「トランス・サイエンスの時代」の市民科学

投稿者: | 2007年7月1日

「トランス・サイエンスの時代」の市民科学
柿原 泰
 現代社会に生きるわれわれにとっての市民科学の意義を考えてみたい。「市民科学研究室」という名前を見て、「科学」と言われても素人にはわからない、専門家から見ると間違ったことを言ってしまうかもしれないから近寄り難い、と敬遠してしまう向きもあるのではないだろうか。しかし、現代社会において、科学技術にまつわる諸問題を考えるとき、科学技術の専門家にしかわからないのだから、判断はお任せするしかない、としてしまってよいのだろうか。この点を「トランス・サイエンス」という言葉を手がかりにして考えてみよう。
 「トランス・サイエンス」(trans-science)という言葉は、「科学に問うことはできるが、科学(だけ)では答えることのできない」領域を指す造語である。例えば、原子力発電所は安全かどうか、という問いに対して、科学的に事故の起こる確率を算出することができたとして(それ自体実際は問題孕みだが)、それはきわめて低く無視できる程度で安全だと専門家は言う。ところが、たとえ小さい確率でも事故が起きてしまったときの被害の大きさを考えると無視できないと考えることもできる。結局、この問いに答えようとすると、科学的研究によってある程度までは追究できても、科学だけでは決められない、つまり「科学を超えている」問題だ、というわけだ。すぐれて社会的価値判断がかかわる問題だからである。社会的に注目を浴びる問題は、しばしば専門家の間でも見解が分かれているものだし、対象の性質上、科学的に追究しようと試みても、実験できない類のものや必要な実験が莫大な規模となるため、実際上、不可能なものもある。こうしたものもトランス・サイエンスに括られる。
 「トランス・サイエンス」とはもともとアメリカのオークリッジ研究所のワインバーグが1972年に提唱したもので、日本でもその直後、柴谷篤弘の『反科学論』(みすず書房、1973年、ちくま学芸文庫、1998年)で「超科学」と訳されてすでに紹介されている。近年、科学論の文献で再び取り上げられることが増えてきて、先月(6月)出版された、小林傳司『トランス・サイエンスの時代――科学技術と社会をつなぐ』(NTT出版、2007年)では書名にも現れるようになっている。
 市民科学研究室が現在取り組んでいるプロジェクトや勉強会には、電磁波、低線量放射線被曝、ナノテクノロジーなどの問題があるが、これらは、まさにトランス・サイエンスの領域の問題群である。この他にも、BSEや遺伝子組み換えなどの食品リスクの問題などもそうである。これらの問題に取り組もうとすると、個々の科学技術の専門的知識をフォローすることも必要だが、それらが社会のなかでどのように問題なのかが扱うべき争点となる。つまり、トランス・サイエンスの領域の問題を考えるということは、「科学」だけでは解けない問題であるがゆえに、そして社会的な問題となっているがゆえに、「科学と社会」を考えることなのである。
 翻って、市民科学とは、専門家の行なっている「科学」を「市民」も勉強するといった、従来の科学観で考えてしまうのではなく、そこで扱う「科学」とは「トランス・サイエンスの時代」の科学、つまり「科学と社会」を考えることこそが目的だと言えよう。実際、市民科学研究室の前身の名称は「科学と社会を考える土曜講座」であったことを思い出していただきたい。
 ちょうどこの原稿を書いている時に中越沖地震が起こり、柏崎・刈羽原発のトラブルが多数あったことが明らかにされつつある。例えば、こうした「地震と原発」という問題の場合、最新の地震学の知見をふまえ、耐震基準を見直し、発電所の設計を改善していく、という科学技術の側面からの対応、そして、さまざまな天災・人災に備えた社会システムの構築が必要、というのが常識的だろう。しかし、もっと根源的なところから考えてみれば、こうした問題を抱える科学技術(この場合、原子力発電)を利用することを選択している社会のあり方を問い直す、という方向もあるだろう(それを利用しない社会だってありうるのだから)。「科学」を問うことが同時に「社会」を問うことにもなる、「トランス・サイエンス」の時代に、市民科学を模索していくことの意義はますます増していると言えるのではないだろうか。
図 トランス・サイエンス的状況の模式図
図 小林傳司『トランス・サイエンスの時代』

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