連載「日中学術交流の現場から」第8回 民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち ―クリスチャン化学者、佐藤定吉の場合―

投稿者: | 2021年8月4日

【連載】日中学術交流の現場から 第8回

民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち

―クリスチャン化学者、佐藤定吉の場合―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

PDFはちらから

連載第1回はこちら
連載第2回はこちら
連載第3回はこちら
連載第4回は
こちら
連載第5回は
こちら
連載第6回はこちら
連載第7回はこちら

 

はじめに

前回、民衆立研究所に協力していた科学者の丸沢常哉の科学思想を扱った。

丸沢氏は、東京帝国大学工学部応用化学科を卒業の時、銀時計を与えられる秀才で、ドイツ留学の後、九州帝国大学で応用化学科の教授を務め、満鉄中央試験所で所長を務めた科学者として知られる。一方、巨大資本のための科学研究ではなく民衆(市民)のための科学研究を志向していた神田左京が構想していた民衆立研究所に理解を示していた丸沢氏は、市民科学者の側面をもった人物であった。

しかし、その後、天皇制国家に包摂され、臣民科学者へとなっていったことを示した。

今回扱うのは、丸沢氏と同様に東京帝国大学工学部応用化学科を銀時計組として、卒業し、民衆立科学研究所に協力していた科学者、佐藤定吉の科学思想である。

キリスト教関連で佐藤定吉を扱った論考は、いくつかあるが、民衆立研究所の関連で佐藤定吉を扱った論考は、これまでほとんど書かれてはいない。

1. 佐藤定吉という科学者について

佐藤定吉は、1887年12月20日、徳島県那賀郡富岡町(今日の阿南市)の第住町において父、佐藤治吉、母のぶの次男として誕生した。

子どものころから秀才の誉れ高く、中学校5年の過程を3年半で終了したという。

1905年、佐藤は、京都の第三高等学校の理科へ入学する。そのころ日本の社会では、佐藤が小学生の頃に日清戦争があり、中学時代には日露戦争があり、海軍を志願して日本国家のために尽くそうと考えていたようだ。しかし、体が弱く、海軍に入れなかった佐藤は、火薬の研究で日本国家に貢献したいと考え、三高の理科を選んだようである。

三高では、森総之介という物理の先生に出会い、影響を受けたようである。また、三高のYMCAにあっては、片山哲氏をはじめ多くの親しい友人を得たという。

そしてこのころから佐藤のキリスト教への信仰もはじまっている。


佐藤定吉 【関西】定例研究会報告 神道と一神教の狭間で―二教団を例として―民族文化研究会 公式ブログ (hatenablog.com)
https://minzokubunka.hatenablog.com/entry/2020/12/25/214709

やがて、工業界で身を立てるとの志を持って、1908年9月に当時の東京帝国大学工科大学応用化学科へと入学した。在学中、追分にあった帝大YMCAの寄宿舎に入寮し、ここで多くの信仰の友を得ている。

そのときのことを後に首相となった片山哲氏は以下のように回想している。

「佐藤君は私と同じ明治二十年生まれであり、参考に入学して初めて顔を合わせることになった。私は第一部(法科)彼は、第二部(工科)であった。

三高では最初の一年は全員が寮生活をすることになっていたので、お互いに何かと顔を合わせる機会も多かったのであるが、私たち二人の交友は、まずイエスを通じて生まれた。

彼をキリストに近づけるきっかけをつくったのは、おこがましいけれどこの私だったと思っている。そしてこのことが彼と私との間をさらに近いものにしたのである。」[1]

三高で生まれたキリスト教を通じた交友は、東大でも続くことになった。

「三高を卒業すると私たちはともに東大を選んだ。そして東大のYMCA寄宿舎にはいった。実はこのYMCAは私が彼をひっぱって入れたのである。

彼はまだキリスト教信者といったところまではいっていなかったが、先輩格の三田村篤四郎君を通じて、求道者でもよいということにしてもらったのである。

このYMCAでの三年間の日常生活が、彼のクリスチャンとしての生涯を力強く決定せしめたのであった。そのころ東大のYMCAは本郷台町にあった。寄宿舎は畳敷きで、私たち学生はよく火鉢を囲んではいわゆる炉辺談議に花を咲かせたものである。

ここでは東大の吉野作造教授が先輩として指導役を務めておられたが、同時に各方面の著名な学者や宗教家を斡旋して私たちに接触の機会を与えてくださった。これが私たちの目を開き、私たちの世界観を作り上げる力になったことは申すまでもない。」[2]

吉野作造が、東大YMCAにかかわっていたところは注目されるが、同時に佐藤は、それと対立する人の説に興味を示していた。

佐藤氏のキリスト教への帰依を決定的にしたのは、チフスという病からの回復であったようだ。片山氏はそのときのことを以下のように回想する。

「この寄宿舎生活中に彼はチフスを病んだ。一同心配したが危篤状態に陥った。

郷里から父上とお兄さんが駆けつけて来られた。お二人とも、熱心な日蓮宗の信者さんだったと見えて、病人のそばで大きな声で唱和される南無妙法蓮華経の声がYMCAの寄宿舎に鳴り響いたものである。幸いこの病気は奇跡的に全快したばかりでなく、これを契機として彼の信仰はさらに進んで決定的なものとなった。そして病床から起き上がるや否や本郷弓町教会で海老名牧師から洗礼を授けられた。なおこの病床の弟のためにあのお題目を唱えてくれたお兄さんはその後キリスト教を知って、ついに洗礼をお受けになったと聞いている。[3]

こうしてキリスト教に入信した佐藤定吉氏は、「科学と宗教」という科学哲学的テーマを追求していくことになる。1912年東大卒業時は、法学者の末弘厳太郎らと銀時計をもらっているが、その場には、明治天皇も列席していた。このとき佐藤は大きな感激を覚えたという。

この時の天皇への尊敬の念が、後の佐藤の科学思想にも影響を与えていくことになる。

2. 佐藤定吉の化学者としての業績

1912年、東大卒業後、佐藤はただちに九州帝国大学工学部教授として、福岡に赴任した。当時九州帝国大学には、荒川文六というキリスト教の学者が総長をしており、佐藤は、荒川のことを尊敬し、影響もうけたようである。

その後、1914年、東京帝大講師も兼任し、一時、本郷追分にも住んでいたが、1916年、井上仁吉の世話で東北帝大教授に任命されて仙台に赴任した。井上仁吉は、東北大学総長ともなる佐藤の恩師でもあり、キリスト教の信仰を持つ化学者であった。同時にまた井上は、丸沢常哉の恩師にもあたる化学者であった。[4]

1915年、文部省からアメリカへ留学を命じられ、ロックフェラー研究所へ出張し、高峰譲吉研究室で研究を重ね、帰国後、1921年「大豆

蛋白の工業的応用」という論文により工学博士の学位を得ている。

その後、汎太平洋平和会議に日本学者代表として沢柳政太郎や野口英世らとともに出席している。

この1915年、東北帝国大学臨時理化学研究所研究主任を命じられている。[5]

それに関連して1917年6月9日の『河北新報』において佐藤は、以下のように述べている。

「米国に於いて有名なる研究所として日本人に記憶せらるるはカーネギー研究所並にロックフェラー研究所なるが隆々たる米国工業界の真因を究むる時は最大の貢献者としてミロン研究所を見出すべし、ロックフェラー研究所は主として医学研究に関係しカーネギー研究所は化学工業の基礎的研究に重きを置けるを以って国家経済消長に直接関係すること大ならず、然るにミロン研究所は銀行家ミロン氏の提供に係る百万円を基金とし五年前ピッチバーグ大学内に創立せられたるものにて有力なる実業家の後援に依り造詣深き学者が熱心に蘊蓄を傾注して研究を続けその結果を直ちに工業化し富源開拓として米国に貢献するところ甚だ大なるものあり、只その研究は事業と密接なる関係あるを以って一般研究所に於けるが如く容易にその結果を発表せざるを以って広く知られざるのみ、予は日本の現状より見我が邦にもミロン研究所の如き研究所の設立を切望して止まず、目下東京に於いて進捗中なる理化学研究所はその範をカーネギー研究所に取る元より可なるべきも必ずしも時代に適切なりと称し得べきや疑わし、当理科大学の臨時理化学研究所はその内容に於いてミロン研究所と相似たりと雖もその規模設備の大小完不完は同日に談すべきにあらず、親しく彼の真想を視察し予は当研究所主任として彼を羨望するに先立ち我を省みて痛恨に堪えざるなり」[6]

つまり、ここで佐藤は、ピッツバーグ大学の中に銀行家ミロンによって設けられたミロン研究所では、産学連携がなされ、発展を遂げているのに対し、日本においてそれを行っているものは、東北帝国大学臨時理化学研究所であったが、規模が、違いすぎると指摘している。

佐藤は、日本の研究体制への疑問は、このころからもっていたようである。

アメリカに留学していた神田左京が、日本の研究体制に疑問を持っていたことはすでに述べたが、佐藤の民衆立研究所への共感は、このようなこととも無関係ではないように思われる。

また、1919年、東北帝大在職中、研究の都合上から東京目白の下落合に拠点を移し、「佐藤工業化学研究所」を設立し、学生の指導と研究の生活に入った。また研究所の工場を向島に設け大豆蛋白の合成樹脂を発明し、「サトウライト」と名付けて、今日のプラスティック研究の開拓者となり、これが住吉ベークライトとして引き継がれるに至った。

そして、佐藤の化学者としての業績のひとつは、戦時色と言われたカーキ色でこのカーキ色は、佐藤が発明したものであった。卒業論文で扱ったテーマであったが、その論文が、京都の稲畑染料、のちの住友染料である。

大橋退治という佐藤の友人は、次のように回想している。

「佐藤さんは卒業当時から佐藤ライトという自分の名前をつけて、三共製薬と一緒になって、大豆の蛋白から今でいうプラスティックを作った。

これが日本におけるプラスティックのはじめなのです。

佐藤さんは、のちに東北大学の教授になられたが、そこで有力なる、最も大切なるプラスティック研究をずっと続けてやられまして、そこに立派な弟子をお持ちになり今日、プラスティックの成功は、まさに佐藤君の功績であるといって過言ではないのであります。

また大豆から作ったプラスティックでつくった佐藤君の製品がアメリカの自動車会社のフォードに認められ、彼を招聘してその指導してもらいたいというので、フォードのところへ先生がいかれて、根本から研究をやってフォードが非常に共鳴したのです。

当時、大豆というのは、ソーヤ・ビーンで満州大豆のことですが、満州にあってその当時約三百トンといわれた。しかし、それをやるならもっと大きくやろうというので、フォードは、それからフォードの工場がありますデトロイトを中心に大豆の移植をはかってその結果、今日アメリカの大豆は少なくとも二千五百万トン位であります。これはフォードと佐藤君の合作によるものといってよい。そのおかげで、今日われわれが味噌、醤油を食べられるということも、一つの大きな仕事であって、私は油のほうをやっているのでありますけれども、油のほうについても我々が関心を持たざるを得ない大事業であったのであります。」[7]

佐藤は、日本におけるプラスティック研究の先駆者であり、カーキ色の染料の研究を行い、それは軍服にもちいられ、もともと大豆蛋白の利用は、満州資源開発の一助として取り上げられたものであった。

[1] 『佐藤定吉先生追想録』(新教出版社1970)(299頁)

[2] 同上,300頁。

[3] 同上,300頁。

[4] 杉田望『満鉄中央試験所』(講談社1990),115頁。

[5] 東北大学臨時理化学研究所については、鎌谷 親善「東北大学理科大学臨時理化学研究所–その設立から廃止まで」『化学史研究』(化学史学会 23(2) 1996.08 p.119~146)参照。

[6]『河北新報』(1917年6月9日)

[7]『佐藤定吉先生追想録』(新教出版社1970) ,304頁。

 

 

【続きは上記PDFでお読み下さい】

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。

ご寄付はこちらからお願いします



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA