【連載】21世紀にふさわしい経済学を求めて(19)

投稿者: | 2023年2月20日

連載

21世紀にふさわしい経済学を求めて

第19回

桑垣 豊(NPO法人市民科学研究室・特任研究員)

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「21世紀にふさわしい経済学を求めて」のこれまでの連載分は以下からお読みいただけます。

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回

第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回

第13回 第14回 第15回 第16回 第17回

第18回

第1章  経済学はどのような学問であるべきか (第1回から)
第2章  需給ギャップの経済学 保存則と因果律 (第2回から)
第3章  需要不足の原因とその対策 (第4回から)
第4章  供給不足の原因と対策 (第6回から)番外編 経済問答その1
第5章  金融と外国為替市場 (第8回から)
第6章   物価変動と需給ギャップ (第10回から)
第7章  市場メカニズム 基礎編 (第11回から)
第8章  市場メカニズム 応用編 (第13回から)番外編 経済問答その2
第9章  労働と賃金(第15回から)
第10章 経済政策と制御理論(第16回から)
第11章  経済活動の起原(第17回から)
第12章  番外編 経済問答その3(第18回)

 

今回は、世界各地の文明から経済活動の起源をさぐります。

 

11-2 メソポタミア シュメール:キエンギ

1)文字の起源

メソポタミアでは、シュメール文明が紀元前3300年頃に都市国家ウルクで文字を生み出しますが、それは税などの記録として始まりました。シュメール(正確にはシュメルが近い)という呼び方は、後のアッシリア語の言い方で、当時は「キエンギ」と言いました。図11-2は、楔形文字でキエンギの表記を模写しました。元の文書は、紀元前2100年頃のウル第3王朝初代の王ウルナンムの碑文です。3文字で「キ・エン・ギ」です。ややこしいことに、キエンギはシュメール語ではなく、先住民族のウバイド人の呼び方だったようです。いろいろな地名にウバイド語が残っています。さらにややこしいのは、ウバイド語の言い方をやめてシュメールの言い方に変わってもつづりはそのままだった例もあり、漢字の当て字のようです。有名な都市国家ラガシュは、「シルブルラ」と読めるつづりで書きました。

図11-2  楔形文字の例  「キエンギ(シュメール)」

 

メソポタミアというのは、ずっと後の時代の古代ギリシャで、2つの川の間の地域という意味です。2つの川は当然、ティグリス、ユーフラテス川のことですが、キエンギでは当時「イディギナ」「ブラヌン」と呼んでいました。

西アジア各地で、文字に先行するトークン(駒)という粘土でできたミニチュアを紀元前8000年頃から使い始めます。これは、農産物や家畜などの形をしていて、収穫量や家畜の数をこのトークンの種類と数で表しました。3次元の文字と言えるかも知れません。商業活動が活発になり、貸し借りや取引の記録のために使ったようです。紀元前3500年頃、このトークンを粘土でできた毬(粘土封球/テニスボール大)の中に入れて、その数だけトークンを押し付けて種類と数を粘土表面に深めにあけた穴として表し、改竄できないようにその上から円筒印象で画像を刻印しました。穴のほうが深いので、浅い刻みの円筒印象を刻んでもその数を読み取ることができました。やがて、中にトークンを入れないでも数さえ平たい粘土版に刻めばいいことに気が付きます。

その後、数を表す文字が独立し、トークンの種類を表す記号をトークンに似せてつくりました。トークンの2次元化です。これが楔形文字に先行する絵文字で、人類が初めて文字を使うことになったのです。ものを一文字で表すということは、漢字のような表意文字だということです。この絵文字は、1世代の間の短い期間にできたことがわかっているので、だれか特定の一人が発明した可能性があると言います。

現在、言語学では「表語文字」と言いますが、これは不正確で、どんな文字でもことば(語)を表すのは当たり前です。英語か何かの直訳で「表単語文字」とすべきところを「表語文字」としてしまったのでしょう。言語学者なのに、「Word=語」などと日本語と英語などのヨーロッパ語を一対一対応できると思っているのでしょうか。その上、「楔形」(二文字)、「日本語」(三文字)という表現でもわかるように表意文字(漢字)一文字では単語にならず、二文字、三文字で単語になる例も多いので、「表単語文字」でもありません。

第11章の冒頭(第17回連載)で、「壺の中身の穀物などの種類を表す」と書いてしまいましたが、穀物を入れた壺に文字を書いたわけではなく、現物とは別の場所で記録をするための封球の表面に書いていました。訂正します。

ところで、日本語の「書く」ということばは、何をあらわしていたのでしょうか。おそらく「引っ掻く」「欠く」というような意味だと思えます。日本で初めて文字を使ったのは、古墳時代に鉄剣や石に刻んだ文字です。これを金石文(きんせきぶん)といいます。それが後の飛鳥時代に木簡に墨で書くようになり、やがて紙に書くようになります。シュメールでも粘土板に芦の茎で文字を引っ掻いたので、まさに「書いた」わけです。

その後ほどなく、シュメールの東隣りのエラム(今のイランの一地域)やエジプトでも、文字を使うようになります。シュメールの文字がそのまま伝わって変形したというより、文字という発想が伝わったようです。エジプトの象形文字は、シュメールの文字とはしくみが違います。

紀元前3000年ごろに、シュメールの絵文字は楔形文字に置きかわっていきます。絵文字を形をたくさんの楔形の棒で表すようになるのです。一つの楔形は、芦の茎で刻みやすい形で、ネジを横からみたような形です。その後、紀元前3000年紀(紀元前3000~2000年の意味)中ごろ、別の言語系統の古アッカド語も楔形文字で表すようになります。

それができるようになったのは、楔形文字が同じ発音の別のものをあらわすのにも使うようになったからです。アルファベット(ラテン文字)のような音素文字ではなく、日本語のかなやハングルのような音節文字でした。しかし、万葉仮名のように、同じ文字でも、意味をあらわす場合と発音をあらわす場合があって、考古学者が解読するのに苦労しました。おまけに、読まない意味符号があって、横にならんでいる音節をあらわす文字の同音異義語を区別する働きをしていました。漢字で、偏が意味をつくりが音を表すことがあるのと同じです。漢字はそれを一文字としてあつかいますが、楔形文字では独立した文字なので、表音文字に慣れ親しんだヨーロッパ人にはたいへんだったと思います。

数字のほうも少し説明します。基本は60進法でした。60進法の下位の倍率を表す1~59の数は、10進法です。例えば、以下のようなしくみです。

999={(60×10)×1+60×6}+(10×4―1)=600×1+60×6+39=600+360+39

600は、60の記号の横に10の記号を書くのではなく、60の記号の中に〇をかき込み、一つの記号のようにします。3000は、この600の記号を5つ並べます。ローマ数字のように引き算表記もあったので、図11―3のように58を(60-2)という書き方をしました。ローマ数字の58は、LⅡX=50+(-2+10)。下の位の数を左に書くと引き算になりました。シュメールでは、右下に囲いを書いてそこに引く数を書きます。

図11-3 シュメールの数字(絵文字)とトークンに基づく絵文字

シュメール語の文法は、名詞のあり方では日本語と同じく世界的によくある膠着語(名詞と助詞などのセット)でした。語順でも日本語などと同じで、世界の多数派である最後に述語が来るタイプです。ヨーロッパ語や中国語が膠着語でなく孤立語(名詞の語尾変化)であり、動詞が最後ではないので、日本語は少数派だと思っている人が多いですが誤解です。インド・ヨーロッパ語族という用語もありますが、これは語彙(同じ意味のことばを近い発音で表す)による分類で、文法による分類とは違うので注意が必要です。シュメール語は、ほかに類似の語彙体系が見つかっていないので、インド・ヨーロッパ語族でもありません。語彙による言語系統がたどれるはずだと思うのも、古代ローマの占領軍が軍事力で言語を広めたためにヨーロッパ語に共通性が高いという例外を一般化してしまったせいです。日本語のように、北、西、南からいろんなことばが流れ込んで融合している場合も、系統分類にはなじみません。

その後の文字の歴史もおもしろいですが、それは参考文献にまかせて、経済活動の歴史にもどりましょう。文字の起源は、経済活動の記録で始まったことがわかったのは最近です。シュメール文明自体の存在に気が付いたのも19世紀後半で、本格的研究は20世紀になってからです。文字を刻んだ粘土版が、メソポタミア地域から見つかったのがきっかけでした。それまでは、旧約聖書や古代ギリシャ(当時はヘラス、現代ギリシャはエラス)の歴史記述は、紀元前1000年前までしかさかのぼれないので、ほとんど手掛かりがありませんでした。その上、メソポタミア地方の発掘も旧約聖書の記述の確認という動機で始まったので、大きな先入観が解釈の妨げとなりました。

【参考文献】
・『世界の文字の物語  ユーラシア  文字のかたち』(展示図録)古代オリエント博物館・大阪府立弥生文化博物館編 同館発行 2016年
この本には、最新の文字の起源に関する説明が載っています。編集者である2つの博物館であった展示の図録なので、手に取って見るのはややむずかしいかも知れません。
・『古代メソポタミア語文法  シュメール語読本』飯島紀 信山社 2011年
やや未整理でわかりやすい本ではありませんが、楔形文字とシュメール語の全般的な解説が載っている現在購入できる唯一の本です。
・『シュメール人の数学  粘土板に刻まれた古の数学を読む』室井和男著、中村滋コーディネーター 共立出版 2017年
税や土地の面積の計算のために初歩的な数学が始まりました。計算のための数学で、高校数学で理解できるレベルです。この本には、著者の室井氏がシュメール人が複利(30%)で大麦を貸しているいることを発見した経過も書いてあります。

 

2)貨幣の起源

金属貨幣の中で銀をはじめて貨幣としてあつかったのは、シュメール文明でした。コインではなく、秤量貨幣として重さを量って使いました。都市国家分立の初期王朝時代(紀元前2900~2260年)の後半からだと思えます。

初期王朝時代末期のラガシュ王ルガルアンダの時代には、奴隷を銀で買った記録があるといいます。その次の時代のアッカド王朝時代(紀元前2260~2130年)、ハルという螺旋状に加工した銀がありました。ハルは持ち運びに便利で、必要なところで切って重さを調整して、支払いに使いました。重さの単位「シュケル」(8.3g)で量りました。

ウル第3王朝時代(紀元前2100~2004年)には、1シュケルの銀を1ギンと呼び、1ギンで買えるものの量や数のリストがあります。物価表です。銀とギンが同じ発音なのは偶然です。紀元前2004年のシュメール文明滅亡後も、ギンは貨幣単位として残ります。大麦や羊も支払いの手段になりましたが、銀との交換比率ギンは価格表示方法の標準でした。これは大麦や羊などの実物貨幣から、コインとしての金属貨幣の成立の間の時代のお金のあり方です。コインとしての貨幣のはじまりは、これもメソポタミアですが、だいぶあとの紀元前700年です。日本の飛鳥時代に通貨が登場して、米や布などの実物貨幣とともに流通しだしたことと類似しています。もちろん、3000年以上の時代の隔たりがあります。日本や中国では、その金属価値よりも額面価値が高い銅貨を同時に発行していたので、そこは大きく違うのですが、時代がずっと後だけに貨幣は進歩していたと言えるでしょう。

ここで、簡単にシュメールの国家形態の変遷を参考文献にあげた前田氏の著書をもとに説明しておきます。初期王朝時代は、都市国家として有力な都市が分立します。ラガシュ、ウル、ウルク、キシュ、ウンマなどです。これらは、王家=都市国家で王家の家政管理がそのまま都市国家経営になりましたから、いろいろな職業や身分の家が分業していたのではなく、一つの会社が社長の元に一体として経営しているのに似ているかも知れません。あるいは、「古代版計画経済」と言えるかも知れません。

その後、周辺の農地なども都市国家に併合する領邦国家時代をへて、すべての土地をどこかの国家に所属させる領域国家に移行します。都市国家分立時代のいくつかの都市は、より有力な都市に併合される時代でもありました。領域国家の時代に、シュメール人には異民族支配のアッカド王朝時代を迎えます。アッカド王朝時代の後半は、シュメールの地全土をアッカド王朝が支配する統一国家期になります。やがて、混乱期をすぎると都市国家ウルがシュメール全土を支配するウル第3王朝時代になります。図3ー2の碑文の時代の王ウルナンムがシュメール人の支配を取り戻します。

ただし、100年あまりでシュメール文明は滅亡し、アッカド語系のバビロニアやアッシリアの支配する紀元前2000年紀(紀元前2000~1000年)が始まります。その後2000年間、シュメール語とそれを表す楔形文字は古文として生き残ります。今に残る文字の系統はエジプトの文字で、楔形文字は紀元ゼロ年ごろに途絶えます。そして、シュメール文明は19世紀になるまで、だれもその存在さえ知らない時代がつづきます。

【参考文献】
・『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』小林登志子 中公新書2323 2015年
シュメール文明に貨幣があったことや、身分、暦などの実体が書いてあります。比較対象の日本の記述には違うと思えることもありますが、エジプトなどほかの文明との比較は勉強になります。
・『初期メソポタミア史の研究 早稲田大学学術叢書52』前田徹 早稲田大学出版部 2017年
経済活動の背景にある都市国家、領邦国家、領域国家、統一国家というシュメール文明の統治形態の変遷が書いてあります。
・『古代オリエント史講義 シュメールの王権のあり方と社会の形成』 前田徹 山川出版社 2020年
経済記録としての粘土板文書のくわしい解説があります。2冊で対になる前田氏の著書です。

 

3)徳政令「母に子を返す」

シュメール社会でも、やがて富の格差は広がり、不満がつのり経済運営にも支障が出たようです。そこで、日本の歴史では鎌倉時代に登場する「徳政令」を、シュメールの王が発令することになります。徳政とはよい政治の意味ですが、土地などを元の持ち主に返す政策となって実現し、一定年数をへた借金も棒引きにすることを意味するようになります。日本の徳政令のくわしい説明は、のちの章でくわしく展開しますが、本質はシュメールと同じだったようです。

シュメールでは、徳政のことを「母に子を返す」と表現しました。借金の棒引きや、借金が返せなくなって奴隷になる債務奴隷を解放する政策です。王の業績をたたえる文章や碑文に記録があります。

さて、お気づきと思いますが、シュメールではお金の貸し借りがあり、金融業もあったということです。利子も存在して、しかも複利でした。これを証明したのは、前述の『シュメール人の数学』の著者室井氏です。ヨーロッパ人やイスラム教徒の常識では「利子をとるなんてとんでもない、ましてや複利とは」ということでしょう。しかし、この問題は思想の問題ではなく、作物の種籾からの同じ実が何倍取れるかの問題のようです。シュメールでは、大麦の収穫効率は高く、30~50倍だったようで、利子をつけても割りと楽に返せたようです。これは、中国や日本でも同じです。日本は米だったので、公的強制貸出種籾制度「出挙(すいこ)」は倍返しつまり利率100%でしたが、優良な品種の種籾を貸してもらえるので成り立ったようです。

しかし、シュメールでも日本でも天候不順などで返せなくなることもあるでしょう。金融で富を蓄えた人がさらに富を増やすことで、経済格差は拡大します。そこで、ときどきご破算(ごわさん)にする徳政令を発令するわけですが、一端徳政令を出すと次から借りにくくなるなど、副作用もあります。

そのせいか、初期王朝時代末期のラガシュ王ウルガギナの徳政は挫折して、その後ほどなくウンマ王ルガルザゲシの攻撃にラガシュは敗北します。

【参考文献】
・『シュメル 人類最古の文明』小林登志子 中公新書1818 2005年
・シュメール文明に徳政令が存在したことが書いてあります。

 

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