連載「日中学術交流の現場から」第7回 民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち ―丸沢常哉の場合―

投稿者: | 2021年5月15日
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【連載】日中学術交流の現場から 第7回

民衆立研究所を構想した科学者、神田左京とその協力者たち

―丸沢常哉の場合―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

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はじめに

前回においては、民衆立研究所の創設者である科学者、神田左京の業績と科学思想について述べた。神田は、アメリカに留学し、科学者としては、発光生物の研究者として世界で勝負できる水準にあった。同時に彼は、日本の官学アカデミズムの短所を認識し、官僚主義、学閥主義、肩書主義を排し、研究における独立精神を尊重し、世界に通じる研究者を育てる民衆的な研究所をまずは、福岡を拠点に創設するということを考えていた。そこで行われる研究は、巨大資本のための研究というよりも民衆(市民)のための研究に重点がおかれる。

この研究所は、戦前期日本における数少ない市民科学(むろん当時はこのような言葉はない)の系譜に属するといえるものであろう。

そしてその協力者たちには、のちに満鉄中央試験所の所長となる九州帝国大学工学部応用化学教授だった丸沢常哉、そして九州帝国大学医学部教授の宮入慶之助、九州帝国大学工学部地質学科教授の河村幹雄、他には、佐藤定吉という東北帝国大学工学部応用化学科教授などがいた。その協力者のなかでは、前回においてはとりわけ丸沢常哉の戦時期の前段階における科学思想について焦点を当てて論じた。

今回は、戦時期の丸沢常哉の科学思想に焦点を当てる。戦時期にはいって丸沢の科学思想がどのように変容するのか、その点が、注目すべき点である。結論からいうと丸沢の科学思想は、天皇制国家に包摂され、市民科学から臣民科学(筆者の造語で皇国や皇民のための科学の意味をもつ)へと変容を遂げていく。これは戦前期日本の微弱な伝統だった日本の市民科学が、たどった象徴的事例といえるかもしれない。

  科学者:丸沢常哉

1.戦時期の丸沢常哉の科学技術思想―丸沢常哉の時局についての発言から

満鉄中央試験所の技術者について杉田望  は、その著書『満鉄中央試験所』(講談社,1990)のなかで「佐藤の自伝を読む限りでは、当時の時局の動きについては、あまり多くのことは語っていない。キナ臭い満洲大陸での政治的な動きをよそに佐藤はもっぱら彼が専門とする大豆油のエタノール抽出に関しての研究に黙々と従事していた。満鉄中央試験所の技術者・研究者たちは、なぜ時局に反応しなかったのか。浮かび上がってくる彼らの姿は、佐藤正典だけでなく、与えられたテーマに没頭し、政治に関しては全く無関心であったということだ。科学者というものは、本質的にそういうものなのだろうか。いや彼らは、政治に無関心であったからこそ、科学者の道を選んだのかもしれない。」[1]と述べている。しかし、満鉄中央試験所の技術者や研究者が、政治や時局にまったく関心がなかったかといえば、必ずしもそうではない。これは、より学問的な見地から修正される必要があるだろう。

佐藤正典の自伝とは、『一科学者の回想』(1971)のことだが、この自伝は、戦後になってから書かれたものであり、当時の時局に関係した部分は、戦後日本の価値観にあうものとはいえないため意図的に語らなかった可能性が高い。自伝で語られていないからといって、時局に反応しなかったとは必ずしも言えない。

時局に反応したかどうかは、自伝ではなく、当時の一次資料にあたってみて判断しなくてはならないことなのである。

たとえば、佐藤正典は、『工業化学雑誌』(第497号1939年7月)の時評「化学工業の大陸進出に就いて」において「支那事変も長期建設の新しき段階に入りて、日満支を一体とする新資源の開発利用とする新東亜建設の経済的繁栄を礎石を確立すべき秋に達し、本邦化学工業が、大陸に進出してその国策的使命遂行の先鋒たる時代が来たのである。」[2]と述べているが、これは、明らかに時局についての発言である。

実は、満鉄中央試験所の技術者で時局に関心を寄せ発言していた者は、結構いたのである。

その個別具体的な分析を今後進めていかなくてはならない。

それでは、吉野作造の進歩的な思想に共鳴し、もっとも民主主義的な思想を持つと思われる科学者、丸沢  は、時局にどのように対応したのであろうか。

そのことを当時の一次資料を読むことを通して分析していくことにしたい。

 

2.丸沢常哉の1938年における発言

私が見る限りでは、丸沢の時局への発言が見いだせるのは、1938年頃からである。

丸沢は、「時評」『工業化学雑誌』(第481号、昭和13年3月)において

「本年1月16日帝国政府は、重大声明を発表し、国民に時局の多難さを認識せしめ、

粘り強き国民政府の長期抗日と複雑微妙なる外交関係を思うとき、時局の前途は、容易に想像しがたきところであるが、われら技術家の任務はますます重くその活躍の舞台が、益々大となりつつある事は明らかである。」[3]と述べ中華民国の国民政府の長期抗日という時局の多難さについて述べている。

すでに、この時点では、日本は、満州事変や支那事変(日中戦争)を経験している。

そのような状況の中で丸沢は、以下のように言う。

「従来20年来の各方面の努力と研究が認められ、本邦の工業は、一大発展を遂げ、職場として更に満州国が加わり、さらに今回の事変によりて支那における莫大な資源は技術家に新たなる活躍の舞台を提供し、彼らの来たり開発を待っている。」[4]

「支那における莫大な資源」は、日本の技術者の開発を待っているといっているが、ここには中国の技術者よりも日本の技術者のほうがより有効に資源開発を行うことができるのだという前提があるようにおもわれる。

「政府は、今議会の国家総動員法案を提出して、平時及び戦時に物的及び人的に高度整備を行わんと意気込んでいる。国民政府の壊滅によりて事変の終結が意外に速やかであるとしてもあるいは、戦争が長期化したとしても技術家の重要性は、加わるのみで大正年間の受難が、ふたたび繰り返されるとは、信じられない。」[5]とも発言している。

戦争が長期化しようとしまいと技術者の重要性には変わりはないとされる。

しかし、技術者の歴史を顧みると技術者の重要性は省みられては来なかった。

それは、法科万能の世の中で技術者の地位が、低いままであったからである。

だから次のようにも述べている。

「官界における技術家の地位は、なんら向上するところなく、依然として下積みの域を脱しない。法科万能排撃の声は、すでに大正年間から起こり各種の運動もあったが、ついにものにならなかった。」[6]

そして次のように技術者が、視野が狭く協調性を欠いてきたことが、下積みの理由であるという。

「なぜ技術家が、長年下積みの憂き目にあうことになったのか。その理由はいろいろあろうが、概して技術家は、偏狭にして協調性を欠き、専門の小天地に局促して視野狭く大局の判断を誤り、統率の器に非ずとの批評を耳にする。」[7]

「かくの如き欠点は、個人の性格および才能に基づくもので、技術家の通弊と律せられることは至極迷惑千万であるが、重大なる時局に際して技術家の責務は特に重く、各方面との協力ますます必要なるとき、かくの如き批評に対し多少反省の必要なしとは、断じがたきものがあろう。」[8]

ここに述べられている「各方面」とは、大学、軍事、産業、国家などがあげられるであろう。戦争協力の奨励のための発言と受け取ってさしつかえない発言である。

女性解放運動が、女性の地位向上のため、部落解放運動が、被差別部落民の地位向上のためという論理で戦争協力を行ったことが、近年の研究で明らかにされてきている[9]が、技術者の地位向上のために戦争協力を行うという同様の論理をこの丸沢の発言の中には見出すことができるように思われる。

また、同じ年、1938年の7月17日の「満州日日新聞」の記事「パルプと人造繊維」においては、満鉄中央試験所所長として以下のように語っていた。

「人造繊維においては、同じ長さの単位にそろえるような天然繊維の及ばない長所ももっている。要するに我々今日の時局に対処して或る欠点は我慢してどうしてもこれでやっていくという覚悟が必要なのであって、所謂オールス・フ時代が到来せんとするとき我々は、ますますこの人造繊維工業を発展させて以て国策に順応したいと考えておるのである。」[10]

「時局に対処するためには国策に順応したい」と、ここでははっきりとそう述べている。

1921年の丸沢の発言からくらべると1938年におけるこの発言には、国家主義的な傾向が濃密に出ているように思われる。

 

3.丸沢常哉の1942年における発言

次に時局への発言が確認できるのが、「東亜における化学工業」『化学工業』(1942年6月)においてである。[11]この論についてやや詳しく検討してみたい。

丸沢は、「満洲の化学工業」について語りたいとしたうえで日本、「満州国」、中華民国、泰国の化学工業について以下のように述べていた。

「所謂東亜共栄圏の独立国は、日本、満州国、中華民国、および泰国の四か国にすぎず、他は、米、英、仏、蘭の属領である。此等の処地は、非常に豊富な農、畜、林、水産、および鉱産の資源を持っているにも関わらず、工業の発達は極めて幼稚であって化学工業について見ても、いわゆる近代的設備を持つものは、わずかに砂糖、セメント、石油などにすぎず、金属工業としては、錫の精錬ぐらいのもので大多数は、中小工業、および家庭工業の域を脱せず、ただ蘭印においては、少しく発達しかけているように聴いている。

又、泰国の化学工業については、昨年10月の『工業化学雑誌』誌上に中村静博士が紹介されているが、これによっても甚だ微々たるものであることがわかる。

中華民国は長年にわたる国内の絶えざる動乱に累せられて、ほとんど見るべき工業が起こらず、僅かにセメントとか紡績とかを除けば、北支におけるソーダ、中支における硫安製造が、化学工業というに過ぎない。」[12]

丸沢は、まだこの地域の化学工業は、幼稚な段階にあるととらえている。

事実、当時の技術力は、中国より日本のほうが大きく上回っていたであろう。中国では、1931年に中国化学会が創設され、化学技術に関して制度化に向かいはじめたばかりであった。ただ、中国の側も全くのゼロではなかったのだが、それについては、丸沢は、ほとんど注意を払っていないように見える。

そして南洋諸地方に関しては、以下のように述べる。

「いわゆる南洋諸地方は、米英などの属領であったため常に搾取の対象となり、彼らは豊富なる原料を安価に買い取って本国に送り、之を加工して高価なる製品として南洋に運び、国富を独占し、いわゆる持てる国として大言壮語、無制限に軍備を拡張し、我々を恫喝してきたのである。」[13]

持てる国としての英米、持たざる国としての日本、イタリア、ドイツという分類がなされ、前者が後者を恫喝している。よって英米の帝国主義からアジア太平洋地域を解放しなくてはならないという論理が展開される。

そして「日本人中には、つとに此等の地域に進出し、粒々辛苦、血のにじむような努力をしてあるいは市場を開拓し、あるいは資源を開拓した先駆者が相当数に上ったが、これらの人々の努力の結晶が、英米諸国の圧迫によって暫時失われんとするとき大東亜戦争が、開始されたのである」とされたあと「皇軍の千古未曽有の大戦果により、これら豊富なる資源が、日本人の手で利用せられ、又日本製品の大市場が獲得されることは、まことに同慶に耐えざるところである。しかし皇国の国是たる万邦をしてこのところを得しむるという大理想のもとでこれら占領地の住民に皇威に浴せしめ、皇国の善政を謳歌させるという仕事は、戦争それ自身より層一層困難であって、皇軍の大戦果をして有終の美をなさしむると否とは、かかって此の成否にあるのである」[14]と皇軍が、大きく讃えられる。

ここでの丸沢には、日本の民衆のことは視野に入っているだろうが、朝鮮や中国などアジアの民衆が視野に入っているとはいいがたい。「占領地の住民」への言及はあるが、「皇威に浴せしめ、皇国の善政を謳歌させる」という一方的な言及である。

実際に皇軍が、占領地域の住民にどのようなことを行っていたか、おそらく丸沢には、このとき認識されていなかったのではないだろうか。皇軍は、はたして英米の帝国主義からアジアの民衆を解放したのだろうか?

もっとも、ここで丸沢  は、まったくの手放しの日本賛美をしていたわけではなかった。

以下のように述べている個所もある。

「将来、これらの地方の産業が、いかなる方針のもとに計量されるか。むろん我が国のみの利益を目標とすべきではない。英米などのとりきたった搾取主義を是正し、これ等の諸地方にも適当な産業ならば新たに興す必要があろう。」[15]

日本だけの利益を目標とすべきではないとはいっていた。ここは関東軍などとは違うところであろう。しかし、「皇国の国是たる万邦をしてこのところを得しむるという大理想のもとでこれら占領地の住民に皇威に浴せしめ、皇国の善政を謳歌させる」ことを肯定するのであれば、実質的に日本だけの利益を最優先にすることにならざるをえない。「満州国」において五族協和というスローガンが掲げられてはいたが、実質的には、日本人の利益が最優先されていたように。

帝国日本の指導的化学者らしく丸沢は、「やがては、一大国策が、樹立され、化学工業もその中に織り込まれることと信じる」[16]と化学工業が、国策のなかに組み込まれる事を希望した後、「ただいま国民の眼は南方に向けられているが、国防上の満州の重要性は、以前に比べても優るとも劣るものではないと信じる。」[17]と満州の国防上の重要性をも述べている。

[1] 杉田望著『満鉄中央試験所』(講談社1990),84頁。

[2] 佐藤正典「化学工業の大陸進出に就いて」『工業化学雑誌』(第497号,1939年7月)

[3] 丸沢常哉「時評」『工業化学雑誌』(第481号、昭和13年3月),121頁。

[4] 同上。

[5] 同上。

[6] 同上。

[7] 同上。

[8] 同上。

[9] たとえば、金静美『水平運動史研究―民族差別批判―』(現代企画社,1994)を参照。

[10] 丸沢常哉「パルプと人造繊維」『満州日日新聞』(1938年7月17日号)

[11] 1940年においては、『満州の技術』において三度にわたる化学特集が組まれており、丸沢  が巻頭言を書いている。これも時局への発言といえなくはないが、ここでは、諸事情によりその具体的内容は省略する。

[12] 丸沢常哉「東亜における化学工業」『工業化学雑誌』(No6,1942年)605頁。

[13] 同上,605頁。

[14] 同上。

[15] 同上。

[16] 丸沢常哉「東亜における化学工業」『工業化学雑誌』(No6,1942年),605頁。

[17] 同上。

 

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