【連載】21世紀にふさわしい経済学を求めて 第 33 回(桑垣豊)

投稿者: | 2026年3月2日

連載

21世紀にふさわしい経済学を求めて

第 33 回

 

桑垣豊 (NPO 法人市民学研究室・特任研究員)

 

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第1章    経済学はどのような学問であるべきか (第1回)

第2章    需給ギャップの経済学 保存則と因果律 (第2回と第3回)

第3章    需要不足の原因とその対策 (第4回と第5回)

第4章    供給不足の原因と対策 (第6回) 番外編 経済問答その1(第6回と第7回)

第5章    金融と外国為替市場 (第8回と第9回)

第6章    物価変動と需給ギャップ(第10回)

第7章    市場メカニズム 基礎編(第11回と第12回)

第8章    市場メカニズム 応用編(第13回) 番外編 経済問答その2(第13回と第14回)

第9章    労働と賃金(第15回)

第10章   経済政策と制御理論(第16回)

第11章  経済活動の起原(第17回と第19回) 番外編  経済問答その3(第18回)

第12章  需要不足の日本経済史(第20回と第21回) 番外編 経済問題その4(第22回)

第13章 産業関連分析(第23回)

第14章 武器取引とマクロ経済(第24回) 番外編 経済問答その5(第25回)

第15章 植物進化に学ぶ(第26回)

番外編 解説&経済問答その6「株式市場」(第27回)

番外編 解説&経済問答その7「資産選択理論への疑問」(第28回)

番外編 解&経済問答その8「資産運用立国?」 (第29回)

第16章 年金は何のためにあるのか(第30回)

第17章 統計学と経済学(第31回)

番外編  経済問答 その9「江戸時代の経済システムと現代」(第32回)

 

番外編 経済問答 その10「江戸時代の経済システムと現代 つづき」

前回にひきつづき、菅原主任に江戸時代の経済システムについて話していただきました。対談相手も、同じく工藤記者です。

とき・ところ2050年2月30日 国立基礎経済学研究所 2階 経済史展示室

解説

国立基礎経済学研究所 歴史部門主任 菅原(65)

聞き手

経済雑誌「エコノミカ」副編集長 工藤(57)

■江戸時代の税は重かったのか

▼村方・町方

工藤

昨日の説明で綱吉の時代の財源対策はわかりましたが、そもそも江戸時代の税金、当時の言い方では年貢はどうなっていたのでしょう。

 

菅原

村方つまり百姓の税金が年貢で、町方つまり城下町の商人の税金は冥加金(みょうがきん)、運上金(うんじょうきん)でした。

 

工藤

士農工商ではなくて、村方・町方ですか。

 

菅原

士農工商は中国風の言い方で、頼山陽などがそのように言っていたのですが、基本的には農工商に上下はありませんでした。頼山陽の思想は勤王思想に通じるものがあったので、明治時代に乗り越えるべき前近代の制度として士農工商という言い方が広がりました。

 

工藤

寺子屋と同じで、明治以後に一般化したのですか。

 

菅原

手習いを寺子屋と言っても、中身に違いはありませんし、悪口にもなりません。でも、士農工商は前近代の身分制をゆがめて伝える言い方です。

 

工藤

村方・町方の区別は、現代中国の都市戸籍と農村戸籍と似ている気がします。

 

菅原

そうやって区別して登録するという点では似ていますが、村方だから貧しいというわけでもありませんでした。中国では農村戸籍だと、いろいろ制約が大きいようで、近代化から取り残された地域もあります。

 

▼村方の年貢

工藤

ではまず、村方の年貢がどうなっていたのか教えてください。

 

菅原

村方は農産水産業従事者ということになりますが、商売ができなかったわけではありません。渋沢栄一は百姓でしたが、今の埼玉県深谷市の農村地帯の村で農産物の商売をしていました。裕福な農家だったので、できたことかも知れませんが、制度的な制約はありませんでした。その後、幕臣になったのは例外的でしたが。

 

工藤

それでも、幕府には有能な人材は身分を越えて取り立てる、というしくみはありました。

 

菅原

勝海舟が身分制度は親の仇と言っていますが、少ないながらも身分を越えることができたからこそ、身分を意識したのでしょう。ご存じのように、勝海舟も幕府の重要ポストについています。世界的に見ると、江戸時代の身分制度は弱いほうでしょう。今から見ると、大変窮屈で現代人には耐えられない制度ですけど。

 

工藤

そうやって武士身分になると、税金を取られなくなります。

 

菅原

支配階級が税金を取られないのは、世界的な現象です。

 

工藤

そこで気になるのは、村方の年貢は重かったのかということです。

 

菅原

規定どおりだと、税率は収穫高に対して、幕府領で60%、諸大名家で50%程度です。

 

工藤

重税ですね。

 

菅原

正確に言うと、面積(反)当たりの標準収穫石高に対する税率です。現実の平均収穫高よりも少なめでした。

 

工藤

現代の土地への固定資産税の路線価みたいなものですね。

 

菅原

そのとおりですが、路線価を知らない人も多いと思います。路線価というのは、道路に面した土地の価格という意味ですが、固定資産税を取るための土地の評価額です。税額は、面積当たり表示の土地の評価額に、面積を掛け算して税額を決めます。

路線価自体が地価よりも安いのですが、税率も住宅か商業用地かなどの使い道によって変わります。住宅用地だと安めになります。

 

工藤

検見法(けみほう)と定免法(じょうめんほう)があると言いますね。

 

菅原

検見法は、その年の収穫状況を実地で調べて年貢を決める方法。定免法は、検見法で調べた石高を何年か固定して年貢を決める方法です。いずれも、田んぼを等級分けして全部足しあわせて、村単位の総石高から年貢を決めます。村の代表である庄屋や名主の責任で、この村全体の年貢を収めます。これを、村請け制(むらうけせい)と言います。

 

工藤

実際よりも石高が低かったのはいいですが、凶作のときは手元に残る米が少なくなって大変ではありませんか。

 

菅原

そういうときは、年貢額を免除します。凶作の度合いによって、半額免除や全額免除があります。収穫状況を見て、藩や代官所が免除を決めるときもありますが、百姓のほうから願い出るのが普通だったと思います。農産物以外でもそうだったでしょう。

 

工藤

年貢は米だというイメージがあります。

 

菅原

米以外の収穫物も、その収穫物量を米の石高に換算して年貢を決めます。漁業や林業も基本的に同じ方法だと思いますが、具体的にくわしく調べる必要があります。今後の課題です。

 

工藤

現物納入だけだったのでしょうか。

 

菅原

年貢の金納もありました。鎌倉時代や室町時代から金納がありましたから。

 

工藤

現物では輸送が大変ですから、当然だと思います。

 

菅原

しかし、収穫物を人口の多い都や大きな町まで運ぶ必要があるので、金納でも収穫物を運ばなくてもいいわけではありません。運ぶ途中に取引の多い市(いち)があれば、そこで換金してお金を送ったり、為替(かわせ)や割符(さいふ)で送ったりしました。そうすれば、途中の消費地まで運ぶだけでいい分もあって、都まですべて送る必要はありません。

 

工藤

でも、江戸時代は現物納入が大変ですね。

 

菅原

実は、現物納入か金納かを決める要因は、銭(ぜに)の流通量に左右されます。平安時代の中頃、朝廷は金属貨幣の鋳造をやめますが、それは銅の産出量が減ったからではないかと思います。

 

工藤

貨幣が定着していなかったからだ、という話を聞きますが。

 

菅原

7世紀の飛鳥時代の富本銭から300年続いたのに、定着してないとは言えないでしょう。平安時代末期、宋銭が入って来るようになって、銭の流通が復活します。それで、鎌倉時代以後、年貢の金納が始まります。戦国時代末期、豊臣政権のときに銅銭が不足して、米が現物貨幣として主役に返り咲きします。そして、江戸時代の年貢制度の原型ができあがります。それを徳川政権も受け継いだということです。

 

工藤

平安時代以来の独自通貨「寛永通宝」を発行するようになったので、金納にしてもよかったのではないですか。

 

菅原

実は一部金納の藩もあったようです。ここからは推測ですが、銭にたよると物価変動にもてあそばれるので、米にしたのだと思います。米などの作物も収穫状況に左右されると思うのですが、武士のために食糧だけは確保したかった可能性があります。

 

工藤

しかし、元禄時代くらいから人口が増えないのに、米の生産性が高まり豊作貧乏になります。

 

菅原

昨日説明した「米価安の諸色高(べいかやすのしょしきだか)」で、武士は苦しみます。でも、一長一短でしょう。

 

工藤

結局、税率は実質どれくらいだったのでしょう。

 

菅原

検見法はコストがかかり役人の不正の温床になるので、定免法が定着します。それも、めったに収穫高調査をしなくなるので、生産性が高まるにつれて税率が相対的に下がります。

 

工藤

不正というのは、袖の下(わいろ)で石高の評価を下げたりするということですね。

 

菅原

そうです。昨日出て来た荻原勘定奉行ですが、佐渡奉行だったとき、定免法にしてほしいと訴えた百姓一揆に出くわします。形式だけかも知れませんが、年貢額は武士と百姓の契約だったので、年貢額に異議をとなえることができました。凶作の年の免除もその一環です。しかし、荻原奉行は、掟を超えた要求だったので首謀者を死罪にします。ただ、江戸時代の掟を越えた一揆への対応の特徴は、首謀者を有罪にしても、訴えの中身が道理にかなうものなら、それを実現するところです。

さて、それで肝心の税率ですが、江戸時代の初期には、建前どおり50~60%でしたが、生産性上昇で30~40%になります。面積当たりの石高が固定したので、実際の収穫が増えても年貢はなかなか増えなくなったのです。検見をあまりしませんでしたから。

 

工藤

八代将軍徳川吉宗のときに増税していますね。

 

菅原

五代将軍綱吉のときに貨幣発行益で歳入増加を図ったのですが、その後、新井白石が小判の金含有量を元に戻して増やしたので、それができなくなります。吉宗は、新井白石が将軍がわりで退任したあとも、その路線を取ったので、年貢を増やすことにします。

幕府領の代官に年貢増収を命じますが、百姓との今までの関係からなかなか増収できません。それで、大幅に代官を入れ替えて増収するようにします。しかし、貨幣不足と百姓の抵抗で思うように行かず、紀州藩時代からの側近大岡忠相(ただすけ)の助言もあって、政策を元に戻して減税します。

 

工藤

このあたりは、昨日お聞きした内容と重なります。

 

菅原

収穫高の30~40%というと、今の感覚では重税かも知れませんが、当時の世界ではかなり少ないほうです。それに、収穫が増えた分は全部自分の収入になるしくみですから、増産意欲が増したでしょう。

 

工藤

江戸時代は重税だったというイメージは、どうしてできたのでしょうか。

 

菅原

明治維新政府は、徳川時代は百姓からの搾取がはげしかったことにしたかったのでしょう。

 

工藤

そういえば、地租改正反対運動も金納になるというよりも、実質増税になることへの反対でした。

 

菅原

歴史の授業で、江戸時代は余剰生産物はすべて百姓から取り上げたと教えながら、明治になると地租改正反対運動がおきたと教えます。矛盾しています。

 

工藤

先入観があるので、なかなか気が付きにくいですね。

 

菅原

のちに明治維新政府になる官軍は、各地で年貢を半分にすると約束して味方に引き入れながら、結局実現することはありませんでした。

 

工藤

それを信じた赤報隊(せいほうたい)一番隊の相楽総三(さがらそうぞう)らは、偽(にせ)官軍として処刑されました。

 

菅原

赤報隊と言っても、朝日新聞の記者を殺害した右翼団体と称するものとは全然別物です。

 

▼武士と百姓の関係

工藤

昨日、武士はふだん農村に立ち入れなかったというお話しを聞きましたが、村請け制とはどういう関係がありますか。

 

菅原

村請け制は、年貢さえ期限までに収めてくれれば、それ以上口出しはしない、というものです。むしろ、年貢が幕府や藩財政をささえるのには足りなかったので、百姓からも借金します。

 

工藤

有力町人から借金したという話はよく聞きますが、百姓からもですか。

 

菅原

そうです。その上、個々の武士も借金します。

 

工藤

昔の映画『殿、利息でござる!』は、百姓からの借金が例外的なもののように描いていましたが、古い考え方ですね。

 

菅原

藩財政が借金で限界に来て、有力町人が藩の運営をまかされることもあったほどです。映画にするなら、こっちのほうがおもしろい。

 

工藤

2030年ごろにそういう映画がありました。『お城を差し押さえまする』※です。

 

※もちろん、2026年現在、そういう映画はない。

 

菅原

大学時代の指導教員の太宰先生が監修しています。

 

工藤

太宰学校ですね。

 

菅原

学生の間では、太宰府と呼んでいました。先祖かもしれない道真が左遷されたのが太宰府だったので、私は権帥(ごんのそち)というわけです。

 

工藤

太宰権帥(だざいのごんのそち)ですね。九州を管轄する太宰府の長官です。道真の場合は、名目だけで何も役目がなかったようです。

 

※権(ごんの)〇〇とは、その職務の定員外のことをあらわす。太宰府の場合、天皇の息子の親王が長官を務めるときは、太宰帥(だざいのそち)。親王以外の臣下の身分のものが務めるときに太宰権帥(だざいのごんのそち)と称する習慣になっていた。定員外に意味はない。

 

菅原

左遷されたことはさておいて、道真は藤原時平とともに大臣を務めて、古代の班田制から土地税制に大きく制度変更をします。その延長に江戸時代の石高制があるわけです。

古代律令制の班田制度は、土地を人民に支給するかわりに、その収穫物の一定割合を税として収めよと。生産手段を与えるかわりに、人頭税を課す。それを、土地の持ち主がだれであっても、その持ち主が税を払うように改めました。中世的税制の始まりです。

 

工藤

年貢の村請け制については、収穫が少なかった農家が払える年貢が割り当てよりも少なくて、肩身のせまい思いをしたということですね。ほかの百姓が、不足分を穴埋めしました。農村の五人組制度として、悪しき連帯責任の例にされています。

 

 

菅原

これは今の税金制度の延長で考えるからそうなるのです。村請け制は、代官所や藩から申し渡された石高を、総額として村が収めればいいというだけです。個々の田んぼの年貢高は、総額を求めるために積み上げ計算する材料でしかありません。一軒ずつから集めて、払うときだけ一括というのとは違います。どういう分配にするかは、村で相談して決めます。足りない分は庄屋・名主が負担するのが、普通だったようです。あきらかに怠けていて収穫が少なかったら、文句を言われたでしょう。それでも、5人組で負担することはあまりないと思います。

悪しき連帯責任は、今の日本の体質の元とまでいう歴史家もいますが、歴史をさかのぼって考えるほど、ものごとの根本を追究することになるというのは勘違いです。むしろ、村請け制は、自分たちで配分を考えるという意味で村の自治が機能していた証拠だとも言えます。

 

工藤

村方への税金、年貢はそれほど多くなかったとすると、農村に余剰金があったことになります。昔、学校で習った「乾いたぞうきんでも、しぼれば水が出る」という話と随分違います。

 

菅原

百姓に余剰金がなければ暮らせません。米を作っていたのが人口の60%として、年貢を50%持って行かれれば、残りを全部食べても10%足りないので買わないといけません。一度年貢として払った米をです。でも、自家消費する米以上に年貢に持っていかれれば、売る米がありません。米以外の農産物などを売って、農家が自給できないあらゆるものを、そのお金でまかなえるはずがありません。

武士も食べる以外の米は、売ります。もし、税率が50%なら、その米は、大部分の人口をしめる百姓が主に買うことになります。百姓が米を食べてなかったと言う説もありますが、食糧輸出していない江戸時代、米はどこに消えたのでしょう。その分を補うほど、酒米やおかしの原料にするはずがありません。確かに幕府は、米不足のときは酒米にまわす量を制限します。

図表M10-1 米農家をめぐる経済

 

工藤

百姓は搾取されていたとしても、収穫物の物理的な量がどこかに消えたり発生したりすることはないとすると、おのずから実態は明らかになるはずです。マクロ経済的な発想ができれば、それほどむずかしいことではありません。

 

菅原

そのマクロ経済学がしっかりしていないので、江戸時代はおろか現代の経済運営もうまくいかないのです。

 

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