原爆調査の歴史を問う ~広島・長崎の原爆調査関係地訪問記 その2~

投稿者: | 2009年8月4日

写図表あり
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低線量被曝研究会・報告
原爆調査の歴史を問う
~広島・長崎の原爆調査関係地訪問記 その2~
柿原 泰(東京海洋大学、市民科学研究室・低線量被曝研究会)
低線量被曝研究会では、原爆投下直後から60年以上にもわたる原爆調査に関する歴史に取り組んでいます。その一環として、2009年3月21日から24日にかけて、低線量被曝研究会のメンバーとともに広島を訪れてきました。さらに瀬川嘉之さんは、25日から29日まで長崎へ足を延ばして来られました 。前号に掲載した瀬川さんの報告(長崎篇の前編) に続き、今回は、広島篇と長崎篇(後編)をお届けします。
今回、広島を訪問した目的は、後で触れるような史料調査も重要な目的の一つでしたが、まずは原爆調査に関係のあった場所に赴き実際に見て回ることを通じて、文献資料を読むだけではわからない、地理的なことを含めた感覚のようなものをメンバー間で共有すること、さらにはその経験の共有が今後の研究会で行なう議論をよりいっそう活性化させることを期待してのことであったと考えています。今回の訪問記は、訪れた場所についての簡単なメモという性格のものですが、読者のみなさまにも何らかの参考になれば幸いです。
ここで簡単に「原爆調査」とは何を指しているのかを少し説明しておきましょう。現在も被爆者やその子どもの世代の調査を続けている放射線影響研究所(以下、放影研と略記)、その前身のABCC(原爆傷害調査委員会)の存在は比較的知られていることと思います。しかし、それらは調査をするばかりで治療をしてくれない、アメリカはそれらの調査を持って帰ってしまった、などというよく見られる批判によってそれらがどんなものであったかをわかったつもりになってしまう傾向がいまだに残っているようです。原爆調査は、笹本征男さんが明らかにしたように 、原爆投下直後から、大本営調査団や陸軍省調査班をはじめ、多くの大学の研究者が動員されて行なわれ、敗戦後すぐに、学術研究会議原子爆弾災害調査研究特別委員会なる大規模調査も行なわれました。占領下、米軍の調査に協力して、調査が続けられ、そしてABCCの設置、放影研への改組を経て現在まで継続調査が続いているわけです。つまり、アメリカによる調査以前に日本が調査を始めており、また占領後も調査のかなりの部分を担ったのは日本の研究者や医療従事者でした。
今回の訪問は、そうした原爆調査に関係する場所のいくつかを見に行くものでした。
1. 呉――海軍の街で病院を巡る
21日に一足先に広島に到着したメンバーで、22日に呉を訪れた。呉市には、広島駅から電車で30分ほどで行くことができる。呉は、かつて呉鎮守府が置かれ、海軍工廠もあった軍港として賑わった所だが、いまでも街中に何かと「海軍」という文字が躍っているのには驚いた。
原爆調査の歴史を問う旅で、なぜ呉を訪れたのか? 原爆投下後、被爆者たちの調査を続けた際、呉は広島のコントロール・シティ(比較対照都市)として設定された 。そのため、ABCCの研究所が呉に置かれることになる。それが置かれたのが呉共済病院である。呉共済病院は、戦時中は海軍共済病院であった。現在の病院を訪れてみても、そのことを示すものは見つけられなかったが、今回の関係地巡りはここからスタートした。
図 1 雨のなか呉共済病院に向けて歩く
呉共済病院から済生会病院にも足を延ばしてみつつ、次に訪れる所を相談したところ、ちょうど日曜日に一般公開をしていると知った旧呉鎮守府の庁舎に行くことにした。旧呉鎮守府の庁舎は、現在、海上自衛隊呉地方総監部庁舎として使われている。案内役の自衛官に付き添われながらの見学なので、定型の説明を聞き、建物の周りを一通り回った程度であるが、高台から海軍工廠のあった場所を眺めることができた。
次に、戦艦大和の巨大な模型の展示で有名な2005年にオープンした大和ミュージアムこと呉市海事歴史科学館にも寄ってみた。来館者の多くは戦艦大和が目当てなのだろうが、私たちにとって興味深い展示としては、「呉の歴史」のコーナーがあり、呉という街の基本的な理解に役立ったし、「呉と原爆」に関する展示もあった。4階にあるライブラリーはこじんまりとしたものだったが、戦前の呉市街地図や呉市史を見たり、海軍軍医について書かれた最近の本を見つけたり、収穫はあった。
2. 広島平和記念資料館の企画展を見る
呉で遅い昼食をとった後、広島に戻ると、遅れて広島入りするメンバーと合流する予定の夕刻までまだ時間があるので、平和記念公園まで足を延ばし、平和記念資料館に行ってみた。すると、ちょうど地下1階展示室で企画展「廃虚にフィルムを回す――原爆被災記録映画の軌跡」 が開かれていた。何といいタイミングだろう(あらかじめチェックしていなかったのが問題だが)。わたしたちが取り組んでいる原爆調査と大いに関係のある企画である。
日本映画社が撮影した「広島・長崎における原子爆弾の効果」も上映されていた。筆者は2年ほど前に東京で開かれた映画祭でこの映像を見たことがあるが、また見ることができた。しかし、笹本征男さんがこれまで指摘し続けてこられたこと、つまり米軍にフィルムが押収されたことばかりを強調する「原爆神話」のひとつではなく、なぜ占領下でそのような映画を撮影することができたのかを問い、アメリカが必要とする原爆の「効果」調査への協力という性格があったこと 、そうしたことは考慮に入れられておらず、いまだに従来の「神話」を踏襲するものであったことは残念だった。
合流予定時間が近づいてきたので宿舎に戻り、夜は揃ったメンバーと広島在住の方々との交流会を行なった。
3. 広島市公文書館――都築正男資料を閲覧する
23日の午前中は、広島市役所のすぐ近くの大手町平和ビルにある広島市公文書館を訪ね、「都築正男資料」を閲覧することができた 。都築正男とは、東京帝国大学医学部教授でありかつ海軍軍医中将であった人物であり、原爆投下後、原爆調査の医学関係の中心人物である。都築資料の一部は、活字化されているが 、この『広島新史』に収録されていない資料を含めて現物を見ることができた。
同じビルには広島市立大学広島平和研究所もあるので、知り合いがいないか少し覗いてみた後、昼食をとる場所を近くで探した。
昼食後、午後は比治山にある放影研に見学の予約を入れていたので、それほどの時間はなかった。そこで、近くにある広島赤十字病院(原爆病院が併設されている)を近くから見た後、タクシーに乗って、比治山を目指した。
図 2 広島赤十字病院前にある1945年9月のころの写真
4. 放影研を見学する
午後に比治山にタクシーで上り、放影研を訪ねた。あらかじめ見学の予約をしていたため、広報担当の方が所内を案内してくれる。はじめに所内の一室で放影研の広報用ビデオを見せられ、その後、所内を一通り見学して回る、というコースであった。メンバーから多少の質問をしてみると、広報担当の方だと説明の難しい内容を含むものも多かったようである。こちらからの要望で、図書室でしばらく所蔵資料を見せてもらって、見学終了となる。
図 3 放射線影響研究所の入り口
帰りは、上ってきた所と反対の側に歩いて下りると、そこにちょうど広島大学医学部のキャンパスがある。まず初めに赤レンガ造りの建物が目に入った。行ってみると医学資料館とのこと。医学部キャンパスは、戦時中、陸軍兵器支廠だった所に1957年に移転してきた経緯をもち、医学資料館の建物は、兵器支廠時代の建物で最後に残った医学部11号館が取り壊されることになったとき、壁や石材を再利用し外観も復元して建て替えられたものだった。すでに夕刻で開館時間も終了するところであったが、ご好意で展示室に入ることができた。
そこを出て、キャンパス内を歩き、せっかく広島大学医学部に来たのだから、アポイントメントは取っていないものの、原爆放射線医科学研究所(原医研)を訪ねてみよう、ということになった。なかなか場所がわからなかったが、ようやく辿り着き、つてを頼りに事務室で教授の大瀧さんに電話してもらうと、わざわざ迎えに来てくださり、研究室に案内していただいた。さらに、会議室を貸してくださったうえ、研究所の国際放射線情報センターの川野さんを呼んでくださり、原爆・被ばく関連資料のことなど、有意義な話を聞くことができた。
5. 宇品を歩き回る
24日午前中、宇品地区を歩き回った。宇品に行ったのは、宇品港からフェリーで宮島(厳島)を経由し大野浦に行くというルートを考えていたためでもあるが、宇品地区には原爆調査関係地がいろいろとあるので、その跡地を見て回りたいと考えたからである。
宇品港は、日清戦争以来、多くの軍隊がそこから出兵していった軍港であった所であり、宇品地区はかつて陸軍関係の諸施設が多数あった。
県立広島病院の近くまで市電に乗り、そこから宇品港まで、歩きながら関係地を見て回ろうとした。まず立ち寄ったのは、郷土資料館で、そこは戦時中、食肉処理場・缶詰工場のあった陸軍糧秣支廠の外壁やレンガの一部を保存・再利用した建物であった 。郷土資料館は、あいにく当日は休館日であったが、入り口から入れる所まで入り込んで辺りを見ていると、親切な館員の方が出てこられ、少し話していると、宇品のことをいろいろと教えてもらうことができた。
そこを出て再び市電に乗って港の近くまで行き、しばらく歩き回ってみて、ようやく宇品中央公園にある宇品凱旋館建設記念碑(図4)や陸軍運輸部・船舶司令部の跡(図5)を見つけた。宇品凱旋館は、1949年にABCCの広島での研究所が開設された所である。1951年に比治山に移転している。
陸軍船舶練習部は、原爆投下直後から負傷者が集まり始め、臨時陸軍野戦病院(広島第一陸軍病院宇品分院)が設置された所であるが、その跡地を見つけることはできなかった。現在は、マツダの工場群になっているようである。
宇品港から宮島行きのフェリーに乗り、途中、船上から似島を眺めた。似島は、日清戦争後、大陸からの帰還兵の検疫を行なうために検疫所が設けられた所で、原爆投下直後から負傷者や死亡者が多数運ばれてきた場所でもあった。今回は眺めるだけで、行くことが
図 4 宇品凱旋館建設記念碑
図 5 旧蹟 陸軍運輸部・船舶司令部
できなかったのは残念である。そうして、宮島で休憩した後、さらに対岸の宮島口に船で渡り、そこから電車で大野浦まで行った。
6. 大野浦――大野陸軍病院の災害跡を歩く
大野浦の駅からバスに乗って数分、道行く人に尋ねつつ、何とか探すことができたのは、京大原爆災害調査班遭難記念碑(図6)であった。1945年9月17日、つまり広島に米軍が原爆を投下してから1月余り後のこと、柳田邦男の『空白の天気図』 でも知られているように、大型の枕崎台風が広島を襲った。この時、大野陸軍病院では、京都帝国大学医学部の面々が被災者の診察をしつつ、ここを本拠地として原爆調査活動を行なっていたのである。
図 6 京大原爆災害調査班遭難記念碑
大野陸軍病院は、大野浦駅の西の丘陵地にあり、もともとは陸軍の結核療養所であった所で、この当時は、原爆による被害者が約100名入院しており、近くの大野国民学校にも約1500人の被爆者が収容されていた。大野陸軍病院は、台風の影響により起こった山津波によって倒壊し、病院にいた患者、職員、そして京大の原爆調査班の生命が奪われてしまったのである。
大野陸軍病院跡の京大原爆災害調査班遭難記念碑を無事見つけた後もしばらく周辺を歩いてみた。途中、民間の方が自主的に建てた水害死没者供養塔を見学したりしながら、大野浦の駅に歩き、電車で広島駅まで戻って、再度、広島在住の方と懇談して再会を誓いつつ、今回の訪問を終えた。
今回の広島訪問は、研究会メンバーによる初の合宿であり、見学をしながらいつもよりもたっぷりとある時間のおかげで長時間にわたって多くの話をすることができた。さらに夜には、広島在住の方々との交流をすることもでき、たいへん有意義な旅であった。今回訪れた広島および呉は、かつての軍都(広島)であり、軍港(宇品港や呉)であったことが、実際に関係地、その跡地、遺構などを訪れてみることによって、あらためてその性格を想い起こすことができた。この経験をふまえて、今後の研究会活動を進めていきたい。
(2009年8月)

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