【連載】 開発主義政治再考 第8回
補論/『現代技術評論』の二年間(続き)
山根伸洋(市民科学研究室会員)
全文PDFはこちらから
【これまでの連載】
第1回 開発主義政治の第三段階に向けて―開発主義政治の遺産継承をめぐって―
第2回 「総力戦」ないし「戦時動員体制」研究における 課題をめぐって
第3回 TVA-アメリカの経験を読み直す試みについて
第4回 「富国」と「強兵」の関連性について、ないし社会インフラ論
第5回 補論/田園都市国家ないし国家の空間的実践をめぐって
第6回 補論/『技術の社会史』と『現代技術評論』をつなぐ
第7回 補論/『現代技術評論』の二年間
1)理論と実践の有機的結合を目指して
前回に引き続き『現代技術評論』の二年間について考えていきたい。『現代技術評論』創刊号は「特集=日本技術の現代的批判」として掲載された八本の論文を軸としていた。前回紹介した通り、この特集の最初の二本の論文[1]が「現代日本」の現状と課題、いわば歴史的総括にあたっていた。そのほかに吉田光邦(1921~1991)による「明清間西洋活字・火器伝来考略」、小野満雄[2](1913~)による「日本の光学工業」、加藤博雄[3](1924~1996)の「日本の自動車技術の性格とその形成過程」、そして加藤邦興(1943~2004)による「水俣病と「技術のチッソ」」が収録されていた。創刊号の特集に掲載された論文の多くが歴史的総括や産業技術史上の現状分析、そして文明史であるのに対して、加藤の論文は戦後日本の矛盾の直接的な表現でもあった「産業公害」そのものを社会史的に描き出すと同時に技術論的視角より批判的に分析するという意欲的な試みであった。
もちろん『現代技術評論』誌の編集方針を推察するために紙面構成を見てみれば、巻頭言、論文、文献解題、研究ノート、書評という一般的な学術誌の構成に加えて、「公害史探訪」、「現場報告」(研究開発現場よりのレポート)そして「研究サークルから」といった実践現場からのレポートが掲載されており、そこには理論と実践の有機的な結合が目指されていたことを読み取ることができるのである。そして創刊号に掲載された加藤論文はその批判性においても理論的な突き詰めにおいても出色のものという印象をもつ。まさに1970年代半ばの情勢を最もよく反映した論文なのではないだろうか。したがって『現代技術評論』の二年間をもっともよく表現している論者の一人として加藤を位置付けてもいいのではないかと思うに至った。また『現代技術評論』創刊当時の加藤の年齢は他の論者に比して若く、東京工業大学で助手を務めていることからもわかる通り、有力な論者の一人である山崎俊雄の後輩にあたる存在であり、周囲からも強い期待がかけられた存在でもあったと言えるのだろう。
2)「技術のチッソ」とは?
加藤は「水俣病と「技術のチッソ」」[4]においてその執筆意図について次のように記している。「本稿の目的は、チッソの技術開発にむける(ママ、引用者)先進性と水俣病の発生がいかにして同時的に進行しえたかを示すことであり、そのことを通じて技術史・技術論の科学としての確立のための問題提起をすることである。」として化学史を軸としての技術史[5]・技術論の立場から水俣病の原因企業とされたチッソに批判的に対峙する宣言を行っている。そして日本窒素肥料株式会社(以下チッソとする)の成立と展開の技術史的分析を加藤は試みる。加藤は水俣病被害者救済・支援の住民運動の枠組みより生じる「水俣病研究会」の研究報告書[6]を参照しながら議論を丁寧に進めていく。そしてチッソの姿を日本資本主義の姿になぞらえて捉えていく。
加藤は創刊号に続き第二号(1975年2月刊行)でも引き続いて「水俣病と戦後の化学工業」という論文を寄稿している。この論文において、チッソの戦前期よりの資本蓄積と企業展開および戦後における財閥解体後の縮小された企業展開の実態の分析が試みられている。そのうえで、1950年代におけるアセチレン化学工業から石油化学工業への転換がチッソに及ぼす影響について論じている。ここで加藤は末尾で次のような重要な指摘を行っている。「この意味[7]で、水俣病問題を戦後の化学工業の変貌中に位置付けることは化学技術史の不可欠の課題であるとしなければならないのである。」加藤の議論を読み進めていくと、重化学工業が成立する20世紀前半における電源開発のための河川開発、大規模な重化学工業の成立そして総力戦の展開、植民地経営等々の問題が絡み合っていることがわかる。また軍需との関連においてチッソの企業展開がどのように影響を受けてきたのかなども重要な問題なのだろう。加藤は創刊号から第二号にかけてチッソの戦前から戦後にかけての企業動態を概観することを通じて、分析の手順の整理を試みていたのではないだろうか。そしてその試みの中で植民地における工場経営、そして軍需をめぐる問題に向き合うことになる。
3)戦前におけるチッソの展開について
『現代技術評論』第6号(1976年2月1日刊行)へ加藤は研究の同僚でありかつ友人であった木本忠昭(1943~)とともに「「技術のチッソ」と植民主義」を寄稿する。この論文の冒頭において、水俣病関連の公判闘争の過程においてチッソの朝鮮における企業活動が明らかとされてきた旨が記載され、そのうえで、次のように問題提起をする。すなわち「だが一つには、一企業としての日窒の日本帝国主義の植民地戦略のなかでの役割、換言すれば日本帝国主義の水俣病への国家的関わり、二つめには、植民地経済下における技術という技術史学的課題の追求という面からみて、その論求は、未だ足らずの感を免れず、言わば暴露的なものにとどまっていると言わねばならない」として「暴露」から批判的分析に向けての議論の展開と深化こそが求められている旨を訴えている。
そのために加藤と木本は、経済史的手法を駆使してチッソの朝鮮への進出の背景と展開を商工省や日本興業銀行の動きに目配せしながら分析していく。その際に、「朝鮮支配政策の展開」という章が必要となり、そこでは朝鮮における植民地経営史が概観される。そして植民地朝鮮の経済史的分析の中に「朝窒興南工場の位置」が繰り込まれてくる。そして朝鮮興南工場の規模と構造を一定程度明らかとすれば、次には工場へ電力を供給する電源をめぐる問題に視点が向けられる。そこで「日窒(朝鮮水電)の電力開発方式」という章において電源開発のための大規模水力発電施設の開発についての考察に及ぶのである。しかしながら、ここまでの分析的記述は総体的なチッソの展開の全体像をつかむ方向に向かうよりも、その現場において発生する事故・災害などの事象の強調などの記述にとどまってしまっているように思われる。
加藤と木本は、野口遵と久保田豊が結合することで構想され、「暴力的」に具体化されていく開発表象としての重化学工業の産業クラスター、臨海工業都市、そして大規模な多目的ダムについて、当時の研究・社会状況[8]の中で、まさに果敢に描き出しているにもかかわらず、その全体像についての分析へ向かわない・向かいきれない様子が論文の構成からにじみ出ている。これはどうしたものなのだろうか。また朝鮮興南工場が「直接的な軍需生産・火薬をも大規模に製造したことは言うまでもない」とするならば、その軍需が与えた影響についての分析はなされているのか、暴露にとどまっていないだろうか、そうした懸念をもってしまう。その上で、加藤と木本の論稿の結論部分における「チッソの技術」に関する分析、すなわち「一九四五年以前の問題に関して言うならば、チッソの技術は軍需的・植民地的畸形ととらえた方が、一層問題点を集約するであろう。日本帝国主義の軍事的植民地的経済構造そのものが日窒内部の労働手段体系の畸形化、生産様式の畸形化を生み出さざるを得なかったのである」と暫定的ではあるのであろうけれども、加藤と木本はそのように結論づけようとする。しかしながら「日本帝国主義の軍事的植民地的経済構造」を「日窒内部の労働手段体系の畸形化、生産様式の畸形化」という表現から特徴づけて「チッソの技術」についての性格付けを行うのは、やや「短絡」の印象を免れ得ないのではないかと思われる。
もちろん「チッソの技術」が軍需に応答することで、大きな影響を受けたことは当然のことであるけれども、その実態の解明はいまだ途上と言える[9]。また史資料の偏在による認識のバイアスをめぐる問題も、「チッソの技術」をめぐる考察を進めていくうえでは大きな障害となっている。朝鮮興南工場跡地の現在的利用の形態はどうなのか、戦間期から戦時期にかけての朝鮮半島における水資源開発の実況、そして現在の状態などについての踏査が難しいことも一層問題を「神秘化」してしまっていると思われる。任(2022)も言うように、朝鮮窒素が世界史的に見て一大企業として成立しえたことをいかに捉えるかという課題は、なによりもその企業展開が植民地朝鮮においてなされたこと、そして日本植民地支配の一翼を担うものであったのだという特殊歴史的条件への批判的関心において可能となることをしっかりと確認する必要がある。であるがゆえに朝鮮窒素興南工場の事業展開については「定説」を立てて「既知のこと」とするのではなく、常に批判的に分析を更新していく必要があるのだろう。
4)「公害」に向き合う技術者運動
加藤は『現代技術評論』(1976年5月1日刊行)第7号に「「技術主義」的公害論の克服のために―星野芳郎氏の公害観について―」を寄稿する。ここでは技術者運動の中で一定の影響力のある星野芳郎(1922~2007)の技術論に基づく公害への分析に対しての批判を試みている。ここで加藤による星野批判について簡潔に紹介する力量を筆者は持ち合わせていない。しかしながら星野は戦前に東京工業大学電気化学科卒業であり、加藤は1966年東京工業大学卒業の同窓である。また加藤が『現代技術評論』創刊号に寄稿した論文で冒頭に参照している論文は星野執筆[10]のものである。同窓の先輩であることからくるわけではないだろうけれども、加藤の星野の議論への言及は、必ずしも批判一辺倒ではない。星野の地域調査についてはむしろ肯定的な評価を与えているところもある。たとえば『瀬戸内海汚染』[11]については、「・・・しかも瀬戸内海における汚染の進行が具体的にとらえられており、この問題へのひとつの有益なアプローチとして評価することができる」としている。この同時期に星野が手掛けた『反公害の論理』[12]については、(反)技術主義の立場(「技術の枠の中の変化によって公害を絶滅できるとする立場への落ち込み」)に陥没しており、「技術者の視野」を「技術の枠のなかに閉じこめ」てしまうものとして強く批判する。これは技術者が自らの「職責」の範囲内での行為選択に終始することになりかねないという加藤の問題意識なのである。そして加藤は「技術者は技術の可能性を信じるがゆえに技術者であるのであり、技術学的可能性と資本に包摂された技術の可能性とを区別するためには、大きな壁をのりこえる苦闘が必要」としている。加藤の技術主義批判とは、現場における技術者運動の方針をめぐる深刻な論争の一断面を表現しているのだろう。
5)さらなる考察に向けて
本稿においては『現代技術評論』の有力な執筆者の中でも最も若手であった加藤に着目した。加藤が手掛けた水俣病に関する技術史・技術論的考察は上記の通り様々な課題に突き当たり、加藤本人にとって、おそらく想定外の困難な課題に突き当たっていったと思われる。植民地工業化、軍需との関連、そして最先端の開発様式としての臨海工業都市・大規模水力発送電システムの構築などがそれである。こうした問題群については論文寄稿後の振り返り作業において本人が自覚的になる。1988年には『阪神工業地帯』[13]を共同研究の成果として刊行する。加藤は第三章「高度成長期以降の阪神工業地帯」を担当し、終章「阪神工業地帯の特色と発展方向」の冒頭において「阪神工業地帯の旧来の構造がコンビナートとしての性格を含んだものであること」は加藤本人が担当した第三章で確認していることを強調している。このコンビナートとしての性格こそ「素材型重化学工業」のそれであるが、これこそこの十数年前に加藤が向き合った朝鮮興南工場の姿であったことは想像に難くない。いや逆に言えば加藤は『現代技術評論』への寄稿を契機として戦後の日本の重化学工業の展開についての総合的分析に取り組む必要性を自覚するに至ったとみることができる。
一方で加藤が『現代技術評論』において直接的に取り組んできた課題である「公害問題への技術史・技術論的アプローチ」については、1977年4月『日本公害論―技術論の視点から―』[14]を刊行し、この間加藤自身が展開してきた議論をまとめることになった。本書は三部構成であり、第一部が「公害の理論問題」、第二部が「日本における技術進歩と公害」そして第三部が「公害闘争の思想的課題」となっている。本書は技術史・技術論の立場から公害問題に正面から向き合った労作であり、現在における環境問題をも規定する多様な視座と論争が包含された議論の収蔵庫となっていると思われる。加藤自身が自らの議論を論争的に展開するがゆえに、加藤の議論を追尾することで星野芳郎をはじめ先行する世代の技術論者、そして多様に展開する住民運動との邂逅も可能といえよう。
『現代技術評論』の二年間は『技術の社会史』[15]という文明史的総括に向かう方向とは別に、きわめて論争的かつ実践的な方向の議論をも準備した。こちらの方にも注意と関心を払っていくことにしたい。まずは東京工業大学の同窓である星野の議論に加藤がいかに向き合ったのかに注目していきたい。
[1] 前回参照した次の二本の論文。山崎俊雄「日本技術の歴史的反国民性」および黒岩俊郎・大西勝明「日本の資源問題と技術―石炭を中心に―」。
[2] 掲載誌論文末尾肩書は「名古屋大学教授 原子核工学」。本稿では日本における光学産業が軍事技術開発、特に陸軍との関係性を契機として成長する様子を描き出している。主たる論文は下記。没年不明。
小野 満雄・廣川 俊吉,1982,「日本の原子力–その歴史的概観(1)」『技術史研究 : 現代技術史研究会会誌』(63):85-117.
[3] 佐々木 享,1996,「加藤博雄氏を悼む」『産業遺産研究 = Journal of the Chubu Society for the Industrial Heritage』(3):82-4.
[4] 加藤 邦興,1974,「水俣病と「技術のチッソ」」『現代技術評論』(1):25-31.
[5] 加藤 邦興,1980,『化学の技術史』オーム社.
加藤 邦興,1978,『化学機械と装置の歴史』クオリ.
[6] 水俣病研究会,1970,『水俣病にたいする企業の責任 : チッソの不法行為』水俣病を告発する会.
[7] アセチレン化学より石油化学への移行に乗り遅れないように企業努力が必要である情勢。
[8] 久保田豊(1890~1986)は加藤らが論文を寄稿した当時、存命中であり戦後日本の開発援助政策の中軸を担う企業、日本工営社長を務めていた。
[9] 任 正爀,2022,「朝窒コンツェルンの評価に関する研究史的考察 : 書籍を中心にして」『科学史研究. [第Ⅲ期] = Journal of history of science, Japan. [Series Ⅲ]』(300):317-28.
[10] 星野 芳郎,1965,「野口遵と技術革新」『中央公論』80巻第2号:359-65.
[11] 星野 芳郎,1972,『瀬戸内海汚染』岩波書店.
[12] 星野 芳郎,1972,『反公害の論理』勁草書房.
[13] 河野 通博・加藤 邦興,1988,『阪神工業地帯 : 過去・現在・未来』法律文化社.
[14] 加藤 邦興,1977,『日本公害論 : 技術論の視点から』青木書店.
[15] 『技術の社会史』1982,有斐閣.全六巻+別巻.
市民科学研究室の活動は皆様からのご支援で成り立っています。『市民研通信』の記事論文の執筆や発行も同様です。もしこの記事や論文を興味深いと感じていただけるのであれば、ぜひ以下のサイトからワンコイン(100円)でのカンパをお願いします。小さな力が集まって世の中を変えていく確かな力となる―そんな営みの一歩だと思っていただければありがたいです。