「戦時下の科学―ドキュメンタリー『よみがえる京大サイクロトロン』を見て」

投稿者: | 2008年11月2日

写図表あり
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第28回市民科学講座
「戦時下の科学―ドキュメンタリー『よみがえる京大サイクロトロン』を見て」
開催報告
はじめに
柿原 泰(市民科学研究室理事・低線量被曝研究会)
 2008年8月2日、市民科学講座「戦時下の科学――ドキュメンタリー『よみがえる京大サイクロトロン』を見て」を開催しました。当日は、標記のドキュメンタリー映画を上映した後、市民科学研究室・低線量被曝研究会の瀬川嘉之さんの解説をはさみ、約50名の参加者の間で活発な議論を交わし、盛況のうちに終了しました。今号では、当日の瀬川さんによる解説をまとめ直した記事を掲載し、このドキュメンタリーの監督であり、市民科学研究室の会員でもある中尾麻伊香さんにも寄稿してもらいました。
 『よみがえる京大サイクロトロン』というドキュメンタリー映画は、核のイメージ・表象の歴史を大学院で研究している中尾麻伊香さんが、戦時中に京都帝国大学で建設されていたサイクロトロンという加速器の部品の一部が、現在でも京都大学に残されていたことを知って、林衛さんらと一緒に、どういう経緯でそれが今まで残されてきたのか、関係者の取材を重ねて追究したものです。戦後、米軍占領下に、日本は原子核研究が禁止され、サイクロトロンも破棄されたことはよく知られていたことですが、その部品の一部が残されていたというニュースは注目を集め、このドキュメンタリー映画の京都での初上映を機に、いくつかの新聞などでも報道されました。
 市民科学研究室・低線量被曝研究会は、放射線被曝のリスクをめぐって国際的な防護基準を作成しているICRP(国際放射線防護委員会)の現状に批判的なECRR(欧州放射線リスク委員会)の報告書を読む読書会から2004年に始まりました。その後、アメリカのBEIR(電離放射線の生物学的影響)委員会などの動向を調べたりしてきましたが、現在は主として、広島・長崎の原爆影響をめぐる歴史を検討しています。そこで、この興味深いドキュメンタリー映画を上映して参加者のみなさんと鑑賞することにとどまらず、これまで勉強してきたことをふまえ、独自の観点から論点を出せないだろうか、と準備をしてきました。結果として、原爆とサイクロトロンの関係を軸に、これから追究していきたいテーマも浮かび上がってきました。その辺りは、瀬川さんの解説記事を参照ください。戦争と科学をめぐる問題、とりわけ原爆にまつわる歴史は、多くのことがこれまで語られてきましたが、固定化された観点から語られる「神話」が多くある一方で、問われてこなかった問題もあると考えています。そのひとつの問題の糸口が見えてきたように感じられた機会となったと思っています。
 さまざまな関心から見ることができる映画を見終わった後の当日の議論では、わたしたちの関心から、多少強引な進行で狭めてしまったかもしれない、と反省しつつ、映画上映の実現に全面的に協力いただいた制作の林さん、監督の中尾さん、当日の参加者の方々にこの場を借りて感謝申し上げます。■
サイクロトロンと原子爆弾についての解説
担当:瀬川嘉之(市民科学研究室・低線量被曝研究会)
ドキュメンタリー作品を見た後に、討論の前提として以下の4点について解説を加えた。4番目の米軍がサイクロトロンを破壊した理由については、市民科学研究室・低線量勉強会での成果も踏まえて、ポツダム宣言受諾から占領下における日本の科学者たちによる医学、生物学上の原爆調査との関係を問題提起した。
1. サイクロトロンとはどのような装置か。
2. サイクロトロンと原子爆弾はどのように関わっているか。
3. サイクロトロンと日本の原爆研究・原爆開発はどのように関わっているか。
4. 米軍はなぜ日本のサイクロトロンを破壊したのか。
1. サイクロトロンとはどのような装置か。
 
荷電粒子(陽子・重陽子・ヘリウム原子核・電子・炭素イオン等)の飛ぶ速度を高速にする加速器という装置の一種である。加速器は原子核物理学や素粒子物理学の研究のためにつくられ始めた。同時に、元素同位体の化学や生物・医学の研究、応用目的にも使われている。高速で飛ぶ荷電粒子は高エネルギーを持っているとも言えるので、加速器を使った研究は宇宙線の研究と並んで、高エネルギー物理学とも称される。
荷電粒子が高速で飛ぶようになると、標的の物質の原子核や反対側から飛んできた荷電粒子に、はねかされずに原子核反応を起こすことができる。高エネルギーでの原子核反応が起これば、原子核の内部から飛び出す素粒子の性質や原子核内部の構造、素粒子の間に働く力について研究することができる。高速、高エネルギーになればなるほど、原子核反応の割合が増し、新しい種類の反応が起こるようになるので、荷電粒子をより高速、高エネルギーする加速器が次々に開発されてきた。
 サイクロトロンは、それ以前のコッククロフト加速器等の直線に飛ぶ荷電粒子を加速する線形加速器に対し、円運動させることで一段と高速にすることをねらった加速器である。荷電粒子は高電圧の電場をかければ加速でき、高周波の電場で何回も加速すればどんどん速くなる。しかし、線形だとかなり長くしなければならず、おのずと限界がある。より高速にするには、磁場をかけて円運動させ、高周波で何回も加速すればよいと考えてサイクロトロンを発明したのがカリフォルニア大学のE.O.ローレンスである。彼は後にアメリカの原爆開発における中心科学者の一人となった。
サイクロトロンでは、図1のような上下の強力な磁石によって磁場をかけ、図2のように円形の装置の中心に荷電粒子を入れる。図3のように、磁場によって、荷電粒子の飛ぶ方向に対して常に直角なローレンツ力という力がかかる。そうすると荷電粒子の運動は、ひもの先につけた砲丸投げの玉のようなもので、円運動になる。半回転ごとに向きが変わる図2の円形の真ん中の各矢印の向きの電場をかければ加速でき、加速するにつれ円運動の半径が大きくなって図2のような渦状の運動になる。磁場が一定だと荷電粒子が1周する周期もほぼ一定になるので、その周期に合った周波数で円形の左右の逆DとDの電極間に図2の下のような高周波電圧をかければよい。これを磁気共鳴加速法という。
 磁場が強く、装置の直径が大きいほど、高速に加速することができるので、より強く大きな電磁石が求められた。
図1 横から見たサイクロトロン 図2 上から見たサイクロトロン   図3 ローレンツ力
(財)放射線利用振興協会HP 放射線利用技術データベース
「粒子線治療用照射システム」より
2. サイクロトロンと原子爆弾はどのように関わっているか。
サイクロトロンによる原子核物理学の応用として核分裂実験やプルトニウムの生成実験ができ、原子爆弾の研究につながる。
加速した重陽子(重水素の原子核)をリチウムやベリリウムに衝突させると中性子線が発生するので、中性子による原子核分裂や核反応、それによって生成される物質(放射性同位元素)、中性子線が物質や生物に与える影響についても研究することができる。
 原子爆弾の開発では、広島型原爆におけるウラン濃縮、あるいは長崎型原爆におけるプルトニウム製造の開発が最も難しく、また費用や労力を要する工程になる。サイクロトロンでは、例えば核反応を爆発的に起すにはウランやプルトニウムをどれだけ濃縮したり分離したりすればよいか割り出すための実験ができる。そういう開発、製造の基礎となる研究に役立つにしても、そのまま開発、製造に使われることはない。
アメリカでは、ウランの同位体235を少し重いウラン238と分離して、その割合(天然中0.7%)を高めるウラン濃縮の4つの方法(電磁分離法・熱拡散法・遠心分離法・ガス拡散法)を、併行して研究開発していた。その中で最も早く完成し貢献度の高かった電磁分離法は、ローレンスが建設を始めていた184インチサイクロトロンの電磁石が転用された。それはサイクロトロンとしての使用というよりは、ウラン235を濃縮するための電磁分離への転用ということになる。
サイクロトロンと原爆に関連する主な出来事
世界 アメリカ・ローレンス 日本・理研(仁科研)
/大阪帝大 日本・京都帝大(荒勝研)
1932 英チャドウィックが中性子発見
英コッククロフト・ウォルトンの加速器が原子核破壊に成功 直径11インチ(約28cm)サイクロトロンで1MeV以上の陽子生成
34 理研に原子核実験室発足 荒勝、台北帝大にてコッククロフト加速器で原子核破壊に成功
35 27.5インチ(約70cm、85トン電磁石)サイクロトロン完成 嵯峨根遼吉、カルフォルニア大放射線研に留学(-38年)
36 8月、荒勝、京都帝大教授に任命され、台湾から戻って荒勝研発足
37 60インチ(約150cm、220トン電磁石)の検討開始 理研、小サイクロトロン(約65cm、23トン電磁石)完成
38 12月、ドイツのオットー・ハーンら、スウェーデンに亡命していたリーゼ・マイトナーらによってウランの核分裂が発見される。 阪大、40インチ(約100cm)サイクロトロン完成
理研、大サイクロトロン(60インチ、250トン電磁石)の建設開始
39 8月、アインシュタイン、シラードの大統領への手紙
9月、第2次世界大戦勃発
11月、ウラン諮問委員会 60インチで16MeV重陽子と32MeV アルファ粒子の生成
10月、184インチ(約470cm)、2000トン電磁石の提言 7月、サイクロトロンの中性子をトリウムにあて人工放射性核種生成の論文 5月、湯川が京都帝大教授に着任
10月、ウラン235核分裂で出る中性子2.6個とする萩原篤太郎論文
40 6月、大統領命令で国防研究委員会発足 11月、180インチの電磁石4000トンの建設開始 仁科、矢崎為一らをローレンスのもとに派遣
41 7月、英モード委員会がウラン235爆弾実現可能の報告
11月、全米科学アカデミー再審委員会、ウラン235原爆の実現可能性について報告書提出
科学研究開発局S1課発足
12月、日米開戦 60インチによるネプツウムとプルトニウムの生成
11月-12月、37インチはウラン235のサンプルづくりのための質量分析器に転用
11月、184インチの建設中止、巨大磁石をウランの電離分離に転用 4月、陸軍航技研所長安田武雄から理研所長大河内正敏に原爆の研究依頼 6月、京都帝大、約100cm、75トン電磁石のサイクロトロン建設決定
42 8月、マンハッタン計画始動
12月、シカゴで核分裂連鎖反応 5月、184インチ電磁石完成
6月、ウラン電磁分離装置C1カルトロン作動 7月、海軍「核物理応用研究委員会」(-43年3月)
43 3月 仁科研の同位元素分離方法研究会、熱拡散法を採用
5月 「原爆製造可能」の仁科報告 海軍から原爆研究依頼?
44 6月、本格稼働の電磁分離法プラントから高濃縮ウラン出荷 7月 大サイクロトロンが実験開始段階に
45 7月16日 アラモゴード「トリニティ実験」
8月6日米軍、広島に原爆投下
8月9日米軍、長崎に原爆投下
9月2日 日本の降伏文書調印
9月9日-14日 マンハッタン管区調査団が広島、長崎を現地調査 9月9,10日嵯峨根、仁科尋問
9月14日学術研究会議「原子爆弾災害調査研究特別委員会」設置
10月15日 仁科、サイクロトロン使用要請 24日許可
11月30日 特別委員会第1回報告会 7月、海軍-京都帝大合同会議
9月14、15日 マンハッタン管区調査団、荒勝、湯川を尋問
48 1-10GeV陽子シンクロトロン建設決定
参考文献:山崎正勝、日野川静枝『原爆はこうして開発された』1990、 高橋智子、日野川静枝『科学者の現代史』1995、 
     読売新聞社『昭和史の天皇 4』1968、 冨家和雄『光のスピードに迫る 粒子加速器の話』1990
3. サイクロトロンと日本の原爆研究・原爆開発はどのように関わっているか。
理化学研究所は陸軍、京都帝大は海軍の「正式の依頼」(命令?)を受けた段階ではっきり原爆研究が始まった。上記年表にあるとおり、前者は1941年、後者は1943年かもう少し早い時期という証言もある。しかし、それらはいずれも原爆開発の可能性を探るといったレベルにとどまった。十分なウラン鉱石がなく、プルトニウムも発見されていない日本では、米国のマンハッタン計画のような大規模な原爆開発に手をつける前段の研究段階であった。
1945年の2月頃理研で、資材も人の投入も乏しい中で苦労の末にようやく熱拡散法によるウラン分離のサンプルができた。ところが、分離できているかどうか調べるための質量分析器は大阪帝大にしかなかった。そこで、理研のサイクロトロンによる中性子で核分裂させて、分離できたかどうか分析している。ウラン235の割合が多くなっていれば、核分裂が多く起こって放射能が多く検出できるはずだった。結果は、分離・濃縮していなかった。その後、4月13日の空襲で熱拡散法の分離筒は破壊された。(読売新聞社『昭和史の天皇 4』)
京都帝大は遠心分離法を研究している段階で終戦になった。陸軍技術少佐で第八陸軍技術研究所員の山本洋一が1944年7月30日に技術院で書き写したとする資料(山本洋一『日本製原爆の真相』1976)には、以下のようにある。京都帝大での原爆研究を裏付ける史料はこれ以外にほとんどない。ここにサイクロトロンが登場する「基本測定ノサイクロトロン」「同位元素ノサイクロトロン」が何を意味するかは不明。
戦時研究三七ー二ノ実施要領及構成
  研究課題「日」研究(「ウラン」「原子エネルギーノ利用」)
  期間 第一次終了 昭和二十年十月 第二次終了 昭和二一年十月
  目標 目的物質ノ軍用化ニ付必要ナル資料ヲ探求スルニアリ
 研究方針
  鉱石ヨリ目的物ヲ分離、同位元素ノ分離、基本数値ノ測定等ニ関スル研究並ニ応用ニ関スル検討ヲ行ナヒ活用上ノ資料ヲ得ントス
  課題分類及戦時研究員
  全般 京都帝大 荒勝文策(主任)         原子核理論 京都帝大 湯川秀樹
  ニウトロン理論 名古屋帝大 坂田昌一      ウラン分離理論 京都帝大 小林 稔
  基本測定ノサイクロトロン 京都帝大 木村毅一
  同位元素ノサイクロトロン 京都帝大 清水 栄    質量諸測定 大阪帝大 奥田毅
  弗化ウラン製造及放射能科学 京都帝大佐々木申二
  原子核化学 京都帝大 堀場信吉    ウラン採取金属ウラン 京都帝大 岡田辰三
  弗化ウランノ性質並ニ基本測定 京都帝大 荻原篤太郎
  重水 大阪帝大 千谷利三 弗素弗化水素 東北帝大 神田英三
  サイクロトロン用発振装置 住友通信工業㈱ 小林正次 宮崎清俊 丹羽保次郎
  超遠心分離器 東京計器㈱ 新田重次 振動回路 日本無線㈱ 高橋勲
(一)本研究ハ陸海軍技術運用委員会ニ於テ統括ス
(二)本研究遂行ニ当リテハ戦時研究三七ー一ト随時密接ナル連絡ヲ図ルモノトス
 日本の原爆研究の終戦直前における仁科、荒勝ら科学者と軍の技術将校らの暫定的結論としては、今戦争中の原爆製造は日本では不可能、アメリカでもおそらく不可能とするものであった。日本についてはあたっていたが、アメリカについては誤った。その意味でも日本の原爆研究は失敗であった。
 しかし、原爆研究をしていたからこそ、1945年8月6日の米軍による広島への原爆投下直後に仁科、荒勝が原爆調査に動くことができたとも言える。
広島・長崎以前の原爆研究と以後の原爆調査では、日本中の科学者の動員の規模がちがう。以後の原爆調査こそ、日本の大プロジェクトなのである。原爆調査が本格化する9月14日設置の文部省、学術研究会議「原子爆弾災害調査研究特別委員会」にサイクロトロンによる原爆研究はどう生かされたのだろうか?
 仁科研ではサイクロトロンを使った以下のような放射線生物学研究を1937年から少なくとも42年にかけて行っていた。仁科研にいた森脇大五郎の「仁科先生と放射線生物学」(『日本物理学会誌』vol45,No10,1990)によれば、村地孝一はサイクロトロンの中性子をマウスに作用させる実験や家兎の臓器に現れる傷害を見る実験等を行い、森脇自身は遺伝影響としてショウジョウバエの突然変異をサイクロトロンの中性子とエックス線で比較する実験を1939年から行っていた。
京都帝大でも放射線の人体影響に無関心だったわけではない。むしろ原爆調査には積極的で、1945年9月17日には広島で現地調査をしていた医学部の教授らが台風による土石流で犠牲となり、荒勝研の木村毅一は九死に一生を得ている。
また、理研の田島英三、阪大の武田栄一等、サイクロトロンによる実験中に白血球が極端に減った証言をしている研究者は多い。仁科自身、放射線の影響と思われる肝臓がんで亡くなっており、村地は1961年に白血病で亡くなっている。
4. 米軍はなぜサイクロトロンを破壊したのか。
 
1945年10月30日、ワシントンの米統合参謀本部は東京のGHQに日本の「原子エネルギーとその関連研究」の禁止を指示していた。サイクロトロンは直接には11月10日、パターソン陸軍長官名でGHQにあてた以下の指令で破壊された。これは11月6日GHQから、理研の仁科による生物、医学研究でのサイクロトロン使用の扱いに関して、原爆開発の中心的な科学者コンプトン、ローレンスの意見聴取を求める「要望電報」に対して出されている。以下の指令の1、2をつなげれば、意見聴取するまでもなくか、意見聴取のいかんにかかわらず、破壊せよとの命令である。
1.WX7990に関連し、次の指示が実行されることが要望される。すべての技術的、実験的データを確保したのち、理化学研究所、京都帝国大学、大阪帝国大学のサイクロトロンは、破壊されること。
2.統合参謀本部に宛てた11月6日の貴機関より陸軍省への要望電報は、これとともに返却される。
 
11月24日、破壊について『ニューヨーク・タイムス』が報道し、翌日、翌々日にオークリッジやMITの科学者たちから避難声明文が陸軍長官宛てに送られた。それらを受けて、長官は科学研究開発局長ブッシュやマンハッタン管区責任者のグローブスと何度も相談した上で、GHQにあてた指令の電文が長官未見のまま出されたとする声明を公表した。グローブスの回顧録では、明確な指示を受けなかった部下の新任将校が誤認して電文を起案し、長官事務所でも通常事項と判断して打電したとしている。(山崎正勝「GHQ史料から見たサイクロトロン破壊」『科学史研究』Vol.34, No.193 (1995))
要するに、サイクロトロンは指示のいきちがいで誤って破壊されたとするのが現在の公式というか大方の歴史認識になっている。これは、明らかに米国政府および加担する科学者たちがつくった歴史である。それが偽造、捏造された歴史だと言いたいわけではない。しかし、どうしても疑問に思うことがある。
 仁科のサイクロトロンは生物、医学研究に使用したいとする要請が認められかけた。「生物、医学研究なら軍事と直接関係ない平和的学術研究」と誰しも思ってしまっている。しかし、この時、原爆による放射線が人体にどのような影響を与えるかは、冷戦に向けての軍事的な意味でも、人類史上初めて生きた人間に対して核兵器、放射線・放射能兵器を行使した直後という意味で科学者にとっても、最大の関心事であり、学術研究会議の特別委員会が発足して、それを調査するための米国側、日本側での大プロジェクトの真っ只中であった。ガンマ線以外に中性子線を放出する原爆。先に述べたように中性子実験ができるサイクロトロン。中性子線によってできる放射性同位元素の残留放射能がどれくらいあって、人体にどのような影響を与えるか。核分裂生成物の残留放射能にしてもサイクロトロンで人工放射能を生成して実験できないだろうか。
原爆の人体影響では、60年以上経った今でも原爆症認定裁判などで、ガンマ線と中性子線の影響のちがい、残留放射能による影響が問題になっている。むしろ、直後のあの時できること、できたはずのことをやらなかったから、できないようにしてしまったから、今問題になっているのではないか。仁科が生物、医学研究にサイクロトロンの使用許可を求めた時、米国内部ではたしてサイクロトロンで日本側に生物、医学研究をさせてもよいかどうか考慮、検討したのだろうか?■
サイクロトロン破壊から
中尾麻伊香(市民科学研究室・低線量被曝研究会)
2008年8月2日の第28回市民科学講座では、「戦時下の科学―『よみがえる京大サイクロトロン』を見て」が行われた。著者は2007年から2008年にかけてドキュメンタリー『よみがえる京大サイクロトロン』を制作し、これまでさまざまな場所で上映会を行ってきた。ここではドキュメンタリー制作者として、内容についての紹介を中心にまとめてみたい。
『よみがえる京大サイクロトロン』は、2005年度のサイエンスライティング講座@京都を発端として、その後の2006年度のライティング講座、2007年夏の科学コミュニケーターサマーセミナーなどを通して、さまざまな方の協力を得て制作された約70分のドキュメンタリー作品である。
映像は、著者が修士論文執筆のため、ネバダ州ラスベガスを訪れたところからはじまる。ラスベガスには核実験の歴史を伝えるAtomic Testing Museumが2005年にオープンしていたが、そこで核の歴史をどのように伝えているのか、被爆国日本とは違う歴史展示を見ることが目的であった。Atomic Testing Museumでは核実験の歴史を正当化しており、核兵器の悲惨な側面は殆ど見られなかった。その設立目的を考えれば、当たり前のように思われる。しかし博物館の収蔵室には、広島・長崎の被爆者の写真が保存されていた 。博物館スタッフは写真を見て心が痛むが、中立的な展示をするためには、この写真を展示することはできないのだと語った。そこで中立的とは一体どういうことなのだろうかという疑念がわいた。いくら中立的だといっても、核実験や核兵器に関するすべての歴史を網羅することはできない。この博物館での展示は、核実験を行なっていた立場からの中立的な見方を体現していたのである。一方、核実験によって被害を受けた人々、核兵器の被害者たちがいる。それぞれ異なる経験をしているなか、誰が中立だと決めることができるのか。そして、歴史は語ることができる人が作るもので、語らない人や語りえない人たちの経験はなかったことになってしまうのではないかと考えた。
日本に帰ってきた著者は、サイエンスライティング講座で博物館の展示の比較研究を紹介した。そのとき、その場にいあわせた京都大学総合博物館の大野輝文教授から、戦後GHQに破棄されたはずのサイクロトロン部品を保管していると知らされた。それは「日本の核研究の遺品」だという。大野教授は「展示する文脈が見つからない」ため、収蔵庫で眠らせているのだと語った。著者はこれほど身近に歴史的な遺品が眠っていたということに驚き、早速大野先生からその部品を見せてもらった。その部品それ自体は、何も語らない鉄の塊だったが、背後にはどのような歴史があるのか、著者は心をひかれずにはいられなかった。その時から、関係者を訪ね歩き、少しずつサイクロトロンと残された部品についての調査を進めていった 。
京大の博物館に保管されている部品は、京都帝國大学理学部荒勝文策教授らが建設していたサイクロトロンの一部である。1941年に建設が決定し、42年に建設に着手した。建設資金は谷村財団と科学振興費から得たという記録がある。資材の確保では海軍が協力した。1944年暮れにはメインのマグネット部分が完成した。このように苦労を重ね建設されていたサイクロトロンは終戦までに完成を見ず、戦後も建設の努力が続けられた。そんな中、1945年11月、理研や阪大のサイクロトロンと同時にGHQに破壊されてしまう。サイクロトロン破壊はGHQの科学技術政策のなかでも最も野蛮であると米国の科学者たちから糾弾された。
なぜサイクロトロンは破壊されたのか。いくつか考えられる理由を挙げておく。サイクロトロンの破壊はこれまで、軍事利用と平和利用を区別できなかった軍部の野蛮といわれてきた。マンハッタン計画において、サイクロトロンが原爆開発研究に利用されたことも、サイクロトロンが原爆研究に密接に関係するとみられた一因だろう。プルトニウムの発見がサイクロトロンによってなされたように、サイクロトロンは原子力関連分野の基礎研究に欠かせない装置であった 。GHQの機密資料が公開されると、陸軍長官の命令によって破壊されたことが明らかになった 。つまり破壊は、正式な手順を経て行われたのである。戦後米国は原子力関連情報を管理独占しようとしたが、サイクロトロン破壊は、そうした米国の意図を如実に反映した出来事であったといえる。
一方、サイクロトロンを破壊された日本の科学者たちはただの「被害者」なのか。彼らも、戦時中に「原爆」を利用しなかったわけではない。たとえば理研では1945年までに2つのサイクロトロンを完成させていたが、建設リーダーの仁科芳雄は「サイクロトロンが原爆研究に不可欠だ」と軍部に説明していた。これは研究資金を得るための方便とみることもできるが、まったくでたらめを言っているわけではないだろう。京都帝大の荒勝らは戦後、米軍に提出した軍事研究の報告書に、サイクロトロン建設を原爆研究の一環であったと書いている。報告書から、荒勝らが、原爆研究の一環としてサイクロトロン建設を位置づけていたことがうかがえる。しかし建設が決定した時期は原爆研究が開始した時期よりも早く、当初の資金源を考えても、もともと軍事目的のものとして建設されたものではなかった。
サイクロトロン破壊は科学と社会の在り方を考えさせる。戦時下そして占領下というのが大きなポイントである。荒勝文策や湯川秀樹らは戦時中に行っていた軍事研究についてほとんど語っていない。湯川秀樹をよく知る小沼通二氏(慶応大学名誉教授)は、語らないこともひとつのメッセージなのではないかと語った。当事者でなければ理解しがたいことはある。しかしそうした時代が過去となった今日の私たちがどう考えるかということが重要であると考える。『よみがえる京大サイクロトロン』の後半では、破壊されたサイクロトロンと残された部品をめぐる関係者のさまざまな思いが語られている。そこから、見た人それぞれが、歴史について考えることのできる作品を目指した。
今回、「市民科学講座」ということで、市民の役割とは何なのだろうかと考えた。政治や科学を専門家まかせにしないで行動していくことがひとつの理想的な市民の役割だろう。博物館で展示されているもの、伝えられる歴史は、実際のほんの一部であり、その裏には膨大なドラマが隠されている。私たちの身近にも、まだまだそんなものがあるに違いない。そうしたものを掘り起こしていくことも市民の役割といえるのではないだろうか。■

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