写図表あり
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『これだけは伝えておきたいービキニ事件の表と裏』
大石又七 著/かもがわ出版2007
評者:山口直樹(北京大学科学と社会研究センター)
この本の著者、大石又七氏は、アメリカのビキニ環礁での水爆実験で被曝した第五福竜丸の乗組員だった人である。
私が、この本の著者の大石又七氏にはじめてお会いしたのは、2004年7月のことだったと記憶している。市民科学研究室の会員の笹本征男氏が主宰する「ビキニ事件の真実を学ぶ会」を第五福竜丸記念館でやったときのことだった。私が、ゴジラに関心を持っているということを知った笹本氏が、声をかけてくれたのである。ゴジラに関心を持って科学技術史の観点から研究している私のような人間がいることを知って大石氏は、少し驚いたようだった。
そして、その約一年後の2005年6月、私は大石氏を囲む「ビキニ事件の真実を学ぶ会」で「ゴジラの誕生と第五福竜丸事件」と題する報告を行うことになった。実は、私はその報告会の後で行われた二次会の席で大石氏にゴジラのおもちゃをプレゼントしたことがある。第五福竜丸の元乗組員にゴジラのおもちゃをプレゼントした人間は、私ぐらいのものなのかもしれない。しかし、ともかく大石氏は、私がプレゼントしたゴジラのおもちゃを気に入ってくれたようだった。その頃から大石氏は、「孫たちが来ると山口さんのくれたゴジラで遊んでいます。」などと書いた暑中見舞いや年賀状を北京まで送ってくれるようになった。
また、あるとき大石氏から北京まで録音テープが送られてきた。なんだろうとおもってその録音テープを聞いてみると神戸のラジオ局がゴジラ特集を組んだときの番組が録音されていた。大石氏は、そのラジオ番組にゲストとして招かれていたのだが、そこで「中国の北京でゴジラに関心をもって研究している人がいる」といって私のことにも言及してくれていたのだ。だから私のところに録音テープを送ってくれたというわけである。
ゴジラという存在が、大石氏と私を結びつけてくれたのだが、本書もまた大石氏から「感想があったら聞かせてください。」という紙を添えて2007年7月27日という日付の署名入りで北京にいる私のところに送られてきた。帯には本書を推薦する吉永小百合、筑紫哲也、黒田征太郎、鳥越俊太郎といった著名人の名前が記されている。
現在は孫もいる大石氏だが、ここまでくるまでには、普通の人には想像できない苦難があった。それは普通の漁師だった大石氏が、三冊も本を書いていることからも容易に想像できる。もし大石氏が自らの人生を決定的に変えたビキニ事件に遭遇していなければ、本書はかかれなかっただろう。
第一章「最後の航海」は、やはりこのビキニ事件の出来事の記述から始まっている。
大石氏は、ここで第五福竜丸で被爆したときのことをできるだけ具体的に当事者の観点から回想している。船頭はビキニが危険区域に加わり核実験の舞台になっていたことを知らなかったが、機関長と相談して3月1日を最後の操業の日と決めていたという。大石氏はそのとき船室の入り口にあるベッドに横になり、戸口から暗い外を何気なく見ていた。
「そのときである。「サアー」という夕焼色が空いっぱいに流れた。驚いて外に飛び出すと、右の水平線から左の水平線まで空も海も船もその色に染まっている。そして、その光が消えないのだ。」(24頁)水爆実験に遭遇したときのことを大石氏はこう回想している。
二時間ほどすると白い物が空からぱらぱらと降り始めた。これが死の灰であった。
3月14日第五福竜丸は、52日間の航海を終えて焼津港に帰る。乗組員は病院へ向かい検査を受けるが、白血球は通常の半分しかなかったという。この事態を最初に報道したのが、のちに「原子力の平和利用」のキャンペーンをはってビキニ事件の記憶を風化させることに貢献することになる読売新聞だったことは皮肉なことだったといわなければならない。
また、アメリカ側の動きも記されている。コール原子力委員長は「漁師たちは危険区域内で実験をスパイしていたこともありうる」と発言し、広島・原爆傷害調査委員会(ABCC)モートン所長、医師のJ・ルイス海軍大佐、血液学者メリー・シアンズ博士などもやってきていたが遠くからみていただけで何もしなかったという。おそらく彼らは、大石氏たちを治療対象としてではなく実験の対象としてみていたのであろう。
さらに3月31日になるとコール原子力委員長が再び、「日本人漁師は漁業以外の目的で危険区域内に入り核実験をスパイしていたかもしれない。」と発言するのに対応して衆議院外務委員会で岡崎勝男外務大臣が、「原子灰がソ連に持ち去られたという噂を聞いている」と発言し、大石氏たちは内外から疑いの目で見られ、CIA(米中央情報局)と日本の公安から身元調査をされることにもなった。実際は普通の漁師でしかなかったのだが、これは、米ソ冷戦がもたらした異常事態である。そしてビキニ事件によって原子マグロや放射能雨という言葉が流行語になり、国民の放射能に対する恐怖が、増大する状況のなかで大気圏と海洋汚染調査を迫られた政府は5月15日に調査船を出港させるにいたる。その結果わかったのは、放射能は魚を介して強力な放射能に濃縮されて人間の口にもはいっていたということだった。
9月23日、ついに第五福竜丸局長の久保山愛吉さんが、息を引き取るにいたり、国民の不安と怒りは頂点に達する。ところが、翌年、重光葵外務大臣とアリソン駐日大使との間で書簡が交わされ、合意文書(日米交換公文)が調印される。わずか9ヶ月でこの事件は見舞金だけで政治決着され、被爆の後遺症問題は、置き去りにされることになった。
また、これに加えて大石氏らは、被害を受けながら何の補償もされない他の船の船員や漁業関係者から騒ぎをおこした上に見舞金までもらってまだ生きているということで「妬み」を受け二重の苦しみを味わうことになった。怒りの矛先は、この問題の根本に向かうことがなかったということである。大石氏の苦難は、まさにこのようにしてはじまることになった。
第二章「ビキニ事件の裏側」は、とりわけ興味深く読みごたえのある章である。
ここで大石氏は、半世紀近い時間が流れる中で公開された資料をもとに「なぜビキニ事件が、はやばやと政治決着されてしまったのか」ということに関して考察を加えているのだが、ここでの大石氏は、普通の漁師だった人と思えないぐらいの切れを見せている。
まるで気鋭の学者の論文を読むような記述が、続出する。おそらく大石氏は、この半世紀の間に勉強に勉強を重ねたのだろう。その勉強が、普通の漁師だった人を、学者のようにかえたとおもわれる。われわれはここに一人の市民科学者の姿を見出すことができるだろう。
まず、大石氏は、1991年10月に公開された、戦後三十年間の三万ページにもおよぶ日米外交文書の一部に注目する。なぜならここにビキニ事件関係の文書も3000ページほど含まれていたからだ。
この文書を調査した結果、大石氏は、1954年3月17日付の文書で外務省は、第五福竜丸が、アメリカ軍の指定した危険区域外にいた場合は、米側の過失に基づく不法行為に対して損害賠償の請求ができる、また危険区域内にあってもアメリカが実効的な警告措置をとっていなければ同様請求できるといっていることを発見する。しかし、実際には裁判をおこそうとしたものがいたにもかかわらず、政府が介入してきて、被爆者や被害者に補償せず、はやばやと政治決着を結び、事件にふたをしてしまった。これは当時の日本政府が、アメリカとの関係を最優先させていたことを示す根拠となるものであろう。
これに関して日本政府が、アメリカとの友好関係維持のために事件の被害額は25億円に達しているとみつもられていたのに、最終的には7億2000万円で「日本政府はこの見舞金でビキニ事件に関してのアメリカの責任を一切問わない」という政治決着を結んでいることがわかってきた。 大石氏は、この公文書の欄外に外務省の中川アジア局長の「一人200万は多すぎるという意見もあるところを外務省としてこれを値切った惑いを与えることはこれは望ましくなく、他方、原爆障害の内容不明にして日本人医者の言によれば一生本当には治療せざるべしということである。」という言葉を発見し、驚きと怒りを禁じられなかったと書いている。
では、なぜこれほどまでに日本政府は、アメリカとの関係を優先させビキニ事件をはやばやと政治決着したのだろうか。その背景にはなにがあったのだろうか。このことに関して大石氏の筆は冴えを見せる。大石氏は、ビキニ事件の「政治決着」の理由は日本の原子炉が導入される経緯とその人脈になかにこそ潜んでいたのだと思い至るようになる。この経緯を述べている大石氏の筆の運びは、私には、まるで気鋭の学者のように感じられた。
大石氏によれば、事の経緯はこうである。ビキニ事件が政治決着した10日後の1955年1月14日、ソ連は、中国、東欧の五カ国に対して原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表していた。このころソ連も共産圏に核のブロックを作ろうとしており、世界初の商業原子力発電所の稼動に成功していたのだった。先をこされたアイゼンハワー大統領は、原子力の国際管理案を棚上げにして、西側同盟諸国と「濃縮ウランや原子力技術の協定」を結ぶ方針を打ち出し、濃縮ウランを外交カードにし、核の軍事ブロックを作ろうとしていた。実際、ビキニ事件で日本が混乱しているさなかゴジラの宿命のライバルでもある陸海空15万人の自衛隊が発足している。このような状況の中でアメリカの太平洋での核実験には賛成し、協力し、ビキニ事件の被害に対する膨大な賠償金もわずかな見舞金でいい、しかしその代わりに日本が求めている原子力技術と原子炉導入を早急に進めてもらう、この点において日本側とアメリカ側の思惑が一致する。かくして大石氏はいう。「ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ。」(71頁)と。
同時に大石氏は、この原子力技術の導入にはたした日本のメディアの役割をも見逃してない。ここで大石氏が注目するのは、CIAの文書や関係者の手紙、日記を分析した有馬哲夫氏の『日本テレビとCIA』(新潮社)である。この本の中で有馬氏はこう述べている。
「当時アメリカは占領した日本をどのようにしていたか関係者たちが残した日記や資料で明らかになってきた。まず「天皇制と財閥を残し、温存させて日本をアジアの工場にする。そして多額の政治資金を提供して反共産の保守大合同を実現させ、強力な親米政権を作り上げる。それをメディアが支える。という政治、心理作戦を行っていた」
ここで述べられているメディアとは、「原子力の平和利用」キャンペーンを展開した日本テレビや読売新聞のことである。日本テレビはその正式名称を日本テレビ放送網といった。なぜ「網」という言葉が使われるのか。それはもともとアメリカのメディアのネットワークとひとつという意味だったからだ。すなわち戦後日本を反共の砦とし、西側の自由主義世界に組み込むためのメディアとして誕生したのが、警察官僚出身の正力松太郎やその懐刀の柴田秀利がおおきくかかわる日本テレビだったのである。
大石氏は、本書のなかで「当時第五福竜丸事件で高まった日本の反原子力の世論をCIAは正力のもつ読売新聞と日本テレビを動員させて鎮静化し、これをはたしたあとに日本への核兵器の配備を政府首脳に飲み込ませようとしていたのだ。」(74頁) と述べているが、鋭い指摘であろう。さらに、ゴジラに関心をもつものとしてひとつ付け加えさせていただければ、『ゴジラ』(1954)においてゴジラはテレビ塔を破壊しているが、このテレビ塔は、実は日本テレビのものだった。このことは、小林昌男『ゴジラの論理』(1992)で確認されている。
第三章「命の岐路で」では、大石氏の被爆してからの今日までの人生の軌跡がつづられている。大石氏自身の癌のはなし、死産だった最初の子供のはなし、マーシャル諸島を訪問したときのはなし、死んでいった第五福竜丸の仲間のはなし、大石氏が発案したマグロ塚のはなし、大石氏が作った第五福竜丸の模型のはなし、若い人たちへのメッセージなど重い経験に基づいた記述が続いている。
ここでわれわれが認識しておくべきことは、第五福竜丸の元乗組員で積極的にビキニ事件や原水爆禁止運動について発言している人は、今のところ大石又七氏だけだということである。実は、第五福竜丸の元乗組員で一致団結して補償の問題に取り組んでいるのかというとそうではない。大石氏によれば、元気なものほどこの問題には、口をつぐんでいるおり、元乗組員の関係もばらばらなのだという。大石氏にしても最初は、差別や偏見から逃れるために故郷を離れ、東京という大都市の人ごみの中に隠れようとしていた。その大石氏は、初めの子供が異常な死産だったということや消えたはずの第五福竜丸が、夢の島のゴミ捨て場から浮上したり、また仲間たちは怒りを抱いたまま死んでいくというような現実があり1980年代から発言をはじめる。もともとは、マスコミなど大嫌いな人だったらしい。そんな大石氏だが、この本を読んで伝わってくるのは、できれば思い出したくはないが、これを言わずに死ぬわけにはいかないという大石氏の執念である。
まさに「これだけは伝えておきたい。」特に若い人には、という大石氏の思いが伝わってくる本である。
「若い政治家のみなさんは、核兵器の本当の恐ろしさを知らないのかもしれません。私は若い人たちにその恐ろしさを伝えようと「ビキニ事件の表と裏」をこのほど「かもがわ出版」から出版しました。世界を核戦争から守るために命ある限りいい続けます。」と大石氏から送られてきた葉書には書いてあった。
「命あるかぎり言い続けます」という大石氏はまさに自らの人生をかけて発言している。
ゴジラに関心を寄せる科学史家の私は、この本を読んで、こんな感慨を抱かずにいられなかった。すなわち「これまで会った人物のなかで大石又七氏以上にゴジラ的な人物を私は知らない。」と。■