【連載】日中学術交流の現場から 第10 回
北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(第一便)
山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)
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はじめに
拝啓 ゴジラ同級生俳優、宝田明さま
ごぶさたしています。先日は、著書『銀幕に愛をこめて―ぼくはゴジラの同期生』(筑摩書房2018)をいただきましてありがとうございました。興味深く読ませていただきました。
思えば、宝田さんとのつきあいもかなり長くなってきました。北京にお招きするつもりが、まだ実現できないまま、先の見えない世界的なコロナ禍で、非常に日本と中国の間の移動もやりにくくなり、いささか困ったことになっていますが、新聞やテレビなどでは、たまに宝田さんの姿を拝見しています。
『ゴジラ』(1954)の関係者では、社会党所属とおもわれる女性議員を演じた菅井きんさんやゴジラの中にはいって奮闘した中島春雄さんもついになくなってしまいました。残念というほうかはありませんが、いまや、宝田さんが、もっとも古株となり『ゴジラ』(1954)の関係者のなかで「現存する最古の生物」となっているかとおもわれます。
ミュージカル『葉っぱのフレディ』上演後、宝田明氏と東京にて(2012年8月)
宝田さんが立候補しようとした「国民怒りの党」を立ち上げた小林節氏と『安倍「壊憲」を撃つ』という対談本を出している経済評論家の佐高信氏が好んで引用する俳優、成田三樹夫の言葉に以下のようなものがあります。
「最近の役者というのは、いやらしいのが多すぎるよ。総理大臣主催のナントカ会というと、ニコニコして出かけていって、握手なんかしているだろう。権力にヘタヘタするみたいな役者じゃ意味ないよ」
佐高氏と同じ酒田東高校出身という成田三樹夫のいう「総理大臣主催のナントカ会」を「桜を見る会」と言いかえることは、十分可能でしょう。「桜を見る会」にニコニコにして出かける芸能人が、あまりに多すぎるように思います。
NHKの番組で「これからは戦争をするような政治家には票を入れるべきではない」といってアナウンサーから発言を止められた宝田さんから見れば、成田氏の1982年になされたというこの言葉は、十分に納得のいくものではないでしょうか。
宝田さんのNHKでの発言の背景には近代日本の戦争や植民地支配によって過酷な引き揚げを経験せざるを得なかった人間の譲ることのできない叫びのようなものがあると思えてなりません。
今日、そのような貴重な存在となりえている宝田さんに北京でゴジラを研究してきた人間として手紙を書くことといたします。
1. 原点としての『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』(扶桑社1999 )
私は、『ウルトラマン』(1966)や『仮面ライダー』(1971)などのような日本特撮に育ててもらった人間です。子供のころ「成人の日」を「星人の日」と思いこみバルタン星人やメトロン星人などが一堂に会し、式典をやっているのかと本気で思っていたような人間です。
『ゴジラ』(1954)を見たのは、かなり後になってからであり、大きな衝撃をうけました。
それ以来、私は、ゴジラから離れられなくなってのですが、宝田さんに近さを感じるようになるのは、2009年夏、北京から日本に帰国し、国会図書館でゴジラについての調べ物をしていた過程で、宝田さんの書いた『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』(扶桑社1998)を読んだ時だったと思います。そこで宝田さんの、お父さん宝田清さんが、満鉄の技術者だったため中国東北部のハルピンで育ち、日本に引き揚げてこられたということをそこではじめて知りました。私の専門の研究テーマが、「「満州」の植民地科学史」ということもあり、そこで私の研究テーマとゴジラが、つながったような気がしたのです。
それで夢中で『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』を読み進めたわけですが、そこで宝田さんが『ゴジラ』(1954)の試写を観て泣いてしまったということをはじめて知りました。
『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』では、以下のように記されています。
「いつの間にか、私の目からは大粒の涙が流れ出していた。それはまったく止まらなかった。止めようもなく、また止めようとも思わなかった。伊福部先生の書かれた壮厳な音楽が、流れてくる。「平和よ 太陽よとく帰れかしいのちこめていのるわれらのこのひとふしのあわれにめでて」劇中歌の詩が、音楽にかぶさって、頭の中によみがえってきた。
海の上に浮かぼうとしたゴジラが、それを果たせず、最期の叫びをこの世に残して没してゆく。ゴジラの全身はみるみるうちに白骨化し、それすらも融けてついには何も残さず消えてしまう。(なんて悲しいんだ。この事件は人間の愚かな行為が引き金だ。それなのに、どうしてゴジラは痛めつけられて、殺されなければならないんだ。人間ていうのは、なんてひどいことをするんだ。自分たちさえ生き延びることができれば、それでいいのか…) 私はそう思いながら、まだ泣いていた。」(140頁)
『ゴジラ』(1954)の最後のシーンで化学者、芹沢大助が、水中酸素破壊剤であるオキシジェンデストロイヤーを用いてゴジラとともに海中に融けていくシーンですが、20歳の青年、宝田明が、「ゴジラがあらわれたゴジラを殺せ」と考える人ではなく「ゴジラがあらわれた人間が変われ」と考える人なのだということが、よく示されている箇所だと思います。84年の『ゴジラ』の舞台挨拶で「私はゴジラが許せません」といった俳優の方とは、ゴジラのとらえかた大きく異なっていると思います。「私はゴジラが許せません」といった認識に決定的にかけているのは、ゴジラが、アメリカの水爆実験によって安住の地を追い出され、自らの意に反してこの世界に現れてしまったという認識だとおもいます。
つづけて宝田さんは、こうも書いています。
「私は、正直にいって『ゴジラ』が、これほどに深い哲学を持った映画だとは、思っていなかった。もちろん、台本は何度も読んだ。本多監督の演技指導を受けながら、自分なりにああでもないこうでもないと考え抜いた。それでも私はたった今、見終わって感じているほどの深みを台本から読み取ることができなかった。」(140頁)
実を言えば、私が『ゴジラ』に惹きつけられたのもこの哲学やここに含まれている科学思想によるものといっていいです。
そのことに関しては具体的に連載の第一回で書きましたので、ここでは深くは立ち入りません。私もまたその深い哲学に魅了されたのだということだけをここでは、確認しておきましょう。
2. 庶民の姿を描いた『ゴジラ』(1954)
『ゴジラ』(1954)において東京を襲うゴジラ、防衛する防衛隊、そして逃げ惑う庶民、民衆というゴジラ映画における三角形というものが、はやくもあらわれています。
たとえば、宝田さんは、『ニッポン・ゴジラ黄金伝説』においてこう指摘しています。
「本多さんの映画には、必ず大八車に荷物を積んだり、子供の手を引いて逃げる避難民が描かれているとはよくいわれることである。
このシナリオに見られるような武器も情報ももたない、起こりうることを運命として受け入れるしかない庶民の姿を、本多さんは、共感を持って描こうとしたのである。」(111頁)
これは、本多監督自身が、中国大陸で日本兵士として8年近く動員され、そこで多くの避難民を実際に目撃してきたこととも無関係ではないでしょう。そのことが『ゴジラ』という映画を奥深いものにしています。
それに加えて以下のような背景も宝田さんは指摘しています。
「そして、これを私はとりわけ強調したいのであるが、特撮場面でない本多さん演出になる本編の撮影にかかわっている人々の中には、あの成瀬己喜男監督の作品で力をふるっている方々の名前を見出せる。たとえば撮影の玉井正夫さん、照明の石井長四郎さん、美術の中古智さん、録音の下永尚さん」(112頁)
「庶民の姿を描くことではほかの追随を許さない成瀬己喜男監督、そのような方と仕事をされてきた玉井さん、石井さん、中古さん、下永さんらがいてくださったからこそ成瀬作品に通じる無名の人々の現実を『ゴジラ』においてもかんじとることができたのだろう」(113頁)
このことに関連して書いておくことがあります。2010年頃だったと思いますが、北京在住の日本人のブロガーが集まる会で私が主催して「北京ゴジラクイズ」というのをやったことがあります。
それは結構盛り上がったのですが、その会の後に70歳はすぎているかという結構上品な感じのご婦人に会う機会があったのですが、その方が、「山口さんってゴジラのこと研究しているんですか」と聞いてこられるのです。それで「ええ、まあそうです」と答えると「実は…」といわれ「私の父は『ゴジラ』(1954)で美術を担当していた中古智なのです」と…。
その方は、中古智さんの娘さんだったのです。
これには仰天しましたが、庶民を描くことに貢献していた中古智の娘さんの中古苑生さんに北京で会うことができたのも何かの縁だということでしょう。
そして、宝田さん自身もまたハルピンから引き揚げてきた経験をもつ避難民だったということが、このことを強調される理由であり、おそらくは、本多監督への敬意と共感に通じているのだということを指摘しておきたいと思います。
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