死に至る科学

投稿者: | 2008年5月1日

2008年5月巻頭言
死に至る科学
吉澤剛
(市民科学研究室理事)
巻頭から気を重くさせるようなことは差し控えたいのだが、避けて通れない話題がある。自殺である。平成19年版自殺対策白書を見ると、自殺者数は過去10年ほど3万人前後と高い値で推移している。原因の半数を健康問題が占め、経済・生活問題、家庭問題と続く。平成9年から10年にかけて自殺者数が急増した理由は、「人口増と高齢化の進展に加え、当時の社会経済的変動が働き盛りの世代の男性に対し強く影響し、これらの世代の自殺死亡率が急増するとともに、社会経済の変動に影響されやすい昭和一桁〜15年生まれの高齢者層の自殺死亡率が増加し、これらの効果が相まって自殺者数が急増したものと推測される」。失業率と自殺死亡率に明確な相関関係が見られ、不景気という環境要因の影響が特定の時代に生まれ育った人々の間に非常に強く作用し、ある種の世代効果が観察されるという。
 なぜこの話をしているかというと、こうした環境要因や個々の自殺要因の分析もせずに、手段ばかりを強調する自殺報道のあり方を問題とするためである。ここでは一度しかその言葉を使わないが、硫化水素を用いた自殺のことを指す。この物質は温泉街を始め自然界の様々な状況で発生しているが、汚泥などの攪拌や化学反応によって急激に高濃度のガスが空気中に発散されることがある。現在問題となっているのは、良く知られている日用品を混ぜ合わせることによって高濃度なガスが発生するという情報が広まり、これが原因による自殺が急増していることである。この4月だけで30件もの自殺が確認されている。さらに問題なのは、この手法による自殺が急増しているという報道が頻繁になされているということである。新聞やテレビはインターネットにこの自殺の詳しい方法が載せられていることを問題視するが、これでは逆効果でしかない。確かに、発端はこの方法で行われた自殺がインターネット上で議論され、簡易な自殺法としてネットの各所で広められたことにある。だが、これをマスメディアが取り上げ、インターネットに情報があることを示し、この方法による自殺の報道を繰り返すことは、自殺抑止とは逆の方向に情報を与えているだけである。気軽に連鎖という表現を用いることに慎重でなければならないが、チューリップ切断にせよ、連鎖を思わせる、あるいは連鎖を煽るような報道の仕方が改められなければならない。もちろんインターネットの罪も小さくない。この自殺法の詳しい情報が広められているばかりでなく、ネット上の匿名掲示板で自殺教唆に近いような煽りを受けて自殺に突っ走ってしまうということもある。
何をするべきか
 事実の公表に際しては、保健専門家と密接に連動すること。
 自殺は「既遂」と言及すること。「成功」とは言わない。
 直接関係のあるデータのみ取り上げ、それを第1面ではなく中ほどのページの中でとりあげること。
 自殺以外の問題解決のための選択肢を強調すること。
 支援組織の連絡先や地域の社会資源について情報提供をすること。
 危険を示す指標と警告信号を公表すること。
してはいけないこと
 写真や遺書を公表しないこと。
 使われた自殺手段の特異的で詳細な部分については報道をしないこと。
 自殺に単純な理由を付与しないこと。
 自殺を美化したり、扇情的に取り上げたりしないこと。
 宗教的、あるいは文化的な固定観念をステレオタイプに用いないこと。
 責任の所在を割り付けたりしないこと。
表はWHOによる『自殺予防:メディア関係者のための手引き』(2000)の抜粋である。まず、自殺手段の詳細な報道をしないようにすることが一番大きい。ひところは別の手段による集団自殺がメディアで多く取り上げられていたことも記憶に新しい。また、「ひと呼吸で死に至る危険性がある」といった報道をすることは、自殺を考えている人の背中を押す情報にしかならない。求められるのはある程度痛みを伴った情報ではないだろうか。たとえば、この手段による自殺で未遂に終わった事例もきちんと報道し、安易に自殺できる手段でないことや後遺症のおそれを淡々と説明する。この手段による自殺では、表情は歪み、死体は緑に変色するという。死体を見せることはしないまでも、死の状況を説明し、軽い生理的嫌悪感を与えることも必要かもしれない。考えれば、集団自殺を美化させるような「心中」という言葉も使い続ける理由がない。「無理心中」にいたっては日本語としておかしいばかりでなく、殺人さえ正当化しかねない表現である。
 報道は「周囲に迷惑がかかるから」として自殺を思いとどまらせるような、生きている人に対する論理ばかりで、死にゆく人に対する論理がないのだと思う。社会的リンク論を思い出す。魚を切り身として食べる生活は、人間はこの自然環境の中で、生物の死の上に自らの生命が成り立っているというつながりを忘れさせる。死から目を背け、なるべく離れたところにいようとする近代的な生き方が、逆に死に近いところに向かっているという皮肉を見つめ続けなければならない。そうしないと「人を殺せば死刑になると思った」という言葉を発した人間と、その人間を生んだこの社会を理解することは到底できないだろう。

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