金丸佐佑子さんをお招きして

投稿者: | 2006年9月4日

食の総合科学研究会
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 5 月10 日の「食の総合科学プロジェクト勉強会」では、講師に、大分で伝統食工房「台所の家 とうがらし」を主宰されている金丸佐佑子さんをお招きし、お話を伺いました。今回はその内容をご紹介します。
 はじめまして、金丸と申します。九州の大分から参りました。私が今、感じていることやそれから実際にやっていることをお話しようと思っています。
 現在何をしているかと申しますと、近くの短大で小児栄養学と郷土料理を取り入れた調理実習の講座をもっております。それ以外に「台所の家 とうがらし」というものを建てまして、その場所で私の身の回りにある、おふくろの味や地域の郷土料理、あるいは地産地消の材料を使った料理などを作って、食べて、記録して、発展させていくことをしています。たいしたことをしているわけではないのですけれども、私にとってはワクワクするような毎日を送っていて、ここ何日か家を空けておりますので、この数日の間に向こうでは何かしら回りの景色や季節が変わってしまうのではないだろうかと、ちょっと心配になるくらいに楽しい毎日を過ごしています。
 このようなことを始めたきっかけは、小さいときからよく「男の子だったら良かった」と言われていましたので、大人になったら男の人と同じ土俵に立って勝負をしたいと思っていたのです。ところが、気がつきましたら女子大の家政科の食物学という、最も女性らしいところにいたのですね。進路変更しようかと迷っていた5 月に友人と一緒に喫茶店に行き、アイスクリームを頼みましたところ、そのアイスクリームにウエハースがついていました。ウエハースのついてきたアイスクリームは初めての経験で、溶けたアイスクリームをすくって食べるためにあるのだろうか、と疑問に思いましたが、結局何もわからないままそのときは過ごしてしまいました。数日後、調理科学の講義で「冷たいものをずっと食べていると口の中が麻痺してしまうのでときどき休憩しなければならない。そのためにウエハースがあるのです」と教えられまして、アイスクリームにそんな科学があったなんて、たかがウエハースだけど、されどウエハースだと気づいたのです。
 食べることぐらい、と馬鹿にしていたけれども「ぐらい」と言うものを知らない私のような者がたくさんいるはずだから、私はそのような食べ物の知識を伝える者を志そうと思いました。そのためには高校の家庭科教師が良いと考え、進むべき道が決まりました。その日から、飲食事典という本を毎日毎日読み、雑学をたくさん仕入れ、教員になったのです。
 教員になりびっくりしたのが、教科書を開けましたら西洋料理、中国料理、日本料理と3 つに分かれていて、大分県の料理のような郷土料理は一切出てこないのですね。私は、なぜ日本人が中国料理、西洋料理、日本料理という3 分割を学ぶのか不思議に思いました。さらに、教科書は北海道も鹿児島も同じ献立なのです。数学が同じであるのはわかりますが、家庭科が同じというのはなんだかとても奇異に感じたのです。先輩の先生に「大分県の料理とか出ていませんよね、教科書って変ですね」と申し上げたら、その方から「教科書が変というより、そう言うあなたのほうが変よ」と言われてしまいました。当時の日本はちょうど高度成長期にさしかかっていた時期だったため、日本はヨーロッパやアメリカの真似をする、地方は東京や京都を真似するのが普通だったのです。だから私のような考え方は、突拍子のない発想だったようです。
 また、教員になって16、7 年くらい経った頃にもちょっとしたきっかけがありました。それは学校の校庭に梅の実がいっぱいなっていて、ただ落ちてしまうのはもったいないので毎年梅干をつけていたのですが、ある年、梅酢が上がらなかったのです。何で梅の酢が上がらないのかなぁと思っていたところ、ある生徒に「テレビでヘタを取っていたけど先生はとらなかった」と言われました。それを聞き、母は一回一回取っていたかしらと疑問に思い、母に聞いたら「一斗も二斗も漬けるのにそんなものを取る暇なんかない」と。それで母が漬けた梅の壺の蓋を開けて見ましたら下のほうにヘタが少し落ちているのですね。それを見て私は母が「頬紅をさした梅を漬けなさい」と言っていたのを思い出したのです。熟れた適期の梅にはヘタは付いてこないのです。そのときに思ったことは、教わる相手は教科書でもない、有名な料理専門家でもない、その地元のその道の専門家に聞くことが一番正しいことだとわかりました。
 そこで、足元の料理を勉強する会を作ろうと生徒と話をしまして、子供や孫たちに伝えたい料理を残そうと、伝承料理という言葉を使って、メモを残していくことを毎年継続していこうということになりました。それがこういった関わりになったわけです。
 10 年ほど前に「台所の家 とうがらし」を作りました。その理由は、伝えたい料理を勉強しようと若い先生たちを私の自宅に呼んでいたのですが、勉強会の途中で回覧板が回ってきたり、隣のおばちゃんが遊びに来たりすることがありますので、普段の日常食を日常の場で作っているという感じで、ありがたみがなくなってしまいます。さらに、学問をしているような気にもならないのです。だから、日常食を非日常の場で作る場所がほしいと思い、「とうがらし」を建てました。
 なぜ「とうがらし」という名前をつけたかと言いますと、小さい頃から私の母や祖母は「唐辛子の育つ家は栄える」と言うのが口癖でした。唐辛子の青い葉っぱは佃煮とか味噌漬けにできるし、青い実からはゆず胡椒を作れるのです。赤い実は冬は白菜に春は高菜に夏はヌカ床につかうのです。だから唐辛子を植えると言うことは、何をいつ作るかの一年の台所の計画が頭の中に入るって言うことなのです。母はよく「計画を立てられる人間でないといけない。計画表が作れない人間はいつになってもできない。計画通りに行かないときは、計画が駄目になった時点でまた計画を立て直せばよい。人間の能力というのは、何年先までの計画が立てられるかを言うのよ」と言っていました。だから「とうがらし」という名づけたのは、人になぜと聞かれる度に人に言うのではなく、自分自身に唐辛子のようにきちんと計画的に生活しているのか、先の見通しを考えているのか、では今何をすればよいのか、ということを問いかけられるからなのです。
 「台所の家 とうがらし」では古い料理を作っていますが、アメリカのカントリー風な建物にして、意外性を持ち合わせています。それを作ったのが10 年も前なのですが、建物のデザインがかなりユニークだったものですから、雑誌の取材もありました。雑誌を見たイラストレーターの人が訪ねてきてくださって、建物の形は本でわかったが、そんな変わった建物を建てた人に会いたい、といらっしゃったのです。そのときはまだ私は教師をしておりましたから、とりとめのない話をして、とりとめのない料理を食べたと思うのですけども、帰り際に「5 年後は金丸さんの時代ですよ」と言われたのです。「5 年後は何が変わるのですか?」と尋ねたら「たぶん普通の生活が珍しい時代が来る」と言われたのです。魚を買ってきて炊いて食べたり、野菜を作って食べたりする普通の生活がどうして珍しいのかなぁ、と当時はよくわからないままでしたが、5 年後に私が退職をしましたら、「あぁ、そうなのだ」と思うくらいに私の背中を風が押すのです。去年は食育基本法ができ、法律で食べることを決めるなんて本当はおかしいことなのですけども、そんな変な時代になって来たわけですね。
 大学の先生の言っていることって正しいのですけども、専門分野が行き過ぎていて、足元の生活から離れているんじゃないかと思うし、隣のおばちゃんやおばあちゃんたちと話していると、普通の生活そのものを送ってはいるんだけど、知識と結びつける感覚がないというか。ですから、その両方が必要だと言うことになると、普通の生活をしながらも、ちょっと理屈っぽいことが言える私の出番なのかな、と思うのです。
 大分県の食の中に「豊の国の団子汁」というのがあります。なぜ「豊の国」かと言いますと、東北のほうでしたら米ができた後は雪の中ですよね。ところが大分の場合ですと、お米ができてその後に麦ができるのです。だから麦は余分に作ることができ、「豊」になるのです。「豊の国の団子汁」というのは、小麦粉に塩を入れてこねて、寝かしておいてグルテンができたら、引っ張って、ちぎったり延ばしたり丸めたりと地区によって形に違いはありますが、できたものを名古屋のきしめんのようにして食べるのです。
 それをまずみんなで作り、食べます。それから、子供たちに問いかけるのです。「なぜ豊というの?」「なぜ小麦粉を寝かせるの?」「ほかの粉だったらどうなの?」など。何で粉を引っ張ったのだろう、他のやり方で作ってみよう、米の粉だと引っ張れないことに気づくのです。また、団子汁に入る具材についても同じような問いかけをします。例えばごぼうでしたら、「料理していると手が黒くなっていくけれどもどうして?」とか、「黒くならないにためにはどうしたらいいのだろう?」とか。あるいは、「なんでごぼうだけが『ささがき』と言うのだろう?」とか。それから大分県は、日本一であり同時に世界一でもある「しいたけ」の大生産地なのですが、そのしいたけの原木とかこまうちとかどうやったら出てくるのかとかも面白い。また、原木で作ったしいたけはおいしい。また、しいたけにはコウシンとかドンコがある等、ワクワクするようなこともあります。それから、お味噌は麹を使いますよね。麹の甘さとかふわふわとした感じとかは、原風景として非常にいいものを持っています。それが昔は各家庭にあったということは、バイオの学問を各家庭が持っていたようなものだという素晴らしさに気づかされます。「何で味噌はあるのに醤油は作らないのだろうか」などと、一杯の団子汁の中に、「なぜ」って言うものがいっぱいあるのです。
 勉強会に来ている小学校の先生たちは、インターネットなどで資料や文献を集めたりするのは得意です。でも団子汁の話をすると、理屈を並べるだけではいけないと言うことに気づいてもらえます。私が思うところ、食べて、「なぜ」をいくつ引き出せるかが指導力の差です。たった一杯の団子汁から、あなたは「なぜ」をいくつ出せるのか、先生として10 出せるのか20 出せるのか。20 人も生徒がいると、みんなそれぞれ違うものに対して「なぜ」を持つのですよ。小麦粉を面白いと思う人もいれば、しいたけがおもしろいと思う人もいれば、切るのが面白いと思う子もいるのです。それが教育の原点だと思います。教科書や参考書は読めばいつでもわかるのです。教科書などには書いてない、そのあいだにあるワクワクとか、「なぜ」っていうのは、一生自分自身の生活に興味を持ち続けることだし、そのために私は、そのような「行間の授業が大切だ」って思っています。
 茹でて干してカラカラになった中身をまた水に戻して炊く「干ち栗(かちくり)」というものがあります。これはえもいわれぬおいしい味がします。ところが私が作った「干ち栗」は、なかなか形よく殻から取れないのですね。近所のおばあちゃんに、「どのくらい茹でたらいいの?」とか「干すのはどうすればいいの?」と聞くと、答えは全て「適当じゃわい」なのです。私が「わからない」と言いますと「先生、お得意の行間だ」って言われてしまいました。私たちは、栗に1、2、3、4、5 と茹でる時間を書いて、それを茹で干しあげ、割ってみてどれがいいかを検討したのです。そうすると、栗の大きさによって異なりますが、理想的な茹で上げ時間がわかりました。つまり、ずっと引っかかっていたことを、何年もかけてみんなの力で解決したのです。人が見たらそんな「干ち栗」の茹で時間なんてどうでも良いもの。でも、そこに集まっている人たちは盛り上がります。それが行間であり、「なぜ」を与えることなのです。
 食教育の大切なことの一つには、食教育と言うことのひとつの中に、「なぜ」をどれだけ盛り込ませるのかだと思うのです。答えを教える必要はないと思います。これは理科につながることだし、社会科につながるし、いろいろなことにつながることだと思うのです。日常茶飯に学問のタネがあると思います。
 地元の人が良く食べる料理で、「干ち海老(かちえび)ちらし」というものがあります。この料理は、海老を茹でて干してたたいた剥き海老を、ご飯と一緒に炊くのです。普通のお寿司は炊いてから混ぜますよね。それを炊き込みにしておいて、出来上がったご飯に酢を混ぜるのです。えびの味のしたご飯に合わせ酢をして、それにしいたけを炊いたものと甘く炊いた煮豆が入ります。あとは季節によって、蕗が入ったり、たけのこが入ったり、レンコンが入ったりします。
 なぜ、そういうご飯ができたかと言いますと、海老としいたけと豆と言うのは昔から保存食で、冷蔵庫が要らずにいつでも手元にあったこと。「干ち海老」は、明治初期に、この地域の学者が中国に行って干しえびをみて、産業になると思い、持ち帰ってきたこと。私たちが住む宇佐平野は降雨量が少なく、干すことに大変適していた土地であったことから、加工業が発達し、「干ち海老」が生産されるようになったのです。最盛期には20 何軒もの「干し海老」をつくる加工業の海老舎というのがありました。つまり、「干ち海老」を勉強することは、先人が学んできた郷土の歴史を知ることなのです。また、平野に流れている3 本の川を山間部の人たちがきれいに守っていたから下流の人たちが海老をたくさん取ることができ、干ち海老がたくさん作られたのです。それまで私たちはふだん気にもしなかったこの料理を通して、水を守ってくれている人がいることや自然保護、エコの問題も同時に学ぶことができます。
 単にレシピがどうとか、おいしいとかの問題ではなくて、加工業とか、先人の知恵とか天候のことであるとかが、料理の中にすべて凝縮しているのです。なぜここの地にこういう料理があるのか、そこには必ず背景があるはずです。その背景をもういっぺん探したら、面白いと思います。
 もう一つ付け加えますと、貧乏なときは麦飯が一番下で、その次がちょっと気張って米飯で、さらに気張るときは干ち海老、ごぼう、しいたけなどを入れた炊き込みご飯になるのです。もうちょっと気合を入れるとき、それに酢を合わせてお寿司になり、さらにそれをもう一手間かけてお稲荷さんに入れるのです。つまり5 段階になっているのです。母が作る料理の段階を見て、子供心に、今日来るお客さんはちょっと大切な人だから頭を下げておかなくちゃいけないって思ったり、あるいは自分の誕生日に4 番目のお寿司を作ってくれたら、この忙しいのにそんな料理をしてくれたことはありがたいなと感じて、愛されていることがわかるわけですね。だから、食教育の大切なことの一つとして地元の食を作って食べることは、地域を愛し、地域に愛され、自分が家族に愛されているという、生きる自信を教えること。あるいは、地域に対する誇りを教えることだと思うのです。
 食文化の伝承というテーマで、以前、国立民族博物館の石毛直道先生とお話する機会がありまして、先生がおっしゃるには、コンビニやデパ地下などの社会の食事と、家庭で作る食事のどちらか片方だけに、と言うことにはもはや今の時代はできないので、「家庭の食卓」と「社会の食卓」とをどうやって折り合わせるかが、今後の課題だとおっしゃったのです。私はそれにさらに、お祭りなどを通して、子供たちは自分が地域に愛されているのだと教わる「地域の食卓」を付け加えたいと思っています。
 今は徐々に省略され、なくなりつつありますが、家ができたときに餅まきをするとか、子供ができたら初節句のお餅を配るとか、日ごろ近所の人たちと話をする機会がなくても、そういう行事を通じて「大きくなったな」とか「このごろあんた、どうしていた」などと声を掛けてもらうということが本当はすごく大切なことで、そのようなときに、家庭に愛され、地域に愛されていることに気づき、その地域を誇りに思えるのではないでしょうか。私が良く使う言葉に「型破りと型無し」と言う言葉があります。型を破っても、間違っていたら元の型に戻れるのですが、もともと型のない人は、元に戻りようがないのです。格式のある家でしたら、型がちゃんと家訓のような形であることもありますが、一般の家庭には型は何にもないのです。でも、地域に型があって、そこで愛されていたなら、また地域に戻ってみようかとか、隣のおばちゃんに教えてもらおうかと思えると思うのです。その型を、食べることからスタートすればいいなって思うのですよ。理屈ではなくて。子供と触れ合う機会があって、必ずどんなところにも地域の食べ物がありますし。その上で、栄養とか生活習慣病とかいろんな問題を考えていくべきなのではないでしょうか。私は家族の食卓や地域の食卓を復活させることが、自分たちの生きているその型になるのだと思っています。
 しかし、大名家の記録はあっても、全体の90% くらいを占めている庶民の生活の記録は消えて何もないのです。なぜなら柿の文化や野草の文化はみなさん持っていても、貧乏たらしいとか恥ずかしいとか言われ、そう思ってしまい、だんだん消えていっているのです。日本が豊かになり、普通の人の食を見直そうということになって、かろうじて残っている私たち世代の知恵をこれからも絶やしてはいけない、今頑張ってフィールドワークをしてその記録を残さないと消えてしまうのではないかと思っております。
 母が梅干をつけるときに、シソを揉んで最初にできる絞り汁をコップに入れておき、そして全て片付けが終わったら、鼻の脂をちょっとつけて、絞り汁の中に酢を入れるのです。そうすると赤く変わります。「なぜ」と母に聞くと「まじないを言ったから」とだけ言うのです。「そのまじないを教えてほしい」と母に言うと「勉強していると言えるようになるよ」言いました。この体験はその後、いろんな興味を持つことにつながり、感動することや、学ぶ楽しさを教えてくれました。しかし、今の教育では「なぜ変わったのか」と質問すると、すぐに原理の説明がされてしまいます。もし、私自身、そう教えられていたら「あぁ、そう」で終わったと思うのですよね。それからもうひとつ。私の住む近くの海岸の遠浅のところでは、マテ貝という貝がとれています。「マテ貝のご飯はおいしいですね」と、皆さんが言うのですが、「おいしいだけではだめなのですよ。どうしてマテ貝ご飯が食べられるのかと言う話をしないと」と、いつも話をします。高度成長期にほとんどの遠浅の海は埋め立てられ、工業団地になりました。ところが、私が住んでいる場所はその波に乗り遅れ、工業団地にならなかったので遠浅の海が残っているのですよ。「遠浅が残っていて良かったね」と言ったら、年老いた漁師が「よかった、これは漁業の原点だから」とおっしゃった。「何が原点なのですか」とたずねましたら、「昔は木造船だったので、時々船の底をひっくりかえして船の底を掃除し、乾燥させなければならない。岸壁では重機のない時代なので大変だったから、遠浅に持ってきてひっくり返し、乾燥して、修理をして、そうしてまた出て行った。その間が休漁期になっていた。だから漁獲の循環がうまく回っていた」のだと。さらに「それがプラスチック船になって、工業団地が立ち並び、今は干す必要もないから休漁期もない。重機もあるから岸壁でもどこでも不自由はない。その結果、どんどん漁獲量が減って漁業が衰退した。今は自然と仲良く暮らしていないんだ」と言うような話を聞きました。今さら元に戻れというのは無理な話だけれども、そのように「自然と共に生きる」ということがいま、なくなっているからあえてそれを勉強するには、マテ貝はいい材料であり、私がその料理を出すときはその話を伝えています。
 それに、食べ物のない場所で話を聞かせても「ふ~ん」で終わってしまいますが、食べながら話すとみんなの心に残るのです。だから私はいつも料理を余分に作り、各自の家へ持ち帰ってもらいます。持って帰ったら否応なしに家族に食べさせる。そして話をすると、話が広がるじゃないですか。自分だけ食べて帰って、今日こんなの食べたのよ、これが漁業の原点よ、なんて言っても誰も聞かない。でも、食べたら聞きますよ。だからちょっと余分に持って帰って楽しみましょう、ということをしているのです。
 このような活動をしていますと、皆さん、意識は今までよりも少しは変わりますね。定期的に勉強会を持っているのは学校の先生とか栄養士さんで、一般の保護者の方は年に一回とか、たまたま一回来るとかです。しかし、みなさん今まで何の気なしだったのが、少しは「ハッ」と思うようですよ。
 しかし、行政は食育基本法と言っているわりには学校給食は効率とか経済性を考えて、共同調理場になっています。言っている事とやっていることが違うのです。学校給食の栄養士さんたちはすごく勉強していて、何かをしなければいけないという意識を持っています。大分県にも、県・市単位で条例ができ、食育ネットワークというものもできています。学問的には食育はすばらしいとか、それに関する資料はたくさん集まったけども、何を伝えたいのかと言うところでの生活感がなく、県や市の計画表はできていても、実践するところがないのが現状なのです。
 「なぜ」をたくさん持つこととか、郷土料理のように伝えたいことをきちんと一本筋が通せればと思うのです。伝える道具として、食は非常にやりやすい。何種類も料理はできなくていいのです。伝えたいものは何かと言うことがその家にひとつあればいいのではないかと思うのです。
(市民科学第14号 2006年9月)

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