連載:美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第4回 わが美味を求めん

投稿者: | 2022年2月10日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第4回

わが美味を求めん

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

連載第1回はこちら
連載第2回はこちら
連載第3回はこちら

全文PDFはこちらから

「私はピッタリ催眠薬をやめたから、仕事のあとで眠るためには酒にたよらざるを得ない。必需品であるから、酒を快く胃におさめるために、他の食物を節しなければならない。なぜなら、私は酒を味覚的に好むのではなく、眠り薬として用いるのであり、それを受けいれる胃袋は、益々弱化しつつあるからである」(坂口安吾「わが工夫せるオジヤ」)[1]

坂口安吾が44歳のときに書いた「わが工夫せるオジヤ」は、料理についての話では珍しく、「二ヶ月ほど前に胃から黒い血をはいた」というシーンから始まる。それは、ウィスキーをストレートで飲み続けて「胃を酷使した」からだというが、そのような飲み方は、睡眠薬のかわりに強い酒を飲んでいたためであった。彼は売薬の睡眠薬「アドルム」の中毒になり、症状がひどくなったため、42歳のときに東大病院の精神科に入院していた。アドルムは二十錠で致死量に至るとされていたが、彼は一度に五十錠以上も飲んでいたといわれている。ちなみに、そのアドルムは「苦い味」がしたそうである。

安吾は、入院を機に、睡眠薬のアドルムを断ち切り、そのかわりに、ふたたび、強い酒を飲まなくてはならないからには、胃を大事にしなくてはならない、だから「オジヤ」が良いのだという、彼なりのオジヤの必然性を語っている。

しかし、「チャンコ鍋やチリ鍋のあとの汁でオジヤを作っていたが、これを連用して連日の主食とするには決して美味ではない」という。睡眠薬がわりの飲酒と胃の状態の理由が第一にあるようだが、「毎日たべて飽きがこないという微妙なものではない」のである。

「わが工夫せるオジヤ」は、肉や野菜を三日以上煮込んだスープストックによるもので(三日以下だと不味いらしい)、「それ自体をスープとして用いると、濃厚で、粗雑で、乱暴であるが、これぐらい強烈なものでもオジヤにすると平凡な目立たない味になる」のだという。これなら「ズッと毎日同じオジヤを朝晩食って飽きないし、他のオジヤを欲する気持にもならない」。

食に関する話において、食材や調理による「味」が語られることは多いが、みずからの身体の状態から「味」が語られることもある。どんなに「美味」とされているものでも、口にしたくないときはある。また、食が進まぬときの工夫による「美味」もあろう。

 

食生活のレベルにある「美味しさ」 語りの視点、食生活のシーン、出来事のつながり

「食」や「美味しさ」は、「食品」としての品質や「舌」の感覚のレベルのみではなく、食糧の生産と供給、調理、食卓、個人的な価値観も含めた「食生活」のレベルで考えなくてはならない。これは、それぞれの視点から気づくことである。

しかしながら、食生活のレベルの「美味しさ」も、これまでに論じてきたような、「感覚」のレベルから「知覚」や「認知」にひきあげられる心理学的な技術のプロセスの結果として考えられてしまうときがある。そのような「美味しさ」を構成するプロセスにも、「味のテクノロジー」や「食品としての品質」を理由づけてきたある種の食生活の視点からの「語り」が紛れ込んではいないだろうか。

「食生活」のレベルでの「美味しさ」を「品質」の要因を構成するかのように考える前に、食生活についての言説から、いくつかの視点を引き出してみたい。

まず、文藝人によって語られてきた「わが美味を求める」という視点からの言説を取り上げる。それによって、それぞれの「視点」からの語りに始まり、その「食生活」のシーンを思い浮かべて、個人的・社会的な出来事が連鎖していく、という「食」ならではの経験的なプロセスがあることを確かめたい。それらは「食生活」を考える上での経験的な流れや成り行きにもなっているだろうからである。

 

「欧米料理」と日本

「スープはできても、みそ汁はできない。パンの良否は分っても、飯のうまさはわかっていない。これが今の日本人であろう。わたしは日本人に、日本の食べ物に目を開かせ、日本の持つよさを理解してもらいたい一念からヨーロッパに食行脚するのだともいえる」(北大路魯山人「欧米料理と日本」)[2]

魯山人は、1954年(昭和29年)4月3日から6月18日まで、欧米旅行に出かけた。「欧米料理と日本」は、その旅行の前に書かれたエッセイである。前年にロックフェラー三世夫人が来日し、欧米での陶芸作品の展覧会を勧められ、表向きはニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマでの「魯山人展」の開催に合わせた美術家としての行脚であったが、魯山人は、ついでに欧米の料理を自分で「テスト」して、やっぱり日本の食べ物が美味しいと言ってやろうではないかと、「テスト」をする前から意気込んでいるわけである。

この頃、戦後の小麦粉の輸入による日本の食生活の変化を、食糧難対策の代替食としてではなく「栄養的」「文化的」な改善だとする動きに対して、魯山人は「国外にのみ心酔する輩」によるものと断じていた。

戦後の「欧米化」をインチキなものとして断じるという意味では、魯山人は美術においても、ある「人物」との出来事から語っている。魯山人の「ピカソ会見記」によると、「ピカソの皿というのが、二、三年前に日本に来たことがあった」ときに、それがコピーであるのを知らずに「小林秀雄までが、知った顔して『あの黒い色がいい』とか、なんとかいうし、青山二郎に至っては珍しくも和服を着てキチンと威儀を正した写真をとられ(中略)まったくみっともない」と書いていた。そこで、この欧米旅行でピカソのアトリエを訪ねた魯山人は、スペイン生まれの男の印象を述べる。「有名な絵描きだという先入観なしに会ったならば、カンヌやニースあたりのごろつきの親分だよといわれても、なるほどと思ったかも知れないような太々しいツラをしている」。「アトリエの入口にある屑鉄で作った人形の前で『どうだ、おもしろいだろう』というようないいかたでなにか説明しては、ケッケッというような笑い方をした。(中略)ピカソ一流のハッタリだなと、ぼくは警戒しながら眺めたものだ」(確かに、この様子の写真が残っている)。ピカソは「ただ自分勝手にしゃべりまくっているかと思うと、チラッチラッと、ぼくの顔を盗み見する。(中略)なにか人をサッと見抜こうとするような、鋭い視線が印象的であった」と語る。

料理や美術を受け入れるとき、魯山人ほど「人物」を見極めるようなことをしているだろうか。逆に言えば、どのように作っているかもわからないモノを口に入れるというのは、それはそれでひとつの「食生活」の視点とも言えるだろう。

 

不幸な「想い出」

「本場のフランス料理ってものを、M・M汽船の食堂で覚えたことは、或いは僕にとって、生涯の不幸だったかも知れない」(古川緑波「想い出」)[3]

戦前の日本では、船が外国へ渡る手段であり、外国の豪華客船のレストランが「最高」の西洋料理や「洋食」を体験できる貴重な場所だった。古川緑波の「思い出」は、その「戦前」の神戸で体験した美味しさを伝える「戦後」のエッセイである。緑波にとって、神戸港に停泊していた「フェリックス・ルセル」号での初めての食事は、生涯で最高の「美味」となった。「神戸に行く度に通った」というように、その後も何度も神戸港の外国客船へ食べに行ったというが、「プレシドン・ドウメル」号へ行った時の日記(『古川ロッパ昭和日記』昭和十三年五月二十日)には、「オルドヴルがフェリックス・ルセルよりぐっと落ちる」、「船の食事も三度となるとあんまりどっとしなくなった」と書いている。

戦後に緑波が書いた「食談あれこれ」(『悲食記』第二部)には、「神戸」というエッセイがある。戦後になっても、緑波は、宝塚での仕事があれば、神戸の街に繰り出して、戦前の「想い出」を求めていたことがわかる。戦後、飛行機が海外への渡航の手段となり、海外航路の客船のコックが陸に上がって開いたレストランが神戸にはあった。そこでは今も戦前の海外航路客船に乗っていたコックの間で伝えられてきた「美味」を味わうことができるという。

あのときの味が忘れられない、というのはよく語られる言葉である。しかし、戦中戦後の食糧事情における「悲食」を通じて、戦前の「フェリックス・ルセル」号での想い出の「美味」は、「わたくしの一生の不幸になったかも分りません」と、緑波はいう。「美味」は、必ずしも個々の人生においては、幸福や健康だけにつながるものではないことがわかる。一度覚えてしまった「美味しさ」は不幸につながることもある。戦後の加工食品のコマーシャルなどでは決して聞くことのできない、「美味」を求めることの悲しさを感じさせる語りである。

 

覚えてしまった食生活を維持する「美味しさ」

「いつも心に体重計、お風呂で毎日もみもみ体操、ゴムスカートはきません、ベルトは決してゆるめない、コーヒーに(ダイエット)、紅茶に(ダイエット)、ヘルシー・ウーマン」[4]

味の素のコマーシャルソングの「ヘルシー・ウーマン・パルスイートの唄」は、女性自身が歌っているように録音されており、ダイエットに勤しむ行動に寄り添い、まるで背後霊のような視点の語り口で、かなり具体的な提案をしている。

「パルスイート」は、味の素社が製造する人工甘味料「アスパルテーム」を主成分とする「砂糖の代用品」として使うことができるものである。味の素社のウェブサイトによると、パルスイートの「美味しさ」は、アミノ酸で作られている「甘さ」によるもので、砂糖に比べて少ない量でも同じ「甘さ」があるとされている。

食生活のレベルでは、「パルスイート」は、「カロリーオフで甘いを自由に」できるものとして、甘いものを食べたいだけ食べられるということが売り文句となっている。つまり、食事の制限やダイエットをするにしても、覚えてしまった甘い味のある生活が維持されることが大きな利点である。

「ヘルシーウーマン・パルスイートの唄」の歌詞は、文章として読んでしまうと少し意味が不明なところがあるが、繰り返し聴いていると「コーヒーに」「紅茶に」と連呼されるたびに「ダイエット」という掛け合いの声が入り、「パルスイート」をリズミカルに入れるような(自分の)身体的な動作がイメージされるだろう。

ただし、このコマーシャルの歌は、想定された人々に対する、擬似的な自分語りの形式のポピュラーミュージックのコンテンツである。このような録音物の言葉は、一緒に歌ってしまうようなことさえしなければ、誰かの視点から肉声として語られているわけではない。しかし、砂糖を制限するダイエットをしている人が、たまたまこの歌を聴いたとき、パルスイートを入れる行動につなげる可能性はあるのかもしれない。

自分がコーヒーや紅茶を飲むシーンをイメージするとき、このようなダイエットの食生活のシーンを思い浮かべるかどうか。それは「わが美味を求める」それぞれの食生活のシーンをどのように考えているかに関わる。

 

自分の食生活から語るときのロジック

食事をするときの「美味しさ」の理由づけは、「わが美味を求める」食生活においては、「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどではないにしても、自分の視点から個人的・社会的な出来事で経験的につなげられており、少なくとも「標準化」や「品質」のような「食品」の信頼性を構成するための論理的なプロセスだけではないだろう。

どのような食生活の視点においても、「食生活」の成り行きと「産業」の経営戦略との関係が問題になるだろうが、その関係における、取り込み、せめぎ合い、利害、依存、経済状況などに基づく自分の視点が、食生活のレベルでの「わが美味しさ」の理由に関わるはずである。

食生活のレベルの「美味しい」理由を考えるために、「わが美味を求める」語りに続いて、次回は「食事をするシーン」のイメージの問題を取り上げることにしたい。

[1] 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45897_34353.html 『美しい暮しの手帖』第11号、1951(昭和26)年2月1日

[2] 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49962_37766.html 『芸術新潮』新潮社、1954(昭和29)年

[3] 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/001558/files/52317_46410.html 『悲食記』学風書院、1959(昭和34)年

[4] 1980年代末から90年代にかけてテレビコマーシャルで流れていたようである。YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Fnju3t30ZYg テレビコマーシャル版では、「ヘルシーウーマン」のところは「ニュー・パルスイート」とも歌われていた。1989年に発売されたダイエッツというアーティスト名での録音版では、「コーヒーに(ダイエット)」「紅茶に(ダイエット)」という連呼が繰り返される。https://www.oricon.co.jp/prof/101533/products/113712/1/

 

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。

ご寄付はこちらからお願いします



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA