長崎原爆調査 予備調査旅行 

投稿者: | 2009年8月5日

写図表あり
csij-journal 026 segawa.pdf
長崎原爆調査 予備調査旅行 
2009年3月25日(水)-29日(日)
後編
瀬川嘉之(市民科学研究室 低線量被曝研究グループ)
放影研という不思議な機関の放射線影響調査
 財団法人放射線影響研究所、略して放影研は、広島と長崎にある。放射線をあびた原爆被爆者の生体にどんな影響が現れるかを調べる日米共同研究機関である。原爆被爆者だけを研究対象にしている、二つの国が公費を共同出資している研究所なのだ。原爆を落とした国と落とされた国、被爆した被害者の多くが所属する国と被爆の加害国。原爆投下が一度に大量の人々を殺戮した歴史的事件だから特別にその被害者だけを対象にした研究機関があってもおかしくない、のだろうか。問題はむしろ殺戮されなかった生存者で、生存したとはいえ、場所により状況により一定量の放射線をあびている。放射線はいったいどれくらいの量をあびるとどのような影響を及ぼすのか。動物実験である程度わかったとしても、人体ではどうなのか。今後も核兵器や原子力エネルギーや工業的放射線照射や医療や科学技術の道具として放射線と接していくつもりなら、ぜひとも知っておきたいところだ。研究対象にされている被爆生存者自身も自分のからだにどんな影響が現れるか知りたいので、よろこんで対象になっている・・・のだろうか。
 放影研で渡されたパンフレットにはこんな言い訳めいた記載がある。
「・・・当時の日本は連合軍の占領下にあったとはいえ、原爆投下の当事国である米国が被害者である被爆者を調べるということで、多くの批判や反発があったのは事実です。こうした不幸な時期のあったことを、ABCCの後を継ぐ私たちとしては申し訳なく思っています。このような事情はありましたが、多くの被爆者の方々がABCCの調査に協力してくださいました。そのお陰で長期調査が軌道に乗り、現在も続けられています」
具体的にどんな批判や反発があったのか、協力した被爆者あるいは協力しなかった被爆者はどんな思いだったのか。医療におけるインフォームドコンセントが言われるほどに、私たち自身もいつ研究対象になるかわからないというだけでなく、その研究の主体を見極めたいという意味でも興味あるところだ。
 ABCCとは「原爆傷害調査委員会」の英語名の略で、同パンフによれば、放影研の前身だそうで、「米国政府の(原子力委員会)の資金により、民間の学術団体である米国学士院が太平洋戦争終結後に設立した設立した機関(1947年広島、1948年長崎に設置)」で、「1948年からは厚生省所管の国立予防衛生研究所が参加して、日米共同研究という形で原爆被爆者についてのさまざまな調査が行われ」た。「もっとも、実質はABCCが主体であり、予算面でも大部分を米国側が負担」としている。
 笹本征男『米軍占領下の原爆調査』によれば、1948年には予防衛生研究所の支所として、広島、呉、長崎に原子爆弾影響研究所が設置されている。上記パンフにはこの記載がない。これは1975年に改組された放影研の前身ではないのだろうか。さらに、占領が終わる1951年まで6年間の研究費は総額3千万円、現在なら12億円相当という。米国が調べたから批判や反発があったとするのは、何か誤魔化している。
 放影研で調べている放射線の影響には、急性影響または急性障害と後影響または晩発障害の2つがある。多めの量をあびたときに、あびた直後から現れて、量の多さとあびた生体の状況によっては死にいたるのが急性影響だ。生存して急性影響から回復した場合や量が少なめでまったく急性影響がない場合にも、後になって、何十年もしてから影響が現れてくるのが後影響だ。後影響は広島と長崎の原爆から64年たった今でも、また、これからも調べ続けなければならない。後影響には本人が病気になるか、生殖細胞の被曝の結果、子供すなわち被爆二世に何らかの影響が現れるかの2つがある。放影研では、本人と被爆二世それぞれを対象にした大規模疫学調査と健康調査を行っている。どれくらいの量をあびるとどれくらいの人に後影響が現れるのか、国勢調査やがん登録を使って統計的に調べるのが大規模疫学調査だ。一方、本人や被爆二世が実際に放影研に来て、健康診断のような形で調査されるのが健康調査だ。放影研の部署として、疫学調査を行っているのが疫学部、健康調査を行っているのが臨床研究部ということになる。広島にはそれらのデータをもとに研究を行ってそれぞれの調査を支援する統計部、遺伝学部、放射線生物学/分子疫学部、情報技術部があったが、長崎には疫学部と臨床疫学部しかない。広島でも長崎でも放影研の玄関を入ると、病院のような消毒の臭いがして患者の格好をした人が歩いているのに出会うのは、健康調査が行われているからなのだ。
放影研 長崎研究所を訪れる
長崎の路面電車の終点のひとつ蛍茶屋で降りると、すぐ目の前の放影研の玄関で広報室の丸田孝一氏が出迎えてくださった。現在の長崎放影研には臨床疫学部6名、疫学部2名の職員しかいない。1993年からはアメリカからの常駐理事、97年からは日本側の常駐理事もいなくなった。この場所に4階建てのビルを建てたのが1982年、それまでは路面電車で2駅前の新大工町の長崎県教育会館にABCC時代から入っていた。
広島の放影研を4日前に見学してきたばかりで、あらためて説明することもあるまいと、丸田氏は見学者用の展示室に案内してくださった。原爆投下前後の長崎の航空写真を引き伸ばしたパネルや放影研の調査、研究の概要を紹介するパネルが並んでいた。健康調査は、数千人を対象に手紙を出して2年に1度、半日ほどかかる健康診断にお誘いし、受ける方はタクシーで送り迎えする。高齢化で対象者も減っているが、それ以上に受診者が減っているので受診率が低落傾向にあるグラフがあった。
パソコン上の長崎の航空写真に描いてある飛行経路をクリックすると、原爆投下数ヶ月後と思われるがれきの街を空撮するアメリカの戦略爆撃調査団の動画映像が見られる。映像に同期して航空写真上の飛行経路と撮影方向が動くので、どこの場所を撮っているかよくわかる。長崎大学工学部の建築系の大学院生が制作したソフトだそうだ。同じ画面で、ABCC設置前にABCC予備調査団の一員として来日したポール・ヘンショウが長崎で撮影した写真が見られる。息子が放影研に寄贈したものだそうだ。中の1枚には、爆心地近くの三菱の野球場で試合を見ている観衆が背景に写っており、1946年の12月12日にプロ野球のチームが来て三菱のノンプロと試合をした記録があるので、これら写真はいずれもその前後に写したものらしい。たしかにABCC予備調査団は12月9日から12月16日まで長崎に滞在している。昨日、見てきたばかりの山王神社の一本足の鳥居、長崎医科大学医学部や爆心地周辺を撮影した写真があって、60年以上の時を隔てても、同じ場所なのだと実感した。しかし、ヘンショウがどんな思いだったのかは見当がつかない。
展示室のガラスケースには、長崎医科大学医学部教授の調来助が被爆者の調査をした調査票のレプリカをはじめ、調教授の記録、ノート、日記、論文など資料が展示してある。調来助は原爆落下中心地にほど近い大学内にいたにもかかわらず、有名な『長崎の鐘』の永井隆らとともに生存し、その後も長く活躍している。被爆直後の1945年当時に5,558人の被爆者を調べた調査票は貴重品にはちがいない。帰りがけ、放影研の玄関に調来助の顔のレリーフがはめこまれているのに気がついた。長崎医科大学、長崎大学教授だったにもかかわらず、放影研とずいぶん縁が深いようだ。
ヘンショウが撮影した写真               放影研に展示している「被爆直後の航空動画」
後方に野球観戦の観衆の後ろ姿が見える  が見られるシステム
長崎発祥の地から市役所裏まで歩く
放影研の前の路面電車が走る国道をもと来たほうへしばらく歩いて、右に入りしばらく行くと鳴滝高校がある。鳴滝には幕末にシーボルトが住んでいて、多くの日本人に医学や科学を教え、日本の植物をはじめ文物を収集させ、鳴滝塾と称した。そこは鳴滝高校にほど近い丘の緑に囲まれたふもとにあった。残念ながらシーボルトの胸像と標柱以外に何も残っていないが、建物のあった石垣に囲まれた場所の空間があけてある。隣にあったレンガ造りの記念館は閉館時間を過ぎていた。記念館の横道を丘の上に上がると住宅地で、小道に入ってうねうねと行くと、ひょいとルイス・デ・アルメイダのえらく立派な碑がある。戦国時代、長崎にキリスト教を伝えた人で、その後継者によりこの場所に長崎最初の教会が建てられたそうだから、立派なのもうなづける。アルメイダは大分で日本初の西洋式の病院を建て、西洋医学を伝えた人でもあるようだ。こうして見ると、このあたりの土地は医学と縁がある。
碑の横の坂を上がっていくと、春徳寺というお寺があって、教会の跡地が江戸時代のはじめにはお寺になったようだ。山門の向かいの楠はまた巨大で坂からせり出すように生えている。ここからは、長崎の中心街から港まで見渡せる。春徳寺の裏山は戦国時代以前から長崎氏の居城で、長崎氏がいたから長崎なのか、長崎にいたから長崎氏なのかわからないが、このあたりが長崎の発祥地なのはまちがいない。お墓の並ぶ裏山は唐通事、東海家の凝った墓をはじめ、長崎奉行や医師の墓が立ち並んでいる。唐通事は今風にいうなら中国語通訳で、長崎と言えばオランダのイメージがあるけれど、中国人も相当たくさんいて、中国との交易も盛んで、中国語通訳の地位も相当高かったのだろう。
山のお墓から坂や階段の小道をくねくねと歩いていると、路地で子どもが遊んでいたりして、なつかしい感じがした。明後日に行く西山方面を確かめようと、その方向へ降りていったつもりが、思いがけず長崎県済生会病院の前へ出た。新築工事が終わり際の感じだ。広島の初日に呉のABCCがあったという呉の済生会病院を訪れているので、偶然だろうが、少し気になる。翌日に行く日赤長崎原爆病院がもとあったのがこのあたりらしいので、済生会病院は赤十字病院の跡地かもしれない。
西山方面は右側だなと確認して大通りを渡り、しばらく歩いて右に入ると松森天満宮の境内に出た。江戸時代につくられた職人尽の浮き彫りが有名らしいが、目立つのは日露戦争の戦利品の砲弾で時の陸軍大臣寺内正毅による説明書がある。横には卓袱料理が有名な古くからの料亭があって、富貴楼の名は伊藤博文によるらしい。原爆投下直後の9月に九州帝国大学の篠原健一らが爆心地付近や西山方面の放射能を測定したときに、泊まったのがこの富貴楼だ。諏訪神社の前は素通りして歴史博物館のあたりをうろついていると暗くなってきた。公会堂前の停車場から路面電車に乗ろうと歩いて行くと、市役所の裏に一軒だけ居酒屋の明かりがあり、食事もできそうなので入ってみた。「憩」という名の店であった。
松森天満宮境内の砲弾                   富貴楼外観
日赤長崎原爆病院から平和祈念館へ
3月28日土曜の朝、宿でテレビを見ていると、昨夜食事をした「憩」が50周年で紹介され、先代を引き継いだおかみが出ていた。1月に記念祝賀会をやり、市役所裏なので市長をはじめ市役所職員が常連らしく、挨拶をしていた。1982年の大水害のときに炊き出しをした感謝状が出てきて、長崎は原爆の町でもあるが、水害の町でもあるのだと思い出させてくれた。明日行く西山の貯水池のダムは水害対策で二重になっている。そのあとにこれも偶然だが、呉の旅番組で私たちは入らなかった大和ミュージアム横の海上自衛隊の潜水艦実物展示の中を紹介していた。
これもまた偶然だが、昨日の長崎新聞に今日行われる2つの催しの紹介が並んで載っていた。一つは地域がん診療連携拠点病院になっている日赤長崎原爆病院でがん治療について原爆病院の医師が講演するがんフォーラムがあるという紹介だった。もう一つは原爆資料館で朗読グループが被爆体験の手記を9作品ほど朗読するというものだった。がんフォーラムは1日だが、朗読は午後なので、がんフォーラムは午前だけにした。残念ながら原爆病院医師による肺がん、肝臓がんの講演は午後なので聞けず、午前の福岡にある九州がんセンターのがん専門看護師の講演だけになった。講演後のアトラクションとして行われた銀屋町鯱太鼓という町の若者たちによる太鼓演奏は腹に響くすばらしいものだった。これも1982年の大水害を契機に秩父屋台囃子などをならって人々を励まそうと始めたものだそうだ。
昼前に原爆病院の医師からマンモグラフィの乳がん検診を勧める話があった。長崎県の受診率は低いほうなのだ。マンモグラフィの放射線被曝の影響について触れられることはなく、長崎の原爆病院でもがん検診は有効に決まっている前提でいることはわかった。現在の原爆病院は爆心地の南1km以内で倒壊した建物の写真がよく掲載される三菱製鋼所の跡地に1982年に移転新築された。相当広大だったと思われる三菱製鋼所跡地とおぼしきJR浦上駅に近いこのあたりには現在、長崎新聞社や長崎文化放送がかたまってある。広島には原爆前から日赤があって後に原爆病院となり、長崎は1956年に市立原爆病院の形式で始まったところにちがいがある。
昼に駅前のJTBで帰りの航空券を受け取りに行かなければならなかった。駅前の大きな歩道橋の上で昨日平野伸人氏の事務所で会った高校生が感心にも「高校生1万人署名活動」を行っていたので、JTBの場所や西山方面行きのバス乗り場などを聞いた。
午後の原爆資料館での朗読の後、資料館と平和祈念館とどちらから見ようか迷ったが、平和研究所での鎌田信子さんの一言と「長崎算盤と和算書展」という特別展をやっている歴史民俗資料館が平和祈念館側にあったので、そちらを先にした。中国から伝わってきた算盤もまず長崎からで、国際的交易の町長崎で算盤が発達したのもうなづけるところだ。平和祈念館は水を媒介にした祈りの場になっている。ここには原爆死没者の名簿と遺影が納められ、直接被曝した方はもちろん、2週間以内に被爆地に入った入市被爆者と称される方や救護活動をされた方など、被爆者手帳の所持も亡くなった時期も問わず、現在の名簿数は14万人以上になるそうだ。情報コーナーの書棚で被爆者医療の活動をした医師のひとりとして著名な於保源作は佐賀出身で源作の名は江藤新平の叔父の名から取ったなどという、ここで見なくてもいいような情報に目を留めていて資料館を見る時間がすっかりなくなってしまった。
平和祈念館の水盤 背景に金毘羅山
西山方面を歩く
原爆落下中心地から東をのぞむと金毘羅山があり、その山を越えた向こう側に西山貯水池がある。爆心からは約3km。直接放射線をあびた被爆者認定の範囲が被爆時3.5km以内にいたかどうかとされるように、3km離れしかも山に隔てられていると直接の放射線照射はほとんどないだろうと推測される。当日は東北東へむかう風が吹いていた。粉々になった爆弾本体の残がいはそれ自体が放射線を出す放射性物質である。中でも中心部のプルトニウムの残りやプルトニウムの原子核が二つに核分裂してできる新たな元素の核分裂生成物は、強烈な放射線を出す。爆発でできた雲はこれらの放射性物質を含んだまま風に流され、ちょうど金毘羅山を越えた西山貯水池周辺に雨となって降下した。原爆炸裂の瞬間に放たれる放射線は、桁違いに最も大量だとしてもその一瞬だけだ。降下物中の放射性物質はしばらく放射線を出し続ける。爆発直後の爆心地付近にも放射線で誘導された放射性物質があって、しばらく放射線を出し、直接被曝していない入市者らをも被曝させた。西山地区にはそれと匹敵する被曝の可能性があった。
長崎最終日の日曜は西山方面へ行ってみようと当初から予定していた。バスに乗ろうと歩いていると再び歴史文化博物館に着いてしまった。昨日の原爆資料館でこの近くに原爆のとき県知事らがいたという防空壕があるとの情報を得ていたので、ついでに見て行くことにした。空襲警報が発令されると県の要員が集まって指揮をする防空本部で、このあたりの地名をとって立山防空壕とも呼ばれている。広島の次は長崎の可能性もあり、県知事が避難を検討する会議を始めようとする、まさにその瞬間、原爆が落ちたそうだ。木材の外側にモルタルが塗られたつくりで60年以上経って天井の落ちた部屋もあるので補強して保存し、2005年から公開している。
この横の階段を上がって諏訪神社の裏手にあたる立山地区を歩いていけば西山方面に行けそうなので、バスはやめることにした。上り下りはあっても途中景色がよいのでそのまま2,3km歩いて西山貯水池の水の出口に当たる西山ダムに着いた。貯水池はくの字に折れ曲がった形をしていて、折れ目のところが西山ダムになる。今はどれだけまかなっているか知れないが、原爆当時は長崎市民の水道水源でもあった。とはいえ、当時は井戸の使用も多かった。それにしても水源の放射能汚染は問題のはずだ。ここからダムの上を渡って対岸から反時計回りに貯水池の周りをほぼ四分の三周した。ダムの対岸は道のない山で貯水池には近づきにくい。残りの四分の一のくの字の一方の先に、1945当時、九州帝大の篠原健一らの測定で最も放射能が二番目に高かった場所がある。放射能が最も高かった場所の手前で循環バスがちょうど来たので、市内中心部まで乗った。西山へは再度調査に出かけたいものである。■

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