【書評】 『科学力のためにできること科学教育の危機を救ったレオン・レーダーマン』

投稿者: | 2008年5月6日

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『科学力のためにできること科学教育の危機を救ったレオン・レーダーマン』
近代科学社(2008年3月)

評者: 西尾信一(埼玉県立本庄高等学校)

1.はじめに

本書は2002 年に米国で出版されたSCIENCE LITERACY FOR THE TWENTY-FIRST CENTURYの邦訳で、副題にあるLeon Max Ledermanは1922年生まれのノーベル賞受賞者で、科学教育振興に大きな功績のある人物である。米国科学アカデミー会長、全米科学教育研究連合元会長、宇宙飛行士、元米国科学財団長官、全米科学教育スタンダード開発者、元全米科学振興協会会長、ノーベル賞受賞者、「科学リテラシー事典」著者、大学学長、大統領科学技術諮問委員など錚々たる23 名の専門家がLedermanの80歳を祝って寄せたエッセイを集めたトリビュート・アンソロジーが本書であり、巻末には6ページにまとまった彼の略伝もある。ただし、エッセイの中には、とくにLederman やその業績には触れず、科学リテラシーに関わる自らの論考を述べただけのものも含まれている。
これだけ多数の論客が文を寄せているので、テーマは多岐にわたるし、必ずしも整合しない意見も垣間見える。したがって、Lederman の業績に関して本書に書かれていないことも含めて若干解説をし、あとは評者の印象に残った記述をいくつかの視点で抜き出してコメントすることにした。ページが離れた引用文は、違う著者のものだということに留意してほしい。高校現場という限られたスタンスからの評者の意見が前面に出てしまい、客観的で全体を俯瞰する書評にはならなかったが、ご容赦いただきたい。

なお、引用して紹介した文章の中には、Lederman本人のものがあるので、それは引用ページのところに《L》と記した。また、同じく引用した文には、執筆者自身のものではなく、執筆者が別の文献から引用しているものも含まれているので、それは《引》とした。

2. Ledermanの業績

Ledermanは、イリノイ州シカゴ近郊のフェルミ国立加速器研究所(フェルミラボという)所長として長年活躍し、ニュートリノの研究によって1988年のノーベル物理学賞を受賞した。パリティーの非保存性の確認やボトムクォークの発見など、多くの高エネルギー物理学の業績があり、これまでに3 冊の本を書き、そのうち最初のものは「神がつくった究極の素粒子」というタイトルで邦訳がある。ウィットとユーモアに富み、「笑う実験物理学者」や「科学界のメル・ブルックス(「喜劇王」として知られる米国の俳優で映画監督などもこなす)」の異名をもつ。

フェルミラボでは、Lederman はまず年3回100人の高校生を招いて講義・討論・見学を行うセミナー「土曜の朝の物理学」を始め、続いて高校の科学教師向けプログラム「フェルミラボの仲間たち」を立ち上げた。

科学の職場以外でも、Ledermanはさまざまな公的な科学教育振興の活動を行ってきた。たとえば、イリノイ数学科学アカデミー(IMSA)の創設に尽力し、数学・科学のための教師アカデミー(TAMS)の創設者の一人にして会長である。IMSAは1986 年に設立された数学と科学に秀でた高校生を集めたエリート学校で、探究学習・課題中心学習・総合学習を中心にすえている。授業料・学生寮費・食費が無料であり、大学進学適性試験(SAT)などでは全米の上位1~3% の成績を収め、全米高校数学試験(数学の才能のある学生や数学オリンピックに出る素質のある学生の発掘を意図したテスト)でも毎年トップ5に入っている。また、理数教育に関する研究所としてイリノイ州の公教育の中枢でもあり、学生・教師・一般市民向けのさまざまなプログラムを実施している。

一方、TAMSの主な任務は小学校教師の能力向上で、イリノイ州内の128校の小学校の3,600 名以上の教師を再教育してきた。そこでは体験型の探究に基づくアプローチが推奨され、それはフランスをはじめ世界に向けて発信が図られているそうだ。

3.STSへの言及

まずは、STS(科学・技術と社会)に関係する議論を見てみよう。

「また、政治あるいは経済の問題、とりわけ環境政策やエネルギー政策、ミサイル防衛システムについて意見を闘わせる際に、自論に加担する科学者を巻き込むことが多いが、そのようなことで政治的偏見や私利私欲に惑わされない、純粋な科学を維持できるだろうか。」(p.26)

「科学研究はテクノロジーの進歩にどう影響を及ぼし、テクノロジーの進歩は社会にどんな恩恵をもたらすのかが問われなければならない。」(p.28)

「だが、やはり物理学の世界では女性は今も断然少なく、学士号取得者では五人に一人、博士号ではわずか八人に一人だ。アルゼンチン、イタリア、フィリピンでは、物理学に携わる女性の比率はアメリカよりはるかに高い。」(p.172)

「理系と文系を隔てる溝は、科学とテクノロジーを区別できないところから生じることが多い。」(p.189)

残念ながら、一般論としては陳腐な言説が多く、見るべきものはあまりない。また、アカデミズムそのものに対する批判的視点もほとんどないが、これは著者たちがディシプリンで立身出世して成功した人々であるためだろう。

4.似非科学への批判

本書で繰り返し現れるのは、オカルト・非合理・ニセ科学とそれらを喧伝するマスメディアに対する批判である。これは、キリスト教原理主義に基づく反進化論や、大衆に浸透したUFO文化、レーガン大統領の執務にも影響を及ぼしたと噂される占星術、物理的には薬理成分があり得ないほど低濃度の「レメディ」とよばれる薬を用いる代替療法ホメオパシーなどに対して、切実な危機感をもつ科学関係者が多いという米国ならではの事情があるのだろう。

「推定、統計的推論、確率といった重要なトピックは、高校ではほとんど扱われない。それらの知識が多少なりともあれば、意思決定の際に問題を明らかにできるし、助けともなるはずである。」(p.4《L》)

「科学リテラシーが身につかないのは、メディアが科学的な出来事の価値や面白さや重要性をきちんと伝えていないのが最大の原因だと私は考える。くだらない科学をニュース扱いし、UFOをもてはやし、超常現象を扇情的に報じたりするのは、どれもみな非科学的だと断じよう。」(p.7《L》)
「加えて、現代科学の最も素晴らしい伝統の一つである仮説を検証する際に求められる厳密さと、科学の不確実性つまり、反論する科学者がいる限り理論は証明されたことにならないという考え方が混同されてしまっている。」(p.26)

「また、マスメディアには扇情的な話題や似非科学が溢れているが、科学研究に関するまじめな報道や、重要な議論はほとんど見かけない。新聞は星占いのコラムは毎日掲載するが、「高尚な」全国紙でさえ、天文学の進展を伝える記事は週に一度の科学特集の片隅に追いやられている。私たちの大半は、一般のニュースも科学のニュースもテレビを通じて知る。だが、それらが取り上げる「科学的」な話題といえば、幽霊屋敷とか超能力、宇宙人による誘拐、ミステリーサークル、UFOといったものばかりだ。時にはこの類いの番組にれっきとした科学者が出演することもあるし、科学専門チャンネルでさえ厳格な科学的姿勢を守ることをしない。」(p.32)

「科学を信じない人が多いのはなぜだろう。科学リテラシーの要素として、新たに加えなければならないのは、科学リテラシーの方向を決めている科学者と政策立案者、そして科学そのものを信頼することである。」(p.42)

「科学リテラシー問題の核心は、科学的な真実として提示されるさまざまな情報の真価を測る道具がないため、画期的な科学と、取るに足らない似非科学の区別がつけにくい点にある。」(p.50《引》)

「では、科学リテラシーがあるとされる人は、どこまで知り、何ができればいいのだろう。私が求めるのは、ものごとを懐疑的に見ることができること、疑問をもって対処すること、好奇心にあふれていることだ。科学リテラシーの目的は、少なくとも扇動と似非科学の被害を抑え、「軽信」を減らすことだ。」(p.157)

オカルト・非合理を肯定的に扱ったマスメディアの影響という観点からは、日本も米国同様の病理を抱えている。水に与えた言葉や音楽によって結晶の形が変わり、「ありがとう」やクラシック音楽では美しく、「ばかやろう」やヘビメタでは汚い形になるという荒唐無稽な本である「水からの伝言」がベストセラーになり、しかもそれが多数の小学校で道徳の授業の教材として使われたくらいなのだから。このオカルト話は、これまでも議員やタレントが信奉を公言していたが、科学者などからの批判が続いて久しいのに、未だに全面肯定で扱ったテレビ番組が放映される始末である(フジテレビ系列『あっぱれ!! さんま新教授』2008 年4月20日放映)。

血液型性格判断やマイナスイオンなどが、科学的実証がないにもかかわらず「常識」として広く浸透している現実を考えると、やはりこのテーマは科学リテラシーを論ずる際にわが国でも避けて通れない。

5.教育改革への提言

本書には、テーマからして当然の話だが、教育改革に向けた多くの提言がある。まず、月並みではあるが、教育条件の整備に関わることがある。

「教師の給料と社会的地位を大きく向上させる必要がある。最後に、教師が事務作業ばかりに時間をとられ、授業に注ぐエネルギーを奪われているせいで、生徒の退学率が異常に高くなっている。こうした事情が重なり、よい教師を雇い、育て、つなぎとめておくことがますます難しくなっている。」(p.6《L》)

「科学研究の予算が足りないことより、公教育の予算が削られることのほうが心配です。
科学とは未来を見ることではないでしょうか。」(p.163)

教育現場にいる評者には、これらはまさに共感するところ大である。管理が強化され、経済的にも決して恵まれているとは言えず、時代と社会の要請により増える一方の業務に追われパソコンに向かう時間が多い、という教師の置かれた状況をそのままにして、有能な人材をどうやって確保できるというのだろう。しかも、日本の場合は”部活”という諸外国にない超過勤務要因がある。部員や活動時間が多い部活指導に真面目に取り組んでいたり、学校の情報処理業務を一手に引き受けている教員などは、本当に無定量無制限の労働状況にある。教育予算の大部分は教員の人件費なのだから、その十分な確保が教育改革にはまず必要なはずである。少なくとも、部活指導を教師に代わって行う指導者や、学校のIT業務のソフトとハードの面倒を見るSEの配置は、中長期的にはぜひ実現させてほしい。未来のための投資をせずに、近視眼的な利益を考える政治が行われがちだというのは、教育問題と環境問題に共通するように思うのは、評者だけだろうか。

さて、他の提言としては、指導方法や教師の資質向上に関することを挙げよう。

「子どもに必要な能力について語るとき、「学び方を学ぶ」能力について触れられること
は少ないが、それはすべての基礎となる最も肝心な能力である。」(p.13《引》)

「科学であれ歴史であれ、正規教育の期間中にその分野を学ぶ方法を身につけなければ、大人になってから複雑な問題を理解することはできないということだ。」(p.48)

「最新の改革指針、「全米科学スタンダード」と「プロジェクト2061」(AAAS)は、いずれも科学の中心概念( 例えば、原因と結果、平衡、構造と機能、周期、規模など)の深い理解を重視している。そうした指針が科学の授業の理想とするのは、「少なく、そして豊かに」、つまり、テーマを絞り科学の概念を総合的に深く教える授業である。」(p.15)

「この証言の要点の一つは、何かをただ説明するのは、教える方法としてまったく効果的でないということであり、もう一つは、学習には、概念を使いこなせるようになるまで理解することが含まれるということである。」(p.75)

「協調、相互依存、達成は、学習の強力なモチベーションである。」(p.230)

少なくない学生・生徒が「成果は勉強量で決まる」「理解するよりも覚えればよい」「解き方はどうでもよく、正解さえ得られればよい」「間違いを恐れ、できないとやる気をなくす」という学習態度・学習状況に陥りがちで、それらは往々にしてよい結果を生まない。ただ、もちろんそれは教師の指導の仕方で改善・向上が可能であり、メタ学習、概念理解の重視、協同学習などは、その鍵となる手法や哲学なのである。

「一般に、科学リテラシーの育成に携わる人の間には、ある意見の対立が見られる。大まかに言えば、「内容(コンテンツ)支持派」と「方法論(メソッド)支持派」の対立である。極論すれば、方法論派とは、学生にとって重要なのは、科学の機能の仕方、つまり科学的方法を理解することだと主張するグループで、内容派とは、学生にとって重要なのは、私たちの住む宇宙について科学者が発見してきた事柄を理解することだと主張するグループである。明らかに正解は、両極の間のどこかに位置するのだが、科学者の意見はたいていどちらか一方に偏っている(ちなみに、私は内容派である)。」(p.118)

※(評者注)この文の筆者は大学教育について述べているので、「科学者」とは教師である大学教員を指す。

「すべての学科の教師が、敷居を越えて定期的に会うようにすれば、相互のあいまいな関連が明らかになり、すでに分かっていることがらも、さらに明確になるだろう。」(p.3《L》)

「モデル・ラボで研修を受けていた一年間、私は自分の教え方を批判的に見ることを求められ、さらに、生徒たちの理解力を伸ばすうえで自分の授業が効果的かどうか判断するよう促されました。おかげで私は、これまで正しいと信じきっていた教え方について問い直すことができましたし、生徒に概念を提示するいろいろなアプローチを比較し、教室でのそれが成功するか、失敗するか、実地に試すことができました。」(p.76《L》)

「教師が重要な知識や技術を身につけるには、失敗が許される環境が必要となる。」(p.199)

経験を積んだ教師は、一般に教育方針や教授法に関して保守的である。そして、高校では、教科や科目の壁は厚く、他教科・科目の授業を見学したりその手法を学ぶ機会は少ない。また、昨今の多忙状況は、教師に新しいことにチャレンジする意欲やゆとりを奪っている。したがって、多くの教師を巻き込んで学校全体や地域全体の教育改革を行うためには、巧妙に設計された組織やシステムが不可欠である。本書には、Ledermanが直接・間接に関わったそれらの実例が紹介されているので、行政・政治に関わる人や教育関係者をはじめ、教育に関心をもつ多くの市民にとって、少なくともその部分は参考になるはずである。■

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