【連載】「日中学術交流の現場から」第14回 北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(最終便)

投稿者: | 2023年5月9日

【連載】日中学術交流の現場から 第14 回

北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(最終便)

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

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はじめに

前回の第四便では、宝田さんと相性の合わなかった東宝の俳優として池部良氏のことをとりあげました。今回の最終便では、宝田さんの後継者といってよい俳優のことについてまずは述べてみます。
その俳優とは、映画やドラマで怪演を披露している佐野史郎氏です。
一般的には「冬彦さん」として知られる俳優ですが、もともと東大理学部の地質学科で学んだあと弁護士になった郷原信郎さんと島根県で幼少期から同級生だった人でもありますね。
怪獣文学を扱った本で、佐野史郎氏が、柳田民俗学などに言及しつつ東北山形の本多猪四郎監督のことを論じていた論考や民俗学者の赤坂憲雄氏との対談を読んで「この人はただの俳優ではないな」という感を強くしました。ゴジラや怪獣に対する関心が尋常ではない俳優なのです。その佐野史郎氏と宝田さんの対談が、『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社,2014)に収録されています。

 

1.『初代ゴジラ研究読本』(洋泉社,2014)に収録された宝田×佐野対談

宝田さんは、佐野氏が、ゴジラに詳しく熱心だということは聞いていたとその対談の中で明かしていますね。そして次のような対話を交わしています。

佐野 
他の文芸作品にくらべて怪獣映画、特撮映画が低く見られたり、それに出演される俳優さんが、一段低く見られたり、ということはなかったんですか?」

宝田
そういうことは全くなかったと思います。本多さんがアカデミックで学者タイプの物静かなジェントルマンだったので。逆に私たちが知りたかったのは、円谷英二さんの特撮が、どんな画になるかということだった。本多さんのところにも手持ちの資料がないので、そのうち来るだろうコンテを待つしかなくて。撮影でもゴジラはどっちを向いているかとか最初のうちはわからないから両方とっておいたりしていました。

佐野 
それさえ情報がなかったんですね。

宝田
そのうち画コンテがきて、「なるほどこうなっていたんだ。じゃあこうしよう」と話し合いしながら撮影が進んでいった。

佐野
撮影現場は、どこもそうだと思うんですが、周りの声がどうであろうとも撮影に没頭しておられたんでしょうね。

宝田
東宝が社運を賭けて作っていた作品で一方で『7人の侍』もあってフィルムの使い過ぎということでしょちゅう撮影中止の動きがあったようですが、そちらもあったので。われわれはこれで世界に有名になるなんておもっていませんから、当時はドラマを真剣にやろうとしていました。それまでの作品だとアメリカの『キング・コング』などがありましたが。(61頁)

初代ゴジラが全くの手探り状態で撮影されていたことを思わせる対話です。そして対話は次のように続いています。

佐野
前年には、アメリカで『原子怪獣あらわる』が公開されていますね。

宝田
それは観ませんでした。『キング・コング』は、キャラクターでアニメーションもぎこちなかったし、合成もうまく定着していなかった、そういう技術的なことはわからなかったけど、匠(たくみ)のなかの匠である円谷さんがおつくりになるんだから。僕が円谷さんを知ったのは、満洲ハルピンに終戦二年までいたころでした。小学校4・5・6年くらいまでは、学校から動員で戦意高揚映画、上原謙さんの『西往戦車長列伝』(40年とか血わき肉躍る映画を見て「よーし」なんてやっていたんです。あとはなんと言っても『ハワイマレー沖海戦』ですね。僕はあれ実写だと思っていましたよ。

佐野
アメリカ軍もそう思っていたぐらいですからね。

宝田
のちにアメリカの記録映画で見た実際の映像とまったく同じ画でしたね。当時は「日本ニュース」などの記録映像だとおもいました。軍国少年の僕は、そのようにおもっていたんですが、東宝に入って円谷さんが、それを撮っていらっしゃったと聞いたときにはのけぞって驚きましたよ。英国軍のプリンス・オブ・ウェールズやレパルスが沈没する場面などは見事なもんでしたよ。先ほど、匠(たくみ)という言葉を使いましたが、いわば神ですよ。こういう神様と一緒に仕事をしていたのか、と。特撮には全般の信頼を置いていましたよ。

佐野
僕は、自分の出演した『ゴジラ2000ミレニアム』(99年)や翌年の『ゴジラVSメガギラス』で高層ビルが、崩落していくシーンのリアルさに驚いたことがあります。奇しくもその翌年9月にアメリカ同時多発テロが起こって、予言とも思えるそのシンクロにティに唖然としました。当時から円谷さんが、そういう現実を特撮の垣根を取り払う一種の“預言者”として東宝特撮を支えてこられたんですね。

宝田
ええ、大きな存在だったと思います。海外でも円谷監督に対する興味は非常に高いですからね。アメリカのコンペンションなんかでも「ミスター・ツブラヤとはどんな人物か?」という質問を受けることが多いんですが、そのたびに「日本でいう駄菓子屋か金物屋の親父さんみたいな人だった」というとうけるんですよ。登山帽にジャンバーでペタペタの靴を履いて。『ゴジラ』の撮影に入ってからも、本編の現場を見に来た円谷英二さんの首根っこを捕まえんばかりに食らいついて(笑)、「ここはどんなシーンになるんですか?」「ここはどう演じたらいいんですか?と質問ぜめにしたものです。(62頁)

ともにゴジラ映画に出演した俳優同士ならではの対話になっていると思いますが、特撮映像の技術を職人として発展させた円谷英二という存在に対する感嘆とリスペクトが両者には共有されていると思いました。円谷英二監督もまた福島県須賀川市生まれで東北人です。
現実と超現実との境界を曖昧にさせる魔術としての日本特撮は、この人を抜きにして語ることはできませんね。
初代ゴジラについての興味深い対話は以下にもあります。

佐野
ドラマも成瀬組のそうそうたるメンバーでしたからね。いま見直してもものすごい緊張感と密度で、あれがあったからこそ特撮が生きたのだと再確認しました。

宝田
4Kマスターをご覧になりましたか。あれはいいですね。

佐野
音はよいし、画もよい。こんなことをいうと生意気ですが、構図から何からお芝居も皆さん綺麗なこと綺麗なこと!僕は東宝特撮映画における俳優論という論稿を書かせていただいたことがあるんです。75年でシリーズがいったん終わる前と84年に再開してからだと俳優さんの演技が全然違う。当時はどんなに荒唐無稽な設定でも俳優陣はまっすぐにお芝居をしているんです。気持ちの綺麗さが、見ている方に伝わってくる。いわばその時代を映し出しているところに感動するんです。とくに最初の『ゴジラ』は、どういう作品か定まっていないところがあるにせよ、みなさんのお芝居に感動させられるのです。 (63頁)

佐野氏は「まっすぐな芝居」「気持ちの綺麗さ」という言葉で表現していますが、これは戦争の経験がリアルに感じられていたころとそうでない時代の差というべきでしょう。そしてそこに感動しているということは、佐野氏は、宝田さんの後継者としての資格を十分に有しているということなのでしょう。

 

2.レオ・チンのゴジラ論―加藤典洋のゴジラ論の批判的検討

私が、注目している研究者にアメリカ在住の研究者レオ・チンがいます。

レオ・チンはデューク大学の日本文化研究、ポストコロニアル研究、カルチュラルスタディーズを専門とする研究者・教員です。瀋陽出身の中国人の父と台南出身の母の下で1962年に台北で生まれ、10歳から大学進学まで神戸に住み、大阪のインターナショナル・スクールで育ち、アメリカの大学で学びました。台湾生まれの日本研究者でアメリカ在住ということでかなり複合的な視点で日本を語ることのできる研究者です。Becoming Japanese;Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formtion(University of Califorunia Press)を発表し、日本でも邦訳され、台湾人のアイデンティティを論じています。東アジアのポストコロニアル研究に文化の視点を持ち込もうとしている研究者として注目を浴びています。

そのレオ・チンが、『反日―東アジアにおける感情の政治学』(人文書院,2021)という本を出しました。そこでレオ・チンはゴジラを以下のように論じています。

ゴジラとブルース・リーは、冷戦期の不安の産物であり、それゆえに単に世界的なアイコンであるだけでなく、私が「帝国横断的キャラクター」と呼ぶ、日本の敗戦のトラウマと近代の植民地主義世界における中国の恥辱と対峙しようとする存在である。帝国横断的というのは、帝国的な体制の移行、移譲、翻訳、転移を意味し、この場合は、日本からアメリカへの帝国の移行と地域内でのグローバル資本主義の運用と拡大における両者の重複をあらわす。
ゴジラとブルース・リーが「キャラクター」であるのは、ファンタジー世界(二次元)と現実世界(三次元)の間を媒介するという意味においてである。 (46-47頁)

ここでレオ・チンが、ゴジラとブルース・リーを同時に論じているのが、私には新鮮に思えました。これは考えたことがなかったので、教えられた感じがしました。
東アジアにおける「ポスト冷戦期」とはポストコロニアルのポストと同様に冷戦の終結を意味しているのではありません。他地域では東西対立が終結したとはいえ、台湾海峡、朝鮮半島、沖縄はなおも冷戦の枠組みにはまり込んでいる。旧来の冷戦構造が、社会主義、資本主義の対立というレンズで見られたものだったとすれば、現在のポスト冷戦構造は、たとえば北朝鮮や中国が、国家の支配的イデオロギーとして社会主義を主張しようとも、ほとんど完全にグローバル資本主義に包摂されてしまっています。端的に言って今日の東アジア世界においては、政治における冷戦構造と経済における新自由主義的グローバリゼーションが、共存し、その両者の間で大衆文化の多様で矛盾に満ちた様々な事例が存在しているのです。
レオ・チンは、さらに以下のように論じています。

ゴジラが繰り返し東京に戻ってくることと、ブルース・リーが日本人に復讐することは、ポストコロニアルという同じコインの裏表である。片方の面は日本の敗戦と帝国の突然の解体であり、もう一つの面は現在まで係争中であり未解決の日本の帝国主義・植民地主義の記憶である。ゴジラの足跡とブルース・リーのキックは、帝国日本の消し難い痕跡を想起させる。さらにいえば、これらの脱植民地化の失敗は、この地域のアメリカ覇権の戦後冷戦体制によってさらに悪化した、ということを私は示したい。 (47頁)

レオ・チンは、脱植民地化の失敗という側面からゴジラとブルース・リーをとらえようというのです。そして次のように論じています。

ゴジラがGodzillaによって「安全な恐怖」に仕立て上げられてしまっただけでなく、ブルース・リーもその遺作において主流派ハリウッド・カンフー・スターへと馴致されてしまった。ゴジラ(反核運動)とブルース・リー(反日本帝国主義)と結びついた政治は、抑圧されたといわぬまでも、消去され、純然たる娯楽とイデオロギー的囲い込みに還元されてしまった。はっきり言えば、怪獣と龍は飼いならされ、アメリカ化され、脱政治化されたのだ。 (47頁)

ゴジラ映画が、ゴジラからの逃亡の歴史であり、恐怖のゴジラが、次第に子供向けの地球防衛の怪獣となっていく過程は、このように言い表せるように思います。
そこであらためて分析の俎上に載せられているのが、加藤典洋のゴジラ論なのです。
加藤典洋のゴジラ論の特徴を簡単に記すならば、ゴジラは加害者でもあり犠牲者でもあるという両義性のために安らかに眠ることのできない日本の戦死者を体現する存在だと考える点にあります。このゴジラ=英霊という論で言えば、川本三郎や赤坂憲雄のゴジラ論もそうだったのですが、加藤典洋の場合は、『敗戦後論』で展開した戦死者の「ねじれ」の問題をゴジラ論で同様に展開しているところにその特徴があります。
レオ・チンは以下のように加藤のゴジラ論を論じています。

加藤のゴジラ解釈は、それ以前に書かれて大きな論議を呼んだ『敗戦後論』の論理を踏襲している。そこで加藤は、太平洋戦争の2000万人の(日本以外の)アジアの犠牲者に対して、真に正式に謝罪するためには、日本社会が300万人の日本人戦死者を弔うことを通じて国民的な主体を形成することが先決だ、と論じている。
加藤の論理は、戦後日本の「二重人格」に基づいている。つまり日本の戦時中の侵略を擁護するハイド氏のかわりにジキル博士が謝罪しているというのだ。この「ねじれ」は戦後の「転向」に由来する。そこでは、太平洋戦争は悪しき戦争として論駁され、アジア解放(大東亜戦争)の美名のもとに死んでいった人びとと国家の関係は無視された。
戦死者の遺族やそれに同情する人々にとって、靖国神社と関連する英霊崇拝の活動は、極右思想の土壌となった。それゆえ、加藤によれば、戦死者を無視した日本の左翼と進歩派こそが、靖国型の過激主義の元凶として非難されねばならない、という。 (50-51頁)

 

そこで加藤は、進歩派に対していわゆる靖国の論理の価値を切り下げるために戦没者をたたえるように呼びかけるのです。
ゴジラ=戦死者という不気味な帰依する姿に対して、集団的に対面することによってのみ日本と日本人はその「ねじれ」を取り除くことができる、というわけなのです。
この加藤のゴジラ論の問題点はどこにあるかというとウィクター・コシュマンらが指摘したように、加藤のレトリックは日本が30年にわたって不況にあえいでいるという状況と不可分に結びついているという点です。
また、「加藤の処方箋は、日本政府に口実を与え、究極的には、政府からの謝罪と補償の無限の「先送り」につながってしまう。」とレオ・チンは、加藤のゴジラ論を批判的とらえています。日本人の戦死者を追悼することが「日本国民の主体」を立ち上げることになる保証はどこにもないばかりか、国民主体の形成においては「自己」と「他者」の構築と物象化が必要になり、それによって一切の真摯な和解が不可能になりかねないということを見越しての批判的論考です。そしてレオ・チンは以下の点を強調しています。

しかしこの本を通じて明らかにしてゆくように、この問題は、日本の戦争責任にのみ着せられるものではない。そうではなくて、日本とその旧植民地の双方における「脱植民地化」の欠如こそが、日本の矛盾した植民地性近代性を抑圧して隠蔽してきたのだと私は主張したい。端的に言えば他の植民地勢力とは違い、日本の敗戦は、その帝国の終焉を意味した。続く冷戦とアメリカ覇権は、日本の急速な経済復興を助けることで植民地の傷跡を「忘れる」ことに大いに貢献した。 (52頁)

この戦後日本における「脱植民地化」の欠如という問題は植民地「満州」の住民だった宝田さんにとっても非常に重要な問題になると思います。
私は、2011年9月、宝田さんと鼎談したことがある四方田犬彦氏と清華大学のキャンパスの日本映画史の集中講義を多くの中国人とともに受けていました。最終日はちょうど2011年9月11日であの日2001年9月11日からちょうど十年という日でした。そこで四方田氏が、「加藤典洋は、北京清華大学にはよばないでください」といったことがあります。その発言は、私の質問がきっかけとなって出たものだったので余計に印象に残っています。
その場では『人民中国』の編集長である王衆一氏の妹を自称する中国人映画研究者が、「あれは驚きました」と後に私に語ったことがあります。
あらためて考えてみると、加藤典洋のゴジラ論やあるいは彼の『敗戦後論』の問題点を四方田氏も感じておられたのではないかと思います。
ちょうどその日、私は四方田氏から興味深いゴジラに関するエピソードを北京で聞くことになります。すなわちそれは、四方田氏が、イスラエルの大学で日本映画史を講義するなかで『ゴジラ』(1954)をみせたときのこと。イスラエル人は、ゴジラを敵だとみなし、パレスチナ人たちは、ゴジラを自分たちの味方だとみなしたというのです。

 

3.絞首刑にされたもうひとりの「ゴジラ」李珍宇

レオ・チンは、この書の中で大島渚の『絞首刑』(1968)を『ゴジラ』と関連付けて以下のように取り上げています。

『絞首刑』(1968)は、安保闘争が敗北に終わった時期につくられた大島渚の作品で、批評家から最も称賛された映画である。『ゴジラ』が戦後から戦後の終わり、つまりアメリカの「逆コース」によってもたらされた敗戦国から経済が活発化された国家への移行をあらわしていたとすれば、『絞首刑』は、政治的敗北から文化的前衛主義への移行を強調する作品である。ブレヒト的な美的感覚に影響を受けたこの作品は、死刑に関する議論を前面に出しながら、在日朝鮮人が直面した差別、彼ら彼女らが日本に連行された植民地の歴史を暴いていく。不気味さに満ちたブラック・ユーモアと辛辣な批判を含む『絞首刑』は、喜劇、悲劇、政治風刺を併せ持つ作品だ。ここで私が注目したいのは主人公RとRが「姉」と呼ぶ女性の関係である。彼女は七つのインタータイトルのなかのひとつで登場する。 (180頁)

この小松川事件とは、1958年に二人の日本人女性が、在日朝鮮人の李珍宇によって強姦され殺害された事件のことを指します。

朝鮮語と朝鮮史は朝鮮人としての自覚を生む。そしてそこから「行為」を生む。そしてから「行為」が生まれてくる。行為するためには「知らなければならない」。そして行為するということは、多くの問題を前に見わたしていることを意味している。私は姉さんのように自由ではない。私の人生はすでに限られてしまっている!そして私の行為は、それ以上には及ばない。だから朝鮮史ということはどう生きるかを示してくれかるけれども私にはどう生きるかの余地はないのだ。

これは、1958年におこった小松川事件で逮捕された在日朝鮮人の李珍宇が1961年8月21日に日本の最高裁判所が死刑判決を出した一ヶ月後、9月21日に李珍宇が朴寿南への手紙に書き記した言葉です。その一年2ヶ月後、1962年11月16日に、李珍宇氏は、日本国家によって仙台で処刑されました。最後の手紙に書かれた言葉は、「姉さん心配しないで」だったといいます。
私が、この手紙が含まれる『李珍宇全書簡集』を読んだのは、2011年3月8日から9日にかけて、東北大地震直前、北京から一時帰国し、滞在していた仙台(李珍宇が処刑された場所)でのことでした。
それは宝田さんから北京で電話を受ける直前のことでした。
李珍宇が、現象学の哲学者エドムント・フッサールを読みたがっていたのにも驚きましたがそこでひとつ気がついたのは、李珍宇が自らをゴジラにたとえていたことです。これは、レオ・チンも論じてはいません。
これはおそらく文通相手の朴寿南が、李珍宇のことをゴジラといったのだろうと思います。
たとえば1961年9月22日の手紙には以下のように書いてあります。

この手紙に「明日また書きます」とある。ところが姉さん、十七日に書いてくれた?
最初の便箋は、十九日付けになっている。もう悲しくて悲しくて、、、
悲しいのはそればかりじゃない。私のことをゴジラと臆面もなくいった!ゴジラはゴリラより男前がさがる。ここに鏡がないからよいようなもの。もしあったら私は自分の顔を見て絶望のためにテンカンぐらいはおこしただろう。

その他にも1962年5月22日の手紙には以下のように書いてあります。

それにしても姉さんはよくタオルの心配をしてくれますが、いくら私がゴリラとはいえ、そんなにタオルを破るわけではありません。これははなはだしき侮辱でありますぞよ。
このところ私は憂鬱です。なぜかといえば、この前新聞を見たら近いうちに『キングコング対ゴジラ』という映画が完成されるとのこと、そのあかつきには一体どのような侮辱を私がうけることになるか、いまから考えただけでもユウツになりまする。もういうてくれるな。このペンが悲しみのあまりとても重く感じられます。

ここには獄中から書かれたとは思えない明るいおどけた調子がうかがえるものになっています。
李珍宇は、ゴジラがかなり気に入っていたようなのです。
在日朝鮮人の作家、徐京植氏は、論考の中で李珍宇氏を「東洋のゴーレム」と呼んだことがありましたが、私としては「東洋のゴジラ」といってもいいのではないかと思うのです。
加藤典洋が、ゴジラ論においてゴジラ=「日本兵士の英霊」という論を展開していますが、「東洋のゴジラ」としての李珍宇の存在は、常にそれへの異化としてあらわれるだろうと思います。
レオ・チンは、日本の脱帝国化の失敗と旧帝国日本の脱植民地化の欠如は戦後冷戦体制を前提とした反共路線(自由主義陣営強化)にまい進するアメリカによる経済復興、民主化が戦後日本において進められたとし、「端的に言って戦後民主主義は、植民地支配への責任の放棄によって確立された。つまり戦後民主主義は、非民主的な手段によって成立したのである」(240頁)という興味深い指摘を行っています。
私は、佐藤健志のゴジラ論『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文芸春秋1991)を「ゴジラの来る前夜に―ゴジラと市民科学」『市民科学通信』(第56号)という論稿の中で『ゴジラ』に描かれている化学者、芹沢大助の科学観を戦後民主主義の科学観と同一のものととらえ批判していることを批判しました。私はレオ・チンの指摘を受けて言えば、書かれるべきは『ゴジラとヤマトと僕らの植民地主義』というテーマの本なのだと主張したいと思います。

4.戦時科学研究員だった伊福部昭氏

本多猪四郎、円谷英二、田中友幸と述べてきましたので、ゴジラに関してもう一人忘れてはいけない人について述べます。すなわち「ゴジラの守護神」といわれる伊福部昭氏です。

ゴジラと伊福部昭 https://amass.jp/65145/より

 

ゴジラのいや東宝の怪獣映画の壮厳な音楽に関しては、この人を除いては語れません。
私は、北京でカメラマンの佐渡多真子氏に出会うことになるのですが、その佐渡氏が、伊福部昭氏の写真を撮っていたことが、判明しました。
『ゴジラの音楽』という本の初めのページを見ていたら「佐渡多真子撮影」と書いてあったので「あっ」と思ったのでした。ご本人に確認すると「おしゃれなおじいちゃんでしたよ」とのことでした。私が、伊福部氏に関して注目するのは、彼が戦時科学研究員であったことがある点です。
伊福部昭氏は、科学雑誌『自然』(1957年9月号)において以下のように書いています。

科学に多少とも関連のあった私の最後の仕事場は、帝室林野局北海道林業試験場であった。そこでは、気象観測用に建てられた別棟を占拠して、戦時科学研究という名目で木材の振動と強化木の実験をしていた。当時の主要な関心は敵軍の木製飛行機であった。
が、未だ何の成果らしいものも得ないうちに終戦となり、私は突然血を吐いて倒れた。
医者は結核だろうといい、また過度の電波実験による毛細管の異状だとも言った。
なにせ生命が最も軽んぜられた時代なので、医師も無責任なのであった。やがてアメリカ軍の調査官が、研究室にやってきた。
当時、私たちの使用できる試薬の量は一日フラスコ一杯がやっとであったが、調査官は、平然として、一日何トンの試薬を用いていたかと質問した。
私は甚だ自尊心を害して、この問いには答えなかった。
その他には何を質問されたか、今は覚えていない。この自尊心の喪失と病気が一緒になって、そのような仕事を続けるか否かに迷っているとき、マッカーサーの指令で航空機に伴う一切の仕事が禁止されてしまった。(後略)

1945年から1952年のアメリカによる日本の占領期は、日本では原子力や航空機の研究は禁止されていましたが、その前の戦時期に伊福部氏は、戦時科学研究の過程で放射線を浴びて倒れていたんですね。伊福部氏は1914年生まれで北海道帝国大学農学部林学実科の卒業です。
別のインタビューでは以下のようにも答えています。

脚本を読んだ時、あっと思いました。アンチ・テクノロジーの思想をまずは感じたんです。戦争時、私は戦時科学研究員というのをやっていて、ちょうど戦争に関係のある器物の部分品、強化木の研究に携わっていいたんです。1945年8月15日に、日本は戦争に負けましたが、その月の28日に私は、役所で血を吐いて倒れてしまった。そうしているうちにマッカーサーが日本にやってきた。それで私の勤め先(豊平の帝室林野局林業試験所)に戦時科学研究で検査する検査員というのが、入ってきたわけです。私は、札幌の自宅で静養していて助手の報告も聞いたんですが、『どういう質問だった?』と聞くと、フォルマリンや何かの、強化木をやる資材を一日何トン使うかという内容だったんです。
小さなフラスコでやっていたものですから、ちょっと嫌味な質問だな、とその時に思ったんですが、桁が違うことは痛感しました。ですから日本が、戦争で敗れたのもテクノロジーの差で負けたという印象が他の人より強いんじゃないかと思います。
資材も少なかったし、自分たちがやっていたものが桁外れに遅れていたという印象ですね。
戦争に負けてからも、食料が足りないなどの不満よりもアメリカから次々と入ってくるテクノロジーやサイエンスに関するものへのショックのほうが大きかった。そういったもので負けたという印象が強いんです。ゴジラは水爆で蘇ったものだけど、ジェット機やなんかでも手で払いのけるような、ある種の痛快さがありました。そういうところも他の人以上に共感がありました。向こうの科学兵器はかなり進んでいるというかんじで一種の劣等感を持っていたのだけど、ゴジラに対しては飛行機でもダメ、ジェット機でもだめ電気に頼っても高圧電柱を倒してしまうし、何やってもだめですからね。ちょっと気持ちいいというか、アンチ文明、現代のテクノロジーのある限界を暗示している要素を感じ取りました。 (84頁)

自身も戦時科学研究の過程で被曝を経験していた伊福部昭氏は、ゴジラに親近感を感じていたといいます。このゴジラへの親近感は、私がゴジラのおもちゃを送ったこともある第五福竜丸の元乗組員、大石又七さんも共通のものがあったかもしれません。ともに被曝経験をもっているためゴジラを単なる加害者とみなせないところが共通していたかもしれません。ゴジラの咆哮の音を考案したのも伊福部氏で「ゴジラを音で表現した男」とも言われているのはご存じのとおりです。誰もゴジラの姿を見たことのない時、ゴジラの足音と咆哮だけで『ゴジラ』冒頭部分でゴジラを表現したのは、素晴らしかったと思います。
また、東京大学先端研で福祉工学を研究していた伊福部達氏は、伊福部昭氏の甥であり、聴覚に障害のある人たちに重要な貢献を行っています。
こうしてみると本多猪四郎、円谷英二、田中友幸、伊福部昭と得体のしれない才能が集まり、絶妙のコラボレーションでゴジラという怪獣をこの世に送りだしたということになるのでしょう。

 

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