【連載】美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第6回 新しい「味」の先に起きていく出来事

投稿者: | 2022年9月12日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第6回

新しい「味」の先に起きていく出来事

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

【これまでの連載】
第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談
第2回 美味しさと健康(2) 食べられる「食品」の品質
第3回 「感覚」の科学研究と「味覚」
第4回 わが美味を求めん
第5回 「食事のシーン」を描くことができるか

 

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誰もわからない、新しい食品の使い方

一般の家庭で「味の素」が普及したのは、銘々膳からちゃぶ台へと移りつつあった明治末から大正時代のことであるが、どんな食物にも多量に振りかけてしまうような、乱暴で過剰な使い方が生じやすかった。「味の素」の製造と販売を始めた鈴木商店の社史によれば、初めて「味の素」を使おうとしたときの家庭での反応は、次のようであった[1]

 

これまで類例のない、性質も用途用法も、使用分量さえも全く知られていない新商品を紹介するのだから、何から何まで宣伝して行かねばならぬ。殊に味の素は極めて少量で、効目があるのだから、これを試味する場合には、吸物をつくるとか、湯水に適当にのばして味わうとかすべきであるのに、大抵の人はいきなり口中へ投げ込んで嘗め試みるために、量が多過ぎて甚だ執拗いので、却って厭になる事がある。又吸物その他の料理に使うにしても、往々使用量をすごして味があくどくなり、一編で懲りる人が多い[2]

 

「味の素」が販売されて5、6年ほど経った大正の初めでも、「ある家庭で初めて味の素を買い、その使用法の説明書も読まずに豆腐の汁の中へ中瓶一本(吸物にして約百五十人前の量)を投入して、あんなまずい高いダシはない」と文句を言う人がいたという。家庭で「味の素」を初めて使うときは、その「効果」を確かめようとするあまり、多量に使ってしまう失敗が起きやすかったのかもしれない。「ダシ」に試しているならまだいい方で、販売ルートや瓶の包装などから、台所で使うようなものとは思われず、何に使うものなのかさえ誤解されやすかった。「味の素」の販売を始めた頃の鈴木商店は、化学薬品の製造を本業としており、薬品店から販路を開拓していたが、「化粧品」と思われたり、「洗粉」と間違えて頭髪を洗った婦人までいたりしたという。よほど使い方がよくわからない代物だったのであろう[3]

 

割烹着姿の若い女性像

初めての「味の素」の新聞広告(明治42年5月26日)には、「理学博士池田菊苗先生発明」「食料界の大革新」「理想的調味料」とともに、「本品は少量を以って多量の酒・醤油・味噌・酢・菓子・茶・其他一般の和洋料理は勿論精進料理等あらゆる飲食物に自然の風味を添へ(中略)滋養は牛肉エキスに優る数等にして調味の効力は鰹節に比べて実に二十倍なりとは発明者の証明であります」という説明が書かれてある[4]

のちの社史『味の素沿革史』では「殆ど余白なく細かい活字でごたごたと組み込まれた不体裁不手際な構成」と反省されているように、その後の「味の素」の広告に使われていく要点がすでに盛り込まれてはいるが、強調すべきウリがどこにあるのかが整理されていなかったような印象を受ける。特に、その効果については「少量を以って多量の飲食物に自然な風味を添える」ということや、「滋養は数等」「調味の効力は鰹節に比べて実に二十倍」と書かれているが、それが一体どういうことを意味するのか、具体的にはどのように使うことになるのか、この広告だけでは判然としない。この広告に詰め込まれているのは、池田菊苗博士の発明品であるということと、料理人や食通の推薦していること、そして、社史で「美人商標」と紹介されている割烹着姿の若い女性である。これらの組み合わせが何を意味するようになるのかによって、それぞれの家庭での捉え方は違っていたであろうし、多様な解釈の可能性があったに違いない[5]

割烹着姿の「美人商標」は、一般の家庭向けの販売を開始するにあたって、「味の素」という商品名とともに考案され、新富町の芸者をモデルにして割烹着を着た女性を描かせたものであった。明治41年11月にこの「美人」の絵に「味の素」の文字を配した商標を制定し、特許局に登録していた[6]。この「美人商標」だけを見れば、販売のターゲットは定まっていたようだが、それゆえに苦労してしまったのかもしれない。大正の初め頃にチンドン屋で宣伝していたところ「通行人が美人商標を描き出した沢山の旗をみて、味の素とは何だろうか、何か化粧品かしらん、と話し合って行くのを聞いた」そうである[7]

そこで、鈴木商店は、家庭に向けて「味の素」を販売するために、少量で効き目がある「経済的な調味料」であることを強調し、家庭でも適量がわかるように「耳掻き大のアルミ小さじ」をつけるようにした。「これまである調味料では、醤油、味噌、砂糖、鰹節、昆布、味醂等、何にしても味の素のごとく耳掻きで掬って使うというように、少量で利き目のあるものは一つもないのであるから、分量を誤るのも無理はなかった」。販売する側から、適切な使用量を伝えるための一工夫をしたのであろう[8]

しかし、家庭での「味の素」の乱暴で過剰な使い方はなくならなかったようである。社史では、初期の「味の素」に対する反応について「味の素に馴染まぬ大衆」と題して書かれているが、それは販売する側からの言説であろう。「少量で効き目がある」という宣伝文句は、日常的な食生活の「味」で確かめられる各々の感覚に訴えているが、使用する者は食生活に依存した解釈をする。実際に使ってみると、「少量で効き目がある」ことに対して多様な解釈があり、過剰な「効果」の捉え方も続いていく。多くの人がこれを知ってか知らずかの態度で、「味」に乗っかってきたのであり、「味」の産業的な利用におけるコミュニケーションの基本的な問題が現れているのである。

 

その味の「素」をめぐるコミュニケーション

大衆文化の文脈からすれば、よくわからないながら「味」の効果として期待されたのは、「滋養は数等」や「調味の効力は鰹節に比べて実に二十倍」のような割烹着姿の女性を想定した「経済性」などよりも、味を良くする「秘密の技」や、過剰な「味付け」であった。

大正6年頃から、「少量で効き目がある」、「何に入れても効き目がある」というその味の原料について、「味の素は蛇を原料にしている」という噂が広がった。当時、多くの人が、味の素の「原料蛇」説を面白おかしく語り合い、新聞や出版物でも目にしたのではないかと思われる。

「味の素」の販売と宣伝を担当していた鈴木三郎(創業者の息子でのちに社長、三代目鈴木三郎助)によると、「蛇を原料にしている」という噂がなぜ広まったのか、はっきりとはわからないとしながらも、その理由の一つとして彼が挙げているのは、当時の屋台や路上での物売りの口上である。「浅草観音や大阪の四天王寺境内といった盛り場や縁日で、蝮の黒焼を売っている香具師が、自分の売る商品に箔を付けるために『あなた方は、蛇の黒焼というと何か気味が悪いもののように思うらしいが、お宅で毎日使っている味の素の原料は、あれも矢張り蛇ですぞ』というものが至る処にあった」ということを述べている。このような「香具師」たちは、一つの場所に店舗を落ち着かせることはなく、至るところに現れては移動していくので、彼らの「口上」を止めさせることは困難であった[9]

香具師の口上も噂が流布する要因の一つだったかもしれないが、「味の素」と「蛇」を結びつける噂が生まれた経緯については、鈴木商店でもそれだけだとは考えられておらず、「味」という感覚を通じて憶測が生まれる可能性もあると思われていたのである。「伊勢の沢庵漬が美味しいのは、樽の底に蛇を漬け込むからだ、蛇というものはそれ程うまいものだ、という昔からの言い伝えが関西地方にあった。それで味の素が不思議に良い味をもっているので、これも大方原料は蛇かも知れぬという憶測をする人があり、その憶測がそのまま真実のように言い伝えられたものと思われる」[10]

「味の素」を製造して販売していた当事者の間でも、当時の日本の語りのなかで生活する者として、「美味」と「蛇」を結びつける噂を耳にすれば、どこかで聞いたことがあるような、似ている話をいくつか想起させるような、そのような捉え方もありえると思えたのかもしれない。「味の素」の販売店の中にも、「原料蛇」説を否定するどころか、信じているかのように噂話に興じる者がいた[11]。大正9年の春頃に行われた工場見学では、「東京市内の味の素の得意先や、料理界の有名な人達を川崎工場へ招待し、小麦を原料として仕込んでいる所から、最後の味の素が包装されるまでの製造過程を洩れなく見せて、十分な説明をしたことがあった。これによってよく理解されたと思っていると、その帰途見学団の中の一人がいうには『今日は随分詳細に工場を見せて貰って面白かったが、さすがに蛇を仕込む所だけは案内しなかったね』」と聞いて「唖然としていう所を知らなかった」[12]。もはや、「味の素」の製造工程を管理・設計し、その全てを把握できる立場でなければ、「原料蛇」説は「あるかもしれない」話であった。

「原料蛇」説が流布していた頃、鈴木商店の「味の素」の新聞広告は食料品の中では断然に多かった[13]。新聞広告でよく知られていた「味の素」に対して、雑誌などで「味の素」の広告のパロディやセンセーショナルな記事に利用されたという側面もあるかもしれない。「原料蛇」説は、怪しげな記事を掲載する新聞や雑誌などの出版物で、まことしやかに取り上げられていた。大正7年10月に発行された『スコブル』という「素破抜き雑誌」には、鈴木商店が出した新聞広告のような体裁で、蛇が原料であることを明かしているかのような「懸賞問題」の記事が掲載された。大正8年10月には、『赤』という「絵入り雑誌」に「文明的最新調味料味の素」と書かれた吸物椀から蛇が這い出してくる絵が掲載された。前出の『スコブル』の記事を書いた宮武外骨は、大正11年4月に出版された単行本『一癖随筆』に「味の素は青大将」と題した記事を掲載し、「蛇捕りを業とする男から直接聞いた話」として、「味の素では蛇を全国から集めている」と書いた。鈴木商店には「蛇が五樽あるが、いくらで買い取って貰えるか」という手紙が来たことがあり、これが真面目な照会なのか、嫌がらせの悪戯なのか、もう鈴木商店では判断がつかなくなっていたという[14]

【注・文献】

[1] グルタミン酸ナトリウムが「味の素」として一般向けに販売され始めたのは、1909年(明治42年)のことで、それは創業時のグルタミン酸ナトリウムの主な取引先であった日本醤油醸造株式会社が破綻したためでもあった。日本醤油醸造は、醤油の味を整えるために、当時違法であったサッカリンを使用しており、同じ目的でグルタミン酸ナトリウムにも関心を持っていた。鈴木商店はグルタミン酸ナトリウムを「だし」や「調味料」に使うものとして「味の素」を販売し始めたが、初めは戸別訪問で説明してもなかなか理解されなかったようである。『味の素沿革史』1951年、40~46ページ。

[2] 同書、43ページ。

[3] 同書、55〜56ページ。

[4] 同書、572ページ。

[5] 同書、571ページ。

[6] 同書、40ページ。

[7] 同書、55ページ。

[8] 同書44ページ。

[9] 『味の素沿革史』81~84ページ、鈴木三郎助『味に生きる』142ページ。

[10] 『味の素沿革史』83ページ。

[11] 同書、84ページ。

[12] 同書、85ページ。

[13] 同書、「食料品広告としては断然トップ」、579~580ページ。「原料蛇」説が発生したとされる大正6年頃には、「月九段乃至十段、即ち月一頁広告時代に入った」。大正7年の大阪朝日新聞、大阪毎日新聞に掲載されていた広告の行数では、上位は化粧品と売薬で占められ、「味の素」は10位であった。食品関係では、16位に蜂ブドー酒、18位に赤玉ボールドワイン、19位に森永製菓。

[14] 『味の素沿革史』84ページ。『味に生きる』142~143ページ。

 

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