現代日本における9・11と9・18そして3・11の歴史認識のはざまで考える

投稿者: | 2023年10月5日

現代日本における9・11と9・18そして3・11の歴史認識のはざまで考える

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

 

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はじめに

毎年、秋とりわけ9月になると思い出すことがある。それは2001年のことである。

その年は、とりわけ忙しい年だった。当時、私は、東北大学大学院の博士課程の大学院生だったが、ようやく日本学術振興会特別研究員に採用され、専門の研究にも熱が入りつつあるところだった。そのころから私は、国際会議に参加しはじめていた。

1.国際会議参加ラッシュだった2001年

私の専門分野の科学史の国際会議が、その前月の8月初旬にメキシコシティで開催されており、それに参加していた。

もちろんメキシコは、初めてである。首都のメキシコシティの緑色のタクシーが、印象に残っている。メキシコシティには、5、6日滞在したが、国際会議に参加の他は、いくつか観光地を回った。その一つが、かつてトロツキーが、亡命した家で現在トロツキー博物館となっている場所であり、そこを日本から国際会議に参加している科学史研究仲間たちと訪問した。金森修氏、柿原泰氏、佐々木力氏、板垣良一氏、山根伸洋氏らがおられたと記憶する。

世界のトロツキー関係の文献がおいてあり、日本の『トロツキー研究』がおいてあることも確認した。非常に広範な市民が、訪問しており、なかには女子高生らしき人も見かけたりした。日本とはずいぶん状況が違うなと思ったことをよく覚えている。

日本に帰国したあと息つく間もなく、8月中旬に中国、ハルピンで開催された満州事変70周年の国際会議に参加した。会議の合間には、ハルピンのスターリン公園を訪問することができた。トロツキー博物館からスターリン公園へとなかなかに落差の激しい人生を生きていたわけである。

ここには、日本、韓国、中国の研究者が、100人以上、参加しており、私は、大陸科学院という1934年に新京とハルピンに創設された科学研究所の歴史について報告した。

その報告で日本の石堂清倫氏の言葉を引用したのだが、石堂氏と知り合いだという中国の研究者、解学詩氏が、私に声をかけて来た。解学詩氏は、中国の満鉄研究の重鎮といってよい研究者でこの時すでに80歳を超えておられたと思う。

日本からは、京都大学の大学院生で社会学を専門とする坂部晶子氏が、参加されていた。当時は長春の東北師範大学に留学中であった。

このころちょうど当時、総理大臣だった小泉純一郎が、靖国神社を参拝するかどうかに国際社会から大きな注目が集まっており、この国際会議に参加している研究者たちの話題のひとつだった。結局、小泉は、8月15日という日にちをずらして靖国参拝を行った。「姑息なことをする」「せこいことするなあ」という声が、韓国や中国の研究者から出ていた。日本人としては、随分居心地が悪い思いをした記憶がある。

そして、それに関連して強烈に覚えているのは、旧知の教育学者である王智新氏が、出演したばかりという『朝まで生テレビ』のビデオを持ってきており、それを国際会議が終わり、食事も終わったころから流したことである。2001年7月の第172回の「激論! 靖国問題ってなんだ?!」というテーマでの討論だった。そこではじめて水島朝穂という法学者を知れたことは収穫だったが、「司会者が田原総一朗氏でなかったので助かったよ」と王智新氏は、私に語った。私は最後まで「朝まで生テレビ」を一番前の席で見ていたのだが、ふと気が付くと後ろには誰もいず、一人だけだということに気が付いて複雑な思いになった。

翌日の会議が、終わってから小泉氏の靖国参拝に関して、日本から来た若手研究者ということで中国のテレビ局からインタビューを受けることにもなった。無論私は、小泉靖国参拝に批判的な意見を述べたが、その映像は、全中国で流されたようだった。私の北京大学の指導教授の先生も見ていたようで2003年9月「君がテレビに出ているのを見たよ」といわれたことがある。

2.2001年日本の大連行きの飛行機に乗る

そして、その翌月2001年9月は今度は、瀋陽で満州事変70周年を記念した植民地教育シンポジウムが開催されるので、一度、日本に帰国してから2001年9月11日、私は、仙台から大連行きの飛行機に乗った。大連で一泊し、列車で瀋陽に到着し、シンポジウムの会場となっている大学に向かった。

大学に到着すると、シンポジウムの参加者たちが、集まっている部屋に通された。そこで旧知の研究者である王智新氏を見かけたので声をかけた。すると王氏は、私の顔を見るなり、「大変なことが起こってしまったね」と声をかけてきた。私は、その時点ではテレビも新聞も見ていなかったため、何のことかわからず、「何ですか?何が起こったんですか」と聞き返した。するとすぐ「知らないんですか。昨日、飛行機が、ニューヨークの世界貿易センタービルに突っ込むという同時多発テロ攻撃が、発生したんですよ。今、どこもその話題で持ちきりですよ」という返事が返ってきた。なぜそんなことが起こったのか、よくわからなかったが、ともかくホテルの部屋に帰ってテレビをつけてみると、中国のテレビ局もニュースはどこもそのニュースをやっていた。

1931年9月18日に起こった満州事変の70周年を記念する国際シンポジウムに参加するため大連行きの飛行機に乗ったちょうどその日、ニューヨークの世界貿易センタービルに飛行機が突っ込むという出来事が起こっていたのだった。2011年9月11日のニューヨークにおける出来事と1931年9月18日の瀋陽(当時は奉天と呼んでいた)における出来事が、重ならざるをえなかった。

そのため私の中では、9・11と9・18という世界史的出来事の記憶が、分かちがたく結びつくこととなった。そのような経験をしている日本人は、少ないのではないだろうか。

3.満州事変の歴史認識が希薄な日本人

多くの日本人は、9・11と言われれば即座に脳裏に映像が浮かぶが、9・18といわれてもイメージすら浮かばないのが実際のところだろう。そもそも満州事変というが、事変という言葉がわかりにくい。宣戦布告をせずに他国に“進出”することを事変というようだが、“進出”された側からみれば、満州戦争と呼ぶべき事態である。またにこれに1932年1月の上海事変を加えれば、きちんと説明できる日本人は、さらに減るだろう。

そもそも私が、9月18日が満州事変の日だと気が付くのは、30歳を超えて、中国東北部を旅行するようになってからのことである。

もちろん高校の世界史の授業などで満州事変という言葉は習うが、それは、暗記の対象の言葉として学んだに過ぎないもので、いつ誰が、どのようにひき起こし、どのように報道されていたのかといった具体的なことには、全く無知だといってよかった。おそらくこれは私だけではなく、大半の日本人も似たような状況ではないかと思われる。まず、そもそも日本国内で生活していて満州事変の話題で話し合ったりする場は、それを専門に研究する研究者を除いては、皆無に近い。北京日本人学術交流会で満州事変に関して討論していたことがある。そのとき参加してくれた私より一回り上のTBSのディレクターは、「学校教育では満州事変についての具体的な教育を受けた記憶がない」と語った。やはり歴史教育の不在は、私の世代に限ったことではないと思われる。

そして、こういう私自身、30過ぎまで9月18日が、何の日かほとんど気に留めることもなく生活してきた。中国では初等教育の段階から満州事変のことが歴史教育の場で教えられる。だから9月18日が、何の日か知らないという中国人は、いない。

私は、この歴史問題で日本人と中国人の若い世代が、討論しているところに遭遇したことがあるが、日本人は、この歴史に無知すぎるため議論になっていないという印象を受けることが多かった。

瀋陽には、瀋陽北駅という駅がある。その駅からは柳条湖が比較的近い場所にある。その近くにある関東軍が、満鉄を爆破し、中国の軍閥の仕業とした場所には、モニュメントとして巨大な卓上のような石碑が、建設されている。その中は歴史博物館になっており、写真パネルや資料の展示が行われている。1991年9月18日の満州事変60周年の日からこの歴史博物館は、オープンしているという。私が、2001年に瀋陽を訪問し、この歴史博物館を訪問した時、瀋陽在住の友人が、私に「この歴史博物館を建設するために随分、税金を払いましたよ」と言って苦笑していたのを思い出す。

あまり知られていないが、東京帝国大学で化学を学び、満鉄中央試験所の研究員だった、鈴木庸生という化学者が「満蒙の資源とわが化学工業」『日本護膜協会誌』(1932)という論考で満州事変について以下のようなことを述べていた。

「日本が満洲に進出するようになってからたしかに産業は好転し、満洲からの輸出超過が年に1億5千万円にのぼるようになった。(中略)日本が大きくしてやったようなものであるが、軍閥はその上、増長してそのはては、満鉄の事業を妨害し、日本人を満洲から追い出す魂胆で、別に鉄道を敷設したり、こうじては露骨に満鉄の一部を爆破したりした。日本にとってみれば飼い犬にかまれたようなものである。とうとう我慢できなくなって今度の満州事変が、爆発したのである」

ここで鈴木は、中国の軍閥が満鉄爆破をおこなったといっているが、実際は関東軍の河本大作や石原莞爾らが、満鉄の爆破を行っていた。つまり自作自演だったのだ。このようなことを述べていたのは、鈴木だけではなく当時の新聞は、ほとんどこのような内容の報道を行っていた。

この満州事変によって朝日新聞をはじめとする日本の新聞社は社論を転換させ、軍部に近い主張をするようになる。そして当時のほとんどの日本人は、中国の軍閥が満鉄爆破をおこなったものと思いこまされることになる。そして「暴支膺懲」(暴虐な支那を懲らしめる)というスローガンが、新聞を通して日本社会に定着していった。

たとえば、日本新聞協会は、1931年11月4日発表の声明書の中で以下のように述べていた。

「南満州鉄道は世界の重大なる大幹線で、万国の人、いずれもこれを利用している。然るに支那人は、故なくこれを破壊し去らんとする。この一事に徴しても「支那人の非人道的行動」は、国際正義の容認しがたきところだ。況や彼らの排日は一転しては排外となり、やがては世界を敵とするに至るはごときは,火を見るより明ではないか。この支那の捏造的悪行と積極的横暴は、遂に隠忍自重のわが邦をして自衛権の行使するの余儀なきに至らしめた。すなわち現時の出兵情態は、日本が満蒙における権益の自衛として最小限度のものだ」

これは、「敵基地攻撃能力」などといった“妄言”が日本政府によって言われている現在、ますます忘れてはならない声明ではないかと思う。

さらに、この報道や声明が間違いだったことが、判明するのは、ようやく戦後になってからであった。そして現在もその歴史をきちんと把握している日本人は、それほど多くない。

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