【連載】日中学術交流の現場から 第17 回
パレスチナの市民科学者、ガッサン・アンドーニさんへの手紙
山口直樹 (北京日本人学術交流会責任者、市民科学研究室会員)
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はじめに
私が、あなたのことを初めて知ったのは、雑誌『前夜』第2号(2005年冬号)の「前夜インタビュー」ガッサン・アンドーニ「静かに立ち向かう」(聞き手・翻訳)清末愛砂という記事でした。この記事は、清末愛砂氏が、あなたにメールで質問し、その答えを再構成し、インタビューにしています。
この記事によれば、あなたは、2000年12月末のイスラエル占領軍のシュエドマ基地の撤退を求めるデモに参加したのを清末氏に目撃されています。清末氏があなたを初めて目撃したのはこのときなのだそうです。もし、この時、清末氏があなたを目撃していなければ、この貴重なインタビューを私が読むことはありませんでした。
1.ガッサン・アンドーニ氏の経歴
あなたは、そのときデモの最終目的地である基地のゲート前で、アピール文を読み上げた後にそれをイスラエル軍に手渡そうとしておられたそうですね。
2002年3月再びパレスチナ訪問時、国際連帯運動の第3回キャンペーンに参加した清末氏は、あなたが、「人々の和解のためのパレスチナセンター」の所長であることを知ったといいます。
このインタビューによれば、1956年ヨルダン川西岸地区のベイト・サフールという小さな町で生まれたあなたは、1967年にはじめてイスラエルの占領に直面しています。
そのときは、あなたはヨルダンのアンマンで暮らされていたそうですね。
お父さんが、1962年にアンマンで働いておられたためようです。
イスラエルが、ヨルダン川西岸地区占領したとき11歳だったあなたは、気が付くと家族と切り離されて暮らさざるを得ませんでした。
その年齢では何があったかを理解することは難しかったでしょう。
このことであなたは故郷を追われ難民になったといっています。
占領下で成長することは、困難なことです。とくに十代の若者にとっては非常に困難なことなでしょう。複雑な感情とともに、高校の最終年に達したあなたは、卒業試験の準備に取りかかっていました。1972年10月のある日の深夜、イスラエル軍が自宅に押し入り、あなたを逮捕しました。ヘブロンという刑務所に連行された時に、生まれて初めてイスラエルの国内諜報機関(SHABAK)と向き合うことになります。
あなたはその当時、心身ともに成長期にある、小さな身体の悩める十代の若者でした。
このような時期に二週間にわたって、過酷な肉体的拷問を受けたといいます。あなたは
この世で最も危険な人物にあるに違いないとイスラエル側に見なされていたようです。
その後、イラクに渡ったあなたは、
「私は、人生で最も素敵な四年間をイラクで過ごしました。気取らず親切で、自尊心と威厳に満ちたあの国々の人々が好きでした。
私が不快になったのは、イラク滞在が終わりに近くなったときにサダム・フセインが権力を掌握した時だけです。私は、イラクのクルド人に強い共感を覚えていました。数多くのクルド人と親交を結び、彼、彼女たちの居住区を非常に頻繁に訪問していました。
イラク政権のクルド人に対する待遇が決して公平なものではないと思っていたので、私は彼・彼女たちが置かれていた境遇と私たちパレスチナ人との間に、ある種の類似性を感じ取っていました。」(36頁)
と述べクルド人とパレスチナ人の置かれた位置の類似性に注意を促しています。
その後、あなたはエジプトを通り、ボートに乗って、レバノンにたどり着いています。
そしてあなたは帰郷しますが、帰郷10日後にイスラエル兵たちが深夜に自宅にやってきてあなたは再び監獄へと連行されました。この時あなたは三か月におよぶ取り調べを受けています。この厳しい期間にあなたの身の上に何が起きたか―あなたは、地面に座ることができないように、金属パイプに手をつながれました。頭から首まで汚れた頭巾をかぶせられていました。
この状態のままあなたは中庭にほっておかれたといっています。
酷いとしかいいようのない拷問にもあなた非暴力抵抗運動を続けていきます。
刑期を終えた後、あなたは教師としてニ、三年働き、その後イギリスのレディング大学の大学院に留学しました。留学を終え、1984年にパレスチナに戻ったあなたは、ラマッカー近郊のビルゼイト大学物理学部の教員に就任しています。
2.非暴力抵抗運動への参加と思想の形成
1987年に始まった第一次インティファーダは、あなたを再び抵抗運動の現場に連れ戻しました。
あなたによれば、2000年からの四年間というもの主としてパレスチナ社会の組織的な破壊を目的としたイスラエル軍による猛攻撃は前例がないほどの規模で繰り広げられているといいます。あなたは
「占領者であるイスラエルは、自ら占領下においているパレスチナ人に対して責任を負う立場にあります。しかし現実には占領者(イスラエル)は、戦車と戦闘機含むそのすべての保有兵器を使って、被占領者(パレスチナ人)に対して戦争を仕掛けたのです。これは人類史上、ほかに例を見ないものだと思います。」 (43頁)
と述べています。
あなたの拷問を受けてもそれに屈せず、非暴力抵抗運動を貫こうとする姿勢には、私は感服させられます。しかし、あなたはどのようにしてそれができるような思想を形成してきたのでしょうか。
『オリエンタリズム』や『文化と帝国主義』などの著者で世界的に有名なエドワード・サイードに関してあなたは
「サイードが示してきたものは、私にとって着想の泉となりました。
また私にパレスチナ人であることをより誇らしく思わせてくれました。
偉大な学者であり、創造的な思想家ですが、彼を指導者として適切かどうかということに関しては考えたことがありません。私は彼を政治指導者と考えることは誤りであると確信しています。」(45頁)
と述べています。
そしてもう一人、あなたに影響を与えた「もうひとりのガッサン」についても述べています。
「私は、レバノン人の歌手、ファイロースの歌を聞きガッサン・カナファー二の著書を読んで成長しました。私の内面にはこの両者の影響が、深く込められています。私と同世代のパレスチナ人のほとんどが、同様の影響を受けていると思いますね。
非常に若かった頃にカナファーニの著作を読み、イラストを目にしたのですが、それらのすべてを今でも私は覚えています。この偉大な作家、思想家、指導者ほど私に影響を与えたものはいないと思います。」 (44頁)
なるほど、あなたはガッサン・カナファーニから影響を受けていたのですね。
1972年7月8日、車に仕掛けられた爆弾によって暗殺されたガッサン・カナファーニの「太陽の男たち」はパレスチナ文学の最高峰といってもよいでしょう。故郷に帰郷したときすでに故郷がイスラエルの占領地となってしまっていた男たちの悲哀を描いたこの作品は、あなたの人生そのものといっていいかもしれません。
このインタビューの最後であなたは日本についても述べています。
「私は日本が中東政策に組したことを誤りであると強く確信しています。日本の人々はそれによって何も得るものがありません。(中略)
私は日本政府に対し、その中東政策を改めるよう声を大にして呼びかけます。
日本はアメリカが狙う世界支配から一線を画することで、中立の立場を取り、平和と正義に味方できるのです。」 (46頁)
かつて日本政府の人々は、英米を鬼畜と呼び、英米の帝国主義からアジアを解放するのだといっていました。それを大義名分にし、中国をはじめとするアジア諸国に侵略を行い、その侵略を行った人物が、戦後アメリカの奴隷になり、アメリカの中東政策に追随しています。
ゴジラという怪獣をご存知でしょうか。
四方田犬彦氏によれば、イスラエルの大学での日本映画史講義のなかでゴジラの映像をみたパレスチナ人の多くは、「あれは私たちの仲間だ」といったらしいです。そのゴジラは、日本のマグロ漁船、第五福竜丸がビキニ環礁で1954年3月1日に被曝した実際の出来事をもとにして誕生した怪獣です。
日本には岡崎勝男という外交官がいました。岡崎は、吉田内閣の外務大臣であり、第五福竜丸が被曝したとき「私たちはアメリカの水爆実験に協力する。」と述べて多くの日本人の憤激を買っていました。杉並区の主婦たちが、アメリカの水爆実験に抗議する署名を開始し、3000万人の人たちが署名しました。一方、岡崎は、東西冷戦のなかで日本が西側の陣営にいることを強調しながら、作家の高良とみらが、中華人民共和国に入国しようとしたとき、パスポートを出さないなどの措置を取って妨害していた人物でもありました。
実は1937年、当時の南京の日本総領事に駐在して、そのときの記録を東京の外務省に報告していた外交官の一人が、岡崎勝男でした。岡崎は、戦後になってから東京裁判に関連した国際検察局の尋問調書の中で、南京安全区国際委員会からほとんど毎日のように報告をし、外務省出先機関は、その報告の概要を本省に打電し、報告そのものも本省に郵送したと述べています。岡崎は戦後になってから「懐かしき中国」『文芸春秋』臨時増刊(1949年12月)という一文を書いています。これは、自分が、当時、中華民国の首都、南京にいて蒋介石にあっていたことなどを回想した文章です。
戦前に英米を鬼畜と呼びアジアを英米の帝国主義から解放するというのが、大東亜戦争遂行のための大義名分だったといいましたが、岡崎もまたこの大義名分にのっかり中国侵略に関与していた人物でした。戦前に鬼畜英米といっていた人間が、戦後日本において自国のマグロ漁船がアメリカの水爆実験で被曝しているにもかかわらず、その水爆実験に賛成し、対米従属の代表的人物となっている現実を私たちは目撃するのでした。世界史上、これに類する転換はなかなか見つけることは難しいだろうとおもいます。私と交流のあった第五福竜丸の乗組員だった大石又七氏らを苦しめたのは、岡崎勝男に象徴される異様ともいえる対米従属・追随の外交であり、現在の日本においても基本的にこのような対米従属の社会構造は変わってはいないように思われます。
日本はイスラエルのような侵略国家とよく似た国です。日本のマスメディアでもイスラエルの“自衛権”を強調する佐藤優のようなシオニストが、もてはやされています。
3.私のパレスチナへの関心
今から約10年前の2014年、私は、北京の亮馬橋という地下鉄駅の近くにあるパレスチナ料理屋で食事をとっていました。そこで私は、一人のパレスチナ人と出くわしたのです。年のころは40代か50代ぐらいだったとおもいます。
聞くところによると、彼は、パレスチナの大使館(ということは現代中国は、パレスチナを国家として承認しているということでしょう)で仕事をしているという。そして弁護士資格を持った弁護士だともいう。
私は、彼と話している中で「私は、ナクバを知っていますよ」と中国語で話しました。
すると彼の顔色が少し変わったのです。「あなたは日本人でしょう。なぜナクバを知っているんですか」と問われました。私は、「実は私は、「満州国」の歴史を研究している関係でイスラエルの歴史、特に科学史に関心を持っているものなのです」と答えました。
この着想のヒントになったのは、2011年、北京の清華大学での四方田犬彦氏の日本映画史の集中講義に多くの中国人と参加していたときの四方田氏からのご教示でした。
「満州国」や中国で映画スターとして活躍していた李香蘭こと山口淑子氏が、1970年代に「イスラエルは満州国だ」といったというのです。
山口淑子氏は「3時のあなた」というテレビ番組のレポーターとしてパレスチナに入り、日本赤軍の重信房子氏のインタビューに成功したりしています。その時のことを『誰も書かなかったアラブ』という本にまとめています。
「イスラエルは満州国だ」という言葉は、おそらくこの過程でいわれたものでしょう。
「満州国」で映画スターだった山口淑子氏が言うと説得力があります。
「満州国」は1932年3月1日に建国され、1945年の日本の敗戦とともに歴史から姿を消しました。一方イスラエルは、1948年に建国され2023年の現在も存続しています。イスラエルは建国76周年です。1932年の「満州国」建国の時は、多くの中国人が離散を余儀なくされました。そして1948年のイスラエル建国の時は、多くのパレスチナ人が離散を余儀なくされています。この2つの国の比較には、私も関心をひかれてきたのです。
日本の東北大学という大学の大学院で私と同時期に学んでいた人物で早尾貴紀という研究者がいます。2003年、私が北京に留学したとき、早尾氏は、イスラエルのヘブライ大学に留学しました。だから私が、イスラエルやパレスチナについて考えるときいつも彼のことが、思いだされるのです。
早尾貴紀「「ユダヤ人国家」イスラエルの歴史実在論とポスト・オリエンタリズムの課題‐イラン・パぺとハミット・ダバシ」『現代思想』(青土社、2018年5月)では、イラン・パぺとハミット・ダバシについて紹介されています。それによれば、イラン・パぺは、1988年の博士論文をもとにした『イギリスとアラブ・イスラエル紛争1948年‐51年』を刊行しています。パぺは「新しい歴史家」と呼ばれていましたが、1997年から「橋渡しのナラティブ」プロジェクトを開始し、1948年のイスラエル建国によって何が起こったのかをまずは新しく公開された資料で実証的に明らかにし、同時に歴史哲学的な考察をイスラエル建国神話に対して試みるようになっています。
しかし、イスラエルの大学内では孤立し、イギリスの大学に移らざるを得ませんでした。
一方、イラン出身でアメリカ合衆国に移住し、生前のエドワード・サイードと同僚であったハミッド・ダバシは『ポスト・オリエンタリズムーテロの時代における知と権力』(2009)を書いています。ハミッド・ダバシは、パぺと同じく1950年代前半の生まれで両者とも故サイードと親交が深かったといいます。このサイードの『オリエンタリズム』を意識していることは言うまでもありません。
このオリエンタリズムは、ヨーロッパが非ヨーロッパ圏特にアジア、中東、アフリカ地域の言語、文化、宗教、政治、経済全般を研究対象とする一つの学問分野のことです。
ヨーロッパ諸国が、非ヨーロッパ圏を単に「知る」というだけでなく、知ることによって植民地として「支配する」ことが含まれています。
つまり「知と権力」が、結合されているということです。
オリエンタリズムのもう一つの層は、ヨーロッパのアジア、中東、アフリカへの優越意識でありました。いってみれば絶えず上から目線でアジア、中東、アフリカを支配のために研究し、制度化されたアカデミズムのなかで地位の確立を図り、「地域研究」という分野が確立されていったというのです。鋭い指摘だと思います。
ただし、ダバシが考察している知は、人文、社会科学の知であって自然科学や技術の知はその範囲外におかれています。私は、ここにこそ科学史家の出番はあるといっておきたいと思います。フーコ―・サイード的な「知と権力」という問題意識を自然科学に広めて理解する必要があります。自然科学と植民地権力とがどのように結びついていたかを知るためには、自然科学に通じている必要があります。だから物理学を専門としているあなたに向けて私は、手紙を書いたのです。私があなたに注目したのは、あなたが物理学という学問を専門にされているからです。実は私もまた物理学という学問を出発点にしています。イスラエルは、パレスチナに対して圧倒的な軍事力をもってガザ空爆を行っていますが、この背景にはイスラエルの航空テクノロジーの優位性というものがあります。それを歴史的に分析しなければなりません。そもそも歴史的に見て戦略的な空爆を最初に行ったのは、中国の重慶という都市に対する日本軍でした。当時、中華民国の首都は南京から重慶に移っていました。
この重慶をたたくために日本軍は、1938年2月から1943年8月にかけてたびたび空爆を行ったのでした。戦後は重慶のことは日本人の記憶から急速に忘却されますが、2003年12月に私は、重慶の西南師範大学で行われた国際植民地教育のシンポジウムに参加した時、重慶においては、1942年の重慶空爆が、重要な出来事として記憶されていることに気が付きました。シンポジウムの参加者とともに重慶の日本軍の空爆を受けた場所を訪問しました。そこには防空壕のようなものができていましたが、日本軍による空爆で窒息死した中国人も少なくないと聞かされました。
たしかに日本もアメリカによる東京大空襲(1945年3月10日)や大阪大空襲(1945年8月14日)のような空爆さらには8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下を受けて多くの死者がでているのですが、これらは日本軍の重慶爆撃のながれの中で考える必要があります。荒井信一によれば、両世界大戦期の戦略爆撃の進化は、モロッコ→エチオピア→常徳→重慶→広島という流れをたどったのだといいます。アメリカとつながりの強いイスラエルのガザ空爆もこのような歴史と無関係ではないでしょう。吉見俊哉『空爆論―メディアと戦争』(岩波書店2022年)は、空爆を植民地主義との関連でとらえています。
4.科学技術立国イスラエル
1917年にイギリスがバルフォア宣言を出しましたが、この背後には、ハイム・ヴァイツマンというシオニストの科学者がいました。
イスラエル科学史を考えるとき外せない人物です。
1874年にロシアにユダヤ人として生まれスイスとドイツで化学を学んでします。
スイスの大学の博士課程で化学を専攻し、学位を所得。1903年にイギリスに移住し、マンチェスター大学で化学を教えていました。1907年にパレスチナを訪問し、ユダヤ人国家建設には、政治的解決と植民の両方が必要だと考えるようになる。
化学者としては砂糖でバクテリアを発酵させ、合成ゴムを得ようと研究しましたが、失敗しました。しかし、1910年ごろバクテリアの一種クロストリジウム・アセトブリクジウムをつかって、でんぷんからアセトンをつくる方法をみつけています。
第一次世界大戦のとき火薬の原料として大量のアセトンが必要となったが、このときハイム・ヴァイツマンはイギリス政府に協力し、イギリス政府はアセトンの工業化に成功しました。
このときにヴァイツマンは、イギリス政府の外務大臣のバルフォア等とすでに知り合っていました。
第二次大戦中は、イギリス軍需省の顧問となり合成ゴムとハイオクガソリンを研究していました。
1947年の国連分割案のときパレスチナ独立は認めましたが、ネゲブをイスラエルに含めるように主張しました。これをアメリカのトルーマンと会見し支援を取り付け、認めさせました。
そしてイスラエルの建国の1948年、イスラエルの初代大統領に就任しています。
現在もイスラエルには、ヴァイツマン研究所(1934年にダニエルシーフ研究所として設立、1949年に改名。現在2500人の科学者、博士課程の学生などがいるという。)という研究所がありますが、それはこの科学者に由来するものです。またアインシュタインをヘブライ大学に招へいしたのもヴァイツマンでした。もっともアルバート・アインシュタインは、ヴァイツマンのシオニズムからは、距離を置いていました。
シオニズム批判は、反ユダヤ主義とは区別されなければなりません。
ここからわかるように、イスラエルは、そもそも科学技術立国によって建国しようとする志向をもった国家でした。
おわりに
このイスラエルにはボーグマンという原子物理学者がいました。
ボーグマンは、台湾の蒋介石と関係が深く台湾の原爆開発にも大きな影響力を持っていました。私はそのことを『台湾における原爆開発とその挫折-蒋介石親子の夢と核科学者たち』『葦牙』(44号)で書いたことがあります。
そういうわけで私は、科学史という学問分野でイスラエルを反植民地主義という視点からから切り込んでいくことを課題にしています。イスラエル軍のさらなる攻撃が予想されますが、あなたの無事をお祈りしています。