【連載】「日中学術交流の現場から」第19回「市民科学と臣民科学―西光万吉の科学観を中心に(2)」

投稿者: | 2025年12月28日
【連載】日中学術交流の現場から 第20 回

市民科学と臣民科学―西光万吉の科学観を中心に(2)(戦前編)

 

山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)

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はじめに

前回の論考(『市民研通信』第77号2024年10月10日)で水平社宣言を起草する前の西光万吉に関して、筆者は、「「この間、絵画の練習は次第に消極的となり、読書が主となり、親鸞の信仰を伝えた『歎異 鈔』からマルクスの『共産党宣言』にいたる種々なる書物を濫読した。」(西光万吉自身の書いた「略歴」による)と述べている。西光は、文学、宗教、芸術、歴史、自然科学など幅広く読書していたようだ。」と述べた。この幅広い読書の中で西光万吉が、自然科学に対してどのような科学観をもっていたのかに言及した先行研究は、ほとんどない。あえていえば、西光万吉の唯一の評伝である師岡佑行『西光万吉』(清水書院,1993)の中で数ページを割いて言及されているぐらいである。 それくらいに西光万吉を論じる論者からは、科学観の問題は、ほとんど関心を引いては来なかったのである。 しかし、西光の科学観を考えることは、西光の社会観や歴史観を考えることにもつながる重要な作業である。ここでは改めてそのことを問題にしていきたい。

1. 西光万吉の科学への言及

 1-1「高次的タカマノハラを展開する皇道経済の基礎問題」(1935年)

西光万吉が、科学に言及しているものとしては「高次的タカマノハラを展開する皇道経済の基礎問題」(1935年)という論考が存在する。高次的タカマノハラのタカマノハラとは、日本神話の中に出てくる日本民族の故郷とされる高天原のことであり、西光独特の日本主義の思想に基づいた観念的なものであり、通常の社会科学や人文科学では理解しがたいものである。 例えば、西光はここでは次のように言う。 「当時のマツリゴトは、もちろん、私産制の発達とともに分離したる後世の宗教的祭事と混ずべきではなく、どこまでも天国の光栄、あるいは彼岸の浄土を求めるものではなくして、端的に現実的幸福として地上の豊穣と平和を希望としたものであって、自然の生産力と人間の生産力とを調和せしめるものであって、自然の生産力と人間の生産力とを調和せしめるために、かれらの蓄積されたる経験にもとづいておこなわれたものであった。[1] ここでいっているマツリゴトというのは、政治のことである。自然の生産力と人間の生産力とを調和させるものとして政治が位置付けられ、そして次のようにも言う。 「ことにその粗雑なる生産器具、低度の科学的知識をもってして、もっとも自然力に依拠し支配されることの多い農耕は、天体気象、地形、地質ないしは労働力の組織にいたるまで、じつに当時の各種生産部門中もっとも計画的なものであったろう。[2](9頁) 農耕には低度の科学的知識が使用されており、それなくしては生産はなしえなかったと西光はみていた。そして次のようにも言う。 「かれらがそのきわめて簡単なる生産器具と貧困なる知識によって不可思議神秘の偉力ある大自然に対立して、よくその生活を維持しえたゆえんは、じつにマツリゴトによってその社会的生産が、ただ各部門にかぎらず全体を統括して、厳格と統制と細密な計画のもとに最大限の協業が行われたためである。[3] ここでいうマツリゴトとは、とりわけ天皇による政治のことで、これが社会全体を統括して細密な計画をつくっていたのだというのである。  

1-2 新体制夜話(1941)

老人と青年の対話というかたちで話が進んでいくが、科学に関して以下のように言う場面がある。 青年「たとえば肥料にしてもカリは主としてドイツやフランスから来ていたのですし、過燐酸石炭にしてもよい原料鉱石は、地中海方面のサファガやチェニスあたりから来ていたのですが、向こうがあの通り戦争ですから輸入が困難です。硫安や石灰窒素にしても水や石炭や電力の関係でじゅうぶんできなかったのです。」 老人「肥料を造るのに電気や水がいるのかね」 青年「いりますとも。硫安などは原価の半分は電気代だとさえいわれています。電気がなければ空中から窒素を取ることはできません。ですから電力問題にしてもずいぶんわたしたち農民に関係があるのですよ。水にしても、発電用のほかに、原料ガス精製用の水蒸気やガス洗浄や冷却用にもいるのですから、昨年の日照りは相当こたえたわけです。そこで政府でもチリ硝石や硝酸カリ等の輸入をはかったのですが、硫安は各国ともに輸出制限をしていますし、チリ硝石は、船が足りなかったりして思うようにいかなかったのです。」[4] 科学の知識を持った青年が老人に教えるという形式である。 青年は農業のための化学知識をもっており、肥料を空気中から電気を使ってとる知識を西光が、知っていたことを示している。皇国農民同盟を西光は主催していたが、このこととも無関係ではないであろう。このタイトルで新体制といっているのは、近衛新体制が成立したことと関連付けていっていると思われる。  

1-3「祈りのこころと科学的態度」(1944)

この文章は以下のことばで始まる。 「現代戦が科学戦とさえいわれる事情はまさしくその戦場たる成層圏のごとく広く海溝のごとく深い。そのことは前大戦当時、かのハーバー博士の空中窒素固定法が、火薬と肥料の画期的な国内生産を確保することによって、いかにドイツの戦力に貢献したかを回想するだけでも十分に理解されよう。もとよりわれらは、戦力のすべては、その国々の精神力たるやなんらかの物理的または化学的な力を生みえないようなものではなく、科学を育成し、それを駆逐する力すなわち、たとえば希元素の活用による各種合金の生産、宇宙線や各種輻射線の研究とその利用、原子構造の究明による各種合金物の製造、あるいは微生物の馴化とその各種工業への駆使などなどによってじゅうらい利用価値なく、また利用不可能とさえされたあらゆる物と力とをも科学的に関連せしめてこれを戦力化せしめるものでなくてはらぬ。[5] 利用不可能と思われていたものを利用できるようにした代表的なものが、ハーバーの空中窒素固定法であり、それを日本の戦力と結びつけるべきと提案している。 近代科学は、利用不可能だったものを利用可能にし、飛躍的に生産力を挙げることができるという認識を西光は、持っていたことがわかる。 また、以下のようにいっている部分もある 「したがって現代戦は、交戦国のかかる科学的総力のうえに、その勝敗を決定するともいいえよう。かくてダンケルクの凱旋は、ドイツ科学のイギリス科学にたいする勝利であり、レニングラードの悲劇はドイツ科学のロシアの寒冷な自然力に対する敗退であったともいいうる。[6] 戦争の勝敗は、国家単位の科学的総力が、カギを握っていると西光は考えていたことがわかる。 またそれに関連して西光は、次のようにも言う。 「世界最高の参謀本部と忠勇無比の将校によってなる皇軍が、しかもなお南海北洋の諸島に見るごとき悲壮なる作戦に出ずるのやむなきゆえんは、もとよりわれらの銃後の責任であるが、ことに飛行機そのほかの兵器の生産においてはなはだ遺憾なる点のあったことは否みえぬ。その根本原因たるじゅうらいのいわゆる政党政策の深刻なる弊害についてしばらくおくとしても、それに由来する同胞大衆の科学的知識と技術の水準の低さについては、深く反省の要がある。[7] 皇軍が、必ずしも十分な成果を上げられないのは、銃後の一般の国民の科学的知識のレベルが高くないところに原因があると西光は考え、それへの反省を促していた。一部の優秀なエリート科学者だけでは、戦争に勝つことができないという認識である。 続けて西光は、 「いうまでもなくわれわれは近代科学の領域においても、たとえば、世界最初の乾電池の発明から硬宇宙線の成分のなす湯川粒子の発見に至るまであるいは英領エジプトの謎の風土病の病原虫発見から南米エクアドルの黄熱病の病原菌の発見に至るまで。あるいは世界最初のテレビジョン野外放送の成功から太陽第四線の生態離電現象研究にいたるまで、すでに世界に誇りうるいくたの同胞を数えるのみならず、さらにこんにちの戦場において奇跡的威力を現しつつあるわが各種兵器の高度の性能は、その陰にかくれたるいくたの優秀な科学者と技術者のあることを立証する。[8] と述べ、日本の科学者と技術者の優秀さをたたえるが、一方 「それにもかかわらず、他面にはすすんでその子を空軍に送る母親たちでさえ、なおみずから日常消費する塩と飛行機の科学的生産関係、すなわち百トンのアルミニウム生産に百トンの塩を要し、百トンのガソリン精製に二トン半の塩を要することさえ知らぬというよりはむしろ無関心な方が多いように思われる。しかもかかる事例は一般工員や農民大衆の機械や肥料などに関する知識と技術についてみても、じつに未だ遠しの感が深い。[9] と述べ、一般大衆の科学への無関心と知識レベルの低さを嘆くのであった。 一部の優秀なエリート科学者だけでは、戦争に勝つことができないという認識は、徹底していた。一般大衆にも科学に関心を持ってもらい、全体の底上げを図ろうと西光は、考えていた。湯川秀樹の湯川粒子に言及していることから西光は、当時の最先端の物理学に関心を寄せていたであろうことが、推測できる。 西光にとって英米は敵であったので以下のように言う。 「しかもこんにちの戦争は、全人類の搾圧者たる米英によっていよいよいわゆる科学戦的無常を露骨にし凄惨苛烈なる形相を展開してきた。 したがってこれに対抗して打ち勝つべくわれらもまた彼ら以上の科学力を持って戦わねばならぬ。」 日本は、英米以上の科学力をもって戦うというのは、西欧近代を超克しようとした「近代の超克」と同様の発想を見出すことができる。西光は英米の帝国主義からアジアの民衆を日本が解放するのだと考えていた。 しかし、日本の科学と英米の科学には違いがあるのだと西光は言う。たとえば、以下の部分である。 「しかしながらわれらは、われらの科学的態度とかそれとには、おのずから性格的な相違のあることを憶念すべきである。すなわちわれらの科学は祈りの心から生まれるが、かれらの科学には祈りがない。なんじはいかなる目的のために生まれたかとの問いに対し「日と月と天とを思索せんがために」と答えたアナクサゴラスのことばをもって至上の信条とし、後世「神を知らんがために医を学ぶ」といったセルバッスのことばさえ非科学的なりとする人々にとって「惟神に科学する」というわれらのことばは理解されまい。尿素を造り蛋白を造り、やがて試験管中に生物細胞を造ることによって、かえって惟神のいのちの尊さも所詮はいわゆる低調な宗教的迷信か人道主義的感傷にすぎないであろう。それがかれらのいわゆる科学的態度である。[10] 英米の科学には祈りがないが、日本の科学には祈りがあるとし、「惟神に科学する」ことが、日本の科学の特徴だという。「惟神に科学する」というのは、天皇制に依拠して科学研究を行うということである。英米人は、人工生命をつくることによって惟神のいのちの尊さを宗教的迷信としてしか理解できないものだという。このあたりは、西光独特のものがあり、高次タカマノハラの議論とつながっている箇所でもあろう。 これに関連して西光は、西欧近代科学の歴史を顧みて以下のように言う。 「近代ヨーロッパの科学は、いうまでもなく中世の巨大な宗教的権力のしたに奴隷的存在をつづけてきたのであるが、文芸復興と宗教革命の潮先にのって知識のため知識を追求したギリシャ科学への復帰をめざして、まず地質学の陣営から烽火を挙げ、いくたの犠牲をだしつつ解放の道をすすんだ。けれどもその19世紀のなかごろにいたるまでなお一般には科学は、宗教の待女であり、科学の啓示する宇宙の諸相も神の栄光に奇進するものと思われていた。それがついに不可知論者たるの名誉を与えられていわゆるギリシャ科学の古に帰り、ふたたび知識の待女として自由に知識を追求し得ることになった。[11] ここでいう19世紀なかばとは、英国で科学者scientistという言葉が、でき科学者集団が成立した時期である。このころからヨーロッパで祈りのない科学的態度が、定着していったと西光は見ていたのである。かくして西光は言う。 「かくて永い年代にわたる薄暗く重苦しいヨーロッパ的宗教から解放された彼らはことにルネッサンス以来のうっせきした科学的意欲の爆発的な活動を起こし、ヨーロッパにおける科学と宗教の地位はまさしくコペルニクス的転回を開始した。 蒸気機関は改良され内燃機関や電動機は発達し、物化学工業は分子配列のレントゲン線写真からバクテリアの繁殖数字までを利用して各種合成物の大量生産を行い、輻射及び物質の構造やその破壊に関する研究は進み、血液の生態や染色体内の遺伝の秘密は追及されるなど、天体のスペクトル分析から神経系の染色に至るまでまさしく彼らの科学的活動はめざましかった。日光を冷凍貯蔵し剔出心臓を培養生存せしめ、成層圏に電波を飛ばし、思い上がった科学盲信者らはついにみずから神にかわらんとするまでに増長した。 もとよりその間においてかれらはその祈りなき科学によってあらゆる罪業を積重ね、まさしく悪魔にまで進化していたのである。[12] 科学と宗教のコペルニクス的転回が起こり、科学から祈りが失われ、科学盲信者は、みずから神に変わろうとするまでに増長していったと西光は言う。その科学盲信者は、祈りなき科学によって罪を重ね、悪魔にまで進化し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど非西洋への侵略を科学帝国主義を用いて行っていると考えていた。 「中世ヨーロッパを蔽った暗く重い強権は、われらといえどもよりありがたいとは思わぬ。そこにはすでに十字架上まで神を求めた祈りの心はみじんもなかった。 けれども永い年代にわたる夜の闇から明け始めたルネッサンスのまばゆさに彼らは人間の科学がどこからどのようにして生み出されたかを見極めえなかった。 それが惟神のいのちから祈りのこころによって生み出されたということに思い至らなかった。かくてわれらの科学はいわゆる合理的なギリシャ文明のそれから出発した。 即ち祈りのない科学からの同じ方向への再出発であった。そして無反省な増上慢の旅をつづけてこんにちに及んでいる。けれども一度、それこそかれらのいう冷静な客観的立場から、かかる科学を擁して過ぎし方をかえりみるならば、そこにはいかに無残に搾取され蹂躙された無数の無辜の人間の屍がさらされていることか。[13] われらの科学は、ギリシャ文明から出発していると西光は、見ているのだが、西光によれば、ギリシャ文明には、祈りの科学はないのである。むしろ祈りのある科学というものは、ギリシャ文明以前の文明に存在すると考えていた。無残に搾取され蹂躙された無数の無辜の人間の屍とは、非西洋の人間の屍である。 「そしてその魔道を先頭に立って、蒼白き馬にのる死神の大鎌に似た祈りのない科学を振り上げて,血に酔い肉に肥え太り逞しき独占資本に跨って進むものこそ、まさしくアングロサクソンであった。そこには戦時と平時の区別はなく不断の搾圧闘争、仮借なき弱肉強食の修羅場が、展開されてゆく。たとえば、マコウレイもその著書ヘスチングス伝において「もっとも勇敢なアジア民族の尚武の意気をもってしても、英国の科学と決意にはなんらの効も奏しえないことはあまりにも明らかなことでであった」と述べているが、いかにもその国の軍隊は、かつてかれらにすこしも危害を加えたことのない勇敢で気品の高いロヒラス人から「立派な政府を奪いとりその代わりに、その人々の意志に反して言語道断な邪悪な政府を押し付ける」ために美しく豊かなロヒルカンドを壮絶な戦場と化し、そして敵するものなき砲火によってついにこの無辜の民を打ち破った。そして前約通り軍費の外に英貨四十万ポンドをロヒラス人の敵なるインドの卑劣な大臣から受け取った。すなわちイギリスの政府は、恥ずかしいとも思わずに金のためにこの野心家にその科学と決意を貸し与えたにすぎぬ。またたとえば、かつてアマゾン盆地のインディアンにとってかれらがそれで沼地用の長靴をつくっていたカフェッチと称する樹の液が、アメリカの化学者によって「和硫」されたことが、おそるべき禍いになった。 すなわちかれらはやがて幾千幾万と女子供までさかりゆくゴム工業の犠牲となって野生の樹液採集のために強制的に原始森林に追い込まれ、飢えと疲れと病と獣と蛇とそして鞭と枷と銃によって絶滅的な苦難を受けねばならなかった。 まさしく当時の快適な自動車のタイヤはかれらの肉であり、安全な電気絶縁のエボナイトはかれらの骨に等しかった。しかもかかる事例は史上枚挙にいとまがない。 実に宗教の待女たること潔しとせぬいわゆるギリシャ的科学の非宗教の忠実なることはおよそかくのごとくであった。[14] 西光にとって祈りなき科学の代表が、アングロサクソンの科学であり、彼らは、独占資本主義と結びつき非西洋の民族を絶滅にまで追い込むのであった。 「これは科学の罪ではないというのならば祈りのない科学者みずからの罪でもある。かれらがかかる邪為悪業に目を閉じ、耳をふさいで、その悪業をぜんぜん無反省に助長せしめる事故の業績についてなんら世間的な罪をも感じぬというならば、かれらはむしろこの地上のいわゆる低調な宗教的迷信や人道的感傷に煩わされることなき、ひややかな無人の星へでも移るがよい。そしてそこで心ゆくばかり客観的に冷厳に知識のための知識を追求してその科学を発展せしめるがよい。[15] 「客観的に冷厳に知識のための知識を追求する科学」というものは、西光にとっては、まぎれもなく堕落の原因となるものであった。 「けれどもわれらの望むものは、かかるいわゆる科学者の科学ではなく、祈りの心から生まれる人間の科学である。かりに科学者の科学がギリシャ文明から生まれたにせよ、人間の科学はそこから生まれたのではない。インダス文明や黄河文明そのほかについてはしばらく置き、ギリシャ文明の基礎をなしたナイルやチグリス、ユーフラト流域に発達した文明について見ても、われらは容易にその生育の姿を知ることができる。それは明らかに敬虔な祈りの心によって生み出された宗教の待女であり、その啓示する宇宙の諸相はことごとく神の栄光に帰せられた。[16] 西光が、評価していたのは、ギリシャ文明以前の文明における祈りの心から生まれた人間の科学であった。 「もとより祭司の手によって育てられた科学は、神の恩恵として役立つべきマナー(神秘力)とともに、その冒涜を許すべからずとタブー(禁忌)が与えられていた。後世エジプトやカルデヤを訪れて、そこの祭司たちから多くの学術を授けられたギリシャ人によって、やがてかえって軽蔑せられ、いまもなおそのいわゆる科学的態度を誇る人々によって嘲笑されるかかる性格のものこそまさしく人間の科学と呼ばれるべきものである。[17] なぜ、ギリシャ文明以前の科学が重要かというとその文明に「冒涜を許すべからずとタブー(禁忌)が与えられていた」と西光は、考えていた。近代科学には、こうしたタブーはなく、知識のための知識を追求していくので、堕落が生まれてしまうと西光は見ていた。 「それには、科学者は自己の業績に対する何らの世間的責任を負うべきではなく、その世間的責任は政治や教化に携わる者のみに帰せられるべきであるという非人間的立場から、したがってその科学の道義的無性格のゆえに、邪悪への行使をもぜんぜん無反省になしえるものとはおのずから性格を異にする。祈りの心によって生まれた科学は神聖でなければならない。そしてその神聖を守る者は、誰よりもまずそれを生んだ惟神のいのちの尊さを知る科学者自身でなければならぬ。[18] 科学は、神聖でなければならず、惟神のいのちの尊さを知るものでなければならないと西光は、主張するが、とりわけ天皇制から生まれたいのちの尊さを強調するのである。これは、日本主義への回帰といってよいであろう。 「スメルやエジプトの科学を生んだのはいわゆる自由にして合理的な個人の恣意ではない。そのころの祭司たちには実用的動機による研究を軽視し、知識のための知識を追求するというごとき思い上がったわがままは許されずかれらもまたそのようなことはのぞまなかった。かれらの追求し精進した科学的知識の性格は、いまもその各所に跡をのこす宗教的建築にもっとも明らかに示されてはいる。[19] 知識のための知識を追求することは、思い上がったこととみなされ、宗教的な建築が高く評価される。西光にとって宗教は、科学と矛盾するものではなく、宗教的信心は、科学のレベルを高めるものであった。 「われらが皇国の必勝を信じ皇軍の勇武を疑わぬゆえんは、まさしくその国体と健軍の精神において敵国敵軍のそれに比しておのずからその性格の相違を明確に信念し、その高い信念にたってこそはじめてかれらの量にたいするにわれらの量をもってすることができる。[20] 英米の科学より日本の科学が優れているのは、高い信念に基づいているからだと西光は考え、皇国の必勝を信じていた。 「すなわちかれらの科学が、はなはだ変態的な分裂文明の所産たるいわゆる学者の科学であり市民の科学であるに対してわれらのそれはどこまでも高天原以来の祭政文明の所産たる祭司の科学であり信者の科学でなければならぬ。ことにかの職場にしめ縄を張り身を清め心を明るくして装を正し、神に祈りつつ鉄火の作業に精進した刀工の姿こそ、まさしくむかしもいまもかわりない信者の科学の象徴であろう。 したがって原理法則の思索たると応用技術の研究たると、それに基づく直接生産を問わず、すべての科学的領域にしめ縄が、張られ、祈りの心が充ちたとき、そのときこそ敵が誇示する史上未曾有の巨大なる科学的生産力を圧倒し粉砕する「神業」が実現するであろう。高天原以来の世界唯一の祭政文明国日本は、その科学的分野においても、古くしてまた新しき惟神の光を放射することを忘れてはならぬ。そしてこの光のみがいかなる輻射線にもましていかなる障碍をも透過して、不可能を可能に変質せしめるものであることを忘れてはならぬ。[21] 「変態的な分裂文明の所産たるいわゆる学者の科学であり市民の科学」とは、英米の科学のことだが、これを超えるものとして「高天原以来の祭政文明の所産たる祭司の科学であり信者の科学」が構想されている。「すべての科学的領域にしめ縄が、張られ、祈りの心が充ちたとき、そのときこそ敵が誇示する史上未曾有の巨大なる科学的生産力を圧倒し粉砕する「神業」が実現するであろう」というのだが、これは「いざとなれば神風が吹く」といった信仰に近いものであろう。実際にはそのような「神業」が実現することはなかったし、不可能が可能になることもなかった。高天原や祭司の科学であり信者の科学というものは、西光の頭の中にしか存在しえないものだろう。 また、「高天原以来の世界唯一の祭政文明国日本は、その科学的分野においても、古くしてまた新しき惟神の光を放射すること」という記述があるが、1922年の水平社宣言の「人の世に熱あれ人間に光あれ」という言葉を連想させる。 これは、水平社宣言の光が、天皇制国家に吸収され、科学的分野においては、「古くしてまた新しき惟神の光」となり、アジアへの科学帝国主義の光となっていったということを意味するものではないだろうか。  

1-4 聖戦下雑感(一)(1943)

西光は、科学者は、大学などの象牙の塔にこもるのではなく積極的に戦争に協力すべきだと考えていた。この聖戦下雑感という文章ではそれがよくあらわれている。たとえば、西光は次のように言う。 「しかして皇国聖戦下のこんにち、なおわれらの周辺にいかにこの種の無用の学者がおおいかを思うとき、われらもまた先生のごとくいわざるをえない。 たとえば大学の教授たちにしても、そのなかにはこの戦時に象牙の塔にこもって、いわゆる真理の探究にふけっているのは、まだよいとして、三日すればやめられぬほど安易な講義生活を十年一日のごとくなんの感激も進歩もなく続けながら、しかもひそかに卑俗な名利の探究を楽しんでいるような人々もあるいはすくなしとせぬのではないか。[22] 西光は、卑俗な名利を追求するような学者を軽蔑していた。その意味では純粋な人物であったことは、確かである。 「尊敬すべき冨塚博士の「楽は楽だったが、自分にもよくわからぬことをいっていたんだから、学生諸君はさぞわからなかったであろう」との謙虚な述懐も、権威ある解説書の二、三冊を読むにもしかぬ講義内容によって、長期にわたって学生の時間と学資を空費せしめるのみならず、その溌溂たる知的生命力をさえ萎縮せしめつつある学者たちへの深い反省を求めることばではなかろうか。[23] ここでいわれている冨塚博士とは、工学研究の冨塚清氏のことではないかと思われる。当時、東京帝国大学工学部教授で一般向けの著書も少なくなかった。自分でもよくわからない講義を大学でしている学者に西光は、学生をスポイルしてしまうものとして反省を促す。 「もとよりわれらとしても、いちがいに学者を無用とするものではなく、現代戦がいわゆる科学戦であり、思想戦であるだけに、それぞれの学者を従来以上に必要とする。 たとえば前大戦にドイツをして勝利を予想せしめたのは、したがって開戦に導いたものは、ドイツの戦闘用の火薬と農産用の肥料の持久力を画期的に強化したハーバー博士の空中窒素の固定法であり、そのドイツを敗戦せしめたのはマルクス学徒の革命思想であった、とさえいわれている[24] 西光は、科学戦に積極的に協力しない科学者を無用学者として批判した。 ここで注目すべきは、西光が、マルクスに批判的になっていることである。 西光は、1928 年 3 月 15 日に治安維持法違反で逮捕され、国家社会主義に転向を遂げ、1933 年に仮出獄した後は、1935 年に阪本清一郎、米田富らと『街頭新聞』を創刊していたのでマルクスに批判的になっているのは、当然といえば当然である。しかし、この論考の書かれるほぼ20年前の1922年5月10日に西光万吉は次のように述べていた。 「マルクスは“共産党宣言”の冒頭で「在来の一切の社会の歴史は、階級闘争の歴史であると喝破した。」私は言いたい。『人類の歴史は、階級闘争の歴史である』と。 そして5000年昔ナイルの流域で、巨大な金字塔下に鞭打たれつつ苦役させられていたエジプト賤民の嘆きを語り、また3000年の昔ガンジス河流域のカビラ城下で釈迦族を皆殺しにしたコーサラ王にして賤民の子であるビルリの呪詛を痛ましくも生々しく昨日のように話され、今なお我々を虐げる見えざる鞭、見えざる鎖は、すでに6000年前メソポタミアのパンジャブの渓谷を賤民の血をもって染めているではないか。ローマにおけるスパルタクスの反乱近くは、フランスのパリコミューン、さらには現在におけるロシア労農革命は何を物語るのか、時代は移る、幾百年にわたって、賤民としてさげすまれたわれわれの上にも、今千年来の血と涙で染め上げられた荊の旗を高くかざして、終わりに近づく人類前史のたそがれ、新しい夜明けを待つ荒野にひるがえっている。三百万の兄弟よ。われらにも時が来た。」 そして最後にマルクスの「プロレタリアは自分の鎖より失うべきなにものももたない。そして彼らは獲得すべき全世界をもっている。」を引用し、「われわれ部落民は差別の鉄鎖、迫害の桎梏より失うものをもたない。そしてわれわれは平等の社会を建設する自由を持っている。われわれは声高らかに叫ぶ、全国に散在する特殊部落民せよ」とうったえたのであった。[25] この20年で西光の中でのマルクスのとらえ方が、肯定的なものから否定的なものへと変化していることがわかる。 また西光は、学者について次のように言う。 「およそ理科系たると文科系たるとを問わず学者たちは、いまや史上空前の対戦によってその象牙の塔も鉄筋のトーチカと化しつつある現実を直視せねばならぬ。これを直視し得ざる学者はみずから生けるミイラと化し、他日新鮮なる外気にふれ清明なる外光にさらされてその形骸さえ崩されるであろう。しかもかかる生けるミイラに導かれるものこそ禍いなるかな、迷惑至極である。[26] 理科系たると文科系たるとを問わず戦争に積極的に協力せず象牙の塔にこもる学者は、ミイラなのであり、そのミイラに指導される学生はいい迷惑だというわけだ。 「かのシラクサ市の科学者アルキメデスは、各種の新兵器を製作しておおいにローマ軍を防いだが、ついにその研究室において突入せるローマの粗暴なる一兵士によって倒された。 しかもその死を聞いてもっとも悲嘆した者は、その都市侵入にさいして『かの偉大なる数学者の生命は助けよ』と命令した名将マルセルであったと伝えられる。聖戦下にもなお象牙の塔にこもらんとするものはアルキメデスにも恥じねばなるまい。 いわんや、その安易なる生活の現状維持のために筆と舌によって無用のエセ学問を売る者においてや。 したがってまたそれを、卑俗なる立身出世の通行券として、あるいは愚劣なる遊閑対策として買う者においてや。[27] 西光は、戦争協力を積極的にしない学者を生活のためにエセ学問を売る学者、学問を立身出世の通行券にしている学者と言って批判していた。西光にとっては、聖戦に自己を投げ出して協力する科学者が、理想的な科学者だったのだろう。  

1-5 理科系学徒の入隊について(1943)

続けて「理科系学徒の入隊について(1943)」という文章においては、理科系の学生も軍隊に入隊できるようにすることを提唱していた。 「このたび断行された文科系大学の停止とその学生の入隊はまことに時期相応の処置であった。しかしながらわれらはこの際、政府当局に対してさらに一歩進めて理科系学生の入隊を望むものである。われらももとより今日の戦争における理科系学問の重要性を否定するものではない。けれども、さればとて文科系学生のみ軍人となり、理科系学生のみ依然として学生のままのこされてよいとは考えられぬ。[28] そして、軍人学生になって学ぶ方がよいのだと次のように言う。 「こんにち皇国が切実に要求するところのものは、けっしていわゆる象牙の塔に立てこもる学者たちによる真理のための真理の探究というごとき学問ではなく、いわゆる戦時的トーチカに立てこもる学者たちによる勝利のための知識の探究というごとき学問とその高揚普及である。ここにこんにち皇国が要求する学問の戦時的性格がある。 したがってかかる性格の学問は、むしろ学生軍人となって学ぶことによってかえって振興され普及されるべきものである[29] 理科系の学生は、軍に入隊することを免除されることを認められていたが、西光は、それを認めず、理科系学生は、軍に入隊することによってよりよい研究ができるようになると考えていた。 「さらに学生が軍人になることによって軍人としての訓練勤務に煩わされ、しぜんその科学研究に専念しがたく、したがって全般的に質的低下を見るであろうとの憂慮もあるが、これとても訓練勤務の程度様相のいかんによることであって、かならずしも質的低下の理由にはならぬ。のみならず、彼らはこれによって、学術研究に必要なる意力と体力を鍛えかえってそのいわゆる目的達成に向かってもより精進をなしえるであろう。 われらは科学に国境なし、されど科学者に祖国ありということばを率直に受け入れる彼らであるならば、その反感はむしろ深い反省とたくましい精神によって自ら打ち出されるであろうと信ずる。[30] 「科学に国境なし、されど科学者に祖国あり」とは、パスツールの言葉であるが、祖国のために奉仕する理科系学生が、西光にとっては重要だったのである。西光は、「理科系学生は、この度の政策をみて自己の学問的地位を過重評価し、これをもって国家的特権なるかのごとく心得て、高慢にもそれに腰かけてはならぬ。[31]とまでいう。理科系の学者同様、理科系の学生も積極的に戦争に参加する必要があると西光は考え、それを呼びかけていたのである。  

おわりに

西光万吉の科学観を見るために彼の科学観に関する部分を長い引用を行いながら見てきた。これらをまとめて戦前、戦中期における西光万吉の科学観の特徴を探ってみよう。 まず第一に、人間の生活に不可欠な農耕には低度の科学的知識(天体気象、地形、地質)が、使用されており、それなくしては生産はなしえなかったと西光はみていた。この農耕は、天皇制の政治によって社会全体を統括して細密な計画をつくっていたのだというのである。 第二に西光は、皇軍が、必ずしも十分な成果を上げられないのは、銃後の一般の国民の科学的知識のレベルが高くないところに原因があると考え、それへの反省を促していた。一部の優秀なエリート科学者だけでは、戦争に勝つことができないという認識である。 西光は、一般民衆の科学的知識のレベルを高め全体の底上げを図らなければならないと見ていた。 第三に西光は、近代科学は、利用不可能なものを利用可能なものに変えることができ、現代の戦争においては、科学の総合力が、戦争の勝敗のカギを握っていると考えていた。 西光にとって祈りなき科学の代表は、アングロサクソンの科学であり、彼らは、独占資本主義と結びつき非西洋の民族を絶滅にまで追い込むのであった。したがって日本は祈りのある科学によって英米に支配されているアジアの民衆を解放する必要があると西光は考えていた。 ヨーロッパでは、科学と宗教のコペルニクス的転回が起こり、科学から祈りが失われ、科学盲信者は、みずから神に変わろうとするまでに増長していったと西光は言う。その科学盲信者は、祈りなき科学によって罪を重ね、悪魔にまで進化し、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなど非西洋への侵略を科学帝国主義を用いているというのである。 「客観的に冷厳に知識のための知識を追求する科学」というものは、西光にとっては、まぎれもなく堕落の原因となるものであった。 西光のみるところでは、すでにギリシャ文明における科学のなかに堕落を見出すことができた。西光によれば、ギリシャ文明には、祈りの科学はなく、むしろ祈りのある科学というものは、ギリシャ文明以前の文明に存在すると考えていた。 そのギリシャ文明以前の文明とは、具体的にはナイルやチグリス、ユーフラト流域に発達した文明のことであった。この文明においては、科学は宗教の待女であり、祈りのある科学が存在し得ていた。これらの文明の科学同様、日本の科学には祈りがあるとし、「惟神に科学する」ことが、日本の科学の特徴だという。「惟神に科学する」というのは、天皇制に依拠して科学研究を行うということである。英米人は、人工生命をつくることによって惟神のいのちの尊さを宗教的迷信としてしか理解できないものだという。このあたりは、西光独特のものがあり、高次タカマノハラの議論とつながっている箇所でもある。 そして西光は、「すべての科学的領域にしめ縄が、張られ、祈りの心が充ちたとき、そのときこそ敵が誇示する史上未曾有の巨大なる科学的生産力を圧倒し粉砕する「神業」が実現するであろう」とまでいう。実際には、そのような「神業」が実現することはなかったが、西光は、「科学的領域にしめ縄をはる」ような臣民科学の信仰者であった。 第四に西光は、科学者は、大学などの象牙の塔にこもるのではなく積極的に戦争に協力すべきだと考えていた。西光は、科学戦に積極的に協力しない科学者を無用学者として批判していた。 第五に西光は、理科系の学生は、軍に入隊することを免除されることを認められていたが、西光は、それを認めず、理科系学生は、軍に入隊することによってよりよい研究ができるようになると考えていた。理科系学生をも科学動員する必要ありと考え、理科系学生が、戦争の中で特権に胡坐をかくことを許さなかったのである。 また 1941 年に「事変下で金鵄を語る」において西光は、「かつて蘇峰先生は、その著書中に「文化帝国主義はいっぽうの民族が他方の民族を精神的に征服するもの」「武力的帝国主義は利をもって征服するもの、はたして文化的帝国主義は慶慕尊尚をもって征服するもの」と述べている。「もとよりわが皇道光被は、たんなる武力征服ではない。皇軍はつねに金鶏の光栄のもとに進んでいる。すなわち奉持する軍旗は、まさしくマツリゴトの光被を予告する神聖宣言である。さればこそ、まつろわぬ民衆にもまつろう心をおこさせるのだ。[32]と述べていた。 ここでいう蘇峰先生とは、徳富蘇峰のことだが、科学帝国主義は、文化帝国主義の一部と考えることができる。 満鉄の初代総裁であった後藤新平は、満鉄中央試験所にかんして「満鉄の中央研究所を神社の後光のさすようなものとして植民地の民衆に認識させることが、重要である」と語ったことがあるが、西光のここでの言葉は、後藤新平の言葉と似ている。 1922年の水平社宣言において西光は「人の世に熱あれ人間に光あれ」と宣言したが、「祈りのこころと科学的態度」(1944)において「高天原以来の世界唯一の祭政文明国日本は、その科学的分野においても、古くしてまた新しき惟神の光を放射すること」と述べていた。これは、水平社宣言の光が、天皇制国家に吸収され、科学的分野においては、「古くしてまた新しき惟神の光」となり、アジアへの科学帝国主義の光となっていったということを意味するものとおもわれる。 西光は、英米の科学帝国主義を批判するが、日本の科学帝国主義については、無批判であった。西光は、英米の科学者を人工生命を生み出すことを批判するが、西光には、731部隊が、中国で何をやっていたのかという認識が欠如していた。 1940 年、西光は、「炎天下に夢見るもの」という論考の中で「日本軍が爆撃しているのは、決して支那の文化、アジアの文化ではない。それは支那をアジアの奴隷国たらしめんとする欧州の植民地文化である。したがって、若い日本の将兵たちが、生命にかけて抗日陣に投下する爆弾の響きは、ただに支那の植民地文化のみならず、全アジアの植民地文化を揺り震わせる。」と述べていた。このとき日本軍の重慶空爆で多くの中国民衆が、なくなっていたが、西光はそのような想像力を失っていた。 西光の科学観には、ファシズムに往々にしてみられる科学に基づいた技術至上主義の傾向があらわれている。 また、1944 年の「君民一如搾取なき高次的タカマノハラを展開せよ」において西光は「やはり日本はモトモト「神の国」なのだ。」といったあと、「人類社会の順調なる自然的な発達展開を日本に見よ。この神ながらの道こそは、じつに古くしてまた新しき人類進歩の道である。[33]と述べている。 天皇制を肯定し、科学の進歩の社会の進歩を同一視するところに戦前、戦中期の西光の科学観の大きな特徴が、あるといえるだろう。 次回は、戦後における西光万吉の科学観が、戦前とどこが変化し、どこが変化しなかったのかという点を中心に見ていくことになるだろう。(続)   [1] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),9頁。 [2] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),9頁。 [3] 同上,10頁。 [4] 同上,107-108頁。 [5] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),174頁。 [6] 同上。 [7] 同上。 [8] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),174頁 [9] 同上。 [10] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),175頁。 [11] 同上,175頁。 [12] 同上,175頁。 [13] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),176頁。 [14] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),177頁。 [15] 同上, 177頁。 [16] 同上,178頁。 [17]同上,178頁。 [18] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),179頁。 [19] 同上,179頁。 [20] 同上,190頁。 [21] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),190頁。 [22] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),348頁。 [23] 同上, 348頁。 [24] 同上,348頁。 [25] 師岡佑行『西光万吉』(清水書院,1993),53頁。 [26] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),350頁。 [27] 同上,350頁。 [28] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),405頁。 [29] 同上,406頁。 [30] 同上,406頁。 [31] 『西光万吉著作集第二巻』(濤書房,1974),406頁。 [32] 『西光万吉著作集』(第二巻 1974),93頁。 [33] 『西光万吉著作集』(第二巻 1974),202 頁。  
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