現代中国の科学技術はどこに行くのか ―現代中国の原子力政策の事例を中心に―

投稿者: | 2023年9月24日

現代中国の科学技術はどこに行くのか
―現代中国の原子力政策の事例を中心に―

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

 

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はじめに

2022年10月16日から22日まで開催された中国の中国共産党第二十回全国代表大会において、習近平総書記から大会報告がなされた。そこにおいては、科学技術やイノベーションに関する発言も多くなされていた。ここではその科学技術に関する発言を参照しつつ、現代中国科学史も踏まえて今後の中国の科学技術の行方を考えたい。

1. 習近平の中国共産党第二十回全国代表大会における科学技術に関する発言

中国共産党第二十回全国代表大会においては、科学技術に関連する成果として以下のことが報告されていた。すなわち「科学技術の自立自強の推進を加速して、社会全体の研究開発(R&D)費が1兆元(約20兆円)から2兆8,000億元(約56兆円)に増加して世界第2位となった。」ということ。これはアメリカに次いで世界第二位ということである。

そして「研究開発者総数が世界トップとなった。」ということも報告された。

これに加え、科学論文の数に関しても中国は、アメリカを凌駕しているといっていい。

また「基礎研究と独創的イノベーションが不断に強化され、一部の基幹革新技術の開発にブレイクスルーがあり、戦略的新興産業が発展・成長」といった文言や「有人

宇宙飛行、月面・火星探査、深海・地底探査、スーパーコンピュータ、衛星測位、量子情報、原子力発電、新エネルギー技術、大型旅客機製造、バイオ医薬品等が重要な成果を収め、イノベーション型国家の一員となった。「製造強国・品質強国、宇宙開発強国・交通強国・インターネット強国・「デジタル中国」の建設を加速させる。」といった文言が見られた。

『中国製造2025』を意識したものとしても読めるように思われる。

また科学技術人材の育成に関しては以下のように述べられている。

「研究開発活動への党中央の統一的指導体制を充実させ、国の研究機関、高水準研究型大学、研究開発リーディングカンパニーの位置付けと配置を最適化し、国家実験室体系を形成し、国際科学技術イノベーションセンターと地域科学技術イノベーションセンターの整備を包括的に推進し、研究開発の基盤力とイノベーション体系全体の効果を高める。」

ここでキーワードとなっているのは、「党中央の統一的指導体制下での研究開発活動におけるイノベーション」である。

そして「原子力発電を積極的に安全かつ秩序立てて発展させる。」という文章も見られる。

現在、中国は、イギリスに原子炉を輸出するようにすらなっており、われわれはそのような時代を生きている。

以上の文章は、21世紀の中国の科学技術の向かおうとする方向をよく示していると思われる。

2.現代中国における科学技術発展の歴史

このような中国の科学技術の方向性はどのようにして出てきたのだろうか。

1949年の中華人民共和国成立以来の現代中国の科学技術発展の歴史を簡単に見ておきたい。

まず、現代中国で最初の中国長期発展計画「1956年から1967年までの科学技術発展計画」が発表されたのは、1956年のことだった。現代中国でいう「両弾一星」というプロジェクト、すなわち原水爆と人工衛星の開発プロジェクトは、ここから始まっていると考えてよい。この年、国家科学計画委員会が設立され、57の重要項目が、選定された。1957年には同じ社会主義圏にあったソ連が、スプートニク1号の打ち上げに成功し、毛沢東は、「東風が西風を圧している」と語った。このころ社会主義圏の科学技術が、資本主義の科学技術を凌駕しつつあるという認識が、世界的に広まりつつあった時期であった。

1964年には周恩来が、工業、農業、国防、科学技術の現代化を実現することを提唱した。

こうしたなか、1964年10月、中国ははじめての原爆の開発に成功する。

そして、その3年後の1967年には、水爆の開発にも成功する。

また、その3年後の1970年には、「東方紅1号」という人工衛星の打ち上げに成功する。

ここで「両弾一星」のプロジェクトは、一応の達成を見た。

しかし、1966年からはじまった「文化大革命」は、性急な批判によって科学の発展を阻害してしまった。それは1976年までの10年間続いた。
1978年3月の全国科学大会の開幕式で当時、副総理の鄧小平は、農業、工業、国防、科学技術の現代化のカギを握るのは、科学技術の現代化であると述べ、「科学技術が第一生産力だ」ということを強調した。当時、中国科学院の院長だった郭沫若氏は、この大会で「科学の春」という講話を発表した。この改革・開放の始まりが、「科学の春」と中国の科学者には意識されていた。

1980年代に入ると「火花計画」「863計画」「たいまつ計画」などの重要プロジェクトが行われる。

中国の科学技術界と産業界の科学者と一般民衆にとって863計画は、よく知られた計画である。1986年3月3日、王淦昌ら四人のベテラン科学者は、国の指導者に手紙を書き、世界先進レベルについていき、中国のハイテクを発展させることを提案した。
この手紙は、鄧小平に重視され、この件は早く決断すべきで、引き伸ばしてはならないと自ら指示を与えた。広範囲で全面的で厳格な科学技術論証を経た後、中国政府は、「ハイテク計画発展計画(863計画)要綱」を認可した。

それ以来、中国のハイテク研究と発展は、新たな段階に入る。

提案が、1986年3月に行われたためこの計画は、「863」と呼ばれた。

その時から「863」は、中国メディアに頻繁に現れ、中国がハイテク分野に進出する画期的な記号となった。

「863計画」の相対的目標は、少数の優秀な人材を集め、選んだハイテク分野で世界の最先端の技術に狙いを定め、先進国との格差を縮小し、関係分野の科学技術の発展を促し、新しい世代のハイレベルの科学技術人材を多く育成し、今後のハイテク産業形成のために条件を整え、20世紀末、特に21世紀初めに中国の経済と社会がより高いレベルに向かって発展することおよび国防のために条件を整えることである。

同計画は15年のうちに合計2000余りの内外の特許を取得し、4万人あまりの科学研究員要員、200余りの科学研究機構、100余校の大学が、「863計画」第10次五か年計画時期に「863計画」は、革新奨励、国の目標、市場ニーズを方向とし、技術情報、生物、現代の農業技術、新材料技術、先進的な製造とオートメ化技術、エネルギー技術、資源環境技術など八つの分野若干のテーマと重要な特別プロジェクトを配置し、次の重点的任務を遂行する。中国の情報基礎施設建設を支えるカギとなる技術を攻略する。

3.国家重点基礎研究発展計画「973計画」

1997年、科学技術部は、国家重点基礎研究発展計画を実施した。同計画は973計画と略称されている。同計画の目標は、中国の自主的革新の能力と重要な問題を解決する能力を高め、国の未来の発展に科学的支持を提供するため、原始的革新を強化し、より深く、より広い分野で国家経済と社会の発展する過程で生じた重要な科学的問題を解決することである。

「973計画」の主要な任務としては下記のものがある。

農業、エネルギー、情報、資源環境、人口と健康、材料と国民経済、社会発展、科学技術自体の発展にとって非常に重要な科学的問題をめぐって多い学科の総合的研究を展開し、問題解決の理論的根拠と科学的基礎を提供する。

1988年から2002年にかけてこの計画は、前後して132件のプロジェクトを始動させたが、そのうち農業分野は、17件、エネルギー分野は、15件、情報分野は17件、資源環境分野24件、人口と健康分野は、21件、材料分野は19件、重要な科学の先端は、19件であり、第9次5か年計画期に国家財政は25億元を投じている。

973計画の特徴としては、中華人民共和国とEUの科学技術協力協定に基づき、中国はEUに「973計画」の研究プロジェクトを開放し、EU諸国の科学者も中国の科学者と共同で「973計画」のプロジェクトを申請し、引き受けることができるようになった。

しかし、1966年からはじまった「文化大革命」は、性急な批判によって科学の発展を阻害してしまった。それは1976年までの10年間続いた。

1978年3月の全国科学大会の開幕式で当時、副総理の鄧小平は、農業、工業、国防、科学技術の現代化のカギを握るのは、科学技術の現代化であると述べ、「科学技術が第一生産力だ」ということを強調した。当時、中国科学院の院長だった郭沫若は、この大会で「科学の春」という講話を発表した。この改革・開放の始まりが、「科学の春」と中国の科学者には意識されていた。

1980年代以降は「863計画」「たいまつ計画」「973計画」などの重要プロジェクトが行われる。「たいまつ計画」は、1988年8月から実施され始めたが、その主旨は、ハイテクの科学研究成果をできるだけ速く産業化するということである。

1986年3月3日、王淦昌ら四人のベテラン科学者は、国の指導者に手紙を書き、世界先進レベルについていき、中国のハイテクを発展させることを提案した。

90年代には1997年3月に提唱された「973計画」が開始される。

973計画の特徴としては、中華人民共和国とEUの科学技術協力協定に基づき、中国はEUに「973計画」の研究プロジェクトを開放し、EU諸国の科学者も中国の科学者と共同で「973計画」のプロジェクトを申請し、引き受けることができるようになったことがある。

4.科学技術産業化計画「たいまつ計画」

「たいまつ計画」は、中国がハイテク産業を発展させるための政府の指導的計画であり、「863計画」後の1988年8月から実施を始めたものであり、その主旨は、ハイテクの科学研究成果を軍事から産業に応用しようとするものである。

「たいまつ計画」に関して「 研究開発活動への党中央の統一的指導体制を充実させ、国の研究機関、高水準研究型大学、研究開発リーディングカンパニーの位置付けと配置を最適化し、国家実験室体系を形成し、国際科学技術イノベーションセンターと地域科学技術イノベーションセンターの整備を包括的に推進し、研究開発の基盤力とイノベーション体系全体の効果を高める。」という文言がみられる。

ここでキーワードとなっているのは、「党中央の統一的指導体制下での研究開発活動におけるイノベーション」である。例えば、現代中国の方正、聯想、四通などのハイテク企業は、「たいまつ計画」で生まれたものである。

以上、中国における50年代からの科学技術の動きを簡単に見たが、「文化大革命」の10年の期間を除き、現代中国では一貫して共産党の体制下で科学技術振興の計画が、提唱されその実現に向けて動いてきたといえる。その延長上に2022年の第二十回大会の科学技術に関する文言がある。

5.現代中国における原子力発電所の建設

さて、ここで私がより具体的に掘り下げておきたいのは、現代中国の原子力発電所の建設についてである。現代中国の原発の建設は、1991年の秦山原子力発電所(工事の着工は1985年から)や1993年に広東省の大亜湾の原発から始まり、現在も急速に原発を増加させようとしている。2030年までに236基の原発を建設する目標を掲げており、世界最大の原発大国にむけてひた走っているといってよい。その方針は2022年においても「堅持」されていた。これは、急速に都市化が進む中国において高まる電力需要を原発で満たそうとしているという背景がある。

東北大震災の10日前、2011年3月1日に東京電力は北京事務所を設立していたが、福島第一原発の事故により、3月11日に閉鎖していた。この時、東京電力会長の勝俣恒久氏は、日本のメディア関係者を引き連れて北京にいた。

ここからもわかるように東京電力は、原発に関して中国の電力業界と提携しようとしていた。3・11の事故の後、中国ではしばらく、原発の建設は停止されていたが、2012年を境に積極姿勢へと転じるようになった。

2015年11月、経済評論家の佐高信氏を北京にお招きし、北京日本人学術交流会ではなしてもらったとき、東京電力北京事務所の人から「参加させてほしい」というメールが私のところにあり、その後、すぐ「やはり都合が悪くなったので取り消してほしい」という申し出を受けたことがある。あれはなんだったのかいまだに謎の不可解な出来事だったが、原発について考える会を持続的に続けているとこうした出来事に遭遇することもある。

2016年5月29日、私は、北京において主催する第222回目の北京日本人学術交流会で「戦後日本の原子力政策とフクシマ」というテーマのドキュメンタリー映像見て参加者で共同討議する会を実施していた。いつもは、無反応の中国人研究者(中国社会科学院の日本研究者が二人、一人は、清華大学出身で長老クラスの研究者、もう一人は40代か50代の中堅クラスの女性の研究者)が、この時だけは、参加してくれた。もちろん彼らが、中国の国策である原発増大路線に表立って反対を表明するようなことはなかったが、中国の日本研究者として、日本の原発事故の経験から学ぶべきものがあると考えていることは、明らかだった。私が配布した資料を熱心に読み、「このドキュメンタリーは、どこでいつ放送されたものですか」と聞いてきた中国人研究者のことは忘れられない記憶として私の中にのこっている。

6.原爆に賛成し、原発に反対した中国の科学者

原発を増やす政策は、国策なのだから原発に反対する住民運動は現代中国に存在せず、原発に反対する学者は存在しないのかといえば必ずしもそうではない。

中国人の中にも原発に公然と反対する学者は存在する。

例えば、私が、研究留学した北京大学科学と社会研究センターの教授だった何祚庥氏である。

何氏は、1927年生まれで18歳の時に広島、長崎へのアメリカによる原爆投下を知り、原爆のすごさに衝撃を受けたという。それで専攻を化学から物理学に変更して清華大学を卒業し原爆開発のプロジェクトにも関わっている。私も何度か北京大学で顔を合わせたことがあるが、「原爆賛成、原発反対」というところが、中国特有なところである。何氏は,1980年に院士(中国での最高級の学者という認定された称号)になっており、政治的な圧力もかけにくいようである。

かつてソビエト連邦で「原子力の平和利用」による社会主義建設を最初に考えたのは、トロツキーであった。トロツキーは、原子力によって生産力を飛躍的に向上させ、それを労働者階級のために提供することを考えた。それは1920年代のことだった。

オットー・ハーンとリーゼ・マイトナーが核分裂の現象を発見する1938年よりもかなり前のことであった。

そのトロツキーの後継者のエルネスト・マンデルは、「原子力の平和利用」と社会主義建設は、相いれないものであると考えた。トロツキーが、生きた古典的帝国主義の時代と「後期資本主義」の時代の違いは、象徴的に原子爆弾の存在によって表現できると考え、核兵器のみならず、原子力発電所をなくすことが、現代社会主義の主要な課題であると述べてもいるこうした観点から言えば、世界最大の原発大国へとひた走る科学技術政策を国策とする現代中国は社会主義建設の原則から逸脱しているといわざるを得ない。

おわりに

都市部におけるデジタル技術などは、日本より中国の方がはるか先をいっていることは、北京で生活している時、私も実感として常々感じさせられていたことである。ただこれらのハイテクノロジーが、直接、中国民衆の幸福につながっているかどうかは、また別に考えなくてはならない問題である。これらのハイテクノロジーは、非民主的な体制下で開発されてきたものであり、民衆にとって常に善であるとは限らないこともまた事実である。

改革・開放以来、中国では市場が導入され、科学技術により生産力を増大させ、経済発展が行われてきた。そのこと自体は、まずは、評価できるだろう。しかし、現在は、その市場の導入があまりに新自由主義の方向に振れすぎている。そのことにより民衆の貧富の差は拡大した。習近平の共同富裕論は、この問題を克服する可能性をもっているだろうが。

また、中国は地球上で自然環境の破壊が、最も顕著にみられる地域になっている。そもそも原発を増大させることと自然環境の保護は、相いれないことである。(たとえばヨヒアム・ラートカウ『自然と権力‐環境の世界史』(みすず書房, 2012)を見よ。この書の第三章には「模範像そして恐怖像としての中国」という節がある。)

私たち日本人は、様々なヒバク経験から中国の原子力政策に対して発言できる位置にいるだろう。(2023年8月22日、中国政府は、日本政府の福島原発の処理水放出の問題に関して「日本は汚染水放出でゴジラの実写版があらわれる」とこの処理を批判している。

その批判には正当性を認めないわけではないが、現代中国で第五福竜丸の記憶が忘却され、ゴジラが、ほとんど知られてこなかった現実に直面し、“北京ゴジラ行脚”を行ってきた人間としては、いささか中国政府のダブルスタンダードをも感じてしまうのである。)

これらの問題を克服するためには、新自由主義に歯止めをかける計画性をもった経済政策(官僚が上から民衆に指令するような指令経済とは区別される)の導入が不可欠であろう。

グローバル資本主義に抗した21世紀の環境社会主義の課題の解決が、現代中国の科学技術政策の方向となるべきであろう。その場合、日本の市民科学者と中国の市民科学者の連携が重要課題となるであろう。今後とも隣国の人間として21世紀の中国の科学技術の行方を見守っていきたい。

 

 

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