連載:開発主義政治再考 第6回  補論/『技術の社会史』と『現代技術評論』をつなぐ

投稿者: | 2022年5月12日

【連載】 開発主義政治再考 第6回

補論/『技術の社会史』と『現代技術評論』をつなぐ

山根伸洋(市民科学研究室会員)

【これまでの連載】

第1回 開発主義政治の第三段階に向けて―開発主義政治の遺産継承をめぐって―

第2回 「総力戦」ないし「戦時動員体制」研究における 課題をめぐって

第3回 TVA-アメリカの経験を読み直す試みについて

第4回 「富国」と「強兵」の関連性について、ないし社会インフラ論

第5回 補論/田園都市国家ないし国家の空間的実践をめぐって

 

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1.技術の功罪-移行期における歴史的な総括と展望

一九九〇年七月有斐閣より戦前より技術史研究に取り組んできた山崎俊雄の編集による『技術の社会史6 技術革新と現代社会』[1]が刊行される。編者の山崎俊雄は「脱産業社会」を標榜した新たな開発主義の局面を迎えた一九八〇年代の動きの帰趨を見極めるように、第1巻から第5巻が刊行される一九八〇年代初頭から若干の間を置いて、最終巻の第6巻および飯田賢一編集による別巻を一九九〇年に刊行した。最終巻の『技術の社会史6 技術革新と現代社会』において第1章を「戦後農業技術の展開と農業構造の変化」、第2章を「総合石油化学工業の成立と環境問題」、第3章を「戦後日本における都市建設技術の革新」そして第4章は「情報技術の発展と社会」として一九九〇年代初頭における現代社会における技術史的課題を設定した。

そして序説「高度工業情報社会への途」を編者自らが担当し扉絵には「静岡県天竜川の佐久間ダム」の写真を掲載し、以下のキャプションをつける。「1956年電源開発会社により完成したこのダムは、戦後技術革新の第一歩を築いた。アメリカから大量に輸入された大型土木機械は日本建設技術史に画期をもたらした。写真は一九七七年開設の「佐久間電力館」屋上から一九八五年秋に撮影したものである。」一九八〇年代半ばにおいて、高度経済成長の礎となった電源開発事業の振り返りが扉絵に置かれることからも、一定の「国民的合意」を可能とする歴史的総括が本書において目指されていたことがわかる。

序説[2]において敗戦以降の日本社会の歴史について、大きく三つの時期に区分する。「一 復興から再編へ」では、さらに「占領下の民主的復興」(一九四五~五〇年)、「朝鮮特需による再編」(一九五〇~五五年)そして「耐久消費材生産の成長」(一九五五~一九六一年)と区分される。それぞれの時代における科学技術に関連する国民的課題が紹介される。次に「二 高度成長の展開」では、一九六一年から一九六五年を重化学生産規模の拡大の時代として、さらに一九六五年から一九七一年を巨大化と自動化の時代として、情報産業のほかに原子力・宇宙・海洋などの研究開発の巨大化・総合化の事例として原子力産業を取りあげ、安全性や廃棄物処理などの未完成の課題に触れる。そして一九七一年から一九七五年を省資源エネルギーの時代とし、ベトナム戦争でのアメリカの劣勢の状況において、公害問題の顕在化、一九七二年ローマクラブの報告書「成長の限界」、国連人間環境会議における「人間環境宣言」の採択などを指摘する。そのうえで、「三危機への対応」において、一九七六年から一九八〇年を「メカトロニクス化」の時代として機械工学と電子工学の混交による産業用ロボットなどの導入によるフレキシブル生産システム、ファクトリーオートメーション、オフィスオートメーションが際立つ時代とする。ついで一九八〇年から一九八五年を「先端技術政策の登場」の時代として、技術立国路線のもとでの「重化学工業中心の臨界コンビナート」から「半導体中心の先端技術産業」を「臨空・内陸地帯」に配備する高度工業集積地域開発促進法(テクノポリス法)が一九八三年に制定されたことを紹介する。そのうえで、一九八五年から一九八九年を「情報都市社会への転換」の時期として設定し、情報技術を基礎とする都市計画を立案・実施する、いわゆる都市(再)開発の時代の到来を指摘する。序説の最終部分において編者は「これまで貿易に限定されてきた日米摩擦は安保体制をめぐって技術に波及してきた」として、一九八〇年代に軍事同盟の強化が進み日本が世界第三位の軍事大国となっていくことに言及する。そして「日米軍事同盟のもとで日本の核戦略の危険が進む」状況への危惧の念が表明されている。

また本書においては、いくつかの重要な指摘がなされている。一つは局域的事象としての「産業公害」の原因事業所が巨大石油化学コンビナートである場合、石油化学コンビナートの汚染は多様な形態で広域化が一挙に進む事例が頻発する点である。こうした事例の集積をもって「地域開発にともなう自然破壊、食品・薬品公害、複合汚染、土壌汚染といった新たな病理現象」の発生により「地球規模の環境問題」に直面する時代に入ったという指摘である[3]。一九九〇年の時点において「地球環境問題」という言い回しを用いることの「先進性」に注目することも大事なことだが、その処方として「資本制機械制生産、科学の資本への従属、大量生産・大量消費、地球環境の破壊」のパッケージから抜け出る「合理的なより高次な人間社会を築いてゆく」ことが人類生存の鍵としている点が興味深い。こうした提案は、現在に至る数次の国連開発目標に通じる発想であろう。二つ目の指摘は都市建設技術の革新[4]についてであろう。超高層ビル建設技術の確立が土地の高度利用を可能とする。そして道路交通容量を増やす技術として都市高速道路や立体交差技術などにも言及する。そして最後に黎明期における電子計算機の技術革新の進捗に従い「通信網とコンピューターの結合」によって生成するコンピューター・ネットワークの社会への影響についての言及[5]があり、アメリカを中心とする情報ネットワーク時代の到来を予見する。

 

2.歴史的総括軸の再建にむけた困難

ところで『技術の社会史6』に先立って、一九八二年には飯田賢一を編者として『技術の社会史4 重工業化の展開と矛盾』[6]が、そして一九八三年には内田星美を編者として『技術の社会史5 工業社会への変貌と技術』が刊行される。『技術の社会史4』では一八九〇年代から一九二〇年代を中心として第一次世界大戦後までの日本社会の産業化について、足尾鉱毒事件を含む全般的な工業化についての議論が展開されている。この時期における諸事象は植民地開発の事例も含めて概ねトランスナショナルなあり方となる。したがって科学技術研究開発の動向もまた国際的なものとならざるを得ない。その中で、編者の飯田賢一は「鉄鋼技術の形成と展開」において、「それにしても資源問題に直面してつねに海外依存ないし植民地資源の収奪といった歩みをたどったのではなく、積極的に自主技術を創造するという努力をつみ重ねたこと、それゆえに今日の鉄鋼技術革新の基礎も築かれたことを否定することはできない」として、「資源開発の歴史的本質は、すでに使われている原燃料を探す、その意味では経済的あるいは政治的・軍事的に既存資源を確保することにあるのではなく、むしろそれまで未利用のものを新しく工業のために資源化する、つまり自主的に新しい技術を創造するところにこそ存在する」、「資源の相対的な涸渇が新しい技術の創造を要求し生まれ出た新しい科学技術が資源の領域を広げて工業化の土壌を形成する」[7]として釜石鉱山田中製鉄所における製鉄原料の吟味と試作の経緯について意義深くも未完のプロジェクトとして考察を進める。飯田賢一は「四「化学と電気の理想郷」の建設」という節の冒頭項目「1野口遵は生きている―のぞまれる歴史的再評価―」[8]において、一九三〇年代における産業指導者の四傑として理研コンツェルンの大河内正敏、日産コンツェルンの鮎川義介、昭和電工の森矗昶(のぶてる)に並ぶ人物として野口遵(一八七三~一九四四)に注目し、彼がてがけた事業について考察を試みる。飯田は野口を「<技術・経営・勇気>の三拍子そろった大事業家」と位置づけ「わが国では後にも先にも稀有の存在であった」としている。そのように位置づけたうえで、飯田は野口の業績を以下三点列挙する。第一に「わが国における新化学工業分野の開拓と建設」、第二に「わが国における電力事業分野の開拓と建設」を通じた「<化学と電気の理想郷>」の創造が目指されたこと、そして最後に「(野口が)病をえて倒れると、全私財を国に投じ、化学工業振興のための化学研究所の創設と、朝鮮人のための奨学資金の設定とにあてた」こととしている。続けて、「戦後」、「世界に類を見ない病気<水俣病>が多発し」、「ミナマタは、戦前の足尾とならぶ戦後公害の原点としての汚名を浴びる運命となった」とし、それにともない「近代的な化学工業のなかで石炭産業に劣らぬ前近代的な労務管理に終始していたとされる、新日本窒素における労働組合員たちみずからが、創業者として野口にたいし、きわめて悪い感情をもつようである」として産業公害に抗いながら生きる人々を意識しながら飯田はあえて次のように野口を評価する。すなわち「それでもなお日本の工業に近代化学・技術の基礎を据え、財閥にも官僚にも軍閥にも決しておもねず、日本の技術の自立に勇敢に挑戦した野口遵の技術家としての開拓的精神とその足跡は、彼の影響下にあった大ぜいの戦後企業家たちを通じて、現代日本に生きていると、筆者は考える」としている。そのうえで、説の末尾において野口遵についての「歴史的評価はじつのところむずかしい」が「あらためて問い直されねばならぬものをはらんでいるように思われる」としている。そして末尾の項目「3朝鮮北部における開発事業―東洋のTVA―」[9]において、朝鮮半島北部の興南工場(ないし「一大工業都市」としての「興南地区」)が「地域総合開発計画」のもとで「完全な都市計画」の中に可能となったものであることを、その規模と景観を挿絵付きで紹介している。そして「戦前の国策の線に沿って<化学と電気の理想郷>を朝鮮に結実させた野口の事業は、しょせんは日本帝国主義の植民地支配政策への協力を意味した」としつつも、戦後の久保田豊のアジア諸国での開発事業における「技術協力」や朝鮮民主主義人民共和国の「技術革命」の路線に「時代も国際環境もまったくちがうが」「野口のめざしたところと、一脈通じるものがあり、救われる思いがいたすのである」と締めくくる。上記の飯田の言及にいかに向き合えばいいのか、そこにあったはずの歴史的経験への忘却や沈黙、ないしはその反転としての短絡的な図式化(肯定的であっても否定的であっても)を戒めて、戦前の野口の生きざまの読み直しに取り組むことを可能とする研究環境は、近年では、多くの同僚研究者の苦労の元におぼろげであってもその輪郭が見え始めており、したがって、こうした飯田の提起への応答も可能となる情勢も到来するかもしれない。

[1] 『技術の社会史6 技術革新と現代社会』(山崎俊雄編、1990、有斐閣).

[2] 前掲 pp.1-17。山崎俊雄執筆担当。

[3] 前掲 pp.117-118。馬場正孝執筆担当。

[4] 前掲 pp119-151。水野弘之・藤田忍執筆担当章。

[5] 前掲 pp246-267。木本忠昭執筆担当章。

[6] 『技術の社会史4 重工業化の展開と矛盾』(飯田賢一編著、1982、有斐閣)。

[7] 前掲 p.143。

[8] 前掲 pp220-222。

[9] 前掲 pp.226-232。

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