【連載】21世紀にふさわしい経済学を求めて(17)

投稿者: | 2022年9月12日

連載

21世紀にふさわしい経済学を求めて

第17回

桑垣 豊(NPO法人市民科学研究室・特任研究員)

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「21世紀にふさわしい経済学を求めて」のこれまでの連載分は以下からお読みいただけます。

第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回

第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回

第13回 第14回 第15回 第16回

第1章  経済学はどのような学問であるべきか (第1回から)
第2章  需給ギャップの経済学 保存則と因果律 (第2回から)
第3章  需要不足の原因とその対策 (第4回から)
第4章  供給不足の原因と対策 (第6回から)番外編 経済問答その1
第5章  金融と外国為替市場 (第8回から)
第6章   物価変動と需給ギャップ (第10回から)
第7章  市場メカニズム 基礎編 (第11回から)
第8章  市場メカニズム 応用編 (第13回から)番外編 経済問答その2
第9章  労働と賃金(第15回から)
第10章 経済政策と制御理論(第16回から)

 

注:歴史の記述なので、ここからは文体を「ですます調」にします。

第11章 経済活動の起源

考古学の進歩により、文書に残っていない時代の経済活動の実態が見えてきました。一部、歴史学(文字資料)の成果もとりいれつつ、経済活動の起源にせまります。日本の例を中心に、中国、インド、メソポタミアにもふれます。

状況証拠しかない場合も多いですが、旧石器時代の流通網の可能性や、縄文時代の交換、弥生時代の加工業、古墳時代の布や米などの実物貨幣、飛鳥時代の貨幣発行政策などが、明らかになりつつあります。

日本の後期旧石器時代後半(2万9千年前~1万数千年前)には、長野県の高原地帯(鷹山遺跡など)で、黒曜石から石器をつくる専門集団が生まれています。石器と食料を交換していた可能性が高いでしょう。移住生活をしていたため、流通網はほとんどなかったようですが、市場の芽生えが見えます。伊豆諸島の神津島へは遠洋航海によって、黒曜石採取にたびたび赴いていたことから、なんらかの流通網の存在もうかがえます。

縄文時代は定住が進んだため、黒曜石や塩など供給源が限られるものは、流通網を必要としました。新潟県糸魚川産のヒスイは、広域流通していました。

弥生時代から飛鳥時代後半の富本銭(銅銭)と無紋銀銭発行までは、布や米などの実物貨幣が交換の媒体も兼ねていました。万葉集から、交換の場であった市のようすがうかがえますが、本格的に米作が始まった弥生時代にさかのぼるでしょう。それは同時に豊作のときの余剰米発生と貨幣化が関連し、需要不足の起源につながります。実物貨幣の存在は、少なくとも古墳時代には、さかのぼれるそうです。

7世紀末の藤原京(新益京:あらましのみやこ)以後は、都に官営市ができました。平城京では、東西それぞれ市司(いちのつかさ)という役職の元に価長(かちょう)を置き、物価調査官5名を任命していたことがわかっています。価格は、公定価格、半公定価格(沽価:こか)、自由価格の3つに分かれていました。物価調査結果に基づいて、沽価の水準を決めていたようです。

中国では、甲骨文字の解読が進み、貝貨は商(殷)王朝にはなかったことなどが判明しました。春秋戦国時代に金属貨幣が広まりますが、孟子には「一物一価」を否定する記述があり、すでに紀元前に均衡市場を非現実的とする認識がありました。

インドでは紀元前6世紀以前に金属貨幣が登場し、分業社会が進展します。その後、紀元前5世紀以後(いくつかの年代説がある)に出現した仏教は、新しい商人階層がカーストを超えた流通を目指したことから、その平等思想を受け入れ、多くの信仰を集めます。

メソポタミアでは、シュメール(当事の自称は「キエンギ」)文明が文字を生みますが、それは税金の記録として始まったようです。穀物などを壺に入れて税として集めましたが、壺の中身の穀物などの種類を表す表意文字と量を表す数字を組み合わせて、封泥に刻みました。

新古典派経済学や西洋の歴史では見えにくい経済活動の起源を、日本とアジア各地の考古学と歴史の成果からさぐります。

11-1 日本の旧石器時代から古代まで

1)前期旧石器時代

2009年、島根県砂原遺跡、板津遺跡(12~13万年前)で、前期旧石器時代の本格的遺跡がみつかります。石器の埋まっていた上下の火山灰層の年代から旧人類のものであり、ヨーロッパのネアンデタール人、中央アジアのデニソワ人にあたることがわかりました。石器の流通があったかどうかは、不明です。旧石器時代は、移住生活で道具をもって移動するので、流通システムは不要かもしれませんが、何らかの流通品があった可能性はあります。

2000年に遺跡の捏造が発覚してから、4万年前以前の前期旧石器遺跡全体の存在が疑わしいものとなってしまいました。しかし、捏造事件以前から、捏造遺跡以外にも4万年以上前の遺跡が見つかっており、砂原遺跡をはじめとして十数カ所の遺跡が見つかっています。19万年前から13万年前ごろまでの寒冷化(氷期)で朝鮮半島と九州の間の水路が細くせばまっていたときに、旧人類が冬凍結した海を日本列島まで渡ってきて、定住していたのは間違いありません。

【参考文献】
『旧石器が語る「砂原遺跡」 遥かなる人類の足跡をもとめて』松藤和人、成瀬敏郎 ハーベスト出版 2014年
『日本列島人類史の起源 「旧石器の狩人」たちの挑戦と葛藤』松藤和人 雄山閣 2014年
『人類進化の秘密のわかる本』科学雑学研究倶楽部編 学研プラス 2016年

 

2)後期旧石器時代 黒曜石/サヌカイトの流通

後期旧石器時代は、3万8千年前ごろに始まります。大陸からわたってくることができるほどの海面低下があった最寒冷氷期はその後の2万年前ごろの数千年間ですから、日本列島にわたって来た現世人類は、遠洋航海をしたことになります。丸太を削る技術はなかったので、草船か皮船でないかということですが、意外に石器が発達していて丸木舟をつくっていたかも知れません。それまでは、旧石器時代には遠洋航海をしていないことになっているので、大きな発見です。外国では、5万年前くらいにオーストラリアに到達した人類も遠洋航海しています。

後期旧石器時代前半(3万8千年前~2万9千年前)のはじめから、伊豆諸島の神津島(正確には近くの恩馳島:おんばせじま)へは遠洋航海によって、黒曜石採取にたびたびおもむいていました。なんらかの流通網の存在も、うかがえます。日本列島での旧石器時代の発見につながった群馬県岩宿(いわじゅく)遺跡では、3万5000年前くらいに磨製石器(石斧:せきふ)を使っていたことがわかり、旧石器時代の定義では存在しないことになっていたので、これも大発見です。この磨製石斧で丸木舟をつくって、遠洋航海していたのかも知れません。

後期旧石器時代後半(2万9千年前~1万数千年前)には、長野県の高原地帯(鷹山遺跡など)で、黒曜石から石器をつくる専門集団が生まれています。石器づくりの労働に時間をとられることから、石器と食料を交換していた可能性が高い。移住生活をしていたため、流通網はほとんどなかったようですが、市場の芽生えが見えます。夏に石器の産地である中部高原地帯に行き、冬は関東地方に降りて行くという1年で100キロ以上の巡回を繰り返したいた例は確実です。

基本的には、自前(家族)で石器製作していたので、流通システムはほとんどなかったでしょう。石器は大陸と共通の製法も見られるので、広域流通していなくても、技術伝搬があったのは確実です。

縄文時代にも共通の問いですが、どのような石器流通の形がありえたでしょうか。候補を上げてみましょう。

  • 流通形態の候補
    1 自分で持参し移動生活
    2 バトンタッチ式に交換
    3 同じ人が広域運搬する

季節移動で年間100キロ以上移動した例も多い旧石器時代人は、自分で道具を持ち歩いた「1」は確かですので、流通網があったとしても一部でしょう。ここまでで説明したように、後期旧石器時代後半には、石器の産地で交換して、移動していたのも確かです。

神津島の黒曜石は200キロ以上はなれた地点でも見つかっています。移動先で交換していれば、「2」「3」の可能性があります。黒曜石、サヌカイトは産地が限られるので、移住生活で自分で手に入れるのは無理です。別々の移住圏がかさなる地点で、交換していたと思います。それは、一部でもバトンタッチによる広域流通があったことを意味します。すでに述べた技術伝搬経路と同じかも知れません。しかし、「2」のバトンタッチが本格化するのは、定住が前提になるので、縄文時代以後です。

「3」は移住生活のついでではなく、兼業でも運搬を専門にする人達を意味するので、縄文時代でもほとんどなかったかも知れません。人形峠に近い岡山県北部の恩原(おんばら)遺跡群は、標高730メートルあたりにあり、石器のタイプなどから東北から500キロ移動して移住してきたことがわかっています。これは「3」の広域運搬ではありませんが、集団移住が技術や文化を伝えたことになります。しかも、無人の高原に移住(植民)してきたのです。

移住生活と定住生活とは、判然と区別できると思われるかも知れません。旧石器時代でも、後期旧石器時代後半になると、大型動物(マンモスやナウマン象など)が絶滅して中型動物(シカ、イノシシなど)が狩りの中心になるので、あまり広域移動しなくなります。ただし、遺跡が残るような定住跡は見つかっていません。

縄文時代は、定住と言っても季節移住はするので、年中同じところにいない例が多そうです。ただし、住居の遺跡がたくさん見つかっているので、期間も数カ月と長く、住居も柱を立てるなど遺跡として残るしかっりしたものになります。

日本列島の後期旧石器時代には、それまで新石器時代以後ということになっていた技術や現象がみつかっています。それをまとめておきます。

・遠洋航海
・磨製石器(局部磨製石斧)
・小型落とし穴
・環状集落

技術があるということは、それに見合った経済活動や文化があったということです。日本にあるのなら、世界中でも見つかるかも知れません。そうでないとすると、日本列島はユニークな文化・技術がいくつもあったことになります。

後期旧石器時代、もっとも大きな海面低下があった最寒冷氷期は2万年前ごろの数千年間で、100メートル以上海面低下していました。深度130メートルくらいに、世界的に大陸棚がありますが、これは当時の平野の跡です。瀬戸内海も東京湾も陸でした。北海道は、大陸と樺太につながる半島でしたが、津軽海峡は存在しました。沖縄は、大陸や九州とはつながっていませんでしたが、いくつもの島がつながっていて大きな島になっていました。中国沿岸の広大な大陸棚も全部陸地です。今後の海底探査技術の進歩で、驚くべき海底遺跡が見つかるはずです。長生きしましょう。ただし、神津島と本州の間は、ずっと深く距離も数十キロあったので、遠洋航海していたのはまちがいありません。

地域の資料館や博物館で、一番はじめのコーナーは、ほとんど旧石器時代か縄文時代です。旧石器時代のコーナーは、石器が数点展示してあるだけのことが多いので、たいていの人が素通りします。でも、少し知識が身につくとおもしろくなってきます。ポイントは、石の材料と、どういう地形の場所でその石器が見つかったかです。地図がなくて、遺跡名(旧小字名で名付ける)しか書いてないことが多いので、地図と照らし合わせてみましょう。

【参考文献】
『列島の考古学 旧石器時代』堤隆 河出書房新社 2011年
『旧石器時代ガイドブック ビジュアル版』堤隆 新泉社 2009年
『黒耀石の原産地を探る 鷹山遺跡群』黒耀石体験ミュージアム 新泉社 2004年
『旧石器人の遊動と植民・恩原遺跡群』稲田孝司 新泉社 2010年
『旧石器時代 日本文化のはじまり』佐藤宏之 教文舎 2019年
『旧石器考古学辞典 三訂版』旧石器文化談話会編 学生社 2007年

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