【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第8回
家庭料理をつくるひとが伝えること
瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)
【これまでの連載】
第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談
第2回 美味しさと健康(2) 食べられる「食品」の品質
第3回 「感覚」の科学研究と「味覚」
第4回 わが美味を求めん
第5回 「食事のシーン」を描くことができるか
第6回 新しい「味」の先に起きていく出来事
第7回 「調理」を作っていくのは誰か
全文PDFはこちらから
家族のような、「牛鍋」
男が肉を三切四切食った頃に、娘が箸を持った手を伸べて、一切れの肉を挟もうとした。(中略)「待ちねえ。そりゃあまだ煮えていねえ。」
(森鴎外「牛鍋」)[1]
この「牛鍋」屋でのシーンは、今の言葉で言えば「外食」になるであろう。それぞれの欲望が交差するような、艶かしい食事である。自分たちで「調理」をしているともいえるが、牛鍋を囲んでいる三人は「家族」としては曖昧な関係であるようにも見える。
この「牛鍋」の「男」は、どうやら自分のために「調理」している。まだ幼いだろう「娘」にとっては、目の前にある肉でさえ、誰のために調理されているのか不明である。肉に手を伸ばしてみたら、男から「まだ煮えていねえ」と制止されるが、それが自分のために調理されているのかもわからない。その一方で、おそらくその「娘」の母親と思われる「女」がいて、どうやら自分が食べることには無関心で、「男」の食べっぷりにうっとりしている。そうとなれば、この「娘」が早めに肉を掠め取ろうとするのは当然であろう。肉の取り頃(調理の具合)は、他人の目を見て判断することになろう。
もし、この三人が家族になったとしたら(あるいはすでに家族だったとしたら)、その家庭では、誰がどのように調理をして、どのような料理がつくられるだろうか。
「女料理番」と「台所の顧問役」 新しい「調理」が家庭にもたらしたこと
明治30年代になると、新しい「調理」を教えられた女性を雇う裕福な家庭があった。その一つの例である「女料理番」は、日常の料理から客のおもてなしまでを請け負っていた。当時の公務員と同等の報酬があったようなので、女性の専門的職業になっていたといえるだろう。「女料理番」は、調理の技術だけでなく、礼儀作法の教育も受けていた。裕福な家庭では客をもてなす必要があり、新しい食事の作法も期待されていたのであろう。「女料理番」は、食事をつくるのだが、それまでの男性の「料理人」でもなく、飲み屋の「女将」でもない、新しい職業とされていた[2]。
あるいは、自分の家庭で料理をしている女性が出向いて、新しい「調理」を他の家庭で教える場合があった。しかし、当時の多くの裕福な家庭ではその「子女」や「主婦」がお金を稼ぐようなことをするのは認められていなかったために、「台所の顧問役」としてボランティアで教えるという例があった。つまり、新しい「調理」の教育を受けた女性が他の家庭に出向いて教える場合、その技術や味がどうであれ、アマチュアの文化のようになりやすい状況があったのではないかと思われる。新しい「調理」は、料理人の男性から若い女性へと「自分の家庭」のための技術として伝えられていたが、家庭の状況や家族間の付き合い方によっては、家庭を越えて女性同士でお互いに伝え合っていく活動になる側面もあったのであろう[3]。
しかし、「女料理番」にしても「台所の顧問役」にしても、味覚的な「美味しさ」を提供するということまでは表立って強調されていなかったようである。現在でも、味覚的な側面は食べてみないとわからないはずだが、料理人が「調理」による味を保証したり、究極の「美味しさ」を理解しているのは高級料理の「料理人」であると語られるときがある。その場合には、「美味しさ」を判断する基準は「家庭」の外にあるかのようにされており、「味覚」を保証する立場の一線が社会的に引かれている。
新しい「調理」を経験できる家庭に関われば、ともに食して味わう「何か」を伝え合うことができるであろうが、明治時代の「調理」と「家族」の歴史的な状況においては、料理人の商売上の秘密とされていた「味」を提供する技術は、「外食」と「家庭料理」の間での一方的な「味」の伝達を意味していた。本当は、女性たちの間でも「味」を相互に伝え合っていたはずだが、社会的には料理人からの一方通行だったり、表立っては伝えられていなかったために、家庭料理で独自な「味」はつくられていたとしても、社会的には伝えられにくかったかもしれないという可能性を考える必要がある。
「たべるひと」が期待した「食道楽」
明治36年(1903年)から新聞で連載された小説、村井弦斎の『食道楽』は、明治から昭和にかけてベストセラーの「食」の指南書になり、日本の食文化にさまざまな影響を与えた[4]。「味の素」の最初の「美人」新聞広告(明治42年5月26日)に、村井弦斎は「自分の家庭料理」をイメージさせるような文章を寄せている。
味の素其後種々試用致候處味噌汁に加味候は味を出すこと最妙にして毎朝食卓に欠くべからざるものに相成申候又ソース物の原料に使ひ候ても味宜しく急場の間に合ひて至極便利に有之候兎に角此発明品は家庭料理に便利至極のものと存候[5]
『食道楽』は、今の言葉で言えばアマチュア的な「内食」で、新しい料理を試しては「会食」を繰り返す人々の食事のシーンを描いている。西洋料理、中華料理、日本料理など、普段の「家庭」では食べられないものを自分たちでつくり、ともに食べ合うのであるが、なぜこれが当時の人々の関心を呼んだのか。
まず考えられる理由として、普段の家庭にはない料理の知識を得る「安さ」があっただろう。裕福な家庭の生まれでもなく、料理学校に通う機会がないような人でも、新聞や単行本を購入すれば読むことができる。しかし、この小説には、読者が自分で再現できる「レシピ」のような内容があるわけではなく、アマチュア文化的な「食道楽」の会話が描かれている。「食道楽会」という節では、「広海子爵」の邸内を会場にして、「普通の西洋料理屋では、とても口に入れることが出来ないほどのもの」を目の前で料理して見せると言う者がいるのに対して「僕らの身分では、三十銭くらいの食道楽会も開きたいね」と応じる者がいる[6]。「食道楽会」を開いている裕福な家庭から他の家庭に新しい料理が伝えられていく状況が描かれているのである。読者は、自分の家庭では食べられない料理の情報を得るだけでなく、新しい料理が伝えられていくことで生まれる人間関係の変化(旧来の家族との関係、さまざまな男性たちと「令嬢」との新しい家族の形成)にも関心を持って楽しんでいたのであろう。つまり、今の言葉でいえば「婚活パーティ」のような、新しい「家族」をつくることにつながっていくであろう「家庭料理」のドラマが描かれている。
もう一つ、『食道楽』の描かれ方には「外食」経験に関わるジェンダーが含まれている。当時は、夫婦同伴でも女性が「外食」を経験する機会はあまりないと考えられていた。「食道楽」は男性たちにとっては「外食」に類した活動であり、そこで若い令嬢の「お登和」がまだ家庭では珍しかった「味」を覚えていく過程が描かれているのである。
また、『食道楽』は、弦斎が考えていた「食育」の重要性を、男性たちから「お登和」への「栄養」についてのやりとりで伝えている。「料理の原則」という節では、西洋での経験によって説明的に語られている。
西洋人の家でごちそうになってみたまえ、品数が多くて分量の少ないこと、お雛様のお膳のごとしだ。それにビフテキでもシチュウでも、肉が少なくて野菜が多い。西洋料理の原則は、生理学上から割り出してある。働く人と働かぬ人と、夏と冬と少しずつ違うけれども、大体その標準は体重一三貫余(五〇キロ)の人は一日に二〇〇〇カロリー、一九貫(七〇キロ余)の人は三〇〇〇カロリーの食物を摂らねばならぬという。食物の成分からみると、一九貫の人で一日に蛋白質一一八グラム、脂肪が五六グラム、含水炭素五〇〇〇グラム、その余は水分、とこう決めてある。蛋白質と脂肪は主に肉類や乳にあって、含水炭素は野菜や穀物にあるから、肉と野菜の分量もその割合にしなければならない。僕の家のはそれで何でも少しずつだから、さあ、角煮も食べてくれたまえ[7]。
弦斎の娘である村井米子によると、「日本の栄養学の祖、佐伯矩博士は、この『食道楽』にヒントを得て、この道に進まれたと、かつて私に直話があった」という。『食道楽』が伝えようとした「食育」は、受け取りようによっては、「栄養」学を科学的に研究しようとする発想も与えていたのであろう。
【注】
[1] 森鴎外「牛鍋」、1910(明治43)年。https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/3615_12063.html
[2] 今井美樹『近代日本の民間の調理教育とジェンダー』ドメス出版、2012年、262〜263ページ。
[3] 同書、265〜266ページ。
[4] 村井弦斎(村井米子編訳)『食道楽』新人物往来社、1976年。
[5] 『味の素沿革史』1951年、572ページ。
[6] 同書、205ページ。
[7] 同書、41ページ。
【続きは上記PDFでお読みください】