来事が複雑な絡み合っているのが現実であり、ナノテクの学際性や応用範囲の広さが、これをさらに複雑にしていると言えるだろう。
 この出来事の流れをシナリオとして、この三番目の地図をシナリオマップと呼ぶ。このシナリオマップはナノテクリスク勉強会が簡単なシナリオを作ったものにインタビューした専門家がコメントを加えたり、修正していくという形を取っている。以下に二つの例を挙げる。
上の図では、医療・福祉分野のシナリオについて切り出して描いている。左側が先ほどの広域地図の一部であり、○で示した位置に右側のような三番目の地図(シナリオマップ)が置かれる。このシナリオマップにおける矢印は出来事の流れを表している。矢印が赤色で示されているものは、関係者が意図しないであろうシナリオ、いわゆる「予期せぬ悪影響」である。黄色で塗りつぶした技術は各技術分野の代表的技術を表している。上の図から黒の矢印で示した出来事を追って将来像を描いてみると、大規模な患者群からDNAチップやタンパクチップの発現パターンを集めることにより、ある病気や体質に特有のパターンが見つかる。また、それぞれの患者に合わせDDSを用いたターゲット療法が広くおこなわれるようになり、テーラーメイド医療が実現する。この結果として患者それぞれに対する投薬量が減り、医療費の軽減につながる。患者個人に合わせた治療のため、期待される効果や起こりうるリスクについてきちんとしたインフォームドコンセントが必要となり、それは何らかの形で制度化されることとなる。こうした流れは地図の上部に向かっており、身体の質・能力の向上やプライバシーの保護といった価値観と結びつき、多様性社会の実現に向かう。
 以上は既存の文献をもとに作成した当初のシナリオであり、テーラーメイド医療に対して明るい将来を描いたものとなっている。しかし、インタビュー回答者の一人の見解を参考に次のシナリオを加えた。医師や看護師の絶対数が不足し、業務に忙殺されている現状から想定すると、テーラーメイド医療やインフォームドコンセントは非常に手間がかかり、限られた病院以外の病院経営を圧迫する可能性がある。さらにテーラーメイド医療は一般治療より高価となるため、これを受けられる患者とそうでない患者との間に医療の質に差が出ることが考えられる。高所得者向けのテーラーメイド医療が盛んになる一方で、格安のジェネリック医薬品も普及し、格差社会が拡大・固定化されるかもしれない。こうした技術発展の反動として起こる左下向きの流れは上の図における伝統を重視した社会への回帰とも考えられ、暮らしの安全や安心を求める価値観が色濃く反映される。
もう一つ例を挙げよう。上の図では、左側の広域地図から環境やエレクトロニクスに近いナノテク応用分野で起こりうる将来として、右側のようなシナリオマップが示されている。東アジアの経済発展による越境汚染や地球温暖化などを背景にした感染症の流行によって、病気やアレルギー予防のためにナノフィルターを用いたマスクなどが開発され、普及する。一方でこのようなフィルターは、逆に人体の免疫機能を低下させアレルギー患者を増加させるおそれもある。またバイオセンサーや携帯情報端末を用いたウェアラブルな(身体に装着する)健康診断装置によっても疾病予防ができると考えられ、医療・福祉分野とエレクトロニクス分野が融合した領域での発展が期待される。しかし、ナノテクノロジーの負の環境影響として、たとえば経済的効率を追求し品質管理・安全監視体制が十分でない東アジアの近隣諸国でナノ粒子を扱う工場が爆発し、ナノ粒子の日本への飛散が問題となるかもしれない。そればかりでなく、ナノテク全体のイメージが損なわれるということも考えうる。これはナノテクに限った話ではなく、それほど強調するようなことでもないとのインタビュー回答者の意見があったため、矢印を破線にして出来事の関連性を低めた。
 このように三枚の未来地図を階層的に眺めることで、マクロからミクロレベルまでの社会や技術の流れを見ることができる。また、地図に方向性を持たせることで異なる専門家の考えに基づく相反した将来像も同一の地図上に描ける。この未来地図は常に生活者の視点から描くことを意識しているため、市民にとってナノテクとは何かを考える良い材料となり、また問題意識を持った市民を未来地図の作成に巻き込むことで、専門家だけでおこなう未来予測のあり方に一石を投じるものとなるだろう。
●これまでの問題点
専門家へのインタビューを通して市民の視点から未来地図を作成するというこれまでの試みを振り返ると、いくつかの問題点も浮かび上がってくる。まず、今回の10名のインタビューの回答者は大学研究者が中心であり、回答者の属性にある程度の偏りは避けられなかった。企業の担当者にコンタクトを取ることは難しく、NGOなど民間団体で適当な回答者を探すこともあまりできなかった。そもそもこのインタビューに協力したということは、回答者は技術と社会の関係について高い意識と幅広い関心を持ち、専門家と社会とのコミュニケーションに対しても責任感と積極的な姿勢があったと考えられる。そのため、社会とのコミュニケーションについては肯定的な意見を持つ回答者ばかりとなり、否定的な見解を持つ専門家に接触できなかった可能性がある。
 しかしこうした協力的な回答者からでも、こちらが叩き台として用意したシナリオマップに対してそれほど多くのコメントを引き出せなかった。いろいろな出来事が複雑に絡み合ったシナリオであるため、コメントが難しいという声もあった。シナリオマップの描き方が洗練されていないという指摘もあったので、そうした指摘を反映しながら手法を修正していった。未来予測への市民の関与という問題に新しい切り口で取り組もうとして、今回は「走りながら考える」やり方を取らざるをえなかったことは否めない。どうやったら専門家の意見を引き出せるか、そしてそれを元に説得力のあるシナリオを描けるか、試行錯誤の繰り返しであった。したがって、この未来地図はここでゴールではなく、むしろここからがスタートなのである。
●地図の未来
次の目標は、ひとまず作り上げたこの未来地図をもとにしてさらに多くの市民や専門家の意見を引き出し、より「もっともらしい」未来を描くとともに、その作成作業を通じて市民と専門家の対話を促進することである。具体的には次のような流れを想定している。
1. 市民研の他の勉強会メンバーにグループインタビューをおこない、これまでに作った未来地図を叩き台にして議論し、別の切り口から新たなシナリオを考えてもらう。
2. 市民団体や消費者団体、あるいは業界団体に範囲を広げ、同様にグループインタビューをおこない、それぞれの関心のある範囲で新たなシナリオを考えてもらう。
3. こうして集められた多くのシナリオを整理し、重要であると思われるものをそれぞれのナノテク応用分野から一定数抽出し、専門家への質問項目とする。
4. 再び専門家に戻り、個別インタビューによって上記のシナリオについて実現可能性などを尋ねる。ここで、今回の反省をふまえ、評点付けなど定量的手法を組み合わせることで専門家が自分の専門以外のナノテク分野についても簡単に答えられるように工夫する。また、調査対象も今回よりさらに範囲を広げ、ナノテクに直接関わっていない専門家にもインタビューをおこなう。
5. この1〜4の流れと並行して、ウェブ上に未来地図を見やすい形で掲載し、閲覧者からシナリオについての意見をもらい、適宜修正していく。このほか、市民講座、ワークショップやサイエンスカフェなどの機会があればその場を活用し、議論を深めたい。
今回の未来地図の作成作業は困難も多かったが、市民ばかりでなく専門家自身もナノテクというものについて(分野的にも時間的にも)幅広い見通しをそれほど持っていないということが分かったことは重要な収穫の一つであった。また、インタビュー自体はナノテクリスク勉強会のメンバーがナノテクのさまざまな分野について意識や知識を深める良いきっかけとなった。これからも未来地図をより分かりやすく、より知名度のあるものにすべく、メンバーを始め多くの人と協力しながら作成作業を続けていきたい。■
<謝辞>
このプロジェクトは大和日英基金の助成を受けて実現したものであり、ここにそのお礼を申し上げるとともに、プロジェクトの統括リーダーであるサセックス大学のIsmael Rafols氏に感謝いたします。

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