【連載】21世紀にふさわしい経済学を求めて(21)
連載
写真 大坂米市場(淀屋)跡 【参考文献】 『大坂堂島米市場 江戸幕府vs市場経済』高槻泰郎 講談社現代新書2484 2018年 『江戸の小判ゲーム』山室恭子 講談社現代新書2192 2013年 ■財源不足 江戸時代は、はじめの17世紀、戦国時代に徳川家が蓄積した金銀を使って天下普請など公共事業を行い、税率も徐々に下げていきます。その結果、17世紀おわりごろ、天下普請は終わっていますが、税収不足に陥ります。百姓から搾取していた時代像とは、かなり異なる実態です。搾取できないどころが、武士は慢性的に借金体質になり、幕府や藩は公共支出の財源不足に直面します。 そこで、17世紀末、綱吉の時代にどのような対策を取るべきか、幕府内で議論が始まります。対策候補は以下のとおり。 1)増税 2)貨幣改鋳による発行益 3)財政支出削減 武家は格式を保つためなど増収の多くが、支出(有効需要)につながるという現代につながる意見もありました。江戸城の金蔵(かねぐら)はほとんど空で、将軍代替わりの日光参詣費用も捻出する必要がありました。それには、1)2)の増収策が必要です。勘定奉行荻原重秀は、2)の貨幣改鋳(金貨の金含有率を減らす)に踏み切ります。貨幣供給量の不足対策も意識していたようです。貨幣改鋳で同じ量の金でもたくさんの小判がつくれるようになると、貨幣量が増えます。 今の中央銀行のように貨幣発行機関が独立していない江戸時代は、新規発行した貨幣は額面からコストを引いた部分が幕府の収入になります。これを貨幣発行益と言います。現代でも、金属貨幣は政府が造幣局で発行するので発行益はありえますが、世の中の必要以上につくっても、政府の支払い手段には使えないので増収手段とはなりません。 当初、懸念があった物価もあまりあがらなかったようです。しかし、「需給ギャップ解消後」つまり「貨幣不足で生産物が世の中に行き渡らない現象」が終わった後も、貨幣供給量を増やし続けたことで物価があがります。この政策の評価はむずかしいですが、一定の効果があったと思います。 ここで、現代と比べるには注釈が必要です。21世紀になってからの日本で、貨幣供給量を増やす金融緩和政策を行なっています。これは、江戸時代のように、取引に必要な貨幣が不足しているのを解消するものではありません。設備投資のための流通資金を増やしたり、株などの資産価値をあげて支出を増やそうというものです。これまでにも説明したように、生産設備は過剰で、株価はミニバブル状態で高所得者の収入が増えるだけ。景気をよくするとは思えません。 その後、新井白石は、この貨幣改鋳が非常に気にいらなかったらしく、荻原重秀が多額の賄賂を受取っているという訴え状を何回も提出して、最後は受理されます。荻原重秀は、勘定奉行を罷免され失意のうちに亡くなります。荻原重秀が蓄財を没収されたり、子孫が多額の出費をしたということはないようなので、おそらく白石による濡れ衣です。そして、白石は金貨の金含有量をもとに戻しました。将軍吉宗の代になって、白石は職を解かれますが、金含有量はそのまま保持したため、不景気が続きます。 吉宗は、1)の増税によって財政を立て直そうとします。幕府領の代官が増税に見合った年貢を集められないのを見て、大幅に代官を入れ替えますが、それほどの増税はできませんでした。吉宗政権の終わりごろ、町奉行大岡越前の進言で荻原奉行時代の金含有量に近い割合に戻すことで、ようやく景気は回復します。 百年後、水野忠邦の改革も緊縮政策の傾向が強く、江戸市中の屋台全廃を打ち出したりしますが、町奉行遠山金四郎の反対で、一部を残すことになります。庶民のくらしが成り立たなくなるというのが奉行の主張でしたが、所得格差是正による需要不足対策にもなっています。この改革で様々な同業組合(株仲間)も解散に追い込みますが、市場価格が不安定となり、水野忠邦失脚後、株仲間は復活します。 町奉行は、庶民と老中など幕府中枢との板挟みにあう立場でした。しかし、老中の提案であっても、庶民の投稿する目安箱の提案であっても、経済政策は町奉行所に諮問(政策アセスメント)する必要がありました。政策効果が見込めないものや、一部の者が利益を得るだけの政策は却下しました。最終的な判断は、将軍や老中にありましたが、根拠のあるものを無下に無視することはむずかしかったようです。ここ数年、日本の首相周辺が自分たちだけの判断で政策を曲げることが多いことと、比べたくなります。 大岡越前や遠山金四郎が人気者だったのは、庶民の立場に立った政策をおこなったことにあるようです。しばいの裁判物は、ほとんどが創作や古い時代の伝承を当てはめたものです。改革と称して景気を悪くしたり、とりしまりを強めたりする政策には、強く反対しました。近年の改革には自民党内でも反対意見のほうが多かったにもかかわらず、選挙で票が稼げるという理由で多くの議員が賛成にまわっています。少数の反対者は「抵抗勢力」というレッテルをはって、押さえ込みました。江戸時代を理想とするにはほど遠いのが現実でしたが、教訓にはなります。 【参考文献】 『勘定奉行 荻原重秀の生涯』村井淳志 集英社新書0385 2007年 『江戸のエリート経済官僚 大岡越前の構造改革』安藤優一郎 NHK生活人新書238 2007年 『遠山景元 老中にたてついた名奉行』藤田覚 山川出版 2009年 800円 ■江戸時代の税は重かったのか 江戸時代、年貢の税率は、幕府領で60%、大名領で50%ということになっています。しかし、これは建前であって、実際にはもっと低率でした。税率を決めるのに、実際に収穫高を調べる検見(けみ)制と、一旦決めた税率を継続する定免(じょうめん)制の2つの方法がありました。税率はともかく、時間のかかる検見を行うと収穫時期を遅らせることになるので、評判が悪いでした。18世紀からは、定免制が定着した結果、土地生産性が高まっても面積当たりの石高で年貢が決まるので、年貢は増えなくなります。増収分はすべて、農家の取り分の増加になります。加賀百万石などというのは、この定免制になったころの石高で、幕末に向けて徐々に増えていきます。 また、実際よりも面積を狭く設定する藩もありました。米が取れない場所では漁村や林村も含めて、米以外を石高に換算して年貢を取りましたが、十分組み込めなかったようです。これも、税率を下げることになります。総合的に考えて実質税率は30~40%くらいになるようです。同時代の世界各国を考えると低いほうです。それで、幕府も各藩も個別の武家も、基本的に借金まみれでした。借りた先は、有力商人など町民だけでなく、裕福な村からも借金しました。 それでも村の中で貧しい農家は、年貢がきびしかったと思うかも知れません。年貢は村請制(むらうけせい)で村全体の額を、代官所や藩が計算して石高を決めました。村の中での負担割合は、村で相談してその年の収穫などを考慮して決めました。貧しい農家は、藩などの決める年貢よりも少なくするのが普通でした。 村請制こそが貧しい農家が片身をせまくする理由だという説もあるようですが、むしろ助け合いという側面が時代が進むにつれて強まったようです。名主・庄屋(村長)などの村役人も、藩の管理側の役職という側面よりも、自治組織の代表という性格が強くなっていきました。五人組も相互監視よりも、助け合いの側面が出てきます。このようなこともあり、江戸時代は、徳政令を出さないですみました。 名主や庄屋を「世襲する村」や「前任者が選ぶ村」だけではなく、「入札(いれふだ:投票)で決める村」もありました。投票できるのは「本百姓(ほんびゃくしょう)」だけだったりしますが、選挙の経験が江戸時代からあったことは覚えておくべきです。 飢饉のときには、藩の判断で年貢の免除がありました。大飢饉のときは、全額免除することもあります。藩は借金するしかありませんが、経済的破綻や餓死者があれば、生産力を失うことになります。それでも、江戸時代後半は、寒冷化の影響でたびたび飢饉で餓死者が大量に出て、備蓄米制度も完全ではありませんでした。 実は、米の需給を考えると、年貢の税率が50%を越えるわけがないことがわかります。稲作人口と非稲作人口の比率を考えると半々ぐらいです。武士、町人、農業に従事しない山村、漁村、非稲作農民などの人口を合計すると最大でも50%くらいです。稲作民人口比以上の米の米が残らないように年貢を取られると、自家消費に足らなくなるので、年貢で収めた米を買い戻す必要がありますが、買い戻しの金を米以外の収入から払う必要があり、不可能です。 有名になった磯田道史氏の学位論文の研究によると、武士下層の足軽などは、城下町近辺の農民が交替で勤めたようで、そうなると武士の人口比は半減します。足軽以下も藩から手当は受取っていましたが少なく、実家の農家収入が大半でした。副業ができない中間層武士のほうが貧しかったと言います。この中間層が、幕府側でも薩長側でも明治維新の担い手であったのは、偶然ではないでしょう。 農民は米を食べなかった、という説が有力でした。輸出していないのに余った米は誰が食べるのでしょうか。酒米やおかきなどの原料もありましたが、そんなに大きな割合をしめるはずはありません。現に農民は白米を食べていた記録も残っています。静止人口になるまでの17世紀は、農民の中には米を食べられない層が結構あったと思えますが、その後は米を食べるのは普通になり、実質税率も下がって行きます。 田沼時代に、運上金(定額納税:株仲間登録費)、冥加金(売上税)などを設けて、町人からの税金を増やしました。室町時代の「諸商売役(しょしょうばいえき)」にあたります。しかし、税収不足は続き、借金体質は幕末まで続きます。中期以後の幕藩財政は厳しいですが、別の見方をすると借金で有効需要をまがりなりにも維持したとも言えます。行政経費がまかなえず、税収不足というのが課題でした。しばしば、公共事業を民間に任せて、橋やため池建設の許認可を与える立場にありました。 【参考文献】
『村 百姓たちの近世 シリーズ日本近世史2』水本邦彦 岩波新書新赤1523 2015年
『百姓の力 江戸時代から見える日本』渡辺尚志 角川文庫131-1 2015年
『近世大名家臣団の社会構造』磯田道史 文春学芸ライブラリー 2013年 ■町人入用(民間投資) 江戸初期の天下普請である江戸城、大坂城、名古屋城などの建設に伴う利益を、大手商人は新田開発に投資しました。これを町人入用(ちょうにんにゅうよう)と言います。例えば、新潟県上越市頸城区の保倉川北側の水田地帯は、江戸の商人が湿地帯に投資して農地にしたものです。実は、ここは母の故郷です。江戸初期は、農民の定着率が低く、税が重すぎるなどの理由で藩から逃げ出すものもいて、その逃散(ちょうさん)民に開拓労働につかせ、入植させています。
写真 江戸時代初期「町人入用」でできた水田地帯 新潟県上越市頸城区(奥は米山) なお、江戸城の天下普請は町人に工事委託するのではなく、幕府や藩の直轄事業でした。「そのために賃金が高くつくのではないか」という質問に、幕閣は「町人に任せると安くつくかも知れないが、それでは雇われる人足などは生活が立ち行かない」と答えています。これはある意味、低賃金による需要不足を防ぐ政策にもなっています。低賃金では、人足が集まりません。江戸時代には「金は天下のまわりもの」ということばがあり、マクロ経済の需給バランスの重要性を表わしています。 18世紀初頭、幕府は、大阪府柏原市から北上していた大和川を、まっすぐ西に向かわせ堺から大阪湾に注ぐように河道をつけかえました。これにともなって、四條畷市、大東市、東大阪市付近にあった新池(しんいけ)、深野池(ふこのいけ)などを干拓し農地にします。これが、鴻池新田などの新田開発です。鴻池(こうのいけ)家などは両替商としてあげた利益から、1万両(約15億円)以上の費用で幕府から用地の払い下げを受けます。鴻池家は綿栽培などで大きな利益をあげ、栽培した綿は河内木綿の原料ともなります。 写真の鴻池新田会所(かいしょ)は、鴻池家が農地を管理する施設である屋敷です。大阪には、大和川付け替えにともなってできた安中(あんなか)新田会所、加賀屋(かがや)新田会所も残っていて、3カ所とも見学ができます。平野屋新田会所は、残念ながら自治体の買い取りに持ち主が応じず解体してしまいました。
写真 鴻池新田会所(こうのいけしんでんかいしょ) 関東地方では、航路確保や洪水対策のための利根川つけかえ事業がありました。これは太平洋岸を南下してくる回船が、房総半島を迂回せずに銚子から内陸水路で江戸に到達できる航路開設が主な目的です。時間短縮と難破をさけるためでした。 ■平和の帰結 戦国時代が終わり、島原の乱を最後に幕末まで戦(いくさ)がなくなります。戦がなくなっても、社会的紛争がなくなるわけではありません。そこで、江戸時代は訴訟社会になります。土地の境界線争い、水争い、山の入会地(いりあいち)の利用の権利、借金の返済、庄屋・名主の不正経理などについて、藩や代官に訴え出るものは少なくありませんでした。藩を超える訴訟は、幕府に訴えることになるため、江戸などの大都市にまで出向きました。 江戸などで訴訟するもののために公事宿(くじやど)という宿泊施設ができ、訴訟方法の相談にものってくれました。弁護士の走りのようなものですが、資格があるわけでもないので、近代の弁護士のように活躍できるわけではありません。それでも、力で決着をつけることは少なくなりました。 力で決着と言えば、一揆があります。江戸時代前半は実力で訴えを通そうとする一揆がありました。やがて、一揆というスタイルで力を使わずに、藩や代官に年貢の減免などを訴える請願方法になります。過去の有名な一揆の訴状が、手習い(寺子屋)の手本になったものがあり、身につけるべき知識の一つになりました。年貢は藩や代官(幕府)が決めるものですが、一応収める側の合意ということになっていたので、異議を申し立てることができました。 戦がなくなることで、武士と農民の力関係が変化しました。武力を使わないことで、武士の地位は低下して、生産力の元になる農民をはじめとする領民のために尽くすのが領主の役割になります。それでも、武士が支配の頂点に立つことは変わりありませんが、武士は武力よりも行政手腕が問われることになります。軍事や治安を担当する武士を番方(ばんかた)、行政を担当する武士を役方(やくかた)と言います。番方の地位よりも、役方の地位が向上しました。 豊臣秀吉は、人身売買を禁止します。戦国時代は、負けたほうの領民などが奴隷売買の対象となり、人身売買が横行しました。戦国時代の終わりを見据えた秀吉の政策です。ヨーロッパの勢力(南蛮)と密接な関係を結んだキリシタン大名家から、東南アジア方面に大量の奴隷輸出があり、これを防ぐ目的もあったようです。徳川幕府もこれをひきつぎ人身売買を禁止しました。実際には、年季奉公という形が残りましたが、露骨な人買いはできなくなります。また、人身売買ではありませんが、非差別身分を設け多くの人のいやがる仕事をおしつけるなど、江戸時代には見すごせない部分があることを忘れることはできません。 江戸時代中期に鍋島藩でできた武士道を説く「葉隠(はがくれ)」は、「武士道というは、死ぬことと見つけたり」ということばが有名です。戦国時代には、見つけなくても死ぬ覚悟は普通でした。平和になって、見つけないといけないほど、命懸けの場面はなくなったということです。鍋島藩では、極端な主張を展開しているこの書を禁書にしていたので、一般の人が知るのは明治中期になってからです。そして、日本は明治以後、戦争にあけくれることになります。 【参考文献】
『武士に「もの言う」百姓たち 裁判で読む江戸時代』渡辺尚志 草思社文庫 2022年
『<身売り>の日本史 人身売買から年季奉公へ』下重清 吉川弘文館 2012年 【コラム】藩 「藩」という名称は、正式には、明治維新から廃藩置県までの4年間だけしか存在しなかった。江戸時代は、国、領国、大名家などと呼んでいた。しかし、通称として使うこともあり、藩主、藩士、藩命、藩札という熟語も生まれた。ここでは、江戸時代を通して藩と呼ぶことにした。さらに、「封建制(武士の世)」「士農工商(武家、町方、村方あるいは在方)」は江戸時代中期に登場するが、明治時代になって一般化したことばである。()内は、意味がややずれることもあるが江戸時代の一般的な呼び方である。「幕府」という用語は鎌倉時代からあるが、江戸時代は「公儀」が一般的であった。 ■第12章のまとめ 格差是正を、古代は均田制、中世は徳政令、江戸時代は借金体質、近代は戦争と物価高騰で、図りました。あるいは、社会破綻によって終結しました。ケインズの提起した需要不足の問題を、やや強引にさかのぼって探ってみました。ヒックスのような問題提起になるか否か自信はありませんが、歴史と経済のかけはしになれば幸いです。 【参考文献】共通 『日本経済の歴史2 近世』深尾京司、中村尚史、中村真幸編 岩波書店 2017年 『百姓の江戸時代』田中圭一 ちくま新書270 2000年 『村からみた日本史』田中圭一 ちくま新書328 2002年 『百姓たちの江戸時代』渡辺尚志 ちくまプリマー新書110 2009年 『勘定奉行の江戸時代』藤田覚 ちくま新書1309 2018年 『経済史の理論』ヒックス,J.リチャード著 新保博、渡辺文夫訳 講談社学術文庫1207 1995年(1969年) ◆予告 次回は、「経済問答 その4」を予定しています。「その3」で外国為替市場を取り上げましたが、ここのところ政策変更の兆しが見える金融政策について、議論を展開します。