【連載】美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第5回 「食事のシーン」を描くことができるか

投稿者: | 2022年7月14日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第5回

「食事のシーン」を描くことができるか

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

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「ちゃぶ台」以前 家庭における「銘々膳」

 

 

一、食物は、なるたけしづかに、すこしづつよくよくかんでからのみこみ、茶づけなどにして、はやくたべるは、体のためになりませぬ。

(中略)

一、食事は、口の中でうまいためにたべるでなく、体をこやし、これを保つためにたべるのであることをわすれなさるな。(『小學兒童作法訓畫』「食事の心得」、明治35年[1]

 

食事は「うまいためにでなく」、「しづかに」食べなさい。これは明治時代に「小学校」で子どもたちに教えられていた食事の作法、その心得である。この作法によると、「体のため」とはいえ、家庭では「黙って食べる」のがスタンダードであったかのようである。当時の子ども向けに書かれた「作法」の教科書には、心得の言葉だけでなく身体的に実演して見せるように、家庭で子どもが食事をするときの図も描かれている。このような家庭の「食事のシーン」の描き方から、現代の日本人はどのようなことを感じるだろうか。

昭和初期くらいまでの日本では、家庭でも一人ひとり別々の「銘々膳」で食事をしていた。家庭での「銘々膳」の理由として、身分や上下の関係が重んじられていたということが日本の家庭の生活史研究で指摘されてきた。たとえば「家の中でも家長を頭に、男、年長者が上で、女、年少者が下とはっきりと位置づけられ、食事も上座から下座に向かって、身分の順に並んで銘々膳を前にして正座し、家長が箸をとってから食べ始めた」というように、家庭での「銘々膳」のシーンが説明されている。元々は武家で重んじられていた作法であるが、子どもの世代に没落することを恐れた江戸時代の豪商や、明治時代の学校教育を通じて、かつての「身分」を越えて広がっていた。モノとして見ても、家庭の「銘々膳」のデザインには使用者によって細かく差がつけられていたことが読み取れる。家族社会学的に考えれば、親子関係だけの「核家族」をスタンダードとする家族観ではない時代の作法である[2]

家庭での「銘々膳」で食事をする時間は、味わったり会話をしたりするよりも、社会に組み込まれる「作法」が重要で、社会的な身分や力関係が目に見える形で確認されることが期待されていたのであろう。食事の作法を子どもの頃から見せて・やらせて、社会的な「適応」を要求していたように思える。

現在でも、家庭の食事は「しつけ」のシーンとして考えられているが、心と身体、社会的な適応が求められる行動、それらが年齢とともに変化していくのは、子どもの頃だけでなく、大人になっても続いているはずである。人間の科学としても、食生活のレベルの食事をするシーンは、「発達」や「適応」のような、周囲との関係が変わっていく時間的なプロセスを含んでいる問題である。

家庭のことなので、「作法」があったとしてもその環境や個々の状況にもよるだろうが、特に子どもたちの食生活を考えるのであれば、「ちゃぶ台」以前の「銘々膳のシーン」を思い描いてみることは、日本の食生活の通史的な観点から見ても、実は重要なのではないかと思われる。家庭で「作法」として行われなくなっていても、擬似的な家族のような関係(実際には上下関係、またはその「無礼講」)に組み込まれる「飲み会」や「職場」のようなところで、「作法」なのか「芝居がかったこと」なのか全く区別がつかないような、日本人には「ああ、そういうことか」と思われる経験が、銘々の「食事のシーン」の記憶にあるだろう。「お酌」ひとつとっても、食事の席では大っぴらには断れまい。

 

「銘々膳」と「ちゃぶ台」の弁証法

家庭の「銘々膳」でよく知られている例では、太宰治の『人間失格』の幼少期を回想する手記という形で描かれた「食事のシーン」がある。

 

子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、実に、自分の家の食事の時間でした。自分の田舎の家では、十人くらいの家族全部、めいめいのお膳を二列に向い合せに並べて、末っ子の自分は、もちろん一ばん下の座でしたが、その食事の部屋は薄暗く、昼ごはんの時など、十幾人の家族が、ただ黙々としてめしを食っている有様には、自分はいつも肌寒い思いをしました。それに田舎の昔気質の家でしたので、おかずも、たいていきまっていて、めずらしいもの、豪華なもの、そんなものは望むべくもなかったので、いよいよ自分は食事の時刻を恐怖しました。自分はその薄暗い部屋の末席に、寒さにがたがた震える思いで口にごはんを少量ずつ運び、押し込み、人間は、どうして一日に三度々々ごはんを食べるのだろう、実にみな厳粛な顔をして食べている、これも一種の儀式のようなもので、家族が日に三度々々、時刻をきめて薄暗い一部屋に集り、お膳を順序正しく並べ、食べたくなくても無言でごはんを噛みながら、うつむき、家中にうごめいている霊たちに祈るためのものかも知れない、とさえ考えた事があるくらいでした。(太宰治『人間失格』[3]

 

太宰は「子供の頃の自分にとって、最も苦痛な時刻は、自分の家の食事の時間」であり、「人間は、めしを食べなければ死ぬから、そのために働いて、めしを食べなければならぬ」と脅迫的に感じていたように回想するシーンを描いているが、その一方で、「銘々膳」の反動のような「食通」というエッセイで親友との「会話」のシーンを描いている[4]。太宰はかつて非常に大食いで「食通」は大食いのことだと言っていたというが、その太宰の大食いを見て「君は余程の食通だねえ」と言ったという檀一雄によると、太宰は「味の素」の愛好家で、鮭缶をどんぶりに空け、「味の素」を無闇に振りかけて食べていたという。太宰は「僕が絶対に確信を持てるのは味の素だけだ」と言い、まるで依存しているかのごとく「味の素」を大量に使っていたという[5]

この「食通」は、「ちゃぶ台」での思い出話のことなのであろう。太宰は「大食い」であることを身近な人に見せていたようだが、ちゃぶ台の同席者には「缶詰」や「味の素」が記憶されている。食品や食事を作る人にとっては、本来の味を台無しにしてしまうくらいの食べ方であろうし、どこか無理がある「食通」のシーンである。しかし、戦争の前の「放蕩三昧」をともにした親友との会話をお互いに思い出しているのである[6]

この「食通」の「ちゃぶ台」は、家庭の「銘々膳」のシーンの記憶からの反動で描かれているようにも思われる。このような食生活のダイナミックな変化から疑問に思われるのは、太宰が特殊な例なのではないかということではなく、この「食通」の舞台装置になっている「ちゃぶ台」とはなんなのか、それはよく言われている「団欒」のシーンの舞台だったのかということである。現代では「学校のときのトラウマ」を後になって語り出すドラマが大量に生産されているように、「ちゃぶ台」の食事シーンというものは、日本人の過去の共通体験として語られながら、その卓上の調味料を過剰に使う食生活も見せられるし、親友との関係の変化を思い出すこともできるようである。

個人の経験から語られる中では時間的な前後関係があるようでも、かつての「作法」が後退して楽しい「団欒」が始まったというように単純に見てはならないように思える。「銘々膳」にしても「ちゃぶ台」にしても、食事のシーンが描かれるときには、社会的な適応が試されるからである。会話が許された「ちゃぶ台」でも、自分の意見が言いにくい境遇にある立場もあり、反動的な行動が生じることも含めたダイナミックな内面の変化がある。それは外国に行ってナイフとフォークの使い方を覚えた、というような内面的な影響がほとんどないようなことではないはずである。

現在でも、自分たちの「食事のシーン」への光の当て方を変えれば、個々のケースによって、社会的な適応の影が残るために、「銘々膳」が目立って見えることもあるし、「ちゃぶ台」が目立って見えることもある。食事のシーンは適応と欲望が混ざっている問題であり、自分が是とする「しつけ」と「自由」の問題であると言い換えてもいい。個々のケースでは細かい点で違うことがあるにしても、このように考えてみないことには、日本の家庭でのリアルな「食事のシーン」は描けないのではないか。したがって、「銘々膳」と「ちゃぶ台」の形だけで判断してしまうと、食事を共にしていても、適応や欲望が混ざっている人の意思が見えづらくなる。

家庭の「銘々膳」のシーンは、誰が描いているかということも深く関わっている問題であり、親が描いているのか子どもが描いているのか、それによって全く異なる描き方が浮かび上がってくる。

「ちゃぶ台」のシーンは、家庭であっても人間関係の変化がともなうことが描かれるので、ある時点では「団欒」であっても、「誰と食事をするか」という内なる意思を抜きにして描くことはできない。

「ちゃぶ台」で語り合うシーンは、身分や上下の関係が薄まっていくにつれて、それまでの関係が変化していくことが予感される。それは、「ちゃぶ台」を囲む誰もがこなれていたのではなく、社会的に定着していたわけでもない、脆くもあるような、不安定な時間だったのではないか。たとえば、都市の若者の放埒な生活や、新しい「核家族」や「同棲」の不安、戦争や災害などによる家族の複雑な状況、卓上の新しい代替的な食品、ラジオ・テレビの放送のような条件がなくては、日本の「ちゃぶ台」のシーンとその人物像は描けないのではないか。

 

「銘々膳」から「ちゃぶ台」への時代、「昭和」の描かれ方

「ちゃぶ台」は、レトロな「昭和」の家具と思われがちであるが、まだ新しかった頃はモダンな家庭生活の舞台であった。その系譜があやふやなのも「ちゃぶ台」らしいところで、誰かが発明して広めたようなものではなく、「ちゃぶ台」の語源も諸説ある。同一の卓を囲む食事の形は、江戸時代から明治初期に入りつつあった西洋料理(チャブチャブ)や中華料理(卓袱、シッポク)の食べ方からきていたようであるが、明治以降に日本の家庭で使われていた「ちゃぶ台」は床に座るくらいの高さになっている。

「ちゃぶ台」が都市部の家庭で使われるようになっていた明治30年代後半に、堺利彦は「銘々膳」を廃して「同一食卓」の平民主義へ移行するべきだと説いた。

従来の膳というものを廃したいと我輩は思う。さて同時に同一食卓においてすれば、みな同一のものを食わねばならぬことはもちろんである。世に不心得なる男子があって、自分は毎晩酒さかなの小宴を張って、妻子には別間でコソコソと食事をさせる、というようなことをする。(中略)はやくこの小殿様らを改心させねば平民主義の美しい家庭はとてもできぬ。(堺利彦『家庭の新風味』[7]

武家のような「殿様流」を廃して「親愛」の風味によって夫婦が対等であるべきことを主張していた堺の「同一食卓」では、「食べるもの」が同じであるべきで、それは「子」だけでなく「妻」の視点からも描かれている。

小泉和子『ちゃぶ台の昭和』によると、家庭の「銘々膳」が終わり「ちゃぶ台」になっていった時期に関する証言が、全国の「地方史」の文献に残されている。「昭和初期」や「昭和十年代」までに「銘々膳」から「ちゃぶ台」に変わったという証言が多くあるが、地区や家庭によっては昭和40年代まで「銘々膳」だった例もあったらしい。引っ越したり家を建て替えたりするようなときに「ちゃぶ台」になるきっかけがあったようである。震災や戦争によって「銘々膳」が終わり「ちゃぶ台」になった家庭も多かったらしい[8]

現代の『ちゃぶ台の昭和』のような研究では、「銘々膳」との関係に気づいてもらうために「同じ一つの食卓を囲むということは、人間関係が平等でないと成り立たない」というように、日本の家庭で普及した「ちゃぶ台」の歴史的な意味が明快に示されている。家庭の「銘々膳」を終わらせる「ちゃぶ台」という意味があったことに異論はないが、それは「銘々膳」をやめようとするスタート地点での「ちゃぶ台」の描かれ方であって、期待されていたゴールを先取りして描いてしまってはいないだろうか。

[1] 『小學兒童作法訓畫』鈴木製本所、明治35年

[2] 小泉和子『ちゃぶ台の昭和』河出書房新社、2002年、86ページ。

[3] 太宰治『人間失格』1948年。https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/card301.html

[4] 太宰治「食通」1942年。https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1597_18108.html

[5] 嵐山光三郎『文人悪食』新潮文庫、481ページ(初版:マガジンハウス、1997年)。

[6] 昭和8年に太宰と檀が出会ってから、檀が召集されて中国へ出征した昭和12年までの頃の食事を、太宰は「食通」という言葉で回想しているのであろう。また、ちゃぶ台でも使うことができる食卓用容器の「味の素」は、昭和元年から昭和9年にかけて、アルミ、ガラス、陶製の容器で相次いで発売されていた。https://www.ajinomoto.co.jp/company/jp/aboutus/history/chronicle_2014/11.html

[7] 小泉和子、前掲書、92ページ。

[8] 前書、96〜97ページ。

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