連載「オーストラリア便り」第3回 疫病、棄民、暴動

投稿者: | 2020年6月14日

連載「オーストラリア便り」第3回

疫病、棄民、暴動

永田健雄(市民科学研究室会員)

PDFはこちらから 

連載第1回はこちらから 
連載第2回はこちらから 


今回の便りでは何を題材とすべきか何週間も悩み続けました。そのせいで、あまり良いものを届けられないかもしれません。どうして悩み続けたかと言いますと、書く予定に入れていた題材が二転三転したからに他なりません。その原因は、急変し続ける世界情勢に加えて、その変化によって私自身、精神的に非常に不安定になっていたからです。

初めは、オーストラリアのメディアにおける科学の扱いについて書く予定でした。前回の気候正義と絡めて、オーストラリアのメディア風景がどう情報の伝達や意見形成に影響しているかを論じる予定でした。しかし、日本におけるコロナの現状がひどくなり、休業補償の不在や専門家集団の不誠実な態度が取り沙汰されるようになると、怒りの感情が制御できなくなり、オーストラリアのことについて冷静に書くことができなくなりました。なので、続いて、オーストラリアと日本でのコロナに関する行政コミュニケーションを比較した記事にしようと思いました。ここには、日本の専門家集団への痛烈な批判の意図が込められていました。厚生労働省によるガイドラインで定められた「風邪の症状や37.5℃以上の発熱が4日以上続いている(解熱剤を飲み続けなければならないときを含みます)」というメッセージや、専門家集団によるPCR検査への態度を批判し、かれらがイタリアやスペインを失敗例だとみなす一方自国のクラスター対策についての不備を棚上げしていることを、陽性者数・死者共に少ないオーストラリアの検査・検疫体制と比べながら指摘するという構成で考えていました。しかし、結局は怒りで疲れてしまいました。なぜなら、オーストラリアでは日本の話を聞いてくれる現地の人が周りに全然おらず、現地の日本人とも全く意見が合わないと感じたからです。そのため、かれらが聞いてくれるようにと情報ばかり集めるほどに、対処仕切れない巨大な感情の波に押し流され、情報を編纂し出力することができなくなってしましました。そうして大学院の課題にも押されつつ、この連載の内容をどうしようかと思案している うちに期限が近づいてきてしまいましたので、ひとまずでは「現状考えていることを」とまとめ始めたのですが、そこでミネアポリスの事件が起こったのです。これで文章作成は一旦不可能になりました。

小学生時代をアメリカで過ごし、日本でいじめられ、長い間日本のことを好きだと思えなかった記憶や、オーストラリアに来て外見で差別されたことや、様々な人に助けられたことが去来して、傲慢ながら人ごととは全く思えなくなってしまいました。キング牧師の言行をとにかく調べ、怒り悲しみ何時間も泣き続ける日々を送りました。そうして、もう何かを書くエネルギーはほとんどなくなってしまいました。これが長い前置きです。




文具店の入り口に置かれたソーシャルディスタンスの注意書き。1店内最大人数(50人)を記し、1.5m間隔を維持するよう要請する内容。(写真:筆者)

コロナショックが生んだ格差・断絶

さて、コロナが作り出した現状を見ますと、格差の拡大をひしひしと感じさせられます。実家暮らしvs下宿、パートナー持ちvsシングル、良いネット回線vs悪いネット回線、機材が揃ってるvs スマホ・タブレットしかない、などなどです。遠隔授業やミーティングで見た例だけでも、パー トナーが料理や飲み物を出してサポートしてくれる例、ネットインフラが劣悪な地方に住んでいるために回線が途切れ途切れになる例、事情があって自宅で対応できない例などを見てきました。また、教育へのアクセス性についても著しい格差が生じてきています。私は今回を機会に家庭教師を始めましたが、全ての子どもが家庭教師を受けられるような経済的環境にはないと思います。さらに言えば、親の教育への態度にも影響されますし、特に親にネグレクトされている場合ではどうしようもない状況です。また、現地在住の日本人のための学校を開いている方がいますが、これも「その」情報にアクセスできるか否かという最初の壁が待ち受けています。しかし、オンライン歓迎の言論を見ていると、そう言った格差の存在が見えていないか、「仕方のないこと」として捉えていると思わざるを得ません。この背景には、日本に限らず世界中を取り巻く棄民をよしとするどうしようもない風潮があると思います。病院からスーパーや食品工場、配送業などで働く方は、「エッセンシャルワーカー」と呼ばれ、世界中で感謝されました。しかし、現実として各国政府はかれらを生贄に捧げながら、Amazonのジェフ・ベゾスやフェイスブックのマーク・ザッカーバーグらの、ただプラットフォームを持っているだけの人たちがこの大変な時に幾百億ドルも資産増するのを見逃しています。休業補償を碌にしない日本はその中でも一層論外です。ロビイストやよく分からないコンサルタント業、ビジネスやマーケティング分野で崇拝されるソート(思想)リーダーなどという莫迦莫迦しい業種などのこれらの人間たちが、あり得ないほどの富を蓄えながら、99%の市民は借金やローンに追われ、上司から理不尽な扱いを受けながら毎日休まず働き続けても、報われない社会がまともな訳がありません。加えて、現実がしんどいから、「娯楽」漬けにならないとやっていけないのはおかしいと思います(趣味や文化自体は素晴らしいものだと思います)。つまり、デイビッド・グレーバーが「ブルシットジョブ(bullshit job、どうでもいい仕事)」と呼称する仕事を減らして、「エッセンシャルワーカー」が真に大切にされる社会を作る必要があります。

一方、Amazonやらzoomやらは本当に必要でしょうか。これらの「イノベーション」とやらは、私たちの生活を豊かにしたと思う方も多いと思いますが、果たして本当にそうでしょうか。考えていただければと思います。しかも、その「イノベーション」は、不正義の上に成り立っていたり、不正義の黙認に繋がっているではありませんか。現に、多くの方がAmazon倉庫でマイクロマネージされ、奴隷のように働かされているではありませんか。スーパーや書店に買いに行ったり、それが厳しければこれまでの宅配サービスを使うのでは駄目なのでしょうか。また、欲望に突き動かされて爆買いしているものは、本当に必要なものでしょうか。zoomについても、上で述べたように格差の存在を前提にして構築しているではありませんか。さらに言えば、イノベーションの恩恵は平等に降りかからないですよね。アメリカでは(そして、オーストラリアでも)、未だネットインフラが整備されていない地域が非常に多く存在します。日本でも、20代におけるパソコンの所持率が4割ほどしかないと言います。この状況でオンラインをやらせて、後は自己責任とする大学があるとすれば、私は絶対に許せません。今日本にいたら確実に学費デモに参加していたと思います。

以上を総じてみれば、コロナショックを契機として地球は一層二つの世界に分かれてしまったと感じ、悲しくなります。オンラインに切り替えて楽しんでいる方も沢山いますが、ネット環境に恵まれない人や、現場で働き続けなければならない人たちとの断絶を強烈に感じます。

ところで、私の場合はというと、ネット環境や家賃で悩む必要のない贅沢な立場にいますが、学校という数少ない話せる人と会う場が奪われたことで、一気に孤立を実感しました。人付き合いに消極的な方なのでオンラインで話す相手もあまりいませんでしたし、大勢で盛り上がる雰囲気についていけないので、オンライン飲み会にも消極的でした。価値観や興味を共有できる人が周りにいなかったことに輪をかけて、差別的な言動に遭ったことも孤独感に拍車をかけました。

しかし、そんな中にあって自分を支えてくれたのは専攻の指導教官の言動でした。指導教官の後押しがあったからこそカウンセリングにアクセスすることができ、課題に追われることで自分自身を責める気持ちを和らげることができました。加えて、価値観や体験を共有できる友人が少数ながらおり、週1、一時間程度ながらLINEやzoomなどで話しあえたことが救いでした。(そういう意味では「イノベーション」も役に立つのですが、この事実は「イノベーション」の問題点を解消してくれません)

さらに、今回の体験を通して抑圧に非暴力で抵抗したガンディーやキング牧師、そしてかれらと共に正義のために闘った人民に思いを馳せることができました。以前から名前は知っていたのですが、はじめて真面目に『バーミンガム刑務所からの手紙』を読みました。そこには、環境問題、労働問題、差別問題など、あらゆる運動に関わるエッセンスが書かれていました。これまで私は、労働運動や平和的なデモを良いことだと言いながらも、対決はなるべく避けるべきだと思っていました。しかし、キング牧師は以下のように書いています。「私は告白しなければならな い、『緊張(tension)』という言葉を恐れていないということを。私はひたすら暴力的な緊張には反対してきたが、成長に欠かせない建設的で非暴力的な緊張の形がある(筆者訳)」。また、このように述べています―「自由は抑圧者から自発的に与えられることは決してなく、被抑圧者から要求されなければならない(筆者訳)」。キング牧師は、その前でバーミンガムにおいてデモを行うに至った経緯を述べています。非暴力運動を行う四つの段階として、情報収集、交渉、自己浄化、直接行動をバーミンガムで実践したことを具に記しています。その中で、バーミンガムの経済界と交渉を行って人種差別的な表示をやめさせたが、その約束は破られてしまったと言います。そこで、抑圧者を再び交渉のテーブルに乗せるため、やむなく直接行動を行ったのです。これは、対話と対決との関係において、非常に重要な示唆を与えていると思います。実際、異なる価値観を持つもの同士で対話できるのは素晴らしいことでしょう。しかし、現実の権力関係を考えると、そもそも弱者のいうことなんか端から聞く気がない/耳に入らない相手もいます。そのような者を変えなければ現状が良くならない時は、対決で以って下から圧力を掛け、どうにかして交渉のテーブルに引きずり出さなければならないですよね。だから、対話も対決も大事でしょう。何なら、「対決がまず無ければ対話できない」のではないでしょうか。考えてもみれば、例えばブラック企業の経営者の行動を変えるには、労働組合がストライキを実行したり、情報をメディアに流して世論の圧力を高めたりしなければ、団体交渉や示談交渉の場に引きずり出せないでしょう。裁判で直接対決して変わることもあるでしょう(社内組合対使用者の場合、形式化していることもあるとは思いますが・・・)。最近の検事庁法改正案の事例でも、数百万の市民がインターネット上で抗議をし、国会前でサイレントデモを行ったことで政府与党は判断を変えざるを得ない状況になりました。これも、対決姿勢が明示されたことによって、権力が判断を踏みとどまることに至った例ではないでしょうか。


【続きは上記PDFでお読みください】

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけれるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。
ご寄付はこちらからお願いします

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です