【連載】美味しい理由―「味の素」の科学技術史 第9回 アミノ酸の科学者、赤堀四郎(1)「偉人」と「恩義」

投稿者: | 2024年3月1日

【連載】 美味しい理由―「味の素」の科学技術史  第9回

アミノ酸の科学者、赤堀四郎(1)「偉人」と「恩義」

瀬野豪志(NPO法人市民科学研究室理事&アーカイブ研究会世話人)

【これまでの連載】
第1回 美味しさと健康(1) 池田菊苗の談
第2回 美味しさと健康(2) 食べられる「食品」の品質
第3回 「感覚」の科学研究と「味覚」
第4回 わが美味を求めん
第5回 「食事のシーン」を描くことができるか
第6回 新しい「味」の先に起きていく出来事
第7回 「調理」を作っていくのは誰か
第8回 家庭料理をつくる人が伝えること 

全文PDFはこちらから

池田先生の名は「味の素」の発明者として、小学生の頃から聞いていたので、その先生の講義が聞かれるということは、とても大きな喜びであった。しかし、池田先生の講義の最初の時間は、自然科学と哲学との関係というような内容で、「味の素」の発明者というような私の先入観とは、まったく異なっていた。(赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』[1]

 

赤堀四郎(あかほりしろう、1900-1992)は、蛋白質及びアミノ酸の研究で知られる生化学者で、大阪帝国大学(大阪大学)の教授を務め、大阪大学総長(1960-1966)、理化学研究所理事長(1966-1970)を歴任し、「蛋白質を構成するアミノ酸の結合状態に関する研究」で日本学士院賞(1955年)、「アミノ酸の有機化学的研究」で文化勲章(1965年)を受賞した科学者である。

戦前から戦後にかけての時代に「日本の生化学」を代表する科学者になった赤堀四郎の研究人生の原点には、「味の素」との出会いがあった。それがなければ、彼は薬学や化学の専門的な職業に就くことはあっても、これほどの経歴を持つ「科学者」にはなっていなかったであろう。

 

赤堀四郎 Wikipediaのパブリックドメイン画像より

 

郷土から出た「偉人」の話

赤堀四郎は、明治33年(1900年)、静岡県小笠郡千浜村(現在の掛川市千浜)で生まれた[2]。彼は「遠州灘に沿った寒村で、地ひびきのするような波の音を聞きながら育った」と書いている。父は千浜小学校の校長で、母は養蚕業を営んでおり、兄弟が多く、経済的な余裕はない家庭だったという[3]

彼は、この村にいた小学生のときに、郷土から出た「偉人」として鈴木梅太郎という科学者がいることを知った。それは、新聞や本などからではなく、家族や地元の人の話から聞いたのであった。

 

私は郷里が遠州の田舎でありまして、鈴木先生も、たしか郡は違いますが遠州榛原郡の朝日奈村に明治7年にお生まれになりました。(中略)小学校の5、6年ごろにおやじから鈴木先生のお話を、郷土出身の学者の話として聞いたのであります。鈴木先生がビタミンというものを−そのときはまだビタミンといっておりませんで、オリザニンという非常に脚気によくきく薬を作った(おやじはたしか、「薬」と言ったと思うのですが)。郷土の偉人1人として、こういう偉い人が出たということを私に話してくれた記憶がございます。そのころはキュリーのラジウムの発見と同じ時代でありましたので、そういう話と一緒に鈴木先生の話を聞いたことがあります。それから私の小学校の友だちが朝比奈村に親戚がありました。そこへ一緒に遊びに行こうというので遊びに行きましたところが、そこの家は朝比奈村の豪農の家でございまして、そこの主人が鈴木先生のいとこでございました。それで、鈴木先生が郷土を出られて東京へ留学された当時のことを、いろいろくわしく話してくれたのを記憶しております[4]

 

また、母の養蚕業を手伝うときにも、鈴木梅太郎の「科学」によるある功績が当時知られていたようである。

 

そのころの静岡県は養蚕が盛んで、私の家でも母が養蚕をやっていた。夏休みはよく桑摘みの手伝いをさせられたものである。桑の葉を1枚1枚手で摘むのであるが、右の人差し指に2センチぐらいの刃のついた鉄のリングをはめ、桑を摘むとき、葉柄に葉を少しずつ残して摘むように教えられたものである。その数年前までは葉を全部摘みとっていたのであるが、そうすると桑が一種の萎縮病にかかって困ったということである。その萎縮病はそれまで何か病菌の感染によるものと考えられていたのであるが、鈴木先生は、それを光合成を阻止した結果による一種の代謝異常であるとの意見を発表され、それを防ぐために葉を少し残して桑を摘むことを農民に奨めたのである。事実、これで桑の萎縮病は完全に防止されたのである[5]

 

海からの波の音が響く農村にいた小学生は、郷土の養蚕を救う方法を農民に伝えた「科学者」の鈴木梅太郎のことを、海外のキュリー夫妻と同じような「偉人」として、家族や地元の人が話すのを聞いていた。それは、彼にとっての「偉人」や「科学者」のイメージにつながる経験になっていたであろう。郷土の「偉人」であり「科学者」である鈴木梅太郎の話とともに、「池田先生の名は『味の素』の発明者として、小学生の頃から聞いていた」のである[6]

「偉人」の鈴木梅太郎や池田菊苗の名前を聞いていた遠州灘の小学生は、波の音が響く郷里から出ていく自分の人生を描き始めるようにもなっていたのであろう。彼は小学校を卒業すると、東京にいる叔父の勧めで、郷里から出て、働きながら進学する道を選んだ。

 

大蔵省専売局の人たち、「味の素」の人からの支援

小学校を卒業した赤堀四郎は、東京の叔父の家にお世話になって、昼間は叔父の職場で働きながら、神田の錦城中学校の夜学に入学することになった。その中学校の化学の授業に「鈴木家の縁故の化学者」の高山義太郎が講師として来ていた。化学の「高山先生は、その頃、東大理学部の大学院生として池田菊苗先生の研究室で、アミノ酸の研究をしておられ、そのかたわら、いまで言えばアルバイトとして、錦城中学で化学を教えられておられたのであった。もっとも、そのときには高山先生が味の素会社縁故の人であるということは、まったく知らなかった」[7]

叔父は大蔵省専売局に勤めており、その紹介で、中学生の赤堀四郎は、大蔵省の給仕として働き始めたが、同僚は「チャキチャキの江戸っ子」ばかりだったので、方言で苦労したという。1年後、叔父に専売局化学分析室に移らせてもらった。「これも大蔵省のなかにあるのですが、分析室ですから、農芸化学の人も薬学の人もいました。上野の薬学をでたような人がいました。そういう人がいろいろ教えてくれるものですから、いくらか化学に興味をもちだしたんです」。当時の専売局はタバコ、塩、樟脳を扱っていた。「このころになるといわゆる東京弁にも慣れ、また分析室の上役には化学者が多く、それまでの所とは雰囲気も違っていて比較的楽しく勤めることができた。私が化学に親しみを覚えたのはこの分析室の好印象が影響していると思う」と、赤堀は書いている[8]

叔父からの学資の支援もあって夜学から昼間の課程への編入試験に合格し、錦城中学校を卒業した後、千葉医学専門学校の薬学科に進学することになった。このとき、赤堀は医者になりたかったというが、「医学をやりたいといったら、私の兄貴が京都府立医専をでたものですから、お前は薬学をやれ、第一、医学は専門学校でも4年、薬学は3年です。4年間の学資はだせないから薬学でがまんしろといわれて、千葉の薬学にはいったんです。しかし薬学はそうにがてというわけでもないし、多少薬をやってみたいという気持ちもあったんです」という、家族の経済的な事情が絡んだ選択であった[9]

赤堀は、晩年のある対談で千葉医学専門学校の「薬学」へ進んだ動機について問われて、「そうはっきりした動機はないのです」と答えている。彼としては、「昔の恥をさらけだしますと」と言いながら、田舎生まれの学資もない身の上であった自分が、支えてくれた人のおかげでチャンスをもらい、「薬学」や「化学」の道に定まっていったということを感謝の意を込めて述べていたのであろう。彼にとって、故郷の遠州灘の村から「科学」の世界へと入っていった過程は、自分の内的な動機がまずあって進んでいったというよりも、周りの人たちによって進むことができた道だったと語りたかったのであろう。故郷の校長先生だった父がしてくれた「偉人」の話は、その一つとして思い出され、赤堀四郎にとっての「科学」への動機のあり方が繰り返し語られている。「遠州の田舎にはまだ新聞はきていなかったが、父はどこから聞いてきたのかキューリー夫妻のラジウムの発見の話や、池田菊苗先生の味の素の発見、鈴木梅太郎先生のビタミンの発見の話などをしてくれた。特に鈴木梅太郎先生は同じ遠州の出身でもあったので、ビタミンについては格別興味を持っていた。そんなことが、私を化学の道へすすませた最初の動機になっていたかもしれない」とも赤堀は語っている。

 

「千葉医専の学生のころ(大東町教育委員会『赤堀四郎先生伝』より)」
『大阪大学歴代総長余芳』大阪大学出版会、2004年、155ページ

大正10年に、赤堀は千葉医学専門学校を卒業し、学校から紹介された桃谷順天館に入社して、その会社の嘱託をしていた東大理学部講師の西沢勇志智の研究室(化学教室の地下室)へ助手として行くことになった。東大に通ってその手伝いをしているうちに「千葉で学んだ化学は、薬剤師になるために必要な程度であったから、もっと本格的に化学を勉強したいと思い、化学科の講義を聴講させて欲しいと西沢先生に頼んだ。西沢先生は、それなら池田菊苗先生の講義をきくのが一番よいだろうといわれて、池田先生に頼んでくださった。それから半年ほど、池田先生の化学通論を聴講した」[10]。こうして、「味の素」の発明者として聞いていた池田菊苗に初めて出会ったのである。

そして、この東大の化学教室で、赤堀四郎の「科学」の師となる東北帝国大学の眞島利行教授に出会ったことがきっかけで、大学に進学することを考えるようになった。

 

地下室で1年トリモチの成分の研究をやっていたんです。そのときに真島先生がときどき東京にこられて、いろいろなサジェスションをしておられた。その年の夏休み2箇月、真島先生が仙台にきてやったらどうかといわれて、西沢先生について助手で仙台に行って2箇月、夏休みの間、東北大学の有機化学の教室でトリモチの研究をやりました。そのころ真島先生は神様みたいで、ほとんど直接話はできない偉い先生でした。しかしその空気に非常にあこがれまして、こういうところで勉強したいと思いました。しかし実際に行けると思わなかった。東北大学は傍系からもはいれたものですから、西沢先生が、欠員があるから試験を受けてみてはどうかといわれたので、入学試験を受けたんです[11]

 

当時、東北帝国大学では欠員があった場合には補欠募集があり、専門学校卒業でも試験を受けることはできたが、薬学専門学校卒業で国立大学の理学部に入学した例はなかったという。千葉医学専門学校ではやっていなかった物理や数学の勉強も大変だったというが、大正11年3月、赤堀は東北帝国大学の試験に合格した。しかし、合格した後になってよく考えると、入学するための学資のあてがなかった。合格するくらいなら独学でもやっていけるのではないかとも思い、入学は諦めて東京で引き続き働くことを父に手紙で報告したところ、折り返しの返事があった。

 

「せっかく大学の入学試験に合格しながら入学をあきらめるなど、そんな意気地のないことでどうするか、学資はわしが借金してでも工面してやるから、とりあえず入学の手続きをしなさい」といって入学金と最初の授業料だけ送ってきた。しかし私は父がそんな強がりをいっても、3年間の私の学資をつくり出す力のないことはわかっていたが、ともかく入学の手続きだけは済ませた。そして私の東京の下宿の隣に住んでおられた私の中学のときの化学の先生であり、池田菊苗先生のお弟子でもあった故高山義太郎先生のお口添えで味の素会社から学資を出してもらえることになり、無事に学業をつづけることができたのである[12]

 

「西沢先生」もなんとかならないかと、赤堀の中学校のときの化学の先生であり池田菊苗の弟子でもある高山義太郎に話し、「高山先生が、当時の味の素本舗の専務・鈴木忠治さんに話してくださった結果、会社から学資を出して貰えることになった」。そして、「それ以後の3年間、引き続いて大学院学生としての5年間、さらにその後の研究生活から現在に至るまで半世紀の長い間、何かにつけて味の素会社のお世話になり続けて今日に至っている」と、自分を大学に行かせてくれた味の素の支援に対する感謝を赤堀は書いている[13]

しかし、赤堀四郎は、生化学の研究に至った自分の「学問的研究からは、味の素会社に対して何一つ目だった貢献ができなかったことを、はなはだ申しわけなく思う」と書いた。

 

科学者として果たすべき「貢献」と「恩義」

味の素に対して「何一つ目だった貢献ができなかった」という赤堀四郎の強い思いを示した表現は、若いときに経済的支援を受けていたという理由がまずあっただろうが、「科学者」としての功績で「味の素」に対してなんらか返したいと、支援してくれた人の顔を見るたびに強く望んでいたからであろうと思われる。例えば、技術開発や研究部門の担当であり社長だったこともある鈴木忠治に、蛋白質の構造研究に有用なペーパークロマトグラフィーを紹介したとき、「『そんなうまい方法を君が見つけたのか』と聞かれた。『いいえ、これはイギリスの学者が見つけたのです』と答えると、『お前はアミノ酸の研究を長い間やりながら、なにをぼやぼやしていたのだ』といいたげな顔をされた。別に言葉で叱られたわけではないけれども、私は心中で穴があったらはいりたい気持であった」と、川崎工場でのやりとりを不甲斐なかったことのように書いている[14]。もしかしたら、このようなやりとりで重く受け止めすぎていたのかもしれないが、赤堀四郎の心中では、人々に感謝される技術をもたらす「偉人」としての価値が自分の仕事にあるのかということや、日本の「科学者」としての道を進んできた「恩義」があるというようなことを考えていたように思われる。

味の素との関係に限らず、赤堀四郎は実業的な功績によって評価されることを望んでいたのかもしれない。彼は、理化学研究所理事長だったとき、日本の科学の研究水準をめぐる「独創性」の問題について、応用研究の価値を重視する見地から次のように説いている。

 

日本人の研究には模倣的なものが多く、独創的なものが少ない、といわれるのは残念である。もしそれなら、その原因はどこにあるのだろうか、その欠点を除く方法はないだろうかと私はひそかに考えてきた。一人当たりの研究費が少ないということも、もちろん一つの大きな理由であるけれども、それだけが原因ではないと思う。もっとも重要な要素となるものは、 研究目的の価値判断、研究推進の工夫、その他研究者の心がまえに問題があるのではないかと思う。私の感じている限りでは、日本の研究者には、実用には縁の遠い純学問的なものでさえあれば貴い研究であって、応用的あるいは実用的な目的をもったものは、価値の低いものと思っている人が多いように思われる。応用研究をやるのは低欲化であると考える人さえあるように思える。そこに問題があるのではなかろうか。湯川、朝永両博士の研究のように純粋に学問的で、かつ基礎的、理論的な研究もあれば、八木アンテナや、新調味料の発見、ナイロンの新合成法等、実用価値の高い研究もある。学問的にレベルの高い研究は、科学の進歩に大きな貢献をなすことはもちろんであるが、総ての研究者が、湯川さんや朝永さんのような研究をしたいと思っても、それは無理な望みである。しかし純学問的な意味は低くても、実用面で広く社会に役立ち、人間生活を豊かにするようなものであれば、その研究はやはり価値が高いといわねばならない[15]

 

このような科学研究の価値の捉え方を適用することが日本のどのようなところで政策的に妥当であるかはここでは論じないが、次回以降、日本の「味の素」の科学研究に関わっていた赤堀四郎のような「科学者」が進めようとした「合成食料」の社会的な問題を、何回かに分けて論じることにしたい。

まず、大学での赤堀四郎の研究と「味の素」社の技術的な課題のための研究体制との間にどのような関係があったのかについて整理したい。味の素と「日本の生化学」の発展の関係についても、企業における研究組織の始まりの歴史の観点から、他の事例と比較して論じる。

そして、なぜ赤堀四郎は「恩義」がある「味の素」に貢献できなかったと思っていたのか、彼は「科学者」として日本の人々のためにどのような貢献をしようとしていたのか。このような科学者としての「貢献」の問題に絡んで、日本の生化学には「合成食料」の夢があったことを論じる。

最後に、明治時代の池田菊苗の「科学」や「アミノ酸」が意味していたことと比較しながら、昭和の戦前から戦後にかけての時代の赤堀四郎が「科学者」として貢献しようとしていた「味の素」のアミノ酸による工業的な夢と、彼の見込み通りにはいかなかった成り行きや晩年の「悔悟」について述べる。

赤堀四郎については、何回かにわたって書くことになるが、その内容や資料の多くは、市民科学研究室のbending Science研究会での故中野浩氏の報告に負っている。彼が示唆していた問題を引き継ぎ、私なりの観点を加えて公開していくことにしたい。

 

[1] 赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年。

[2] 遠州掛川のあたりでは「赤堀」姓が多いらしく、明治15年に若い女性向けの料理学校(赤堀割烹教場、現在の赤堀料理学園)を東京で開いた料理人の赤堀峯吉も掛川の生まれで、峯吉の親がやっていた掛川宿の料理屋にルーツがあるとされている。ともに「あかほり」と読むが、赤堀四郎は英語の表記で「Akabori」としていたため「あかぼり」と表記されていることもある。

[3]赤堀四郎『生命(いのち)とは 思索の断章』共立出版、1988年、68、248ページ。「遠州灘には七不思議というものがあると、子どものころ母からなんどか聞かされたが、波の音もその七不思議の一つになっている。(中略)波の音だけはたしかに不思議だといまも思っている。遠州灘の波はいつも高い。海岸に立って、あたり一面ごうごうたるひびきに満ちている。ところが、海岸から2キロほど離れた自分の生まれた家の付近になると、波の音はいつもはっきりしたひとつの方向からだけ聞こえてくるのである」。赤堀四郎「わが青春(1)波の音」静岡新聞(1990年1月6日)など、赤堀はしばしば自伝の文章で故郷の「波の音」について書いている。

[4] 赤堀四郎「蛋白質化学と鈴木梅太郎先生」『化学と生物』3巻4号、1965年、200ページ。

[5] 赤堀四郎『生命(いのち)とは 思索の断章』共立出版、1988年、226〜227ページ。

[6] 同書、251〜252ページ。「明治元年生まれであった父の青年時代の教養は、中国の古典を学ぶことにあったらしい。私が小学校3年生のとき、5歳年長の次兄はもう漢籍を読まされていた」が、四郎が10歳のとき、ハレー彗星が近づいた頃から「父の興味は次第に科学的な問題のほうへ移っていったように思われる」。

[7] 赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、1ページ。味の素の鈴木商店の「鈴木家に縁故の化学者で、第二次大戦前、会社の研究課長をしておられた故高山義太郎先生に、神田の錦城中学で筆者のクラスは化学の授業を受けた」とあるが、どのような縁故関係かは確認できていない。

[8] 赤堀四郎「わが青春(5)苦学時代」静岡新聞(1990年1月23日)、赤堀四郎『生命(いのち)とは 思索の断章』共立出版、1988年、275ページ。

[9] 赤堀四郎『生命(いのち)とは 思索の断章』共立出版、1988年、275ページ。赤堀四郎「わが青春(6)編入試験」静岡新聞(1990年1月27日)によると、兄も、他家の養子になり、学費は養家から出ていたという。「当時私の村では小学校卒業後中学校に進学する家庭すら数えるほど少なかったから、中学校のさらに上の専門学校に進学できるというだけで素晴らしいことだった」。

[10] 赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、1ページ。

[11] 赤堀四郎『生命(いのち)とは 思索の断章』共立出版、1988年、252、275〜276ページ。

[12] 赤堀四郎『生命とは 思索の断章』共立出版、1988年、252〜253ページ。赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、2ページ。このとき高山義太郎がなぜ隣に住んでいたのか、詳しいことはわからないが、東大の池田菊苗の研究室にいた高山も「同じ建物の中で研究を続けておられたので、ときおり西沢先生の研究室まで来られたこともあった」というから、東大の化学教室で再会し、近所付き合いがあったのだろう。

[13] 赤堀四郎「アミノ酸随想」『味の素株式会社社史2』1972年、2〜3ページ。

[14] 同書、5ページ。

[15] 赤堀四郎「独創と応用」『ファルマシア』4巻8号、1968年、547ページ。

 

市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。

ご寄付はこちらからお願いします



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA