書評 『中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす』

投稿者: | 2009年2月6日

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書評
『中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす』
(遠藤誉 著/日経BP 2008)
評者:山口 直樹(北京大学科学と社会研究センター)
現在中国のなかで、中国の青年たちの心をもっともとらえている日本文化のひとつに日本動漫(アニメや漫画)があることは、よく知られていることに属するだろう。
かつて中国では日本のドラマが、青年層を中心に高い人気を誇っていたのが、現在は韓国のドラマにやや押され気味という状況である。それに対して日本動漫の人気は、依然として他の追随を許していない。中国で日本のアニメ「鉄臂阿童木」(鉄腕アトム)が、はじめてテレビ放映されたのは、改革開放後の81年のことであった。これをきっかけに「花仙子」(花の子ルンルン)「聡明一休」(一休さん)「机器猫」(ドラえもん)「機械戦士高達」(機動戦士ガンダム)「足球小将」(キャプテン翼)「蝋筆小新」(クレヨンしんちゃん)「櫻桃的小丸子」(ちびまる子ちゃん)、「名探偵柯南」(名探偵コナン)「龍珠」(ドラゴンボール)「火影」(Naruto)「新世紀福音戦士」(新世紀エヴァンゲリオン)、「美少女戦士」(セーラームーン)「灌藍高手」(スラムダンク)などが次々に放映され中国の青年たちの心をとらえていくことになる。これらの動漫をまったく見たことがないという青年は、日本でも中国でもほとんどいないであろう。
中国で「80後」といわれる80年代以降に生まれた世代は、子供の頃から毎日、これらの動漫を見ながら育ってきており、日本動漫は、彼らの精神形成にも大きな影響を及ぼすにいたっている。
ですから、現在では「たかが動漫」とはいえず、これらの動漫をぬきに中国の青年を語れなくなっているといっても過言ではないような状況が生まれてきている。
今日の中国における日本の動漫の影響についていえば、日本動漫の展示会や漫画家のサイン会をはじめとして日本のアニメを日本語教育に使ったアフレコ大会、日本動漫のコスプレ大会、「もし私がドラえもんだったら」という題目がテーマになる日本語スピーチ大会、2007年12月28日に北京大学にやってきた福田氏を「のび太くん」と呼ぶ中国の青年たちなどなど枚挙にいとまがないのである。
このように現在の中国は、「日本動漫大好き!」という青年を多数生み出している。こうした現象は、日中のメディアでもよく報じられる。
一方、現在の中国ではテレビメディアなどで抗日戦争のドラマが、日常的に放送され、歴史教科書問題や靖国問題などに関して、2005年4月の「反日デモ」に見られるように中国の青年たちの対日感情は、反日感情になって噴出していることが報じられる。
これらは、どちらも同じ中国の青年に関する報道である。では、中国の青年の「日本動漫大好き!」という日本に対する愛着の感情と歴史教科書問題や靖国問題における日本に対する険悪な感情の関係は中国の青年たちのなかでは一体どうなっているのだろうか。
また、最近、中国政府は、ゴールデンアワーにおける外国の動漫(そのほとんどは日本動漫)の放送を禁止した。その背景には、一体、中国社会のどういう事情があるのだろうか。
そのことにはじめて本格的な分析を加えた仕事があらわれた。その仕事こそ遠藤誉著『中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす』(日経BP2008)である。膨大な取材を積み重ね、これまで語られなかった新しい事実を掘り起こしたこの本は、現在、日本で、大きな反響をよんでいる。
著者の遠藤誉氏は、1941年に「満州国」の首都、新京(現在の長春)に生まれ、苦難の末に日本に引き揚げてきた(その経緯は遠藤誉『チャーズ』に詳しい。またこの作品は、山崎豊子の『大地の子』との著作権をめぐる裁判でも知られる。)あと物理学者として出発し、その後1980年代から日本に留学してくる中国人留学生の増加にともない日本での中国人留学生の世話に専念するようになったという経歴を持つ日本における中国人留学生をもっともよく知っているといってよい人である。
その遠藤氏が、『中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす』(2008)を書くきっかけになったのは、1990年代半ばからの中国人留学生の変化に気がついたことだったという。その結果、書き上げられたのが『中国動漫新人類―日本のアニメと漫画が中国を動かす』(日経BP2008)なのである。日本のアニメや漫画そのものにはそれほど詳しくなかった、遠藤氏が、この問題の本質に迫り分析を加えていくさまは、スリリングですらある。
著者は、第一章「中国動漫新人類―日本のアニメ・漫画が中国の若者を変えた!」で中国の若者たちがどのようにして日本の動漫にひきつけられていったのか、取材し生の声を引き出すことに成功している。
北京大学や清華大学のマンガサークルが紹介されている。
セーラームーンやスラムダンクやクレヨンしんちゃんにはまっていった中国人たちの生の声は、日本人にとって興味深いものとなるはずだ。
第二章 「海賊版がもたらした中国の日本動漫ブームと動漫文化」では、著者はほぼ三つの主張をしている。
まずひとつは 中国における日本の動漫ブームを語る上で、絶対に避けて通ることのできないもの、それが海賊版であり、中国では海賊版や違法コンテンツがあったから日本動漫が、広く普及したということ。第二に安い海賊版が出回っていたからこそ中国の青少年は自分の好きなものを選ぶことができたのだということ、第三には中国政府は日本動漫を「たかが大衆文化、たかがサブカルチャー」と甘く見たが、動漫のように大衆の欲望に支えられたサブカルチャーは、場合によるといずれメインカルチャーとなり、大きな力となり得るという主張である。
現在、日本と中国の戦略的互恵関係を示した文書の中には、日本政府と中国政府の間で海賊版の取り締まりという項目が設けられている。また日系企業もこのような海賊版の取り締まりということをいうようになっているが、皮肉なことにアメリカほど日本アニメの著作権が厳しくなかったがゆえに中国で広く普及する結果になったことを指摘している。ここでの著者の視線は、あきらかに中国の庶民(中国語で老百姓というのだが)にあるといっていいだろう。
第三章 「中国政府が動漫事業に乗り出すとき」では、中国のコスプレ大会は、中国政府主導による国家事業として行われていることを著者が述べている。
そして同時に中国ではいま、国をあげて中国国産動漫産業を振興しようと必死であり、その象徴の一つが、全国の大学など高等教育機関に動漫にかかわる学科を次々と設置しているという事実である。「たかが動漫」であるものが、中国の国家政策まで影響しているというのだ。
 また、日本動漫は民の手によって作られた民のものだが、中国政府は、これを日本の「文化侵略」と位置づけた文書をだしたりもしていたことが明らかにされている。
第四章 「中国の識者たちは、「動漫ブーム」をどう見ているのか」では、まず文化大革命時代(1966-1977年)は、閉鎖的で、娯楽もなく、文化的に単一だったが、改革開放時代いきなり飛び込んできたのが80年代初めに中国に入ってきた『鉄腕アトム』だったことが述べられている。これは、まるで異次元の世界を見ているようで、中国の人々に何よりも多次元的な思考をもたらしたという。
著者は、またここで北京大学の張頤武教授の「現代中国人の心には日本に対する2つの相反する感情が備わっている。一つは中華民族としてのアイデンティティー、侵略戦争の事実。もう一つは、日本製品、日本動漫に対する高い評価。2つの感情は平行線を描き交わることはない。」という見解を紹介している。
中国政府が2006年9月1日から夕方のゴールデンタイムに外国アニメの放映を禁止したが、その背景には消費されるものが電化製品のような「物」ではなく、動漫という「精神的なもの」であるため、その消費動向は「精神のニーズを好きに求める」ことにつながり、そのニーズに政府が応じるということに、「民主性」が生じるのではないかと著者は考えた。その意見には中国政府高官もその意見とほぼ同意見であったという。ただし、その中国政府高官は、中国という国家の安定のためには、一党独裁に近い形であったとしても、中国共産党がしばらくの間は中国の民を守る必要がありこのような大きな国で安定を保つには、強いリーダーシップを持った、強い政権が不可欠だと考えていることも同時に示されている。
第五章 「ダブルスタンダード―反日と日本動漫の感情のはざまでに」おいては、著者は「日本動漫を見て育った現代中国の若者たちは、日本と中国の関係をどう変えていくのだろうか?こうした分析は、今後の日中関係を読み解く上でも、日本や世界の未来像を予測する上でも、日本や世界の未来像を予測するうえでも欠かすことができない。そしてまたこの分析は、動漫のようなサブカルチャーが、一国の文化、経済そして政治を、直接的或いは間接的に動かしていくのか、という文化論的命題を解くカギにもなる。」と考え、実際にその分析を行っている。
中国の若者たちは「たかが動漫」の持つ力によって、確実に「日本を知る」ようになってきている。そうすると、改めて気になるのが、日本に対する精神的ダブルスタンダードのもう片方である。愛国主義教育に起因する、90年代から現在にかけての中国の若者たちの「反日感情」である。ここではなぜ、中国は愛国主義教育の名のもとに「反日感情」を自国の子どもたちに植え付ける結果を招いてしまったのかという問題提起も、なされている。
第六章 「愛国主義教育が反日に変わるまで」においては、日本では、中国がなぜ反日になったのかの通説として「天安門事件後、中国共産党の威信が揺らいだので党の基盤を強化するために、外敵として抗日戦争を利用し愛国主義教育を強化し始めた」と言われることが多いが、著者は、その見解に対してここで疑問を呈している。
その理由としては上記の通説で反日を解釈すると、以下の現象の理解が困難だからである。すなわち、95年からの江沢民の「親米」路線への切り替わりや近年欧米の議会で広がりをみせる日本の戦争犯罪に対する対日非難決議案といった現象である。
また、著者は、「中国は、共産党の偉大さと正当性を讃えるために「抗日」を強調する姿勢をいまだに愛国主義教育でとるのに対し、日本人の多くは、先の戦争はアメリカに負けたのであって中国に負けたのではないという感覚的スタンスを崩さない。」と述べ、この認識の違いこそが日中関係の感情的すれ違いの根源にあるものだと指摘している。日中関係を考えるとき、日本と中国の関係だけでなくアメリカとの関係も考えなくてはならないことをこの章の分析は教えている。
第七章 「中国動漫新人類はどこに行くのか」では、まず著者は、「日本動漫は彼らの感性で自由に、思想、発想、知識を吸収して、自分の精神成長に結びつけていった。それらは中国の「主文化」がけっして教えてくれないものだった。この一連の循環はいわゆる「民主主義へのステップである。」と考えていることを指摘し、著者はこれを「静かなる精神文化の革命」だと位置づけている。
この結果、日本動漫は「主文化」と「次文化」(サブカルチャー、個人の欲求にもとづいた民主的な文化)が入れ替わるほどのパワーを持ってしまった。そして中国の青年のなかではこの「主文化」と「次文化」が共存しており、その時々でスイッチが切り替わるように「主文化」にいったり「次文化」にいったりしているのだと著者はこの現象を分析している。
また、この章では中国政府が、なぜ、いまなお愛国主義教育を強化するのかを著者は、異なる視点で分析する。
愛国主義教育の力点は「中華民族の屈辱を永遠に忘れてはならない」にあるのではなく、「中国共産党が、日本侵略軍と戦ったことを忘れてはならない」ということである。裏返せば、中国共産党がいかに偉大であったかを教えることにあるというのだ。これは中国共産党の”正統性”というものにかかわる問題であろう。
最後に著者は「あとがき」のなかで「国共内戦というのは、先述した革命戦争のなかの一つで毛沢東率いる共産党軍と後に台湾に逃れた蒋介石率いる国民党軍との間で行われた内戦だ。この戦争のために私は家族を餓死でなくし、死体の上で野宿することを余儀なくされ、恐怖のあまり記憶喪失となった。7歳のときだった。共産党軍が長春市をすべて鉄条網で包囲し、食糧封鎖をしたからである。 そして長春市内にいた国民党軍もまた飢えで息絶えていく市民を見殺しにした。このとき餓死した者の数は、中国政府側発表で15万人、経験者は30万人といっている。それでも私は、あの犠牲は「苦しむ人々を助ける戦い」のために払った犠牲なのでそのために戦った共産党軍は正しかったと自分に言い聞かせて生きてきた。しかしその共産党が作った国は、これまでに何をしてきたのか、そして今何をやっているのか。たしかに中国は豊かになった。やがて日本を超えて世界第二の経済大国にのしあがっていくだろう。私にとってうれしいことではある。だがその陰で中国はさらに「苦しむ人々」を生んでいるのではないか。そのために「自由の国」どころか、厳しく言論と思想を規制し、強権的な実質上の一党独裁専制政治を行っているのではないか。共産党幹部が大企業と結びついて特権階級として貧困層を虐めている。こんな社会をつくるためにあの犠牲があったのではない。」と書いて今日の中国社会の根本的な問題を指摘して批判している。ここには本物の響きがあるといわなければならない。
私がこの言葉で思い出したのは死の二年前1940年に中国共産党の創設者でもある陳独秀が書いた「私の根本的意見」の次の言葉である。
「民主主義は、人類に政治組織が発生してから、政治が消滅するまで、各時代(ギリシャ、ローマ近代から将来にいたる)において多数者階級の人民が、少数者階級の特権に反抗する際の旗であった。「プロレタリア民主主義」は中身のない言葉ではなく、その具体的な内容はブルジョワ民主主義同様、すべて公民に集会、結社、言論、出版、ストライキの自由を要求するものである。とりわけ重要なのは、反対党の自由で、これがなければ、議会やソビエトには何の価値もない。政治上の民主主義と経済上の社会主義は互いに補完的なものであり、相対立するものではない。民主主義は資本主義およびブルジョワ階級と不可分のものではない。プロレタリア政党が、ブルジョワ階級と資本主義に反対することを理由についには民主主義もいっしょくたにしてこれに反対するなら、かりに各国にいわゆる「プロレタリア革命」が起きても官僚制の抗毒剤となる民主主義もなくなり、ただ世界にスターリン型官僚政権の残虐、汚職、虚偽、欺瞞、腐敗、堕落が出現するだけで、決して社会主義など創造することができず、いわゆる「プロレタリア独裁」などは存在せず、党の独裁になり、その結果は指導者の独裁とならざるをえない。およそ独裁は、残虐、欺瞞、汚職、腐敗の官僚政治と不可分のものである。」(560頁)『陳独秀著作集』(上海人民出版社1993年)
この二つの文章は、反民主主義的な党の独裁を批判している点においてよく似ている。
著者は、日本動漫によって中国の青年たちに「静かなる精神文化の革命」がおこっており、民主主義が学ばれているということを指摘したが、陳独秀もまた日本でブルジョワ思想を学んだあと五・四運動のとき新文化運動により中国青年たちの「精神文化の革命」をリードしていた。陳独秀が依拠していた雑誌は『新青年』だったが、本書は、日本動漫に影響された21世紀の中国新青年たちの「静かなる精神文化の革命」を見事にとらえた書である。現代中国の民主主義に関心を寄せる私たちは、この21世紀の中国新青年すなわち中国動漫新人類の動きから目を離すことができないだろう。■

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