【連載】開発主義政治再考 第9回  まとまらない補論、ないし課題としての技術論

投稿者: | 2023年2月20日

【連載】 開発主義政治再考 第9回

まとまらない補論、ないし課題としての技術論

山根伸洋(市民科学研究室会員)

 

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【これまでの連載】

第1回 開発主義政治の第三段階に向けて―開発主義政治の遺産継承をめぐって―
第2回 「総力戦」ないし「戦時動員体制」研究における 課題をめぐって
第3回 TVA-アメリカの経験を読み直す試みについて
第4回 「富国」と「強兵」の関連性について、ないし社会インフラ論
第5回 補論/田園都市国家ないし国家の空間的実践をめぐって
第6回    補論/『技術の社会史』と『現代技術評論』をつなぐ 
第7回 補論/『現代技術評論』の二年間
第8回 補論/『現代技術評論』の二年間(続き)

 

これまで三回にわたって、1974年から1976年までの三年間に8号刊行された『現代技術評論』誌に関連して、そこで交わされた議論についての言及を試みてきた。その試みは、必ずしも『現代技術評論』誌の全般的な紹介ともなっていないし、またその論点を深く掘り下げる内容ともなっていない。いわば辛うじて「補論」的なレベルでの現在から当時を「再読」する筆者なりのきっかけ、契機としてあった。そこにおいて、『日本公害論』[1]に収録されたいくつかの論文や原稿が『現代技術評論』誌上での議論に鍛えられてきたことを改めて知り、そして1970年代において繰り広げられた議論をささえる多様な問題意識に触れることができた。加えて山崎俊雄、星野芳郎そして加藤邦興がそれぞれに向き合い分析を試みた日本そして東アジアにおける産業化・都市化としての社会の近代化に関する議論は、今後の議論を展開する上での大きな道標となった。

加藤(1977)の冒頭「1公害論の課題」の冒頭「一公害と環境問題」において「対象である公害問題を絶えずとらえかえすことなしに、公害論を一段落ついたものと見なし「次は環境論だ」という意識に流されるのであれば公害問題と環境問題の区別すらなしえないだろう」とする。そのうえで1964年に刊行される『恐るべき公害』[2]を参照し、公害が資本主義的「生産関係」の矛盾であるという説明が与えられたところを議論の出発点に据える。その後、産業化・都市化全般が人間の住環境を悪化させているとする議論、いわゆる環境問題としての問題設定が説得力を持つにつれて、社会主義経済体制においても人間の住環境破壊はありうるとする議論が引き起こされていくことを紹介する。そこで加藤(1977)は、公害問題と環境問題の区別と連関について、次のような手際で見事に整理する。すなわち「公害問題を生産関係に起因する問題であるとするならば、環境問題は生産力の一般的性格に起因するものである[3]」と。それに続いて「巨大化した人間の物質代謝が、人間と自然との物質代謝それ自体として、すでに社会的なものとして把握せざるをえず、むしろ社会と自然との物質代謝として把握されなければならない」とする。「人間の物質代謝」の「巨大化」を把握する指標として、「人口1人当りのエネルギー消費量」「日本における水の循環」「日本における水源別水利用概況」「地球における窒素の循環」ないし「石油および石炭の燃焼によって大気中に放出される炭酸ガス」などのデータをみることで、歴史的に見て、「人間の社会的な物質代謝」が本質的に非循環的な地下資源の代謝を含むものであるがゆえに、「本来的には回帰的な循環でありえたきわめて普遍的な物質の循環」を「社会的な」物質の循環に「変化させたのである」[4]とする。もちろんこの分析視角は、「脱炭素」[5]が「国家政策」の基軸の一つとして呼号されている現在からみれば、実に先見の明をもったものといえる。さらに「公害(環境破壊、引用者)」を「回帰的な循環状態の破壊としてだけとらえる立場」からでは、「公害不可避論」ないし「人間社会の原始状態への復帰論」しか生まないだろうとする。この警句が当たっているか否かはともかくとして、現実的には「人間社会の原始状態への復帰」は困難なので、一定の「公害(環境破壊)の受容」をせざるを得ない、といった通念ないしは「社会意識」の形成を予見していたともいえるだろう。

加藤(1977)は、1970年代、1950年代から1960年代の二十年間にわたって繰り広げられてきた戦後復興から東西冷戦期における体制間での重化学工業化を基本とする地域開発競争と、その矛盾が噴出した1960年代末から1970年代初頭の議論[6]を踏まえて、改めてマルクスが向き合った資本制生産様式の展開における矛盾として、公害問題そして環境問題を位置付けることを試みた。そして「水俣病」「イタイイタイ病」「PCB汚染」の三つを公害の典型的事例として紹介することを通じて、執筆時点において社会的に暴露された諸事象を的確に整理して指摘することで、次のような暫定的な態度表明を行う。すなわち「このように見てみるならば、日本の公害が自然と人間の関係についての人間の無知によって生じたなどというものでないことは明らかである」と。「原因も結果もはっきりしていながら、なおかつ有害物質が環境に放出され、国民がそれによって日ごとに殺傷されているという事態」として、エンゲルスが「社会的殺人」と断じた事態[7]として日本の公害を説明する。

加藤(1977)は環境問題を特定の生産関係に固有のものではないものとすることで、公害問題より広い概念としてとらえながら、環境問題は資本主義的生産様式のもとでは公害問題としてのみ現象するとして無規定的に環境問題を拡張することには批判的な立場をとっていた[8]。とはいえ加藤(1977)は人間と自然との関係において労働という契機がもたらす効果について、「社会的人間の生産活動は狭い意味での自然環境を破壊するものである」というところから、自然に対する「能動的地位」を占めることになった人間(社会)の在り方がいかに構想されるべきなのか、そうした問題意識を抱いていたように思われる。その関心の中で、マルクスが『資本論』[9]において「第四編 相対的剰余価値の生産」の「第13章 機械と大工業」の「第10節 大工業と農業」で論じた部分における人間と自然との物質的代謝について、大工業がその攪乱を引き起こす、という部分に続き「かの物質代謝の単に自然発生的に生じた状態を破壊することによって、再びそれを、社会的生産の現実的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する」という言及を強調する。この強調の含意は次の引用に凝縮されているだろう。

「人間は労働手段の創出と使用によってみずからの動物的自然的力量をのりこえて自然にたいする能動的な地位を占めた段階から、自然環境を破壊し続けてきた。この破壊を、一般には積極的な意味をこめて変革とよぶのであるが、これは人間もまた自然の一部であり、人間による自然の破壊もまた地球の全自然史的発展の一部と見られるのであるから、きわめて正当な呼びかたといってよい。」[10]

この引用からは、加藤(1977)が必ずしも人間の手によって自然を自らの存立に照らして破壊=変革することを否定していない、それどころかむしろそれを歴史的必然とする立場をとろうとしているようにも見える。ところで、マルクス『資本論』の先ほどの引用箇所に続いて、その節の末尾には次のような文言がやってくる。マルクスは大工業の展開事例として北米を参照しつつ、大工業の発展が(自然の)「破壊」を急速にするとして、「それゆえ、資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊(変革)することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである[11]」とする歴史的な見通しを示している。

加藤(1977)の冒頭における課題の整理を追尾することで、あらためてその課題の難しさを感じてしまう。東西冷戦期のその渦中に於いて、地域住民の公害問題を技術論的視角から捉えていこうとする試みは、課題の提起として極めて大きな意味を持ったと言える。1970年代にはいると「成長から世界的な均衡」[12]への移行を標榜する国際的なレポートも提出されて国内においても「公害問題」の顕在化・住民闘争化および規制法制度の確立等の動きとも連動して大きく社会意識が変容していくことになる。戦後復興から高度経済成長を支えた開発様式(重化学工業化・産業都市化など)が根本的に行き詰った1970年代における代表的な現状分析および中間総括の研究書として、加藤(1977)は位置づいていると思われる。また1960年代半ばにおける「石油コンビナート建設阻止という歴史的成果をあげた沼津の住民運動」[13]の成果は、後の巨大開発反対をスローガンとする住民運動へ、その経験が継承されていく。この時代に、第二次世界大戦後の社会がいかなる青写真を下敷きとして構想されたか、ないしは、その開発様式の選択をめぐる政治過程についての考察は、おそらく時代的制約のもとでの不十分性もあったのではないかと、『現代技術評論』のいくつかの論文に言及しながら筆者は指摘してきた[14]。また『現代技術評論』の時代、1970年代半ばにおいて青年研究者であった加藤邦興は、自らの恩師の山崎俊雄や影響を受けたであろう先輩の星野芳郎氏が抱いていた問題意識とどのように共鳴しあっていたのか、断片的にしか見ることができないし、それぞれの思惑のすれ違いもあったであろうことは、加藤の星野への言及の端々から感じることができる。にもかかわらず世代間で抱いていた思いの違い、世代を超えて共有された思いの交差の故に『現代技術評論』誌刊行の三年間でかくも激しく豊かな議論が展開されたのではないだろうか、と筆者は考える。

『現代技術評論』に関連する補論に取り組むにあたり、山崎俊雄、星野芳郎をはじめとする方々が筆者[15]の母校でもある東京工業大学の同窓の先輩方であり、科学論・技術論ないし科学・技術と社会との関わり方についての議論、科学技術に関する一般的な啓蒙、そして何よりも公害・環境問題についての実地の調査活動に携わられてきたことを知ることになった。補論を積み上げているうちに本論と見分けがつかない状態になっているので、ここで補論は終了としていきたい。そもそも「開発主義政治再考」は、開発主義政治の功罪を明らかとすることによって、私たちの生存条件の維持・改善に貢献しうるような科学技術に基づく開発実践はいかに構想可能なのであろうか?という問題意識に基づいてはじめられたものであった。今後はそのような問題意識に基づいて、日本ないし東アジアの近現代史に対する考察を軸とした歴史社会学的な考察に復帰していきたい。

そのうえで重要なことは加藤(1977)が指摘するマルクスの言うところの「社会的生産の技術と結合」の「発展」の様相をいかに歴史過程から汲み上げることが可能か?ということなのであろう。本連載に取り組む中で加藤邦興先生に師事された市川浩先生より『加藤邦興教授遺稿』を頒布していただいた。それは未定稿ではありながらも『公害と技術の近代史』「第3章「公害地帯の形成」」として京浜地区から瀬戸内地区におよぶ重化学工業地帯の形成についての技術史的考察の構想ノートであった。加藤邦興氏の1970年代から足掛け30年にわたって取り組まれてきた課題に触れて改めて、過去の経験の内に未来への展望を掴む契機は埋め込まれている(はずだ)と思わざるを得ないのである。

次回以降、連載第4回に継続する議論の中で上記の問題関心についても言及していく。

[1] 加藤 邦興,1977,『日本公害論 : 技術論の視点から』青木書店.

[2] 庄司 光・宮本 憲一,1964,『恐るべき公害』岩波書店.

[3] 加藤(1977):11.

[4] 加藤(1977):16-21.

[5] 環境省「脱炭素ポータル」脱炭素は現在では国家政策形成の軸の一つである。

https://ondankataisaku.env.go.jp/carbon_neutral/

[6] 下記文献において、公害問題に関する国際的議論の展開の紹介から入り、ソ連・アメリカ・日本における公害問題の事例の紹介から議論をはじめて、当時においてきわめて現在的であった公害をめぐる政治・社会過程における多様なアクターの動きを追尾する中で生成しつつある諸権利や多様な分析視角を学問的に位置付けている。

都留 重人,1972,『公害の政治経済学』岩波書店.

[7] 加藤(1977):31.

[8] 加藤(1977):14.

[9] Marx Karl・Engels Friedrich・マルクス・レーニン主義研究所・大内 兵衛・細川 嘉六・岡崎 次郎,1965,『マルクス=エンゲルス全集. 第23-25巻』大月書店:656-657.

[10] 加藤(1977):11-12.

[11] 「社会的生産過程の技術と結合とを発展させる」という指摘の意味を探求することは、加藤(1977)でいうところの「技術論の視点」の探求と同義であると思っている。

[12] Meadows Donella H.・大来 佐武郎,1972,『成長の限界 : ローマ・クラブ「人類の危機」レポート / ドネラ・H・メドウズ [ほか] 著 ; 大来佐武郎監訳』ダイヤモンド社.

[13] 宮本 憲一,1979,『沼津住民運動の歩み』日本放送出版協会.

[14] 連載「第7回 補論/『現代技術評論』の二年間」「第8回 補論/『現代技術評論』の二年間(続き)」を参照のこと。

[15] 筆者は東京工業大学に1986年に入学。学生時代にはサークル連合会社会ブロック公害研究会というサークルに在籍した。もっぱらチェルノブイリ原発事故関連の議論に終始していた覚えもあるが同窓の先輩に、技術論の視点からの公害論に取り組んだ研究者の存在を知り得なかったことについては後悔しきりである。

 

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