原爆調査の歴史を問う ~広島・長崎の原爆調査関係地訪問記 その1~

投稿者: | 2009年7月4日

写図表あり
市民研csij-journal 025 hiroshima.pdf
低線量被曝研究会・報告
原爆調査の歴史を問う
~広島・長崎の原爆調査関係地訪問記 その1~
柿原 泰(東京海洋大学、市民科学研究室・低線量被曝研究会)
 低線量被曝研究会では、ここしばらく原爆調査に関する歴史に取り組んでいます。なぜ低線量被曝研究会で、原爆調査の歴史に取り組むようになったのかについては、『市民科学研究室年次報告書2008』 で、次のように述べておきました。
  放射線リスクをめぐる科学と社会の現状をフォローするなかで、放射線被曝のリスク評価には、広島・長崎の被爆者のデータが重要な役割を果たしていることもわかり、この問題を根本的に考えるためには、やはり60年以上にわたる原爆被爆者調査の歴史にじっくりと腰を据えて向き合うべきであろうと考えるようになりました。メンバーの1人の笹本征男さんは既に1995年に『米軍占領下の原爆調査』を書いていますが、現在、そこでは残された課題も視野にいれ、メンバー共同で取り組んでいるところです。
 そして、今年(2009年)の3月には、研究会の活動の一環として、低線量被曝研究会のメンバーとともに、21日から24日まで広島を訪れてきました。さらに瀬川嘉之さんは、25日から29日まで長崎へ足を延ばして来られました 。今回は、それらの訪問記のうち、長崎篇の前編をお届けします。
 広島のほうでは、現在も被爆者の調査を続けている放射線影響研究所の見学、呉市海事歴史科学館や広島市公文書館での資料調査を行ない、また、原爆投下直後から被爆者が担ぎこまれ、救護や後に調査機関の前身となった場所である旧陸軍宇品分院の跡地や、大野浦陸軍病院・京大調査団災害の跡地、呉共済病院、広島大学原爆放射線医科学研究所、広島大学医学部医学資料館なども訪問してきましたが、これらについては、次号で報告したいと思います。
(2009年6月)
長崎原爆調査 予備調査旅行 
2009年3月25日(水)-29日(日)
前編
瀬川嘉之(市民科学研究室 低線量被曝研究グループ)
終着駅、長崎に到着する
 佐賀の城跡で明治の初代司法卿として刑罰を変えた江藤新平の事跡をしのび、うろうろしていたら、すっかり日が暮れた。夕食もままならないと思いきや、城跡の出口、県庁の手前に一軒定食屋があり、のれんをくぐった。2、3人がラーメンなど啜っているけれど、どうも閉店の雰囲気だ。声をかけたら、おかみさんが「閉店だけど、いいよ。ご注文は?」と親切だ。定食にあたたかい豚汁がついて満たされた。
県庁から駅までは1キロほどの一本道で、途中、バスに乗ろうと思いつつも、もうバスも最終の時刻だ。この際、米欧回覧実記の久米邦武の生家跡の碑をおがんでおこうと寄り道をして、さらに遅くなった。駅に着くと、10時前に長崎に着く列車をぎりぎりで逃し、次は1時間後だ。長崎の宿に電話を入れると「いいですよ」と気軽な返事。観光案内に電話して一番安い宿と言ったら、紹介してくれたので、ビジネスホテルではなく、駅前ではあるが、民宿だ。一人になると、列車の到着時刻、出発時刻をあらかじめ調べるのも面倒になり、そもそもこの旅行の前に腕時計を失くしたのをいいことに、時間を気にしないことにした。
佐賀駅前には、幕末にお台場の大砲も作ったという佐賀鍋島藩の、鉄を精錬する反射炉の中で働く人の様子まで再現した模型の碑がある。昼間に反射炉や精錬方の跡を見て歩いたので、少し暗いけれどながめていて飽きない。すぐに1時間経って、列車に乗った。
夜中に着いた長崎はドーム状の屋根がある終着駅だ。駅を出ると、大通りの上に陸橋が四方にかかっていて、その下を右から左へ幻想的に路面電車が走って行く。この時間にしては車も多く通っていて、陸橋の下にバス停やタクシー乗り場があるのが空港のようで、外国の駅に着いた気分だ。陸橋を登って歩いて行くと、そのままブックオフのようなタイプの古本や中古CD、DVDの店に入ってしまった。明るすぎるけれど、『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活』と山路愛山の岩波文庫『豊臣秀吉』が目に付いた。さすがに旅先で買うのはよしておいた。そんなことより宿に入るのがだいぶ遅くなってしまった。この店のビルの横がバスターミナルのビルで、その裏に民宿があった。主人はこれから4泊するというので、夜中の出入りのために、ちょっとコツのいる鍵の開け閉めの仕方を念入りに教えてくれた。玄関の上がり口にある机で、長崎の観光地図を広げて、主人は長崎の町の概略を示し、宿から北へ浦上川沿いに細長く原爆に直接灼かれた浦上方面、江戸時代は長崎奉行所だった東側の歴史文化博物館方面、そして南に現在の県庁や出島跡や大浦天主堂方面、それぞれへの路面電車の乗り方、乗り継ぎ方を説明した。それら各方面の真ん中に駅と宿がある。この観光地図を4日間使わせてもらった。
「原爆落下中心地」に向かって歩く
朝、宿を出てすぐの駅前大通りを少し行くとNHK長崎支局の大きな建物があり、その横の坂を上って行くと、26聖人殉教の地に出る。このあたりは西坂といって、秀吉のキリシタン禁教で京都、大阪からここまで連行され、処刑された26人の像がある。12歳、13歳の少年までいて、日本のキリシタン弾圧および虐殺はここに始まる。記念館は開館時間前だったので、駅前で朝食を食べてから、殉教の地のすぐ裏にある岡まさはる記念長崎平和資料館に入った。
西坂公園26聖人殉教の地 この裏に岡まさはる記念長崎平和資料館がある
受付は韓国人らしい20代の女性で、西洋人のやはり20代前半らしい青年が手伝っている。横の柱のところで年配の日本人男性がパソコンを打っている。1階は真ん中の台全体に「戦前・戦中」の『サンデー毎日』と『日本電池評論』等若干の専門誌が無造作に広げてある。帰り際にパソコンの男性に『サンデー毎日』について聞いたら、たまたまあったので当時の雰囲気がわかるようにという程度で深い意味はないらしい。そのまわりの壁に、日本に強制連行され、強制労働させられた中国人、朝鮮人について、どこの地域に何人、どんなことをさせられていたのか、その中で端島、高島、崎戸の炭鉱で強制労働させられた長崎の中国人、朝鮮人、そして長崎で被爆した中国人、韓国・朝鮮人についての説明パネルが並んでいる。2階に上がる階段の壁に江華島事件から始まって近代日本が朝鮮、中国を侵略していく歴史があり、2階は、南京虐殺、重慶爆撃、731部隊、慰安婦、皇民化教育に関する展示がある。最後の一角にこの資料館の設立を提唱して1994年に75歳で亡くなった岡正治についての説明と蔵書や手帳、カメラ、時計、十字架等の遺品が展示されている。この資料館は翌95年に開館した。建物はもとも破産した中華料理店が安く入手できたので、岡とは無関係とのことだ。
 展示された岡正治の遺品
岡正治は長崎ルーテル教会の牧師で長崎市議会議員を1971年以来3期12年つとめ、その間に長崎在日朝鮮人の人権を守る会を結成し、長崎原爆朝鮮人犠牲者追悼碑を建立している。もともと大阪の人で1933年、15歳で海軍電信兵として広島の呉海兵団に入って以来、終戦まで海軍で通信兵や江田島兵学校教員であった。その間、20歳で洗礼を受け、終戦後の1956年に神学校を卒業して長崎ルーテル教会に赴任している。
展示パネルの裏は書棚になっていて岡の蔵書がぎっしりとつまっていた。中に小田実の随筆集があり、ぱらぱらめくったら、長崎訪問の記があった。小田は西坂のさらに上のほうの高級ホテルに宿泊して、窓外の三菱造船所を眺めた感慨を記している。はるか下にある私の格安民宿とは雲泥の差だ。あとで気づいたのだが、高級ホテルのある山が金毘羅山の突端でその向こうが西山方面だ。原爆の雲は金毘羅山を越えて西山方面に放射能の濃い雨を降らせ、それが残留放射能として観測されている。最終日の日曜に西山方面を歩き、そのあと原爆直後に被爆者救護の拠点となった新興善小学校の跡地を訪れた。岡正治の長崎ルーテル教会は新興善小学校のすぐ横にある。
 資料館を出て金毘羅山の麓の斜面に沿った「朝鮮会館」などがある道を北へ歩く。麓とはいえ、少し上っているので、振り返ると港に造船所、向いにはテレビ塔が立っている稲佐山の見晴らしがよい。しかし、こんな斜面に住んだら足腰が弱るとたいへんだろうな、と思ったら、左右に住宅が密集している坂の小道に柱の軌道が設置されていて、床が地面すれすれの一人乗りリフトがあった。新しいので最近設置したのだろう。銭座町を下って行くと、被爆して500人あまりの子どもが亡くなったという銭座小学校、当時の銭座国民学校があった。その前の通りをはさんだ丘の上には幕末から明治初年の浦上四番崩れで檀家がキリシタンだと発覚した聖徳寺がある。この寺も原爆で焼け、石碑が残っている。境内には保育園があり、満開の桜の下で子どもたちが遊んでいた。聖徳寺のすぐ向こうは駅から浦上へ路面電車が走る大通りで、その向いには三菱重工長崎造船所幸町工場がある。
聖徳寺から三菱重工長崎造船所幸町工場と稲佐山をのぞむ
 寺の墓地を通って小学校側の通りへおりた。墓地には江戸時代の墓、海軍軍人の墓が目にとまる。また、煉瓦づくりでかまぼこ型の納骨堂があって、長崎医専、今の長崎大学医学部で1912年までに解剖した約千体が納められているとのこと。これらも被爆して残っている。とすると、黒ずんでいるそこいらの岩や石垣も被爆しているのかもしれない。少し行くと「天順」というちゃんぽんの店があり、ちょうど昼時、やはり長崎名物を食べねばと入ると、姉妹がテーブルの上で麺をこねている。あわてて片付けて準備してくれた。小さな店だが、麺を東京へも出荷しているようだ。
 腹ごしらえもすんだところで店の前のゆるやかな坂道を上っていくと、出窓に「長崎の証言の会」だとか「長崎平和研究所」の雑誌や冊子を陳列している建物がある。ここは何だろうと見ていると車が車庫に入っていった。どうもこの2階が長崎平和研究所そのものらしい。いきなり訪問するのは気が引けたけれど、せっかくなので階段を上って呼び鈴を押すと若い女性が出てきて、下は長崎の証言の会だと言って案内してくれた。車の主らしい年配の男性がおり、しばらくすると平和研究所を設立した故・鎌田定夫氏のお連れ合いの鎌田信子さんが戻ってきた。これから原爆資料館を見てまわるつもりだと話すと、「平和祈念館もありますよ」とおっしゃったので、そちらを勧められたような気がして、土曜に訪れたときにはほとんどの時間を平和祈念館で過ごして、資料館のほうは駆け足になってしまった。証言の会の車の主に、岡まさはる記念資料館に寄ってきたと話すと、資料館の受付にいた西洋人の青年はドイツで兵役を拒否するかわりのボランティア義務をはたしているのだと教えてくださった。行政や企業から一切経済的支援を受けておらず、まったくボランティアベースで運営しているので、受け入れられるようだ。
証言の会の車の主は、ついでだからと、すぐ裏の坂本国際外国人墓地を案内してくださった。・・・USA99、USA100・・・とだけ刻んである小さな墓石が並んでいる。同じ時に建てられたフランス人の墓はもう少し立派だが、いずれも1900年の義和団事件で戦死した兵士だ。ちょうど広島、比治山の放影研の横の陸軍墓地でも、義和団事件で戦死したフランス人医師たちのずいぶん立派な碑が一番見晴らしのいいど真ん中にあるのを見てきたばかりなので、少し驚いた。ここで立派なのは胸像付のユダヤ人実業家の墓だ。永井隆の墓もここで、出身地島根県の三刀屋町から移植した木がかたわらにある。グラバーの孫で水産学者として精巧な図譜を残したことでも有名な倉場富三郎の墓碑には「昭和20年8月16日」と刻まれてあり、原爆からすぐのこの日自殺したのだと教えられた。
ひとりになり、墓地から下の通りに戻ってしばらく行くと山王神社で、階段の上にかの有名な被爆して一本足になった鳥居があり、原爆直後の写真にも見られる大楠が境内にある。神社から下っていくと、長崎大学歯学部の入り口に出る。原爆のときはここが長崎医科大学付属病院の正門だったようだ。病院は原爆落下中心地から約700メートル、医科大学は600メートルで、医療従事者は230人あまり、入院患者は約200人、大学教職員と学生は890人あまりが一瞬で爆死したそうだ。新しく大きな大学病院の正門前から白衣の人々がいそいそと歩いていくあとについていくと、被爆して残った医科大学の門柱があった。黒く煤けているのは被爆以来なのだろうか。高さ1.7メートル、約1.2メートル四方の石が爆風で10度傾き、前へ9センチずれ、台座と最大16センチのすきまができている。大学医学部の敷地に入るとすぐ図書館があり、その中に近代医学史料展示室がある。江戸時代の蘭学、シーボルト関係から幕末明治ボンペ、ボードウィンら以来、医学専門学校、医科大学と連なる歴史をたどっている。原爆関係では永井隆関係の物がいくつか展示されていた。中でも永井隆による残存放射線量測定結果報告書は機会があれば、中身を見てみたい。敷地内に原爆後障害医療研究施設があり、その展示資料室もあるので、原爆の詳しい展示はそちらだ。今回は時間切れで見学できなかった。たまたまここへ来る前に東京上野の科学博物館でこの大学の熱帯医学研究所のミュージアムと併せた特別展をやっていて、概要は見学していたので、血染めの白衣の写真を扉越しに見て終えることにした。裏手の丘は「グビロが丘」といって上の広場に原爆被災者慰霊碑があり、永井隆の句が刻まれている。被爆当時、この広場に負傷者を運び、救護活動をした。グラウンドの向こうに浦上天主堂が横から見えた。鐘の音を聞いたのは6時だったのだろうか。被爆して唯一残った建物の配電室などを見ているうちに暗くなってきた。
長崎大学医学部裏手のグビロが丘 ここに原爆被災者が横たわっていたのか
大学から600メートルという原爆落下中心地へ閉館後の原爆資料館の横を通ってたどり着いた。建て替えられた浦上天主堂の遺稿はここに移され、落下中心地の柱の傍らに立っている。川端をおりると瓦、煉瓦、茶碗、ガラスびんが埋まる被爆当時の地層がガラス越しに見られるように保存してある。このあたりは松山町といって通り沿いに商店街が並んでいた。米軍の資料では、長崎における原爆投下目標は、県庁や出島のある市街のほうで有名な眼鏡橋が近い常盤橋だ。ここから直線で4キロは離れている。そちらに落ちていれば死者、被爆者はさらに多かっただろう。雲がかかっていて、命令違反のレーダーによって投下したという。三菱の兵器工場が雲の切れ目から見えたというのは、大橋工場だったのだろうか。そうするとずいぶん北だ。晴れていたと証言する被爆者が多い。広島の落下中心地は島病院といって知られている。ところが、長崎の落下中心地の立派な記念の柱がある場所は地元有力者の別荘のテニスコートといってはっきりしないのはなぜだろう。おそらく深い意味はないにしても、なんとなく気持ちが悪い。
長崎歴史文化博物館から放影研長崎研究所へ(前編)
放影研訪問は午後2時に約束していたので、その間に長崎歴史文化博物館を見ておこうと歩き出した。宿の主人は「あそこなら市電に乗るより歩いていったほうがいい」と言う。まず会うとよいと紹介された平野伸人氏の事務所が宿からほど近い長崎県教育文化会館にあると知ったので、寄ってみることにした。昨日連絡のつかなかった平野氏は、今日もう韓国へ出張中と聞いていたので、事務所の場所を確認するだけのつもりだった。扉をノックすると返事があり、女子高生が3人いた。「留守番ですか?」と聞いたら、これから駅前で署名活動をすると言う。平野氏は在外被爆者支援連絡会の代表であると同時に、被爆二世教職員の会の活動もされていて、1998年の印パ核実験を機に国連や各国に「高校生平和大使」を派遣し、そこから「高校生1万人署名活動」が始まっている。署名活動は毎週日曜で、春休み中は毎日だと言う。2008年までに国連に約45万人分の署名を届けているというから驚きだ。
宿から歴史文化博物館に向かう通りは山に沿って湾曲していて、寺が並んでいる。一番手前の本蓮寺は勝海舟の寓居跡、次の聖無動寺には海舟の愛人お久の墓があるというので、斜面を寺の裏の墓地へ上った。墓はわからなかったけれど、墓地が隣に巨大な観音像のある福済寺に続いている。原爆の熱線はここまでは届いていないが、延焼で重要文化財建造物が失われ、1979年にアルミ合金製の15メートル観音像が建った。墓地はさらに黄檗宗聖福寺に続いている。本堂も鐘楼も中国風の雰囲気だ。江戸時代初期、イタリア人航海士との混血児でジャカルタに追放されたじゃがたらお春の碑もある。階段をおりていくと、経文や不要書類を焼却した惜字亭と称する幕末につくられた煉瓦づくり漆喰塗りの炉がある。
        黄檗宗聖福寺の惜字亭
歴史文化博物館と隣の県立図書館に寄り、博物館のレストランでランチを食べてから、路面電車の停車場、諏訪神社前に向かった。終点の停車場、蛍茶屋の目の前に放影研長崎研究所がある。■(次号「後編」に続く)

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