【書評】ソニア・シャー『人体狩り』によせて

投稿者: | 2007年6月6日

写図表あり
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第三世界の「人間モルモット」
~ソニア・シャー『人体狩り』によせて~
杉野実
 われわれの健康を守るには医薬品が欠かせないが、その医薬品の開発には、治験という名の「人体実験」が不可欠である。カナダ在住のジャーナリスト、ソニア・シャー氏は、そのあたりの事情について、「わたしを緊急の帝王切開から救い、アレルギー性喘息の息子の呼吸を助け、母のホルモン不全を治療した医薬品はみな、何百人いや何千人もの被験者で試験されてきたからこそ、自信をもってわたしたちに投与されているのであろう。
そういう有用な医薬品の前には、数えきれないほどの失敗した医薬品があり、そのそれぞれにも被験者がいて、そのなかには害悪をうけた者もいるはずだ。」と、自著紹介ホームページのなかでのべている。だがそれにしては、医薬品の治験で事故がおこったなどという話をあまりきかないのはなぜかと、疑問をおもちになったことはないであろうか。
新聞などにたまに広告がでているから、日本でも治験がおこなわれていることはまちがいない。しかしあの薬害エイズ事件をおこしてしまった日本で、それほど(実際の使用以上に?)安全な治験しかおこなわれていないなどと、本当に信じることができるのであろうか。ベッツィー・モデル氏は『インターナショナリスト』サイトでのシャー氏へのインタビューに、同様な疑問はアメリカでも感じられると書いている。この疑問に対してシャー氏がだした答えはおどろくべきものだ。いわく、いまや多くの治験は発展途上国の、「どこかよそで」とはいえない人々に、「下請けにだされて」いる!
 ソニア・シャー(Sonia Shah)氏は近著『人体狩り:世界最貧患者による新薬試験』(The Body Hunters: Testing New Drugs on the World’s Poorest Patients, The New Press, 2006) や、雑誌『ディプロ』の記事「貧しい国々は被験者の宝庫」などのなかで、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ、さらには旧ソ連・東欧をもふくむ広義の発展途上諸国で、さかんにおこなわれている新薬治験の実態を曝露した。ベーリンガーインゲルハイムが南アフリカで、ノバルティス・ファイザー・アストラゼネカがインドで、グラクソスミスクラインがインド・ブルガリア・ザンビア・ブラジルで、といったように多国籍の製薬会社がみずから臨床試験をすすめているだけでなく、クインタイルズ・コヴァンス・チャールズリバー・PPDなど、製薬会社から治験を請け負う専門企業もまた、発展途上国に拠点をもうけており、たとえばクインタイルズはチリ・メキシコ・ブラジル・ブルガリア・エストニア・ルーマニア・クロアチア・ラトビア・南アフリカ・インド・マレーシア・フィリピン・タイなどで活動しているという。一体なぜこのようなことになるのか。『ディプロ』編集部はやや上品に、「従順な病人が数多くいるし、ほとんどの途上国では、倫理的・法的な制約も、豊かな国ほど厳格ではない。選択の余地もない被験者は、進んで試験に加わろうとするかもしれない。」などと書いているが、要するに、医薬品があふれている先進国では被験者の募集がむずかしくなっているのに対して、病気にかかっても治療をうけられないこともめずらしくない国々では、「進んで試験に加わろうとする」「従順な病人」をたやすく集めることができる、というのがその理由である。
 発展途上国にはいまだに病気が多いが、そこの人々はマラリアや結核にばかり苦しんでいるわけではない。一定のゆたかさを手にいれた代償でもあるのだろうか、いまでは糖尿病・高血圧など慢性病の患者もインド・中国やアフリカに集中しており、そういう地域の患者は合併症を多発することも多い。アフリカでのエイズ患者の多さについては、いまさらいうこともないであろう。そしてそういうまずしい患者は、治療をまったくうけられないか、たとえうけられたとしてもその質は保証されない。そんなところに製薬会社や臨床試験会社がやってきたらなにがおこるか。被験者となることができた人々が、自分はめぐまれていると思うのも無理からぬことであろう。治験に協力すれば最新の技術をえることのできる地元の病院や研究機関も、積極的に動くだろう。そして製薬会社側からみると、単に病人が多いことからくる経済的な利点だけでも、莫大なものがある。現代の治験では被験者の半分には偽薬(プラシーボ)が投与されるから、それだけでも必要な被験者数が2倍になるが、特に慢性病では医薬品の効果は微弱だから、統計的処理のために必要な被験者数はさらに多くなる。先進国では年単位になることさえある被験者集めが、発展途上国では数日ですむこともあり、そのスピードも製薬会社には魅力的だ。先進国では、必要な数の被験者を集めるだけでも大変であるが、折角集めても途中で治験をやめる被験者も多い。そこへいくと、インドでは被験者のほとんどが治験を最後まで続けるというし、ロシアや中国の被験者もきわめて従順で、医師のいうことをよくきき、処方された医薬品をすべて服用するという。かくして、「スキーは雪のあるところで、臨床試験は病人のいるところで。」などといった広告を、臨床試験会社がだすことになる。
 こういう状況のどこが問題なのか、という人もいるかもしれない。被験者たち自身もふくめて、みんなが得をしているではないかと。たしかにここでは、「なにかあれば、なにもないよりまし」の心理がはたらいている。それにしても、エイズのような深刻な病気の患者に偽薬が投与されるのをどう正当化するのか、と問う人もいるであろうが、製薬会社はそれにもちゃんと答えを用意している。そもそも通常ならなんの治療もうけられなかったであろう人々が、たとえ偽薬を投与されていたとしても、定期的に医師の面接をうけ、治験に直接に関係のない部分では治療もうけられるのだから、利益をえているにちがいないではないか、というのである。あるいは、発展途上国のまずしい人々にとって、工場などで(低賃金の)労働をするのと、治験に参加するのとは同じことではないか、といって正当化する意見もある。だが本当にそんな意見はなりたつのか。
 いまあげたような意見は、実はみな同じ観点から批判することができる。まず治験参加は賃労働と同じだという意見から、シャー氏のインタビューによって批判してもらおう。「(賃労働なら)どれほどわずかであっても、だれかが利益をえるのです。でもそのことは臨床試験にあてはまりません。全体としてみれば、わずか5パーセントにしかこれこれの副作用がおこらないということはできますが、特定の個人に対して、利益がえられると保証することはできません。1日1ドルをえるというのと一緒にはできません。一生続く傷をおうかもしれないのです。」つまり臨床試験がおわった時点で、(特定の個人としての)被験者の体調がよくなっているという保証はなにもない。「なにかあれば、なにもないよりまし」と単純にいうわけにはいかないことも、もはやあきらかであろう。そもそも臨床試験がなぜ必要であるのかを、考えなおすべきではないか。その医薬品の効果が不確実で、副作用の危険もあるからこそ、臨床試験が必要になるのだ。このような状況の特異性にかんがみて、人体を対象とした研究に関しては、被験者には、正確な情報の受領とその理解にもとづく「説明と同意」(インフォームド・コンセント)を自発的におこなう余地がなければならないと、国際的な取り決めによりきめられている。だがこの条件は発展途上国で遵守されているであろうか。前述のように途中で参加をやめる被験者が少ないことや、また被験者がすぐ集まることからも、「説明と同意」をうたがうことができるが、もっと重大な問題もある。先進国なら当然とされる倫理規範が、発展途上国にはないかもしれないのだ。例をあげればきりがないが、極端な事件だけをあげておこう。1970年代には未認可の抗マラリア薬が字の読めない数十万人の女性に配付された結果、彼女たちは生涯子どもが産めなくなった。80年代には発癌性をうたがわれた避妊薬が農村で実験されたが、被験者らは「まさか実験されているとは思わなかった。」と語っている。90年代にも、字の読めない癌患者に対する治療が故意に中止されるという事件がおこっている。同種の事件は21世紀になってもおこっているが、もうここまでにしよう。ただ、この種の事件が現代医学に対する信頼を低下させていることと、そこまでして開発された新薬も、特許制や高価格などのために発展途上国の患者には使用できない場合も少なくないこととは、つけくわえておかなければならない。
 新薬の恩恵をより多くえていると思われる先進国の市民としては、このような事態にどう対処すべきなのであろうか。治験を一切やめるべきだという人も「活動家」のなかにはいるのかもしれないが、新薬の開発に治験が必要である以上は、そういう極論にくみするわけにもいかない。ではどうすれば?シャー氏はインタビューのなかで、現場にいて治験にたずさわっている人々(医師など)は、たとえ反倫理的な治験であっても、そのときには被験者のために正当なことをしていると思いこまされている、とのべている。一見それとは正反対にあるかのような「一般市民」の反応も、氏のインタビューにでてくる。「全然大したことないじゃないか。きたなく危険な重労働を中国や、アジア・ラテンアメリカの工場にもっていって、12歳の少女がそこでははたらいているけど、それでいいってんだろう? それがグローバル化だよ。それとどうちがうってえの? 薬をほしがる人がいて、手にいれる方法が治験しかないってんなら、それでいいじゃないの。」このふたつの態度に共通しているのは、「生身の個人」としての相手のことがみえていない、ということであろう。人はよく知らない相手に対しては、いくらでも冷酷になれる。本を読むだけで世界が変わるわけはない、という人もあろうが、シャー氏の本などを読んで第三世界の状況を知り、そういう地域にいる「相手」のことを少しでも生身の人間として想像できるようになることが、問題解決への第一歩となるであろう。具体的な制度論となるとまだまだこれからの課題であるが、発展途上国での治験にも「説明と同意」を徹底させて、極度に反倫理的な事件だけでも防止することは十分に可能であろう。「科学の発展のためのとうとい犠牲」などという言い方があるが、社会的に弱い立場にある人々だけに、「犠牲」の役割をいつまでもおわせているわけにはいかない。■
参考
ソニア・シャー自著紹介 http://www.soniashah.com/books/details.php?id=3
同氏インタビュー http://www.intmag.org/interviews.php?id=2748
「貧しい国々は被験者の宝庫」 http://www.diplo.jp/articles07/0705-3.html

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