書評 雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ101・食の安全』

投稿者: | 2008年4月5日

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書評
雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ101・食の安全』
(小学館ビッグコミックス2008)
杉野実
 『市民科学』に漫画の書評がのるのは、はじめてではないだろうか。「私のおすすめ3点」でアニメ『ケロロ軍曹』をとりあげた評者のことだから、そういうこともいつかはするだろうとみなさんも、なんていったら自意識過剰?...そんなことより、なにげなく書いたこの101巻という数字はやっぱりすごいってことで、どうすか?(おわかりかな?)、というところから話をはじめてみたい。評者は、年齢的なこともあって、『ブラック・ジャック』や『銀河鉄道999』をこのむ、いってみれば古典的な漫画ファンであるが、名作のほまれ高いこれら2作も、文庫版でそれぞれ17巻と12巻であるから、長さとしてはそれほど大したものではない。そもそも漫画は連載される場合がほとんどであるから、長いばかりで内容が貧弱というのは考えにくいが、実際に100巻をこえた作品はというと、『ゴルゴ13』や『こちら...派出所』(長すぎるので省略!)など、これまた名作のほまれ高いものばかりであり、『美味しんぼ』もつい最近その仲間いりをはたしたというわけだ。ごく近いライバル作品『クッキングパパ』も96巻で、結構いい線をいっているが、それより一足さきに殿堂いりしたというところか。
 『美味しんぼ』についてはご存じのかたも少なくないであろうが、101巻という長い年月のあいだにはやはりいろいろなことがあったので、ごく簡単にではあるがふりかえってみたい。主人公・山岡士郎は「東西新聞社」に勤務する新聞記者。のちに妻となる同僚の栗田ゆう子とともに、「人類の食文化を記録する」社の記念事業、「究極のメニュー」にとりくむが、その前にたちふさがったのが、士郎の実父にして、北大路魯山人を連想させる大芸術家で食の達人でもある、海原雄山(「うなばら」でなく「かいばら」です。)であった。誤解をふくむ確執にとらわれたかれら親子は、東西のライバル「帝都新聞社」(...って『相棒』にでてこなかったっけ?)をもまきこんで、「究極」対「至高」のメニュー対決をくりひろげる。こう書くといかにも劇画調のシリアスな展開を思いうかべてしまうが、実は士郎は寅さんや安浦刑事にもまけない人情家で、あちこちで他人のもめごとに首をつっこんでは解決し、男女の縁結びをして歩いている(そのくせ自分のことだけは全然わかっていないところもかれらにそっくり!)。途中でトレンディードラマ風の恋愛バトルがあったり、金上というできすぎた名前の悪人がでてきたりもしたが、士郎もいまでは父親になるとともに、仕事をうけつぐべき部下もあらわれ、公私ともに充実した生活を、ときにはかつての恋敵たちなどと馬鹿さわぎしたりしながら満喫している。雄山との対決はまだつづいているが、自分が子どもをもち、後輩を指導する立場にもたったことにより、父であり、「先生」とよばれる教育者でもある雄山のことを、以前よりは理解できるようになったのではと考えると、年齢をかさねた評者自身にもかさなるところがないでもなく、大変に感慨ぶかいものがある。
 『美味しんぼ』には以前にも、たとえば捕鯨問題などをめぐって興味ぶかい論争をまきおこしてきた「前科」があるが、残念ながらここではそういう「余罪」にまでふれる余裕がないので、以下ではもっぱら101巻にまとをしぼって書くことにする。その101巻には、「親の味・子の心」という、雄山・士郎親子のニアミス的な交流を「日本の洋食」にからめてえがいた、珠玉の短編というべき話も収録されているが、それについてもここでふれるわけにはいかない。で、ようやく本題たる「食の安全」である。「食品安全」が話題になっていたはずが、いつのまにか「中国たたき」(ときには「アメリカたたき」も?)に重点がうつってしまったことに疑問を感じているのは評者だけではないと思うが、そこは(ご存じのかたはご存じでしょうが)右からも左からも批判される『美味しんぼ』のこと、後述するように「日本人は」などの表現が頻出するのは気になるとはいえ、そんんな偏狭な民族主義におちいるでもなく、かといって、なにがなんでも無添加・有機栽培はすばらしいという熱狂的な宣伝をするでもなく、全体として均整のとれた、説得力のある議論を展開している。しかし批判すべき点もないではない。それでは士郎が、信頼する部下である飛沢と、その同僚で親友である難波とともに、「食の安全」を追求すべく日本全国で敢行した取材の成果とは、いかなるものであったか。
 「食の安全」冒頭で登場するのは、『食品の裏側』(東洋経済新報社。副題は「みんな大好きな食品添加物」!)の著者、安部司さん。無論実在の人物である(こういうことをよくやるんだよね『美味しんぼ』は。)安部さんが「講演で使う」数十種類の「添加物」をみて、飛沢は「高校のときの化学の実験を思いだすよ。」という。評者がインドに滞在していたとき、食塩・砂糖・クエン酸・アミノ酸だけで調味していた格安の中華料理店があったが、たしかに甘味料と酸味料と着色料と香料だけで「ジュース」がつくれるという話などは、それにもおとらず衝撃的だ。しかしそれにつづく、豚骨スープをつくる話などは、ちょっと注意して読まねばならないと評者は思う。厳密な意味での「食品添加物」と「食品」とは区別すべきだと、たしかに著者もことわってはいるのだが、スープの原料として壜入りででてきたものの多くは、実は野菜エキスやスキムミルクやホワイトペッパーや、さらにはネギやゴマなど、れっきとした食品である。リンゴ酸やコハク酸やリボヌクレオチド(RNAだ!)は添加物だが、それも食品から抽出したものではないのか。「どこに心がありますか!」はまだいいとして(これについては後述)、「どこに命がありますか!」はややヒステリックだと思う。液体甘味料の原料が遺伝子組み替えされたトウモロコシであることも言及されているが、遺伝子の実体が蛋白質に作用する核酸であることが、炭水化物の性質にどう影響するのかということも冷静に考えるべきであろう。しかし安部さんが、これまでの添加物「毒性」批判は容易に反論される安易なものであった、むしろ問題にすべきは、添加物の使用が塩分・糖分・油分の過剰摂取をまねくことだといっているのは高く評価できる。さきの「ジュース」の例のように本来なら「とても食えたものでない」ものが、添加物のおかげでたしかにおいしくなるのだという。
 そしてより大きな問題とみるべきなのが、「添加物が心をこわす」ということなのだともいう。それこそが、一見すると非科学的なようにみえて、実は大変に科学的な論点なのである。といっても、添加物を多く摂取している子どもは「切れ」やすい、などという、よくきく根拠薄弱な話ではない。いや、そういう話も言及されてはいるのであるが、より重大な論点は別のところにある。そもそも、食品添加物などというものをなぜ使うのか。
添加物をもちいた食品には、「安い」・「便利」・「日持ちがする」・「見た目に綺麗」・「味がこい」という五つの利点があるのであるが、そのうち主として最初の三点が、料理や食事に時間をかけたくない人々にとっては重宝しているのである。添加物にかぎらず一般に食品工業や外食産業などが、「女性の社会進出」などと関連して発展したという、肯定的にも否定的にも論じられる例の論点にここでたどりつくのであるが、ここで問題になっているのは決して長時間労働を余儀なくされている男女勤労者のことだけではない。
ここで登場するのが第二の論者、『変わる家族・変わる食卓』(けい草書房)の著者である岩村暢子さんだ。専業主婦でも「趣味やならいごと」に多忙だといい、さらに悪いことには、特に1960年以降生まれの人のなかに(評者もそうだ!)、家事に協力的な夫もふくめて、食費をけずってでも趣味や旅行などに金をかけたいという者が多いと、岩村さんはいう。そういう人々は妙に個人主義的でもあって、家族が、たとえば子どもがどういうものを食べているのかということにも、あまり関心をしめさない。楽しみは金で買えると思っている大人によって、希薄な人間関係のなかで育てられた子どもは、添加物が脳に影響しようがしまいが、心をこわされるのは当然ではないか、ということだ。そういうことが日本人の心をこわしていると著者は強調するが、グローバリゼーションのなかでアジアをふくむ「新興国」が成長する現在、これは日本だけの問題だろうか。
 
敵はグローバリゼーションだということになると一体どうしたらいいのか...いや、まだすべての論点をとりあげたわけではないので、あせらずにまずさきにすすもう。本書の後半は、むかしながらの方法で農漁業や食品製造をおこなっている人々の紹介にあてられているが、そういう具体的な実践の検討にうつるまえに言及すべきことがある。農薬も化学肥料ももちいる従来の(といっても戦後からの)農法は「慣行農法」とよばれているそうで、その用語もすごいが、各地の標準的な慣行農法で作物ごとにどのくらいの農薬が使用されるかということは、実は各県のホームページをみれば簡単に知ることができる。市民はなめられている、などとうがった見方をするよりも、ここは素直に、情報公開という潮流の恩恵がそこまでおよんだことに感謝する方がよさそうだ。さて『美味しんぼ』の取材は、特に最近では詳細をきわめ、そのために作者不在で休載が多くなり、また情報をもりこもうとするあまり本筋の方が希薄になるなどの弊害もでているが、その分だけ各地の興味ぶかい状況をよく知ることができる。本書でとりあげられたのは、鹿児島のノリ養殖・香川のサワラ養殖と醤油づくり・静岡の養豚と茶栽培や、千葉・青森・長野の野菜栽培などである。音楽をながしておくといい醤油ができる(日本古来の醤油には箏曲、なんだそうな!)、などという生産者の受け売りがそのまま書かれていたのは、ご愛嬌だとして不問に付すことにしよう。それよりおもしろかったのは、無農薬で茶の栽培をすると、病気にあわせて害虫もでてきて、病気の葉を虫が食べてくれるという話である。植物と菌類と昆虫が同時に進化してきたことを考えれば、これは決して奇跡ではない。むしろ生物多様性を無視した現代農法の方が生態学的に異常なことをしめす逸話ではないか。とはいうものの、コスト削減では現代農法に圧倒的に分があることもたしかだ。登場する生産者は口々に仕事と生活の充実をいうが、かれらはそれでいいとしても、同じ方法が多くの人々の行動原理になることは、やはりそのままでは期待しがたいのではないか。
 市民科学研究室は「科学と社会との関係」を研究するということであるが、このふたつのうちどちらがより重要かといえば、やはり社会に関すること、それも特に現代では経済に関することだ、というのが評者の見解である。自然科学の知識は勿論重要だ。そういう知識があればこそ、たとえば「反体制」側の文書であっても批判的に読み、その真価を知ることもできるのであろう。そして経済が重要だというのも、物質的にゆたかになることが最重要ということではなく、むしろその逆である。たとえば評者は数年前にテレビで、深夜の遊興施設に子どもをつれ歩いている親たちをみたことがある。そういうことは道徳の問題とみられがちだが、仕事がいそがしくて深夜でないと遊べないとかれらが、これもお金をはらってはいった遊技場でいうのをみていると、ではかれらはなんの仕事をしているのか、もしかしてやっぱり人を遊ばせる仕事ではないか、そうでなくともなんらかの意味で人々に「快適さ」を提供する仕事ではないのか、などと妙なことが気になった。現代ではたとえば遊ぶことも、お金をはらってサービスを購入し、そのサービスを懸命に享受するという活動になってしまったのではないか。人々が「必死に遊ぶ」ということをやめれば、労働時間をむしろへらすこともできるのではないか。こういう風に批判的に考察してみることが、本当の意味での経済学的思考だと思う。コスト的にはどうみても不利な有機農業を普及させるためのかぎも、どうやらそのあたりにありそうだ。「なにもしない」ことの貴重さを人々が思いだし、要するに生活にゆとりがでて、「コスト」なんて発想がそもそももっている馬鹿馬鹿しさにみんなが気づけば、有機野菜だって自然に普及するだろう、ということだ。...なんか調子にのっちゃったけど、本稿はそもそも漫画の書評だった。漫画は所詮漫画、所詮娯楽であり、しかもたったいま批判したばかりの、金をはらって買う娯楽である。えらそうに批評なんかしていないで、自分のすきなものを買って読んでいればそれでいいのだ。だがそれなりの知識でもって武装して、自由に批判的に読めるようになってこそ、楽しみもますというものではないであろうか。■

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