【連載】「日中学術交流の現場から」第12回 北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(第三便)

投稿者: | 2022年12月1日

【連載】日中学術交流の現場から 第12 回

北京からゴジラ同級生俳優、宝田明さんへの手紙(第三便)

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

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出典:ソ連兵に撃たれた「ダムダム弾」の痛みは今も―宝田明85歳、戦争体験とゴジラに込めた平和への願い – Yahoo!ニュース  https://news.yahoo.co.jp/feature/1421/

 

はじめに

宝田さんが亡くなる直前、私は、以下のような記事を見つけていました。

「闘病33年「宝田明さんにもう一度」元付き人の下関出身・長嶺さん 活躍励みに、会える日願う 」という2022年01月17日 付けの長州新聞における記事です。

 

映画俳優や司会者などマルチに活躍する宝田明さんの元付き人で下関市彦島出身の長嶺信博さん(64)。輝き続ける宝田さんの姿を励みに、33年間もの間、病と闘い続け、「最後にもう一度、会いたい」と願っている。

長嶺さんは同市の高校を卒業後、「芸能界に入りたい」という夢をかなえるために上京。住み込みでパン店で働きながら養成所に通い、先が見えず試行錯誤する中、週刊誌で見た求人「宝田明付き人募集」という求人に応募していた

 

という記事です。

こういう宝田さんの活躍を励みにしている方もいるんですね。これはいかにも宝田さんらしい記事だなと私は、おもいました。この長峰さんの願いが、実現できなくなってしまったことが、私は非常に残念でなりません。

 

1. 写真化学研究所の誕生

宝田さんの所属されていた東宝(東京宝塚)の前身が、P・C・L(写真化学研究所)であることに私は、関心をひかれてきました。

東宝(東京宝塚)の前身であるP・C・L(写真化学研究所)は、1932年にまず丸ビル(ゴジラの巨大さを表現するのに丸ビル大という表現が用いられたのは、こうしたところにもあるように思えます)に発足し、その後、成城に移転します。この写真化学研究所は、理化学研究所に勤務していた植村泰二と同じく理化学研究所に在籍しながら松竹キネマで現像部長をつとめた増谷麟らにより設立されたものでした。植村泰二は1896年に生まれましたが、北海道大学卒業後、父親の植村澄三郎が会長を務めるオリエンタル写真工業に写真乳剤の研究者として入社し、のちに取締役となっています。写真化学研究所(P.C.L.)を共同設立し、同社社長兼光学録音機械メーカー「日本光音工業」社長、東宝映画初代社長となりました。この成城への移転は、自宅が理化学研究所にある駒込にあった植村泰二が、娘の泰子が成城小学校(1930年入学)に通っており、その通学が大変だったことから1931年に仕事場のP・C・L(写真化学研究所)が成城に移転されたのでした。その後、関連四社を併合して1937年から東宝映画株式会社となっています。

この写真化学研究所には、物性物理学の鳩山道夫東大名誉教授やソニーを起業することになる井深大氏のような人がいたことも注目に値すると思います。

成城の地は、「日本のビバリーヒルズ」と呼ばれ、映画人や文化人が多く居住するようになっていますね。本多猪四郎監督や黒沢明監督も志村喬さんや三船敏郎さんもここの住人でした。宝田さんも一時期、居住されていたとか。その背景には、植村泰二が、娘の泰子を成城小学校に通わせていたということがあるでしょう。成城はリベラルな教育を行う日本初の学園都市であったのです。

もし、植村泰二が、娘の泰子を成城小学校に通わせていなければ、居住地を成城に移すことはなく、したがって写真化学研究所が、成城に設立されることはなく、東宝も成城にはないということになり、つまり成城は、今日のような映画の街にはなっていなかったということになります。私は2020年、成城にある東宝のスタジオを訪問しましたが、そこには『七人の侍』(1954)と『ゴジラ』(1954)の写真があり、スタッフや関係者が一堂に会して写された写真が、でていました。そこにはもちろん宝田さんの姿もありました。

映画が娯楽の王様という黄金時代に制作された『ゴジラ』(1954)が、東宝にとって、日本の映画史にとって、世界の映画史にとっていかに重要なものかを知らされたような気がしました。また、東宝の前身が、写真化学研究所であることは、写真化学という学問の発展なくして映画産業は、成立、発展しなかったということを意味しているようにも私には思われます。

 

2.1937年における東宝映画の誕生-「1★9★3★7」との関連で考える

写真化学研究所が、東宝映画となるのは1937年のことでした。

作家の辺見庸は、『1★9★3★7』(金曜日2015)において

 

「1★9★3★7」は「1★9★3★1」や「1★9★4★1」ではいけないのか。

別にいけないということはないのだ。だが、こういうのが許されるならば、わたしは1937年に正直惹かれ続け、1937年は私の中で他からぬきんでた「1★9★3★7」(「イクミナ」または「征くみな」)という謎めく表象となり、私を悩ませ、惹き続けた。それは単に「1937年」と事務的に記すだけではもったいないほどに、ニッポンとニッポンジンの出自、来歴、属性、深層心理を考えるうえでどうしても欠かすことのできないできごとが目まぐるしく撞着しながらあいついだ年であったのだ。(15頁-16頁)

 

と述べています。

辺見のいう「ニッポンとニッポンジンの出自、来歴、属性、深層心理を考えるうえでどうしても欠かすことのできないできごとが目まぐるしく撞着しながらあいついだ年」1937年に起こった主な出来事をいささか長くなりますが、書きだして見ておきます。宝田さん3歳の年の出来事です。

1937年

1月9日西安で共産党指導の抗日デモ

1月10日災害科学研究所創立

1月19日 ハーバード大学が東洋語学部を創設

1月23日ソ連で第二次反革命裁判始まる  ラデックら著名共産党員30人に銃殺刑の判決が下される

2月1日 松竹発足

2月4日 原節子主演の日独合作映画『新しき土』封切り

2月10日 中国共産党・国民党に国共合作をよびかける

2月11日 文化勲章令公布

2月14日 日本金属学会設立(会長、本多光太郎)

大魯迅全集(改造社)刊行

2月17日 死のう団事件

2月19日 兵役法改正(150センチ以上が合格となる)

3月7日 ソ連でニコライ・ブハーリンが、ソ連共産党を追放され、逮捕される

3月16日 同志社大学で一部の教員、国体明徴問題で総長に上申書を提出

3月30日大阪帝大でサイクロトロン完成

4月9日 東京・京都両帝大と広島文理大学で国体・日本精神に関する講座が設置される

4月15日 ヘレン・ケラー来日 日本各地で講演

4月28日 第一回文化勲章授与式  長岡半太郎,本多光太郎、木村栄、幸田露伴、横山大観などが受賞

5月1日 阪急西宮球場開場

5月14日 企画庁設置(内閣調査局廃止)

5月30日 「国体の本義」発行

5月31日 文部省『国体の本義』を学校などに20万部配布

6月1日 大河内正敏『科学主義工業』創刊

6月3日 ラジオ受信が300万を突破

6月4日 第一次近衛内閣成立

6月10日 日本文化振興会、日英交換教授計画を決定  東北帝大教授土井光知、神戸を出港

6月23日 帝国美術院がなくなり、帝国芸術院創設される

6月29日 日ソ両軍がアムール川で衝突

7月1日 湯川秀樹、アンダーソンらの発見した新粒子が中間子である可能性を指摘

7月7日 盧溝橋事件が起こる  これが発端となり日中戦争がはじまる

7月8日 中国共産党、対日全面抗戦よびかけ

7月21日 文部省思想局を拡充

7月29日 通州事件

8月7日 漢口の邦人居留地から日本人引き上げ、南京も同様

8月10日 精機工学研究所が精機光学研究所に改称し、製品を「キャノンカメラ」の商標で発売開始

8月20日 マーガレット・サンガー来日

8月21日 満洲映画協会設立

8月26日 官立高等工業学校16項に臨時別科として工業技術員養成科設置

8月27日  トヨタ自動車工業成立  豊田自動機織製作所の自動車部の独立  本社愛知県拳母町

9月1日 矢内原忠雄「国家の理想」『中央公論』全文削除される

9月2日 日本政府が、北支事変を支那事変と改称

9月5日 帝国海軍は全中国沿岸の封鎖を宣言、中国軍の激しい抵抗にあう

9月10日 支那事変追加予算9680万円

写真化学研究所、当方映画配給PCL、Joスタジオの4社が合併

9月11日 全国水平社が戦時下挙国一致・政府支持を決める

後楽園球場開場

9月25日 内閣情報局が国民歌『愛国行進曲』の歌詞を公募  約5万8千の応募  レコード100万枚売れる

10月1日 政府が冊子『われわれはなにをすべきか』1300万部を配布  朝鮮人には、『皇国臣民の誓詞』を配布

10月10日 東京の公衆浴場で「朝湯」禁止  戦争による燃料不足のため

10月13日 国民唱歌放送開始、「海ゆかば」19日まで放送

10月25日 企画院設置

10月26日 日本軍が金門島を占領

11月4日 戦艦大和が呉で起工

11月8日 京大の中井正一、新村猛ら「世界文化」グループが治安維持法で検挙される

11月15日  信時潔作曲「海ゆかば」刊行

11月17日 陸軍省大本営発表

12月1日 日本政府フランコ政権承認  フランコ政権が満州国を承認

南京国民政府、南京から重慶に首都を移転。

12月10日 南京への総攻撃行われる

12月11日 南京陥落の祝賀行事行われる

12月12日 南京場内突入  『東京日日新聞』百人斬りを報道

12月13日 日本軍が南京城を陥落させる  その後南京を日本軍が占領する

12月14日 日本全国で南京陥落の祝賀提灯行列

12月15日 和辻哲郎、田辺元、西田幾多郎、小泉信三ら教学局参与となる

12月24日 第101師団、杭州に無血入場

12月27日 日本産業株式会社が、満州重工業開発株式会社に改組

 

東宝映画も1937年日中戦争の年に活動を開始しました。

東宝映画の初代社長も写真化学研究所に引き続いて植村泰二氏でした。

理化学研究所の研究員だった科学者が、東宝映画の社長を務めていたことは、あまり知られていないことです。映画関係で目を引かれるのが、9月10日の東宝映画の成立に加えて2月4日 「原節子主演の日独合作映画『新しき土』封切り」と「8月21日満洲映画協会設立」という出来事です。

『新しき土』とは、端的にいって宝田さんのいた「満州国」のことを意味しています。

私は、この映画を2015年8月30日において第187回北京日本人学術交流会で上映し参加者で共同討論を行ったことがあります。討論は白熱しました。この映画で火山が爆発するシーンがありますが、それは特撮で撮影されたシーンであり、それを監督していたのが円谷英二監督です。原節子の演じる日本人女性は、日独合作ということもあって、原節子氏はちょうどこのころに亡くなっていたことを後で知り、この企画がちょうど追悼の意味をもつものだったと考えることになりました。

満洲映画協会に関連して山口淑子氏が、2014年9月7日に94歳で亡くなられたこともあり、それを追悼する意味を込めて、2014年10 月 26 日に第 143 回 北京日本人学術交流会で「李香蘭の生涯を考える」 というテーマで満映制作『迎春歌』(1943)を上映したことがあります。山口淑子氏が語ったという「イスラエルは「満州国」だ」という言葉は忘れがたいものがあります。宝田さんの嫌いなソ連関連では、「1月23日ソ連で第二次反革命裁判始まる。ラデックら著名共産党員30人に銃殺刑の判決が下される」という出来事が目を引きます。

ラデックは、ポーランド出身の人物ですが、トロツキーの影響を受け、モスクワ中山大学の学長を務めていました。ここには蒋介石の息子の蒋経国が留学していたことがあります。

また「3月7日 ソ連でニコライ・ブハーリンが、ソ連共産党を追放され、逮捕される」という出来事もソ連において全体主義が支配的になり、粛清の時代が始まっていたことを感じさせられます。

科学史的に注目すべきは、「2月14日 日本金属学会設立(会長、本多光太郎)」「3月30日大阪帝大でサイクロトロン完成」「6月1日 大河内正敏『科学主義工業』創刊」「7月1日 湯川秀樹、アンダーソンらの発見した新粒子が中間子である可能性を指摘」といった出来事だったと思われます。

1937年2月14日、日本金属学会が成立するとともに会長だった本多光太郎氏は、4月28日に第一回文化勲章を受賞しています。この文化勲章という制度は、この年から始まり、現在までずっと続いています。賞を授与するのは、天皇です。天皇と日本文化の密接な関係を示してもいます。現在は、明治天皇の誕生日、11月3日が、「文化の日」とされ、その日に授与式は行われています。

また、ここでとりわけ重要なのは「6月1日 大河内正敏『科学主義工業』創刊」という出来事ではないかと思います。大河内正敏は、理化学研究所のトップでもあり、長春(当時の新京)やハルピンにあった科学研究機関である大陸科学院にも弟子筋の科学者を行かせていました。宝田さんと『ゴジラ』(1954)で共演した河内桃子さんのおじさんにあたるという意味でも重要な人物です。この年から刊行の始まった『科学主義工業』には、日本の重要な科学者や経済学者が、論文を寄せています。

そして、産業史的に重要なのは、東宝映画が、活動を開始したことと「8月27日 トヨタ自動車工業成立 豊田自動機織製作所の自動車部の独立 本社愛知県拳母町」ということでしょう。トヨタはもともと自動機織機制作の会社でしたが、この年から自動車製造に乗り出します。本社のある拳母町は,のちに拳母市となり、そして豊田市へと名称変更していきます。企業城下町の典型と言われるこの都市の名称変更は、公共性の観点から言って適切なものだったのかは、問われる必要があるでしょう。

たしかに1937年という年は、辺見庸の言うように「ニッポンとニッポンジンの出自、来歴、属性、深層心理を考えるうえでどうしても欠かすことのできないできごとが目まぐるしく撞着しながらあいついだ年」だったといえるでしょう。

 

3.東宝映画と中国の関係

1937年に活動を開始した東宝映画と中国のかかわりは、とりわけ深いものがあります。

東宝映画文化映画部は、『北京』『上海』『南京』ドキュメンタリー三部作という記録映画を企画し、『戦う兵隊』(1939)で知られる亀井文夫は『北京』(1938)『上海』(1938)を担当していました。

亀井文夫は1908年に福島県原町(現・南相馬市)生まれ、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通っていました。

1928年、文化学院大学部を中退後、ソビエト美術を学ぶため1929年にソ連へ渡っています。ソ連で見た映画に感動し、映画の道を志したようです。亀井監督は、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になったのが映画監督になるきっかけだったといいます。

写真化学研究所(P・C・L)にはソ連から帰ってきた後1933年に入社していたようです。

『戦う兵隊』(1939)は、1937年(昭和12年)に始まる日中戦争下に戦意高揚を目的として、陸軍省報道部の後援の元、東宝映画文化映画部(のちの日本映画新社の前身の一部門)が企画製作した。既に『上海 -支那事変後方記録-』などの戦記ドキュメンタリー映画を監督した実績がある亀井が監督に抜擢され、約5ヶ月武漢作戦に従軍して撮影されたといいます。『戦う兵隊』(1939)は、日中戦争の戦意高揚を目的に撮影されたにもかかわらず、内容が厭戦的と問題となり、検閲の上で上映は不許可となり、公開禁止となったという問題作です。こう見てくれば、東宝映画が、日中戦争において大きな役割を果たし、軍部に非常に協力的な映画会社だったことが見て取れます。

本多猪四郎監督は、1933年に写真化学研究所に入り、1934年に兵隊検査をし、1936年に2・26事件にも関与し、懲罰という形で「満州」に行かされていたといいます。

そのあとも何度も中国大陸に兵士として動員されていました。

本多監督の夫人の本多きみ氏は、『ゴジラのトランク』(宝島社2012)で本多監督が以下のようなことを語ったと証言しています。

 

汽車を乗り継ぎ、船で天津から門司へ、それからまた汽車で東京にたどり着いた。忘れられないのはね、途中、汽車が広島を通過した時のことだよ。

広島にはね、草木一本生えていないんだよ。街には色がないんだ。墨絵のようなんだ。一緒にのっていた人が、“あと72年間はなにも生えないそうだ”って教えてくれた。

俺はなんのために戦っていたのだろう。広島に残って生きている人たちのために俺はこれから何ができるんだろうって考えて考えて。でも何も思い浮かばなくてね。

戦争は終わったけど原子爆弾はこれからどうなるのだろう。すすみすぎた科学ってやつは人間をどこへつれていくんだろう。それまでは無事に帰ってきたという安堵でいっぱいだったのに。あんな気持ちはじめてだったなあ。(87頁)

 

東宝映画は、日中戦争に積極的な会社でしたが、本多監督が、中国大陸から引き揚げてくる過程でこのような経験をしていたことは、『ゴジラ』(1954)にも大きな影響を及ぼしていたでしょう。

 

4.「満州」と深いかかわりをもった写真化学者

「北京から大石又七氏への手紙(第一便)」でも指摘しましたが、「満州」と深いかかわりを持っていた写真化学の権威だった科学者がいました。

それは、鈴木庸生という科学者です。

鈴木は1878年石川県金沢に生まれ、1900年に東京帝国大学理科大学に入学、1903年には成績優秀で銀時計をさずかっています。1904年には陸軍省から兵器審査の事務を嘱託され、日露戦争の功により、勲六等瑞宝章授章・従軍記章を授与されています。

1909年、帰朝、南満州鉄道株式会社嘱託、台湾総督府嘱託解嘱。南満州鉄道株式会社入社。直ちにドイツへ夫人同伴で留学。1911年には満鉄中央試験所応用化学科長に就任。1920年、満鉄鞍山製鉄所兼務、同鞍山製鉄所製造課長となっています。

1922年に満鉄を退社。翌年1923年、財団法人理化学研究所研究員委嘱、鈴木庸生研究室主任となり、1930年、陸軍技術本部嘱託となり1933年には日本化学学会会長となった。

1941年に死去しますが、学問業績は、軽金属研究、燃料研究、写真化学研究など多岐にわたった。 要するに東京帝国大学を卒業し、科学者として戦争に協力しつつ、洋行し、日本に帰った後、台湾や満洲という植民地にかかわり、写真化学という学問の権威だったというわけです。

また、鈴木は、「燃料縦横談41」『燃料協会誌』(1936年,第15巻5号)においては、以下のようなことを語っています。

 

考えてみれば我が国で消費する液体燃料のほとんどが、我が国の地下からでないといって差し支えない。ところが日本から遠くない外国には、之が地中からドシドシ出て、最近では生産制限をやった具合です。彼方此方を一生懸命に探し回っているが、こんな景気のいい話には、一向に出会わない。いわば我が国の石油資源というものは、貧乏人の米びつのようなものです。お隣には米のいっぱい入った倉庫が何十とある。此方はその日の暮らしにも困ってひもじい腹を抱えている。之が人と人の間なれば、空腹のものは、生存権を主張して何らかの企てにでるでしょうが。  (617頁)

 

「日本は資源小国だ」というコンプレックスの感じ取れる記述です。日本から遠くない外国とは、おそらく中国や「満州」のことを指していると思われます。

続けて「日本にとって液体燃料の有無は、人間に米がなくなったと同様、重大な社会問題であるから当面の状況に処するためには、大に考えてしかるべきです。然らば、何を考えるのかといえば、一寸説明しにくいが、国際間には警察がないということだけは、声を大にしていうことができる。現に伊太利は、エチオピアを自分のものにしてしまったのですからね。」  といっていますが、国際間には、警察がないから隣国での資源の盗みをしてもよいと示唆しています。東京帝大で銀時計をもらっていた写真化学の権威とは思えない粗雑な発言だと思います。鈴木の陸軍への近さをうかがわせる発言ですが、帝国日本においては軍と学が、協力体制を形成しつつ、満州の資源開発を行っていたのだということがわかる典型的な事例であるように思われます。この鈴木は、写真化学の権威で満鉄中央試験所とともに理化学研究所の研究員でもありました。写真化学研究所や東宝映画が、軍に協力的な理由も科学者の鈴木庸生の科学思想を見れば、納得がいくところがあります。


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