【連載】日中学術交流の現場から 第11 回
北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(第二便)
山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)
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2013年中央財経大学における北京ゴジラ行脚にて
はじめに
拝啓 宝田明さま
前回は、宝田さんへの手紙の中でハルピンでの経験から「ソ連への憎しみが消えない」と語っていた宝田さんとソ連訪問記を書いたアンドレ・ジッドを最後に取り上げました。
この手紙を宝田企画の事務所に送ったのが、2022年3月10日のことでした。
いつもならすぐ電話がかかってきていたのに、今回、電話はなかったので、「どうされたのかな」とは思っていました。宝田さんが、3月14日になくなったという訃報を目にしたのは、その一週間ほど後のことです。そしてロシア軍が、ウクライナ侵攻を開始したのはそのちょうど20日ぐらい前の2月24日のことでした。本当に21世紀の出来事なのかと疑いたくなります。
このとき宝田さんは、すでに具合がよくなかったのですね。一年前、電話で話をしたときは、あんなにお元気そうでしたのに。享年87歳でした。
前回、手紙の中で宝田さんのことを「『ゴジラ』(1954)関係者のなかで「最古の生物」」と書きましたが、すでにそうではなくなってしまったことが、私には、残念でなりません。ついに私が、考えていた宝田さんを北京に招いて講演してもらうという企画は実現できなくなってしまいました。
宝田さんが亡くなる、直前に世によく知られた人物が89歳で亡くなりました。
東京都知事を務めた石原慎太郎氏です。私は以前、「怪物の時代におけるゴジラと石原慎太郎について」という小文を『葦牙ジャーナル』という雑誌に書いたことがあるのですが、3月10日に送った最後の手紙では、石原慎太郎の死に触れておきました。
思えば、宝田さんと石原慎太郎の関係も不思議な縁であるように思えます。
宝田さんは『接吻泥棒』(1960)という映画に出演されていますが、それは石原慎太郎と雑誌で対談したことがきっかけだったそうですね。
宝田さんは『送別歌』(ユニコ舎, 2021)で以下のように書いています。
「逗子のお坊ちゃんで、超名門の一ツ橋をでているし、俺なんかとは違うだろう。」とこの対談の時までは、慎太郎さんのことをそのように見ていました。大学在学中の1955年に「太陽の季節」で芥川賞を受賞し、颯爽と文壇に登場した人ですから厳しい暮らしを生き延びてきた苦労人の自分とは、住む世界が違っていただろうと思ったのです。ところが対談でお会いしてみると私の満洲からの引き揚げの話を真剣なまなざしで聞いてくれる人で後日、その時の様子を丁寧に記事にしてくれたのでした。私はこの時初めてこころの奥底にかかえつづけて来た引き揚げ者の引け目みたいなものから解放されたような気がしました。
聞いてもらえたこと、わかってもらえたことが嬉しかったですね。」(178-179頁)
私は、その対談は、読んでいませんが、これはちょっと意外でした。
憲法において石原慎太郎とは対極的なスタンスをとる宝田さんが、そういう対談をしていたとは……。石原慎太郎は、もともと東宝の社員でもあったのでしたね。
宝田さんは、ゴジラと憲法の関係を研究する和歌山信愛大学の先生である伊藤宏氏に自分から電話して対談を申し込まれたのだそうですね。第五福竜丸展示館の市田真理さんが、教えてくれました。これはちょっと尋常ではないですね。よほど自分の方向性と似たものを感じ取られたのでしょう。その伊藤宏氏は、市民科学研究室で2021年4月19日に行った私の「市民科学者のためのゴジラ入門」に参加してくれました。
石原慎太郎を追悼する気は、起きないのですが、『ゴジラ』(1954)関係者の宝田さんを追悼しないわけにはいきません。
ここ一年でゴジラや第五福竜丸に関係の深かった宝田さんや大石又七さんを亡くしたことには痛恨の思いがします。その喪失感は大きいですが、宝田さんの追悼にかえて第二便を書くことにします。
1.ロシアのウクライナ侵攻をめぐって
私が、前回の原稿を脱稿したのが、2月10日、その後に2月24日にロシアのウクライナ侵攻が始まりましたので、この点について焦点を当てて書いてみたいと思います。
正直言って第一便を脱稿した時は、このような状況になるとは思っていませんでした。
ここでは前回いっていた予定を少し変更します。
お送りしていましたアンドレ・ジッド『ソヴィエト旅行記』(光文社2019)のことについて第一便では言及しましたが、このロシアのウクライナ侵攻が始まった状況で日本人が、改めて読むべき本としてこの本をあげたいと思います。
というのは、まずは日本人のロシアに関するユートピア幻想をこの書によって確認することが重要かと思われます。ジッドは1936年の旅行記のなかでは以下のように述べています。
「赤の広場はその前にも見ていた。数日前のゴーリキーの葬儀のときである。ロシアの民衆を私はすでに見ていたのだ。けれども、この同じ民衆がその時は全く違っていた。
むしろ私の想像だが、帝政時代のロシアの民衆に似ていたのではないかと思う。ゴーリキーの棺の置かれた祭壇の前で、広い柱の間を、長々といつ果てるともなく行進していたあのときの民衆は、ソビエト人民を代表する最も美しく最も力強く、最も晴れやかな人々ではなかった。そうではなく痛ましげで、女性やこども、ときには老人をも含む「そこいらの人」だった。ほとんど身なりが貧しく、哀れにも見える人々だった。静かで陰鬱で内省に沈んだ行進だった。過去からやってきたように見えたその行進は、完璧な規律の中で確かにもう一方の行進、栄光に満ちた行進よりもはるかに長く続いた。私自身、それをとても長い間ながめていたのだ。あのすべての人たちにとってゴーリキーとはなんだったのか」(39頁)
ここで重要なのは、赤の広場にゴーリキーの葬儀の時に集まった民衆をジッドが、帝政時代の民衆に似ていたのではないかと述べていることです。
ジッドが、1917年10月のロシア革命以前にもどってしまっていることを感じ取っていたことが重要だと思われます。すなわちこのときすでにロシアには、ロシアの民衆の人権を抑圧する強固なスターリン政治体制が成立していたのでした。
しかし、当時、ジッドは、左派から激しいバッシングにあっていたのでした。全世界の労働者の指導者スターリンに疑問を呈するとはけしからんと。
一方、この状況でソ連に期待を寄せていた劇作家がいました。
東宝の特撮映画や映画『第五福竜丸』にも科学者の役で出演していた千田是也氏が、日本語訳を出していたベルトルト・ブレヒトが、その人です。1930年代後半の時期は、ファシズム支配と帝国主義戦争によってだけ特徴づけられるものではありませんでした。これに対抗しうる最も強力な現実的拠点と考えられたソ連において建設の進展と政治的退行にかかわる内部矛盾が深まりつつある時代でもありました。
1917年のロシア革命後、1918年にドイツで革命が生じましたが、1921年にはドイツ革命の敗北は決定的となり、ヨーロッパ革命や世界革命への展望は失われていきました。
ブレヒトは、このヨーロッパ革命の敗北後にソビエト連邦が「一国社会主義」建設の路線を歩んだことを必然的な過程だと認識していました。この点は、レーテ(ソビエト)運動にかかわったブレヒトの師であったコルシュとは違っていて1920年代には、コルシュのようにソ連を「赤色帝国主義」と批判したりはしませんでした。
ブレヒトは、1920年代からソ連の発展の積極面をより評価していました。
1933年にドイツがナチズムに支配されるのを目撃し、ナチズムの根源が資本主義社会内部に存在することを認識していたブレヒトには、反ファシズム運動の具体的な拠点は、ソ連をおいては考えられなかったのでした。けれどもブレヒトは、のちにその楽観的な姿勢を変更させざるを得なくなっていきます。
こうした状況の中、ジッドに好意的な反応を示した一人にステファン・ツヴァイクという主にオーストリアで活躍していた作家がいます。
ツヴァイクは1936年12月5日付けのロマン・ロラン宛の手紙で以下のように書いています。
「アンドレ・ジッドの『ソ連から帰って』を読んだところで私は大いに満足です。ご存じのように、私は彼の地で起こっていることのすべてことを一括して受諾する点であなたについていくことはとうていできませんでした。プラハのある委員会がだしているジノヴェーエフ裁判の小冊子を読みましたが、それは明らかに反論の余地はなく、多くの自白はでっち上げられたものであることを示しており、たとえば、セドウ=トロツキー息子は決してコペンハーゲンへ行ったことはなく、あの有名な会合は決して行われませんでした。私は反動からトロツキーに与するのではありません。-彼には口をつぐむ偉大さはなく、彼の出版物は非常に有益、あまりにも有益でした!」(233頁) 『ロマン・ロラン全集手紙往復書簡38』(みすず書房1983)
これに対してロマン・ロランは、1936年12月9日「私はスターリンを高く評価します。彼が包まれている彼の肖像や香りの煙は好きではありません。しかし、彼自身は単純で荒っぽくさえあり、いささかもお世辞やお世辞家たちを好みません。あわれなジッドがしたように彼には《最高指導者》等々のようにしか声をかけられないと主張するのは愚かしいことです」(235頁、 『ロマン・ロラン全集手紙往復書簡38』みすず書房1983)と応じていました。
ロマン・ロランは、アンドレ・ジッドが参加したゴーリキーの葬儀にも参加していました。もっともこのゴーリキーの死には、不審なところが多いともいわれていますが、はっきりしたことは今もよくわかってはいません。
この時点でロマン・ロランは、スターリンにかなりのシンパシーを持っていたようです。
ロマン・ロランは、反ファシズムの作家といわれますが、反スターリン主義の作家とは言えないように思われます。
これに続きツヴァイクは、1937年3月4日付けのロマン・ロラン宛の手紙をロンドンから出していました。それは以下のようなものでした。
「教科書について挿絵付きで各民族で書かれた全コレクションを私は見ました。これらは技術的に見事です。何冊かお送りしますから、スターリンがすでに六歳の児童期の全く初歩の本に姿を見せるのをご覧になるでしょう。集団的事業としての「革命」の理念が消え失せて、イタリアではアビシニア《戦争》以来そう信じさせられているように、指導者の個人的天才が小麦を成長させ、太陽を輝かさせるといった新しい見解に席を譲るべきではありません。我々は、政治家の神格化の時期を通っていますが、民衆をいささか単純化しすぎ、愚鈍化するこの迷信を、いささか修正するのは、私たちの義務だと信じます」(237頁)
「友よ、なんという不幸でしょう。目下起こっている一切のことは、スターリンが最良の将軍たちを《スパイ》や《裏切者》として銃殺していることは。あなたは私の観点をご存じです。ゲシュタポであれ、チェカであれ、警察が支配するすべての国は私にとって疑わしく耐えがたいのです」(238頁)
私は、これらの手紙を紹介することをとおして単なる昔話をしたいのではありません。
現在起こっているロシアのウクライナ侵攻という事態に対して、その要因をNATOの東方拡大やアメリカやネオナチなどの外部の問題に帰着させることはできないということをここで言っておきたいのです。「多様な視点」の名のもとに「悪の相対化」や希釈を図ることは事態をさらに悪化させるでしょう。ましてや私と近いと思っていた人が、根拠のない陰謀論めいた発言をしていることに私は、驚いています。これでは信用を落とさざるを得ないでしょう。「ポーランドやウクライナなどの首をしめることを大ロシア人の「祖国擁護」と呼ぶような、このような奴隷は……下司であり下郎である」(『帝国主義と民族・植民地問題』所収「大ロシア人の民族的誇りについて」(10頁、レーニン 川内唯彦訳 国民文庫 1966年第13刷)をかみしめる必要があると思います。
ウクライナ侵攻を行っているプーチンは、KGB出身でレーニン否定の大ロシア主義者です。この大ロシア主義者をウラジミールと呼んで「まもなく北方領土は帰ってくる」といっていた元首相がいましたね。NHKの番組に出演した宝田さんが、「戦争をするような政治家に票を入れるべきではない」と言った時、アナウンサーに発言を止められましたが、そのとき確実にこの首相のことが念頭にあったものと想像します。これは、『日曜討論』というNHKの番組で「おじいちゃんの代からCIA」と発言して「テーマに沿った発言をしてください」とNHKの司会者から発言を止められた黒川敦彦とは、かなり意味合いが違ったもののように思われます。
NHKといえば、2022年1月に放送したドキュメンタリーで「東京オリンピックに反対していた人たちは金をもらってデモしていた」という意味の発言を字幕付きで流しました。
これは事実に基づかないデマ放送であることは明らかです。しかもネット番組ではない国民から集めた金で運営するNHKで行われたことであることは、NHKの存続にかかわるほどに大きな問題だと考えています。
その時、このドキュメンタリーを監督していたのが、この首相とも親しいという河瀬直美氏でした。
河瀬直美は、2022年4月に東京大学で行われた入学式で祝辞を述べ、その中で、「ロシアを一方的に悪だとするのは簡単だ」と語りました。この発言は、多くの国際政治学者などから批判を集めましたが、そもそも東京大学は、なぜ東京オリンピックに関して問題あるドキュメンタリーを監督していた人物を来賓に選んだのか。もっと他にふさわしい人は、たくさんいたはずです。この東京大学の人選自体に私は、首をかしげざるを得ませんでした。
ともかく宝田さんが、ハルピンで経験されたことは、そしてそれを記録に残されたことは今日でも意味を失っておらず、ロシアがウクライナ侵攻を開始した現在、より大きな意味を持ってきていると私には思われます。
2.『ゴジラ』(1954)の山根博士のモデルとなったと考えられる科学者
宝田さんが出演された『ゴジラ』(1954)の科学者についてモデルになったと思える科学者がいるのでその科学者のことについて書いてみましょう。
『ゴジラ』(1954)には原作の香山滋が書いた検討用台本「G作品」が存在していました。さらにそれは準備稿「G作品」、村田武雄、本多猪四郎へと、そして最終決定稿「ゴジラ」村田武雄、本多猪四郎→完成作品「ゴジラ」監督、本多猪四郎、特撮監督、円谷英二へと改稿していきます。
G検討用台本(香山滋)においては、化学者、芹沢博士は以下のように書かれています。
「年齢40歳、元北京大学教授、薬物化学者で山根恭平とは親交が深い。嘗て、大学の休暇を利用して熱河省へ山根が化石採掘に行ったとき、助手として同伴。狼におそわれた危い間際を山根恭平に救われたので山根を命の恩人と思っている。その際、片目を失い、顔半面ひどい傷のヒッツリで醜い。妻は数年前病死、ひそかに恵美子を慕っているがあきらめている。恵美子もそれはうすうす知っている。今度は空中酸素破壊剤を完成させて見せる」と思っている。
「G作品」準備稿(村田武雄、本多猪四郎)のほうになると、
「年齢30歳、薬物科学者。山根博士に愛され、密かに恵美子を思っているが、戦争で片目を失い顔反面に鋭い傷をおっている。」
という設定です。
G検討用台本(香山滋)では志村喬演じる古生物学者、山根博士は、
「年齢55歳。元北京大学教授。東京湾にほど近い高台に居を構える。あまり豊かではない。研究のことになると気狂いになるほどの偏執狂。娘の恵美子には、世間並みの父親。ゴジラが水爆によって生まれたことを公表することで世界が混乱することを恐れる。神経痛の持病のため大戸島に調査にはいかず。」
という設定ですが、「G作品」準備稿(村田武雄、本多猪四郎)では、「年齢55歳、元北京大学教授」の記述はなくなっています。古生物学の権威という設定ではありますが、神経痛で大戸島の調査に大戸島の調査に参加しない記述はなし。「変わり者の科学者」から「庶民的な科学者」に性格を変えています。
ここにでてくる熱河省ですが、原作が書かれる前の1932年から1945年まで、満洲国の一省だった地域です。中生代の地層が発達し、淡水産魚類、甲虫類、淡水産甲殻類、植物の化石など多くを産出することで知られ、清の乾隆帝も化石を発掘していました。
1945年以前における日本人地質古生物学者の恐竜体験には、1934年、樺太の川上炭坑地内から発見された日本竜 が有名ですが、これに続くものとして満洲国の恐竜はありました。日本竜の研究にたずさわった北海道帝国大学理学部地質学鉱物学教室創設教授・長尾巧は、東北帝国大学理学部地質学古生物学教室創設教授・矢部長克の門下であり、満洲国の恐竜研究も矢部一門の遠藤隆次、野田光雄、鹿間時夫らによって進められていました。
博物館の学芸員だった犬塚康博は「ゴジラ起源考」(『千葉大学人文社会科学研究』(2016))で「1930年代から1940年代前半は、日本の地質学古生物学における恐竜研究の高度成長期だったのである。」と指摘しています。
また、満洲国との関連を示してあまりあるのが三葉虫でした。1954年以前、1930年代および1940年代における日本人地質古生物学者で、古生代研究、三葉虫研究の第一人者のひとりに遠藤隆次がいました(※)。
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