【連載】美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第12回 アミノ酸の科学者、赤堀四郎(4)「やむを得ない」研究

投稿者: | 2025年12月28日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第12回

アミノ酸の科学者、赤堀四郎(4) 「やむを得ない」研究

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

【これまでの連載】
第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談
第2回 美味しさと健康(2) 食べられる「食品」の品質
第3回 「感覚」の科学研究と「味覚」
第4回 わが美味を求めん
第5回 「食事のシーン」を描くことができるか
第6回 新しい「味」の先に起きていく出来事
第7回 「調理」を作っていくのは誰か
第8回 家庭料理をつくる人が伝えること 
第9回 アミノ酸の科学者、赤堀四郎(1)「偉人」と「恩義」
第10回アミノ酸の科学者、赤堀四郎(2)しょうゆの匂い
第11回アミノ酸の科学者、赤堀四郎(3)これからの「合成食料」には何が含まれているのか

 

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確か昭和十九年の終わりか二十年の初めだと記憶している。ある日の大阪帝大の臨時評議会の席上で、配属将校の陸軍大佐が軍事教練の時間をもっと増やしてもらいたいと総長の真島先生に強硬に迫ったことがある。その時、先生はその大佐に向かって「君は軍事教練の事しか考えてないが、大学というところは軍事教練だけをやるところではない」と激しい言葉で拒否した。(中略)冷静に考えれば拒否して当然であろうが、軍が絶大な権力を握っていた当時、軍人(大佐といえば連隊長相当官である)に反対した先生の勇気には胸の中で称賛の拍手を送りながら、半面、先生の身を案じハラハラさせられたものである[1]

 

「しょうゆ」から酵素、タンパク質、アミノ酸へと進んでいった赤堀四郎の「生化学」は、化学的な「合成」によって食糧問題を解決する夢を描くと同時に、戦時の「日本の科学」が見た(悪)夢とも関わっていた。この「真島先生」の逸話は、鈴木梅太郎のパンと同じく、赤堀の回想の文献には何度か出てくる。しかし、赤堀自身の戦時の行動については、あまり語られていない。

 

「昭和初期」の新しい帝国大学、大阪の理学部

1935(昭和10)年、留学から帰国し、大阪帝国大学理学部の助教授に着任した赤堀は、高峰譲吉が発明した消化酵素「タカジアスターゼ」を材料にして、酵素の研究を始めていた。ところが、製造元の三共からタカジアスターゼが入手できなくなってしまい、この研究は中断を余儀なくされた[2]

赤堀の回想によると、大阪帝国大学に着任した翌年に「二・二六事件が起こり、以後軍部が政治を左右する」ようになったが、「昭和十年前後の普通の市民感覚としては」世の中はまだ平和であったという。赤堀が教授に昇格した1939年ごろから、「日常生活が急速に戦時色に塗り替えられていった。既に1937年に日中戦争は始まっていた。大学の研究室も資材の不足で少しずつ活動が低下するとともに、翌々年の太平洋戦争に突入するころになると、やむを得ないことだったが、戦争に直接関係のある研究をやらざるを得なくなった[3]」。当時の大阪帝国大学は、医学部、理学部、工学部しかなく、研究のための資材の調達が絞られてしまえば、これらの学部の「科学」が「やむを得ない」研究へ向いてしまうというのは、研究の活動を左右させる一般的な理由としてまずは理解しやすいことである。

赤堀が着任した大阪帝国大学の特殊な事情をみれば、1931年に設立されてから10年も経たないうちに「やむを得ない」研究の時期に入り、研究者が集められた経緯に依存した、個々の研究者の考えや人間関係に影響されやすい新しい組織だったということがあるのかもしれない。新設された理学部は、赤堀にしてみれば、東北帝国大学での指導教官で「生涯の恩人」と言っていた眞島利行によって提供された環境であった。この時期の大阪帝国大学理学部には、新進気鋭の若い研究者が集まり、できたばかりの不十分な施設でありながら、「切磋琢磨しあえる活気にあふれた日々」の環境でもあった。例えば、湯川秀樹が1938年に理学博士号を取るまで約5年間在籍し、この時期に「中間子理論」「素粒子の相互作用」の研究をしていたことが知られている。理学部物理学科の初代主任として着任していた八木アンテナで知られる八木秀次に湯川が頼み込んで京都帝国大学から移籍したものの、八木は「本来なら朝永君に来て貰うことにしていたのに、君の兄さんから依頼されたので、やむなく君を採用したのだから、朝永君に負けぬよう、しっかり勉強してくれなければ困る」と湯川を叱責したが、その直後に発表された湯川の第一論文「素粒子の相互作用について」がノーベル賞の対象になったというのも、よく知られている逸話である[4]

また、大阪帝国大学は、地元の民間の産業界・財界が要望したもので、昭和初期の「産業」のための「科学」の思惑と、行政との交渉による紆余曲折の設立運動によって実現した。第一次世界大戦で、原料となる物資の輸入などで、国内の産業は大きな浮き沈みを経験し、産業の基盤づくりにおいても独創的な基礎研究の必要性が認識されるようになり、地元の産業の発展につながる自然科学の基礎研究と人材育成が期待されていた。特に、新設の理学部は、産業界と科学者たちの要望が交錯した、肝いりの研究機関である。地元の民間からの設立運動に知事と市長も加わり、国、文部省に働きかけ、濱口雄幸内閣では国の予算がつかなかったが、財界が支援して大阪府が全額負担する形で設立された[5]

府立の大阪医科大学に民間の研究所を母体とする理学部を増設して、1931年に大阪帝国大学が発足したとき、「漆」の化学研究で知られていた眞島は創設委員として関わり、初代の理学部長に就いた。初代総長はこの理学部の新設を中心とする帝国大学設立の動きに早くから察知して動いていた長岡半太郎であった。しばらく理学部の設立がなかったこともあって、東京からも新しい理学部の構想に関与し、研究者を送り込んだ。その後、戦局が悪化した1943年に3代総長になったのが眞島であった。

理学部の大講義室には、長岡半太郎の「勿嘗糟粕(そうはくをなむるなかれ)」という揮毫が遺されている。古人が味わった美酒の「糟粕」(しぼりかす)をなむるなかれ、つまり、古人のつくったものをいつまでも真似しないで、みずから創造的であれ、という研究第一主義の理念を掲げているとされている。すでに産業的な研究をしていた眞島、赤堀、八木のほかに、応用の基礎にも重要になっていくX線構造解析の仁田勇、原子物理学の菊池正士などが集められていた[6]。独創性が期待されていた気鋭の研究者たちは、産業、軍のための戦時研究を避けることができなくなっていた。むしろ、戦時協力において「日本の科学」の役割や独創性を成り立たせることを考えたのである。

 

 「戦時」の科学者

1943年1月、大阪帝国大学に「戦時科学報国会」が設立された。当時の科学雑誌『科学朝日』には「阪大教授」座談会の「科学研究の総動員へ」と題した記事が掲載されている。「最高度の科学戦に勝つためわが科学研究を威力増強の一途に集中することは焦眉の急務であるとして、文部省は『科学研究の緊急整備方策要綱』を決定発表した。阪大では半年前既に『戦時科学報国会』を結成し、全学の頭脳を傾け新兵器発明に協力し、全国的に注目されているので、本誌は阪大教授各位の参集を乞い、座談会を開催した[7]」。

 

眞島は、この座談会の冒頭で「こういうことをいまごろやるというのは少々みっともないじゃないかとさえ考えています。むしろやるなら不言実行でやらねばならぬ。屋上屋を架するようではいけない。色々な委員会をつくったり、会合をたびたびするよりも黙っていて進めるようにした方がいい」と始めている。つまり、赤堀の「眞島先生」の回想で語られていないのは、戦時協力に抵抗したというよりも、大学の研究組織を守るために、育ってきた人材がいなくなって弱体化することを危惧し、そのためにも研究者は自らやらないといけないと訴えていたということである。

赤堀は、この座談会の記事において、二つのことを発言している。そのひとつは、外国と途絶した戦時において、全国的な連絡を通じて「日本の科学」が形成されることを念頭にした「気持ち」である。

 

私の気持ちとしますと、この戦争が長く続いた場合に畏れることは、日本の科学が、外国の科学の進歩と途絶されてしまって、向うの進歩の様子がわからない。そのため、数年後には科学の進歩の差というものが非常に大きなものになって、戦力、国力に大きな差ができはしないか、それの対策としては国内の科学者をできるだけ、相互に連絡せしめお互い日本人の間で、科学の進歩を促進して行かなければならない。そう考えていた時、中央に科学動員協会ができたので、科学者の連絡協力というものが非常に、活発に行われることを、期待したのですが、それがなかなかできない。(中略)それでまず吾々としては大阪にいる有志だけでそういう協力組織をつくって、お互いに助け合って、戦時科学にできるだけのことをしようと、まず大阪だけの団体をつくった、というわけです[8]

 

もうひとつ赤堀が発言しているのは、理学部の基礎的な研究が、戦時協力の「応用研究」において何ができるのか、ということである。

 

われわれの方で実際に分担してやる仕事としては、どうしても基礎的な仕事になる。(中略)科学技術の進歩の動機ということは、必ずしも基礎科学が先で、応用科学が後ということではない。技術の応用方面の要請があって、そこに基礎的研究をしなければならぬ問題が沢山出てくる。そうしたときに全国の純粋科学をやっているものが、戦時必要な科学に携るとしたら日本の純粋科学が遅れはしないかという人もあるのですが、むしろ独創的な方面に、日本の科学を進めるためには、現実に即した問題から、基礎的に向かった場合にこそ純粋の学問も発達すると、私は信じております[9]

 

純粋科学が戦時研究に関わることは独創的で純粋な「日本の科学」につながるのだという、純粋な科学を発達させようとする領分での「信念」が、戦時協力の動機として述べられている。実際に、大阪帝国大学の「戦時科学報国会」ができた経緯について、「一番力になったのは菊池正士、赤堀四郎の両氏で、非常に熱意を持って奔走された」と、仁田勇は述べている。赤堀は、この「戦時科学報国会」の活動において、学内の同僚に対して「気持ち」や「信念」を訴える面で影響力を持つようになっていたのではないかと思われる。

この座談会でうかがえるのは、「総動員」を機にして、理学部と工学部の研究者がお互いの「領分」を越えて意見を交換し始めていたということである。仁田が「ただやはり物の見方、研究の行い方、そういう風なものが工学畑と理学畑の連中とすこし違うところがあるんじゃないかというような気がしますけれども」と述べると、工学部教授の田中晋輔は、「理学部と違って工学部はすでにはやくから」軍の問題に関係しており、理学部の「赤堀さんや菊池さんのような考えは工学部には起こって来なかったのです。ところが私は赤堀さん、菊池さん、仁田さん等と個人的に親交があるのでいろいろ話を聴き、工学部の方へ行って話をしましたところ赤堀さんのいわれたような気持がよくわかったので喜んで入ったのです。いまでは非常に沢山の問題をやっているわけです」と、戦時の「日本の科学」までを念頭においた赤堀の「気持ち」に影響されて「戦時科学報国会」に積極的に関わるようになったことを述べている。同じく工学部教授の望月重雄は、「従来工学部の方で何かを作ろうとすると、だいたい外国のものをスケッチしてつくった。ところが実際につくったものを、改造して行くとなると、どうしても根本理論が先にならなければならない。それがどうしても解決がつかぬようなものが多々ある。それは当然理論畑へ持って行って話をすればいいのですが、持って行っても使い途がはっきりしないと、あまり興味をお持ちにならぬ、ということで、非常に不便を感じておったのです」と、工学部の方から理学部がどのように見えていたのかも述べられている。

また、理学部、工学部、そして卒業生たちが協力することで、軍との関係が変化し、戦時研究の中身が変わっていたことが述べられている。理学部教授の浅田常三郎は「いろいろな仕事を軍からやってくれと頼まれても私だけではできないことが沢山ありますが(中略)工学部に相談して、例えばこういう発電機を拵えてくれといっても直接に製作をやっておらぬので早急にはできません。ところが卒業生の辺りへ行って、この発電機を十個拵えてくれと頼むと普通なら一年くらいかかるのを現在十日間で供給してくれているという現状にまで行っております。これはやはり人がお互いに熱をもってかかりますと何でもできるのじゃないかと思います」。おそらく、かなりの無理をさせているようにも思われる話であるが、「軍の方もはじめの間は理学部だから材料の研究でもさせたらよかろうというような有様でしたが、このごろでは具体的な問題、例えば潜水艦に対する対策とか、あるいは電波ロケーターに対する対策という風に具体的な問題と現在作戦的にそれがどのくらいまで要求されているかということを話してくださるようになりました。実際どういう時に必要だからというので頼まれてやるのと、わけがわからないがただやれというのとでは大分違います」。

「戦時科学報国会」の研究者たちの発言は、この座談会の記事の最後を締める、眞島の思いを汲んだものであったと思われる。

 

戦争になってからは、大学を出ても召集されてしまうので、こんな状態を続けて行ったら、現在立派な研究者、技術家が揃って来たのですが、何年かのちには非常に低下するときが来て、(中略)また何年か外国と縁を切られている間に数も、質もおくれるということがあっては、大変なことだと思います。そういうことをお考えになって、軍にお採りになるときも、軍事教練をほどこして、しかる上に、そういう人の学力の下らぬように、むしろだんだん高めて行くようなところに使っていただく。たとえば、軍の研究所なり、また大学なり、研究所へ軍にいると同じ状態で戻していただいて何ヶ月に一遍なり召集されて、軍事のことを仕込むようしてもらえば、そういう人は一層働きがいがある、というように考えておりますが、これはあんまり心配しすぎた考えでしょうかな。

 

育ててきた若者たちの「科学」的な水準を維持しようとする眞島の「心配」の表明に対して、すかさず「いやその通りだと思います」という田中は「文部省のやっているのを強化して、大学なら大学の研究に関する限り軍の支配下に置く。協力するというような言葉はとって、協力じゃない、本体になる。そうして軍の研究所のようになってしまえば眞島先生のおっしゃったようなことが実行できるのではないかと思います」と、協力より進んだ形の軍学一体化を「眞島先生」の心配に応える形で述べている[10]

眞島の心配に呼応して周りに働きかけるように行動した赤堀にとって、「戦時科学報国会」での役割は、のちに大阪大学総長、理化学研究所理事長になり、「日本の科学」について発言する研究者の立場になったことや、「応用研究」からの独創的な基礎研究こそ「日本の科学」の将来の可能性であると主張したことにつながったのであろう。

「戦時科学報国会」の研究者のなかでもその役割を積極的に果たそうとした、原子物理学者の菊池正士は、海軍の電波兵器開発に協力しながら、海軍技術士官と物理学者との繋ぎ役になっていたことが知られている。今からすれば、海軍が京都大学の荒勝文策教授に依頼した原爆開発研究(「F研究」)に近い分野の研究者であるはずだが、表向きに目立っていた研究とともに、実現するかわからない「基礎的な」話もすることができて、人脈を繋いでいたのであろう。「二号研究」の理化学研究所の仁科芳雄がそのもうひとつの原爆開発研究の話があるのを知ったのは、菊池の紹介によるとも言われている。当時、菊池の個人的な考えとして、科学研究の目的は「国防国家建設」のためになくてはならない、このような時局になってから自分が考えさせられているのは「滅私奉公」であると述べるようになっていた。おそらく、繋ぎ役としての「理学」の役割を自覚していたのであろう[11]

 

赤堀が回想する「戦時研究」

赤堀が戦時中に行ったとのちに語っているのは、毒ガスの防御に関する研究である。

 

毒ガスの防御策として、青酸吸収剤を銅と生糸を原料にして作った。軽石にまぶしてガスマスクに詰めるのだが、その効果を測定するのに自分でやってみなければならない。ところが、吸収させるものが青酸ガスだから怖くて怖くて仕方がなかった。また夜間における青酸ガスの発見法ということで、青酸に反応すると光を出すようなものを考案した[12]

 

戦時の末期には、大阪帝国大学の研究室で電気とガスが使えなくなり、1945年3月に大阪が空襲を受けた後、赤堀の研究室は、西宮の神戸女学院の料理実習室を借りて「細々と」研究を続けた。1945年8月15日、赤堀はこの料理実習室で「玉音放送」を聴いた。

 

戦時研究をやっていたことも心の重荷となって、占領軍によって耐え難い屈辱を受けるようなことがあったら、これを飲んで死ねばよいと研究用青化ソーダを小さな瓶に詰め、そっとかばんに入れて持ち歩いていた。(中略)前途の希望は全く持てず、研究を続ける気力はなくなって、郷里に隠とんする気になっていた。今考えるとこっけいなことであるが、郷里に帰って農業をやろうと本気で思った。都市の食糧不足、幼時母の農作業を手伝った記憶、古里に対する郷愁などが重なって、気力を失った私を現実逃避の気分にさせたのだろう[13]

 

赤堀の気力を蘇らせたのは、理学部の研究室に復員して戻ってきた卒業生たちであった。彼らも、生きる目的を失い、ヤミ屋をやろうとか、国に帰って百姓をやろうとか「やけ気味」になっているのを見て、「このままほうっておいたら、前途有為の優秀な若人たちが横道にそれて行って、才能を生かせないで終わってしまう恐れがあると案じられた」。化学を専攻した者はどんな社会になっても化学で身を立てるより他ない、一緒に研究室に来て研究しよう、と励ましていると、「理学部の地下にあった私の研究室は湿気もひどく、ガスもこない上に、電気も不十分という状態の所に三十人も押し込んで、それこそ足の踏み場もない劣悪な条件」であったが、赤堀自身が励まされるようになったという。そして、戦後の生化学研究の復活への起爆剤が見つかった。

 

戦中にロケット燃料として生産された硫酸ヒドラジンという物質が不要になって余っていた[14]

 

ヒドラジンは、戦時中、「味の素」の川崎工場でも製造されていた。「不急不要」の奢侈品扱いとなった「味の素」が製造できなくなり軍需品の化学工業になっていた「大日本化学工業」(陸軍省の指示で1943年に改称)は、1944年7月に海軍省から、ロケット燃料で用いる「水化ヒドラジン」を月産30トン製造する設備を完成するように「示達」された。ドイツのロケットV2の燃料が「高純度の過酸化水素および水化ヒドラジン」であるという情報を日本の陸海軍はつかんでおり、B29を迎撃するロケット戦闘機を研究、開発しようとしていた。結局、開発は失敗に終わったが、燃料だけが残されていたのであろう[15]

赤堀は「不要」になったヒドラジンを活用して、タンパク質の構造を解明する方法を研究した。「『ヒドラジン分解法』として国際生化学学会で発表したら、思いがけず大変な反響があり、後に一九五五年に日本学士院賞を受賞することになった」。戦中にロケット燃料として生産されたものがなぜあるのか、どのような経緯で使うことができたのか、誰が作っていたものなのかなどについて、赤堀の説明はない。その再利用に関して「窮乏の中でも知恵を絞ることで大きな成果が得られることもある」と、研究を再開した者への励ましの言葉が付けられているのみである[16]

 

おのずと語る、「日本の科学」の役割、成り立ち

多くの科学者と同じように、赤堀にしても、戦時研究でどのようなことをしていたのかを個々の経験から説明している言葉は多くないようである。のちの回想では、赤堀は「やむを得ない研究」と言うだけでなく、「希望を持てない研究」だったとも述べている。その頃に次男がジフテリアで他界してしまったことも、その時期の記憶として重なっているかもしれない。それも「時局」の影響で医者の手元に抗血清がなかったために助けることができなかったのであった。物資の不足に直面していたからこそ、研究を再開した後の、酵素、アミノ酸、タンパク質、「合成食料」の夢があったのであろう。軍から要請された全体の見えない個々の兵器研究よりも、ロケット燃料でタンパク質の構造を解明する方が、よっぽど「時局」の危機を全体的に解決する構想を持つことのできる、基礎的な研究を行う科学者の役割であると、赤堀は研究の経歴を通じて言いたいのかもしれない。

日本の戦時研究についての歴史研究では、ある研究者は「科学者が強制的に戦時中の取組を振り返ることはなく、また、科学者自身が戦時中の行動を振り返ることもほとんどなかった」と評している。日本では科学者に戦時研究の責任があったようにはあまり思われてないからなのか、追及されるということはなく、私的な口述の記録でもなければ、その内心を明らかにするのは、本人でも難しい問題なのであろう[17]

しかしながら、その後も「日本の科学」には、科学者本人が語らずとも、行動や組織の成り行きからおのずと語るものがあるように思われる。「戦時」ではなくても、時の趨勢に合わせた「国」や「産業」の政策に関わるような研究となれば、科学者も資材を確保するために「やむを得ない」行動をとりつつ、研究の同僚仲間や組織ではお互いの立場を配慮して人事を決める。公的には研究の協力や推進をして追随していながら、私的には「やむを得ない」「ハラハラ心配する」と思っている。「時局」が求める成果と「科学者」の実際の活動には、二つの異なる生存戦略によるズレがあるかのようである。これがぴったり一致しているのが望ましいことなのか、一致していないままにしていく方便でいいのか、うまい具合に調整できるのかもわからないが、いざ「時局」ともなれば、今でもかなり乖離していくときがあるのを「日本の科学」はおのずと語り出すのではないだろうか。

 

[1] 赤堀四郎「わが青春」12、静岡新聞(1990年2月20日)。

[2] 赤堀は「戦争が激化して製造元の三共製薬ではタカジアスターゼの製造を中止してしまったので」と回想しているが、戦時中に三共が製造を中止したかどうかは確認できなかった。

[3] 赤堀四郎「わが青春」16、静岡新聞(1990年3月6日)。

[4] 内山龍雄「湯川博士と大阪」適塾(15号)1982年、20〜21ページ。大阪大学大学院理学研究科・理学部湯川記念室「大阪大学と湯川秀樹」https://www-yukawa.phys.sci.osaka-u.ac.jp/university

[5] 鎌谷親善「大阪大学の形成:理学部と産業化学研究所」大阪大学史紀要、1987年(4)、25〜66ページ。大阪帝国大学理学部の母体としてあげられる「塩見理化学研究所」は理学部が新設された後も存続し、研究者が移動したり研究を奨励したりする関係機関のようになっていた。

[6] 大阪大学理学友俱楽部「大阪帝国大学創設と初代長岡総長の精神」大阪大学理学研究科・理学部 https://rigakuyu.sci.osaka-u.ac.jp/talkon/contents_nakai.html

[7] 「科学研究の総動員へ」科学朝日、1943年(10月),88ページ。引用部分は、本論の著者が現代仮名遣いに変えている。

[8] 同記事、89ページ。

[9] 同記事、同ページ。

[10] 「科学研究の総動員へ」科学朝日、1943年(10月),88ページ。引用部分は、本論の著者が現代仮名遣いに変えている。

[11] 河村豊「戦時下日本で,科学者はどのように軍事研究にかかわったか」天文月報、第111巻、第3号、2018年(3月)、202〜211ページ。

[12] 「わが青春」16、1990年3月6日。

[13] 「わが青春」17、1990年3月10日。

[14] 同記事。味の素の川崎工場で製造されて、海軍のロケット戦闘機「秋水」の燃料に使われたのは「水化ヒドラジン」である。赤堀は「硫酸ヒドラジン」と書いているが、無関係なものかわからない。

[15] 『味の素株式会社社史』1971年、415ページ。「ロケット戦闘機『秋水』燃料庫群、鎌ケ谷市にも 幻の巨大事業の痕跡」朝日新聞、2024年8月20日。

[16] 「地下室」の赤堀研究室で、「ヒドラジン分解法」を研究していた大野光は、時々ヒドラジンの蒸留で爆発を起こした。鈴木不二男「化学大家 赤堀四郎」和光純薬時報、2017年7月(Vol. 85, No. 3)、29ページ。

[17] 河村豊、前掲論文210ページ。

 

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