インタビューシリーズ「市民の科学をひらく」(3)大谷ゆみこさん

投稿者: | 2005年9月1日

2005年7月1日、「風の舞う広場」にて
聞き手:上田昌文(当NPO代表)

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◆大谷ゆみこさん
食から未来を考える市民ネットワーク「いるふぁ」代表。東京文京区で創作雑穀料理とノーシュガーデザートが自慢の超ユニークなカフェレストラン「Tsubu Tsubu Cafe(つぶつぶカフェ)」を運営。体と地球の生命力を高める穀物中心の食生活を「未来食つぶつぶクッキング」として提唱し、多様な活動を展開(詳しくは、http://www.ilfa.org/およびhttp://www.tsubutsubu.jp/index.shtmlを参照)。著書に『未来食』『野菜だけ』(メタブレーン1995、2004)『雑穀の書』(木楽舎2004)他多数。

●社会を透明にしていく原点として食を考えたい

上田:──大谷さんが食の問題で活動を始められるきっかけは何だったのでしょうか。そのあたりから話を始めましょう。

大谷:食べ物というと「グルメ」、それでなければ「健康」とか「病気」といった視点にフォーカスしてしまいます。私は、いのちを支える暮らしの基盤技術としての食に興味があったので、「私が変わる暮らしが変わる地球が変わる」というメッセージから始めたんです。

──それは何年ぐらい前ですか?

いるふぁとして活動を始めたのは『未来食』(注1)を書いた頃だから11年前。自分自身の実践研究から始まったレストラン運営や食のセミナーなどの活動は、23年前には始まっていました。今は「平和のために穀物を食べよう!」とストレートに伝えています。長年の活動の成果で雑穀が栄養価の高いおいしい食品だということが社会的に認知されるようになりましたが、まだまだ普通の人は雑穀のことをあまり知りません。まずは、こんなにいろいろな種類があるということを伝え、そして、おいしいという感動と共に雑穀と出会う機会を増やすために、様々な活動を展開しています。

次に、自分の身体を壊すような食べ物は同時に地球環境も破壊しているということを伝えています。以前は「自分の好きなようにご馳走を食べて早死にして、それで何が悪い」と言われると、答えられませんでした。でも、ある時いろいろ調べていって、環境を破壊して生み出された食べ物はやっぱり身体にも悪いし、逆にそういう食べ物を欲することで環境も壊れるということがわかり、「あなたが病気になって死ぬことで、その分だけ地球も壊れて困るよ」と言えるようになりました。

「安全なもの、身体にいいものを食べよう」という発想ではなくて、自分の命の土台である食べ物が自分の知らないところで作られ、自分にとって得体の知れないものであることが問題なんです。それをもっと透明な状態にしたい、今思うとそれが始まりだったかな。社会全体が不透明だから、それを透明にしていく原点として、自分の身体のこと、身体を養う食べ物のこと、食べ物を生み出す大地のこと、そしてそのつながりを全部透明にしていくことをしたいと思ったんです。

──雑穀に目をつけられた理由というか、原点は何なのでしょう?

もともと今の社会の流れに疑問を持っていました。よく考えれば「変じゃない?」って感じることがたくさんあって、でもみんな気づかない。例えば、なぜ病院で子どもを生むのか…これは真弓定夫先生(注2)によれば、粉ミルクを普及するためのアメリカの戦略で無理やりそういう仕組みを作ったということだそうです。精神的にも生理的にも違和感をもつような嫌なことが多くなってしまっている、と感じていましたが、でもどうしたらよいのかもわからずにいました。

今のように社会がおかしくなってしまう前の歴史を調べたいと思っても、情報がない。モノはいっぱい溢れているけど私が知りたいことも欲しいものも何もない、そんな渇いた状態にいました。でも渇いているだけでも仕方がないので、一生懸命水脈を探す気持ちで、手当たりしだいやれることをやっているうちに、たまたまその一つとして玄米ご飯を出す自然食レストランに行ったんです。その時に、「あ!」と気づかされました。

私は、文句を言いながらもそれなりに社会に適応して、いろんな食材のことも知っているつもりでしたが、その何でも知っているはずの私にとって知らない食べ物がここにあるということが、まず一つショックだったんです。そして同時に、これは可能性かもしれないと思いました。私の知らない世界があるということは、もしかしたら私が探していた水脈がここにあるのかもしれない、と思えたんですね。玄米ご飯を食べた瞬間、生理的にすごくおいしいと感じました。

●身体が”美味しい”とよろこぶ体験が…

私が育った時代はもう白米が食べられていて、ご飯、味噌汁、漬物の食事でした。私が育ったのはそんなに田舎でもなく、今なら東京から車で1時間半程のところですが、キンピラや手打ちそばがごちそうでした。そのころ家の座敷で開かれていた冠婚葬祭の一番のご馳走は、油揚げ1枚の煮付けでした。

家では毎日、ご飯、味噌汁、漬物、おひたし、夜はうどんという食生活でしたが、学校に行くと、「それは栄養がないんだ、ハンバーグやとんかつを食べなさい」と言われました。でも、どうも変だな、それ以前の日本人って何だったんだろう、と納得がいきませんでした。調べようとしても歴史的に見た普通の生活情報に関する記録はなく、歴史の本もたいしたことなくて諦めかけていました。

もともと、どうしても西洋的なものに対して生理的になじめない部分がありました。本当の情報を求めていたところに、玄米ご飯という、自分が食べたことも見たこともない食べ物がこの世の中にあることを知ったのです。そして、それがほんと美味しかったわけです。

その時初めて、小さい頃のご飯以上に体が喜んでいることを実感しました。私自身、(当時の)栄養学を学んで、肉や砂糖も摂り、ケーキも食べていましたから、今思えば、病気ではないけど便秘がちだったりと、結構体調は悪かったんですね。でも、みんなもそうだけど、若いうちは気力があるからその不調を感じなかったんです。ところが、玄米ご飯でどんどん身体が元気になっていくし、身体が喜んでいる、身体が美味しい、という独特の衝撃があったんですね。最初は何だかわからず、しょうゆで炊いたご飯だと思ってたずねたら、「これが本当のご飯だ。人間は穀物と塩と取れたての野菜があれば生きていける、それも年に60kgでいい」と言われて、「これは水脈かもしれない」と思ったのです。

人の食べ物の原点が「穀物と塩と野菜」だという事実に驚きました。それで、この水脈をたどるとどこまで行けるのかと、希望と好奇心がむくむくと湧いてきたんですね。それまで手ごたえのない生活をしていましたから、この際全部ひっくり返し、それしか食べないとしたらどうなるか、どうしても知りたくなったのです。本物かどうかを確かめるためにも思い切ってそれまでの食事をやめて、本当に必要なものだけで生きてみようと考えました。

──自分の体で検証する、ということですね?

もしそれが本物だったら、私や世間がこれまでやってきたこと、例えばあの栄養学っていったい何だったのか、ということになります。「自由になれるかもしれない!」と思いました。

私はずっとこの社会から脱出したいと思っていて、でもがんじがらめで、どうやって出たらいいかわからないと思っていたんですが、これで私だけでも出られるかもしれないと思って、徹底してやりました。それを知ったのが30歳のときですから、ちょっと遅くて損した感じがしましたが…。

かすかな手ごたえもあった一方で、本当にこれで満足できるとも思えないような不信感、不安感もありつつ、おそるおそるやってみたら、思ったより面白い。粉を炒めて水を入れればシチューやホワイトソースができるといった、今まで誰も教えてくれなかった知らない技術を知ることそのものが感動でした。それまでは料理というと、使ったこともないような食材やらを買いにいく必要があって、一つ一つがどういう味かもわからないものをただ入れているだけで、「操り人形」みたいで嫌だなあと感じていました。料理は単純で何の可能性もないつまらないものだと思っていたんです。ケーキを作ってみようと思ったこともありましたが、「粉100gに砂糖100g」って書いてあるのを見て、「えー、これは嫌だな」とも。もっとも食べることはやめなかったんですけど…。

ところが(「穀物、塩、野菜」の料理を)始めてみて、これは操り人形ではないと感じて、日本の伝統食文化に対する信頼を取り戻しました。穀物にこそ栄養があって、それをおっぱいのようにうれしく食べて、その味を引き出すために海の結晶である塩をちょっと入れて、それをあるところまで入れると突然美味しくなる…、そういったことがわかったわけです。料理は音楽に似ていて、音階と同じように「味階」というものがあります。「薄味で美味しい」から「濃くて美味しい」まで、幅もあります。体調にもよりますが、塩をある程度入れないと絶対うまみは出ません。材料と塩に本気で向き合うと、突然美味しくなる時というのがあります。料理をする時、材料にさわると、こんな風に切ったら、こんな風に組み合わせたらおいしいというイメージが湧いてきてどんどん手が動き出します。即興でリズムとメロディーを奏でる感覚です。材料を炒めていると、「このくらい油ほしいな」とか「このくらいしょうゆ欲しいな」ということを手が教えてくれるようになります。不思議なことにほとんどはずれません。鍋の底と火としょうゆと私の一体感、本当に不思議ですよ。みんなには伝えるためにレシピ化せざるをえませんが…。

感動の料理三昧の日々を送っていた時にふとしたことから、穀物の仲間の雑穀にたくさん種類があることを知りました。古代から日本の食卓で主食の座を占めてきた雑穀が消えてしまった、という歴史を知った時、新しい水脈が開けたことを感じたのです。雑穀の歴史を紐解けば、砂漠に放り出された私が、砂漠化していなかった頃の森を蘇らせることができるのではないか、と思いました。

●雑穀は刷り込まれた価値観を崩す力を持ってるんです

──雑穀に出会われたのはいつ?

今から22年ぐらい前です。その10年ぐらい前から、食の問題とか複合汚染の問題とかが出て、結果としてアトピーの増加が問題になった時期がありました。松村龍雄さんというお医者さんが、慣れない穀物を食べることでなんとかアトピーを回避できるんじゃないかと提案し、回転食として米以外の穀物を毎日違う種類食べることを勧めたんです。でもその頃は誰も炊き方とか知らなかったので、ほとんどの人は、10分ぐらい煮た炊けていないものを食べていたのです。最初から美味しくないと思っているから、「10分煮る」と書いてあったら、芯のあるものでも我慢して、病人食のような形で食べられていたのですね。一方で地方へ行くと、先祖代々食べられてきたものを消してはならないとずっと食べ続けていたおばあちゃんや、雑穀を好きな人たちがいて、歴史は細々とつながっていました。

一度は消えかかっていた雑穀が社会全体に知られたのは、アトピーがきっかけだったと思います。医療食ということでアレルギー専門食品店で売られていました。アトピーが出てきたことも何か警鐘としての意味があったのだと思いますが、それになぜか雑穀が結びついた。不思議じゃないですか? 米を食べるとアレルギーになってしまうので、他の穀類である雑穀に眼を向けたわけですが、治療食としてあったわけで一般的な主食としては見られませんでした。私もそれまで見たことも食べたこともなかったのですが、自然食品店で見つけて、穀物の仲間がこんなにあったことに感動しながら炊いてみたら、何しろ美味しかった。
そして、私は、それまで雑穀を見たことも食べたこともなかったのに、雑穀というのは大昔の人が貧しい中我慢して食べた、不味くてぼそぼそした栄養のない食べ物だ、とはっきりと思っている自分に愕然としました。自分で何も体験していないことにまで知らない間に事実ではない価値観が刷り込まれていることをはっきり認識できたのです。それに反して、雑穀は調べれば調べるほど、栄養があり、歴史も深く、地域的特徴がありかつ国際性もあることがわかってきました。事実とは反対の見方が雑穀に被せられていて、雑穀は歴史の彼方に消えようとしていたわけです。

それまで、刷り込まれた価値観をまず脱がないと人は自由にならない、と思って脱ごうとすると、ほとんど肉化した包帯みたいに癒着していて、どこまでが自分なのかわからなくなっている。雑穀に出会って、刷り込まれたイメージと現実の違いがこんなに違うということを、過去のものではなく今ここにあるものによって、確認することができることに感動しました。雑穀を通して誰もがリアルに真実に触れることができるのです。

どこまでも行っても答えのない焦燥感みたいなものがあったのに、ここにある食べ物が事実を突きつけてくれるなんて! 私たちが歴史のひずみから自由になるにはこれしかない、と思わせるほどリアリティーがありました。毎日食べられて、食べるとすぐ身体が変わる…。雑穀のすばらしさ、おいしさに感動して、私の水脈探検は、さらなる確信に満ちて進むようになりました。

どんどん体調がよくなり、どんどん自分の暮らしが透明になっていく。この気持ちよさ。今まで見えなかったことが、わーっと見えてきました。

──その過程で、美味しく食べられるレシピを自分で作りだしていくことと、もう一つ、仲間に声をかけて活動として成立させることとがあったと思いますが。

デザイナーだったから何かを見たらその本筋を見て、それをデザインし直す仕組みの頭になっていたんです。それから私は、物心ついた頃から社会観察というものを丹念に続けてきました。社会はどういう仕組みになっているのか、なぜ誰も悪くないのに結果が悪くなるのか、ということをずっと見て考え続けてきました。

その結果、強固に固まっている社会を自分独りが変えることはできないと思ったので、まずは自分が脱出するためにどうしたらいいか、ということから始めました。そして、本当の食に出会ったのです。こんなにすばらしい水脈を見つけたのに、独り占めにしておくのはもったいない、本当のことを知ってしまった以上、それ以外のことをやりたくなくなって、それを仕事にするのが一番いい、と思ったんです。

──そうできれば、ほんとうにそれが一番いい。

自分が発見してこんなにわくわくして幸せになっていったことを、以前の私みたいに渇いている人がいたら、その人にだけは情報を出したい、と思ったわけです。私はこれを人に広めたいと考えているのではなく、私のように望んで渇いている人がいたら、出会うチャンスは用意したい。自分自身が本当にそういう考え方にそって透明な日々を楽しく生きることで、その楽しさの技術、自分が幸せになれる技術をみんなに教え伝えることが仕事にできれば、と思ったわけです。

●社会は”自分”の集まりなんだ…

この20年の間に、「万人のために社会を変えよう」と言ってつぶれてしまう人をたくさん見てきました。 私には”万人”というありもしないものを想像することが失敗の原因だと思えました。私が以前やっていた観察の中で、社会って何か、家族って何か、私って何かを考えてきました。それらを通して、ある時までは社会と自分というのは、強固などうにもならない巨大な怪物、大きな岩のような固まりと自分といった敵対的な感じがあり、出来上がってしまった社会の中で、自分一人が何をしてもどうにもならないのではという無力感がありました。

でも、ある時ひらめいたのです。どんな人だって生まれた時は赤ん坊で、よくわからない社会に後から生まれ、不安におののきながら生きている。その一人一人が集まっているのが社会であって、みんな私と同じように不安なんだと考えるようになりました。個々人の性格は多少違うかもしれないけど、歴史の中ですでに出来上がってしまった社会に生まれ、そして必ず死ぬ命を持ち、どんなに権力があっても一日は24時間しかない…という原点に共通項を持った人間が人数分だけ集まって社会を作ってるんだから、私が変われば社会が変わるんじゃないか、と思えるようになったわけです。

それを日本語で表現するのは難しかったから、社会をsocietyと言わず、自分の複数の集まりと考えて「myselfs」と呼ぼうと決めました。その社会を良くするためには、社会や自然界や生まれてきた場所や生きていることを自分が一番に楽しみ幸せになることが大切だとはっきり思えるようになったのです。自分が幸せになる方法もわからないのに、人を幸せにすることはできない、そう考えたのです。例えば原発の問題がなかったらどう生きたいか、というビジョンのないままに活動している人がいます。そうすると常に何か反対するものが必要になってしまいます。反対していることが仕事になってしまう…。

──反対すること自体を自分のアイデンティティにしているんですね。

そういう役割だとどうしてもそうなりがちだけど、もしも原発がなくって、もしも戦争がなかったら私はどう生きていたいか、というビジョンを自分の中で育てながら活動することが必要だと思っています。自分の命こそが一番身近な自然であって、これを本気でだいじにすることからすべてが始まるのです。

環境運動をしている人は特に、大きな問題を前にして個人のことを考えるのはエゴだ、瑣末なことだというふうに考えている人が以前は多かったのです。環境問題が注目され出してからも、結局一番身近な環境である「食」が商売のネタか非常に瑣末なもののようになってしまい、あまりにも真剣に取り組まれないという現実がありました。私は「未来食」という言葉を提示しましたが、この言葉で、食べ物と命、食べることと向き合う、生きる姿勢として何を食べるかを考え、透明な暮らしを求めるという姿勢を伝えたいと思ったのです。

その結果、今現実にゆがんだこの社会でどう食べていくかは次の問題で、姿勢の問題なので選択肢はいろいろありますが、何を選択するにしても本当のことを知ることがまず大事だと思うのです。その姿勢として『未来食』では、あなたの身体が壊れた分だけ地球も壊れるんだから、一番に、誰かを搾取し人権を蹂躙する歴史の中で生まれた食べ物は阻止しようと提案しています。

コーヒーはだめ、バナナはだめというアプローチでは説得力もないしつづきません。目の前にある食べ物が美味しくて明日も食べたいと思えるレシピや、今のスピード社会に合う簡単な料理法が大きな力になります。「ああ、私はそのためにデザインの仕事をやってきたんだな」と思ったほどです。60kgの穀物と塩と野菜があれば生きていけるんだから、理屈を言わなくても、食べてみんなが美味しいと言ってくれる食べ物を広めて地球をひっくり返すマーケティングを展開していこうと思っています。

●いったん徹底して受け身で生きてみると…

20年前、最初は自分が変わるために私が「脱ぐ」期間が必要でした。地面が生きている場所で、現代の社会と仮にでも離れた環境を作らないと自分が脱ぐことができないと考えました。田舎に行けば何かが解決すると思ったわけではありません。田舎には田舎型の問題があるし、都会には都会型の問題がありますから…。最初の8年ぐらいは東京にいてもできる自然療法や作物の作り方、料理などを習ったりしながら、価値感や暮らしを変えていきました。気がついたら、東京にいる必要のない暮らしになったんです。これはちょうどいいから実験しようと考え、どこか自然がいっぱい残っていて、食べ物が作れる大地が残っていて「ご近所」のない場所はないかと探して山形県の山の中へ引っ越しました。

その時考えたのが、思い切って何も考えないようにしてみようということ。自分のものでない刷り込まれた価値観から自由になれなければ意味がないと思ったので、それまで、自分の好みの色はこの色、という感覚で生きていたんですけれども、私がゼロになるために、思い切って何も考えないようにしてみようと…。そうしたら、それまでは自分が何かしなければ何も起きないと思い込んでいましたが、時が来ればことは起こるということがわかったんです。意欲的に積極的に生きなさい、という考えをすっぱり捨てて自分を自由にするために、状況に身をゆだねて受身で生きるということをしてみました。

柱と布とロープがあれば1日で住めるようになる直径も高さも5メートル40センチのインディアン・テントを建て、ただそこにいて、ご飯を作って、耕して、子供たちと遊んで、何も計画しないでまるまる5年ぐらい暮らしました。そうしたら、小国町に住む人たちが、「そんな山奥にいないで山里に下りてこないか。」と誘ってくれました。小さな手作りの小屋での山奥の暮らしも、自然と自分たちだけの不思議な開放感ですばらしいものだったのですが、そろそろ、人の中に入って暮らしても揺るがない力がついたかなという自信も出てきていたので、1995年に、山奥から車で40分、新潟県境の小国町の奥に引っ越しました。

ちょうどそのころまでに、自然と向き合う受け身の暮らしの楽しさや感動を、もっと多くの人たちと分かち合いたいという思いがむくむくふくらんできていました。引っ越しをきっかけに何家族もが家族のように過ごせる大きな家を作れないかと思い始めましたが、お金に縁のない暮らしだったので、ここでも自分たちで、できるところからこつこつ作っていくしかないと仮住まいの道路沿いの車庫作りから始めました。たった9坪の土台のブロックを子供たちも手伝って積むのですが、1日に1段もできないのです。通りかかる集落の人は、今日は何段だったと結構楽しんでいたようですが……。

それでも、いつの間にか、建坪48坪、床面積110坪の「いのちのアトリエ」が建っていました。今でも作り続けている途中ですが、土地の人も驚くほど快適な家です。

──そのように山形での暮らしがある形をなしてきて、そしてまた東京に関わるようになる何かきっかけというのは?

私が山形に引っ越しするとき、東京の仕事の仲間たちは「私たちは山形で生活することは出来ないわよ」と言い、東京に残ってレストラン運営などの活動を続けることになったので、年に9回、東京に出て、セミナーを運営することを私の役割とすることにしました。2~4月、5~7月、9~11月に3回連続コースのサバイバルセミナーを開催することで、1年のうち、7月後半から9月後半までの2ヶ月と、11月後半から2月後半までの3ヶ月、併せて5ヶ月は東京にまったく来なくていいというふうに設計しました。山形ではお金はほとんど必要ないけれど東京にいる仲間はお金がないと身動きとれないので、その分の最低費用は活動で生み出せる工夫は必要でした。おかげで、山にこもりっきりではなく、活動が育ったんだなあと今は感じています。

いのちのアトリエの暮らしを体験してもらうオープンハウスというのを年に5,6回開催していますが、東京の活動を入り口に、多くの人がここで心通う時間を過ごして、暮らすことの本当の楽しさに気づいていきます。いるふぁの収入源としても十分機能しています。

──そのように、現在の経済を完全に否定することはできないので、それに乗っかりながらも、現在の経済が持っている縛りのようなものをどうやって変えていくかという発想が必要だと思うんですよね。

なかなか手強いですけれどね。個人の場合はよくても、それが集団になった場合できるのかというところが、私の一つのテーマでもあります。

──新しいことを始めて、人が集まってきて一緒にやりましょうとなったときに、それによって食べていかなければいけないということを考えた場合、長い目で見て「集合住宅的な発想」を生かすためのもっと上手い方法を出せて、お金をかけなくてもみんなが満足するような生き方の方向はありうると思うんです。

うちの住まいなんか個室はほとんどないけど、みんな楽しそうですよ。判断力のない子供にテレビと個室を与えて「まともに育て」って言う方がおかしいですよ。常にいろんな人と触れ合って刺激を受けて、そして何かおかしかったら「それはおかしいね」って言ってもらえる環境が大事ですよね。昔は家の中に社会があったんです。今でも先住民の暮らしには残っています。例えばサラワクの森にある「ロングハウス」みたいなものです。

──そうですね、かつては下町でしたらどこにでも「長屋」みたいな家は存在していましたね。

実体験として、長屋みたいな住まい方をやってみると、本当にみんな変わるんです。昨日までまったくの赤の他人だった人が、同じ家の中でこんなに楽しそうにお互いのことを思いやりながら、こんなに平和に、何の気兼ねもなく暮らせるのに、どうして今の社会はこんなになっているんだろう、不思議だなと思います。そういうものを育てていけば、何か変わるんじゃないかと思います。

●科学とも連携した食のパラダイムシフトを起こしたい

──今はとても幅広い活動を展開しておられますが(上記の表参照)、これからの活動の目標は?

今後のミッションとしては、本当のおいしさを体験する場としてのレストラン「つぶつぶカフェ」と、ピースアースフードパーティーサービスの仕事を通して、個人だけでなく社会全体の食卓のあり方を変化させることを考えています。そのために、学問として「食学」という分野を確立させるにはどうしたらいいかと考えています。食べ物の成分にとどまらず、「料理と身体」という視点から食を捉えなおすことが必要だと思います。「食学」をベースにした生命力を高める食のデザイン、という概念も育てたいと思っています。見て感動、食べて口の中にはじける味わいと食感、そして、生理的栄養バランスをトータルにデザインする「食デザイナー」を養成していかなければと思います。具体的には、アカデミックにやっていく方法と、現実的に実践していくという方法、両面からのアプローチが必要です。究極の目標は、食に関するパラダイムシフトですが、まずは、韓国料理やフランス料理と並んで「つぶつぶ料理」という食のジャンルが市民権を得ていくところを目標に、活動を進めたいと思っています。今までの栄養学を否定するのではなく、進化させるという考え方が大切だと思っています。そのために例えば企業と連携して、社会が食について考える形を作れないかと。

今までお話してきたように、いるふぁの活動は非常に多岐に渡っています。魅惑的でおいしい料理は山ほど生まれているので、そのおいしさを体験してもらうことが今は一番必要なことです。広めるためには魅力的なカフェが必要なんです。活動をもっと整理した方がいいのかもしれないけれど、どれもがつながりあって社会を変えていく力になっている。どれか一つではだめなのよね。これからどうなっちゃうのかしら(笑)

──いやいや、とても希望に満ちた話ですよ。

地球や生命を敬うという当たり前の感覚にもっと気づいていくことが必要で、穀物を食べ込むことで初めて本来の「人」に戻れるんじゃないか、というメッセージを出していきたいと思っています。

──一緒に頑張りましょう。今日は本当にありがとうございました。

脚注

(注1)『未来食――環境汚染時代をおいしく生き抜く』1996年、メタブレーン刊

(注2)真弓定夫=小児科医。自然流の育児と健康法を実践・提唱している。主な著書に『お母さん! アトピーから赤ちゃんを守ってあげて』『自然流育児のすすめ』『医者の門をたたく前に』など。

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